26.5(前編)侯爵家に居候することになりました。
うららかな午後。刺繍に精を出す私に、珍しく真剣な表情の父が話を切り出した。
「へ? お父様、何を言ってらっしゃるんですか」
その日、私は父にされた提案は驚くべきものだった。
その言葉を聞いた私は、思わず刺繍していた手を止める。
「いや……。お留守番くらいできますよ? 今までだって、ちゃんとしてましたよね?」
父の仕事が騎士である以上、私は一人で過ごすことには慣れている。
「――――社交界に出てしまって、リアスティアの姿を多くの人間が見てしまった。何があるか分からないから、一人屋敷に残すわけにはいかない」
「いや。だからって、どうしてゼフィー様のご実家に泊まることになるんですか」
「こんな時に、婚約者に頼らず、いったい、誰に頼るんだ?」
それはそうなのかもしれない。
――――いやいや、父の理論に納得してはいけないわ。だって、ゼフィー様に、そんなご迷惑……。
「お、来たようだな」
そんな理由なら、ヘレナが泊めてくれるに違いない。
本気で拒否しようと思った瞬間に、来客を告げるベルが鳴った。
まさか……。
父に連れられて玄関に向かえば、案の定そこにいるのは、少しだけ戸惑ったように笑うゼフィー様だった。
「遅かったな! それじゃ、二週間ほど不在になる。その間、リアスティアの身を守ってくれ。あらゆるものから」
「かしこまりました。フローリア殿、ご武運を。ぜひ、二週間といわずに、のんびりしてきてください」
「――――あらゆるものには、ランディルド卿も含まれているからな」
父の言い分は、良くわからない。
どう考えても、ゼフィー様が私に害をなす可能性なんてゼロだと思うのに。
そして、いつ聞いてもゼフィー様は、父にだけは気安い態度だ。それだけ、信頼が厚いということなのかもしれないけれど。
「リアスティアを泣かせるようなことはないと誓いますよ」
「本当だな?」
「もちろんです」
「本当に本当だな?」
――――珍しく父がしつこく食い下がる。
いつもニコニコ、ほんわかしているのに、どうしたというのだろうか。
それにしても……。
「お父様だけが、遠征に出かけるなんて珍しいですね」
ゼフィー様は、父の隊に所属している。
だから、ほとんど二人は行動を同じにしているはずなのに。
「――――そうだな。さすがに、この勲章を表に出してしまったからな。陛下としても、さらなる武功を期待されたのだろう。まあ、どちらにしても騎士団の隊長程度では、娘を侯爵家に嫁がせるには足りないし、出世するにはちょうどいい機会だろう」
――――え……。完全に私のせいじゃないですか
父は、社交界で私を守るために、勲章をつけて表に立つことを選んだのだから。
「謝るのはやめてくれ。そもそも、俺は別に出世欲がないわけじゃないからな。そうでなければ、隊長なんてやってない。それに、義理の息子の部下になるのも悔しいからな。この際、騎士団長になって、今後もランディルド卿をこき使ってやるさ」
そんなこと言って、本当は出世したいなんて気持ち、父にはないって、私知っているんですから。
でも、もしかしたら、ゼフィー様の部下になるのは嫌だというのだけは、本気なのかもしれないけれど……。
「――――ははっ。フローリア殿が、騎士団長ですか。あなたがトップに立ってくださったら、人命救助が堂々とできていいですね! ただ、リアスティアに父親を超えられない男だと思われたくはないので、俺は総騎士団長を目指そうと思っています。近い将来、俺の下で働いていただきます」
「ちっ……。生意気な」
近い将来、王国騎士団が戦力増強してしまうかもしれない歴史的場面に、立ち会っているのだろうか……。
理由があまりにも、幼稚な気がするけれど。
父が出かけようとする。まさかこんな早く、渡すことになるとは思わなかったけれど……。
「お父様! こちらを使っていただけませんか」
「リアスティア……?」
父に渡したのは、フローリア伯爵家の紋章である、グリフォンが描かれる盾とローズマリーの図案を刺繍したマントだ。
……父が、もし危険な任務に赴くときに、安全を祈願して刺繍したマント。
私と同じ若草色の瞳が細められる。
纏うマントの色は、騎士団の深いグリーン。
「――――ははっ」
父が、嬉しそうに笑った。
「ランディルド卿、ハンカチよりこちらのほうが上だな?」
「……大人げないですよ。お父様」
そもそも、ゼフィー様が下さった材料で刺繍しているのだから、ゼフィー様の分だって作っているに決まっているではありませんか。
だから、そんな悔しそうに私のほうをちらちら見ないでくださいゼフィー様。
意外とかわいらしいところがあるのですね。
「いってらっしゃいませ」
「ああ、行ってくる。リアスティア、無茶なことはしないように」
――――その言葉、そっくりそのまま返します。
人命救助といって、無茶ばかりしていたこと、マダムルーシーから聞いているんですからね!
「――――お父様」
「ああ、こんな風に後ろ髪引かれずに出かけられるなんて……。ランディルド卿には感謝する」
なんだか、その言い方、帰ってこなくなる確率が上がりそうで嫌です。
父が出かけてしまうと、急にエントランスに静寂が訪れた。
「……フローリア殿には、シークを付けた。万が一があってはいけないからな」
「ありがとうございます」
シーク様はゼフィー様の守護騎士なのに、離れて行動ばかりしていていいのだろうか……。
「さ、行こうか」
ゼフィー様が、差し出した手をとった。
こうして、私のランディルド侯爵家での居候生活が幕を開けたのだった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
そして訪れたランディルド侯爵家。
「よくやったわ。ゼフィー」
葡萄のような赤紫の瞳に、煌めくプラチナブロンドのミリアお義姉様が、なぜか興奮したように、満面の笑顔で私の手を取った。
「あのっ。急に押しかけて、申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします」
「急に……? 一週間前には、知らせが来ていたわよ?」
「えっ?!」
――――父は、私が逃げるだろうと見越して、ギリギリまで黙っていたようだ。
「結婚後は、ゼフィーの屋敷に住むなんて、一緒に住めないのを残念に思っていたの。うれしいわ」
ブルーグレーの髪に、ゼフィー様と同じ色の氷みたいな瞳をしたランディルド侯爵夫人が優雅に微笑む。
「どっ、どうぞよろしくお願いいたします」
そして、二人にその瞳で恐怖感を与えないよう、私のことをじっと見つめるゼフィー様。
……それが、理由ですよね?
「働かされ続けた二週間のお詫びとして、今日は休みをもぎ取って来た。いつも付き従うシークもいないし、二人きりで……」
「さぁ! 注文しておいたドレスが、届いているの!」
完全に会話を遮ってきたミリアお義姉様。
ドレスって、何のことですか。
「義姉上! 俺は今日しか休みが。それにそのドレスは俺たちの」
「ドレスは、当日のお楽しみよ! それに、あなたたちは、これからずっと一緒に過ごすのよ。今くらい我慢なさい? それに、フローリア卿に、間違いが起きないよう、よくよ〜く頼まれているの」
「くっ、先手を打たれていたか」
父の過保護に、少しばかり呆れながら、私の長いようで短い二週間が幕を開けたのだった。
気楽に書き始めた番外編ですが、一話に収まりきりません。続きます。
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