最近の『小説家になろう』のランキングについて、いくらなんでもこれは酷いと思ったしがない作品投稿者の怒りと憤りの話
かなり激烈な批判内容となっております。
そういうのに耐性のない方はここで回れ右をお願い致します。
此話はすべて遠野とはあんまり関係ない人佐々木鏡石が書きたり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分は亦一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。願わくばこれを語りて平地人を戦慄せしめよ――。
はじめましての方ははじめまして。
そうでない方も始めまして。
佐々木鏡石です。
突然ですが皆様、最近『小説家になろう』のランキングを見ていてこういうのもういいよ」とか「つまらんなぁ」と思うことが増えたと思いませんか?
その指摘、言葉にならないモヤモヤはおそらく正しいと思います。
私も近頃の『小説家になろう』のランキングを見る度に「ああ、もう今頃山では美味しい山菜が生えているんだろうなぁ」「書いてる作品の続きほっぽり出して山に行きたいなぁ」との思いが強まっておりました。
明確に言葉にするほどでもないが、誰もが感じているはずのその鬱憤や、『小説家になろう』というサイトの今後、いわば未来に対する不安。自然から少しずつ分け前をもらって生活の足しにするというささやかなサイクルを無視し、半ば「山荒らし」レベルにまで達してしまった阿漕な山菜採りの存在。防げたはずなのに続発する高齢者の山菜採りでの遭難事故。天変地異としか思えぬ熊害事件――。それらについての発散されない不満や思いが澱のように凝り固まり、一定のレベルに達した時点でこのエッセイを書かねばと考え、この度筆を執った次第です。
まず始めに私が言いたいのは、「いくらなんでもランキングに『ざまぁ』『もう遅い』に関する作品が多すぎるのではないか」という話題についてです。
読者の趣味嗜好に口出しするのはしがない作品投稿者としては一番やってはいけない批判であるとは思うのですが、それにしてもランキングが掲示板まとめサイトのような「スカッと話」の集積所のようになってしまっているのはいくらなんでもいただけない傾向だ、という意見もあります。いくら読者的にニーズがあるとはいえ、作者の側が手っ取り早く人気を獲得しようとこのテの作品を量産し続けるあまり、それ以外の作品層が薄まり、まるで土壌が痩せ細るように徐々に徐々に弱っていく事態に発展しているとは言えないか――そういう意見が日に日に強くなっているように感じています。
土壌がやせ細る……その現象は『小説家になろう』だけではなく、山菜においても深刻な影響を及ぼすものです。
例えば、ワラビという山菜があります。発生時期は三~五月、山菜としては全国的に最もポピュラーな部類に入る山菜です。日本では古来から山菜の代表格としてもてはやされ、奈良時代末期に編纂されたという『万葉集』においても
「石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出る春に なりにけるかも」
と詠まれており、古くからやがて来る春の喜びを象徴するものとして親しまれてきました。
そのワラビなんですが、実は最近ではなかなか量が採れない山菜になりつつあるのを知っていますでしょうか?
「なにを言ってるんだ。ワラビなんて田舎に行けばナンボでも採れるぞ」と仰る方、あなたの想定する、またはお住まいを為す田舎は、きちんと自然と人間の営みのサイクルが上手く行っているようですね。
余り知られていない事実なのですが、実はワラビとはシダ科に分類される植物で、やがて「蕨手」と呼ばれる握り拳状の部分が開くと「ホダ」などと呼ばれるシダ植物になってゆくのです。無論のことこれは農作業には邪魔なので、古くから日本人は「野焼き」という方法でこのワラビのホダを駆逐してきました。
実は、ここがポイントなのです。
何を隠そう、ワラビは日当たりの良い、アルカリ性の土壌を非常に好む植物なのです。
日当たりがよく、なおかつアルカリ性の土地――古来は山火事が起こった後の禿山なんかが好適したことでしょうが、時代を経るに連れ、この条件を満たす場所が「野焼きを行う田んぼの土手」へと変わっていきました。
そう、つまり、野焼きという行為を行うことにより、灰となった植物が土壌をアルカリ性に保ち続けることで、地中に残されたその根から再びワラビが萌えて来ていたわけです。
当然のこと、減反や後継者不足によって放棄された田んぼでは野焼きなど行われません。すると今までアルカリ性だった土地は徐々に徐々に中性、ないし酸性へと傾いてゆき、雑草や灌木が生い茂ることで日当たりも悪化してゆき、徐々にワラビは姿を消していくわけです。
長々と書いてしまいましたが、結局私は何が言いたいか。
それは「ワラビは美味しい」ということです。
『小説家になろう』のランキングがいくら「ざまぁ」「もう遅い」だらけになったとしても、また来年の春が来ればワラビはささやかな食卓の花として彩りを添えてくれるものなのです。来年はワラビをいくら採ってやろうか、と考えるだけで『小説家になろう』のランキングの傾向などどうでもよくなりはしないでしょうか。
また、減反政策や後継者不足によって田んぼが失われることで徐々に自然と人との営みのサイクルが崩れている。あの煮付けにしてもおひたしにしても、ヌルヌル、シャリリとして歯ざわりよく、美味しく野太いあのワラビが少しずつ見られなくなっているという事実の方が、なろうのランキングの荒廃を嘆くよりも遥かに嘆かねばならぬ危機的な事柄ではないか。
そしてなによりも重要なこと。ヨーロッパでは「羊も食わない草」と蔑まれ、見向きもされないどころか、むしろ家畜のワラビ中毒症を引き起こす厄介な雑草として憎まれるあのワラビを、木灰を掛けてアク抜きし、または塩蔵することで、冬季間の貴重な食物とした古の人々の叡智に対して尊敬の念を持つこと――そっちの方が『小説家になろう』のランキングに危機感を持つよりも遥かに重要ではないのか――そういうことを私はこのエッセイ上で皆さんに問いかけたいのです。
他にもまだまだ『小説家になろう』の現状に対して感じていることがあります。
それは「異世界恋愛」タグのついた作品に関して、あまりにも恋愛という要素が有名無実化しているのではないか、という最近の指摘に関してです。
正直な話、私も「異世界恋愛」タグでの作品を多数執筆し、幸いなるかな皆様のご高評を得た作品もいくつかあります。その私の古巣とも言える異世界恋愛タグの人気が興隆してくるに連れ、残念ながら持ち上がって来てしまったのが例の指摘です。
異世界恋愛という看板を提げておきながら、その肝心要の恋愛要素が空虚化、ないしオマケ化し、悪役令嬢と王子の断罪からの婚約破棄から始まる物語と、それに対しての断罪返し、ざまぁ返しなどが主軸になっている、これはもはや「恋愛」ではなく、単なる意趣返しの復讐譚ではないのか――そういう指摘が日に日に多くなっているように見受けられます。
まぁ確かに私の方も、婚約者である王子からの婚約破棄・追放という、あまりに手垢のついた題材で何作か作品を投稿している人間です。この指摘をなさっている方々から見れば私も「異世界恋愛」タグの陳腐化に大いに寄与している人間の一人、ということになるのでしょうが、それはさておき「王子」と言えば山菜にも「王」の名を冠されるものがあります。それが「山菜の王」と呼ばれるタラの芽です。
タラの芽は現在スーパーなどで売られていることも多いのでご存じの方も多いでしょう。あの大ヒット漫画『鬼滅の刃』の主人公である竈門炭治郎の大好物としても知られるこの木の芽は、フキノトウに次いで早く出現する山菜であります。主な料理方法が天ぷらしかないにも関わらず、揚げると見た目からは想像できないホクホクとした食感、ほろ苦い味わいがなんとも味わい良く、ビールのお供には最高の山菜であります。
しかし、王という名を冠される者としての悲しい定命であるのか、このタラの芽にも弱点があります。それは量が採れないという問題です。
タラの芽は御存知の通り、これから春を迎えて伸びようとするタラノキの芽であります。それを毟り取って食べるのですから、当然その株には非常に大きなストレスを強いることになり、当然ひとつしかないタラの芽を毟ったらその株は枯れてしまいます。なのでタラノキには一番芽の他に二番芽というサブの芽も存在するのですが、頭の痛い問題は、この二番芽まで毟り取ることに疑問も抵抗もない、阿漕な「山賊」の存在であります。
もっと食べたいから、自分さえよければいい、タラの芽を売って小銭を稼ぎたいから――そういう下賤な思考のもとに山を荒らしてゆく人間を、私は山菜採りとは呼びません。「山賊」と呼んでいます。過去聞いた話の中では、山の入り口に勝手に料金所を設け「この山には山菜が生えてるから入山料を出せ」と釣り人に言い放つような文字通りの違法山賊もいたのですが――根本的にもっと数が多いのは乱獲する山賊です。
山道を歩いていると、二番芽まで毟り取られて立ち枯れしたタラノキ、手の届かない高い位置に出たタラの芽を収穫するために折られたり、切り取られたりしているタラノキ、どう考えてもこれを採ったら枯れてしまうヒョロヒョロの若木なのに芽を毟り取られている株などが散見されます。山菜採りとは山からちょっと貰って生活の足しにすることであり、それ以上はありません。タラの芽とは売って利益が出せるぐらい、最初から資源量がないものなのです。
しかし某フリマサイトなどを覗いてみると、明らかに栽培物ではない、野趣溢れる天然物のタラの芽をゾロリと新聞紙の上に広げ、数百〜千円程度の値をつけて売りさばいている人間も見られます。どう考えてもその家の近所にワッサワッサとタラノキが畑のように生えているところがあるとは思えないので、おそらくはそこら中の山という山を練り歩いて、人目を盗んで採っている、否、盗っているのでしょう。どんな非常時でも理性的なことで知られる日本人でも、悲しいかなこんなのが現状です。あの貴重なタラの芽を自家消費するに飽きたらず、それを根こそぎ一網打尽にして利益を出そうとするような、どちらかといえば見当違いな人間がたくさんいるのです。
ここまで言っておいて、結局何が言いたいかというと。
「異世界恋愛」が如何に有名無実化しようと、タラの芽が無実化していく方が遥かにヤバい、ということを言いたいのです。
婚約破棄多すぎ? 追放からの断罪はもう飽きた? 恋愛要素の無実化? 知らねぇな。そんな犬も食わないようなことでいちいちモメるぐらいなら、犬どころか人間が食べる栽培もののタラの芽の天ぷらを食ったほうがまだマシです。なにしろ作中のアホ王子よりも山菜の王子の方がよっぽど「もう遅い」されてるのが現状なのですから。
我々が今、遥かに危機感を持って考えねばならないのは、孫ひ孫の代まで土地に資源を残すということに関心がなく、人の土地までやってきて利益を出せるぐらいの量の山菜を奪ってゆく山賊の存在と、その「盗品」「略奪品」とも言うべきタラの芽を、僅か数百円という小銭を払って買うことに疑問がないシティ在住の痴れ者の存在ではないでしょうか。
第一、タラの芽は採った瞬間から老化が始まり、時を経るにつれてどんどんエグみが増していく山菜であります。数日経てばこれが同じ植物であるとは思えなくなるほどに食味は変わってきます。タラの芽は家に居ながらにして数クリックで味わえるものではなく、しっかりと山を二本の足で歩いて採り、その晩にでも手早く料理するからこそ最高の珍味となる山菜です。つまり千数百円という価格であるにしても、その食味はもはや変わり果てている――商売とは需要と供給、それはわかります。ですが、決して美味しいとは言えない状態のものにカネを払っている人間がいるというのも少し悲しい事実です。
百歩譲ってそのタラの芽が盗品でなく、自分の土地からたまたま量が採れたものだったとしても、依然別の問題は残り続けます。タラの芽の資源量が限られていることは先述しております。それであるから、たとえ私がフリマサイトにタラの芽を出品するにしたとして、間違っても数百円という激安特価なぞつけません。キッチリ数千円は取るでしょう。価値がわかる人間であるからこそタラの芽はごちそうとなるのです。
それを「まぁタラの芽二十個で千円!? 安い!」というソロバン勘定とスマホポチポチで得ようという卑しい思考の人間が、この平和で文明的な国に数多存在するという事実は、もう憤りを通り越して大いなる懸念と言えなくはないか。美味しいものは高いお金を出してこそ美味しさがひとしおになるというのに――そういう、現代日本に於いてトチ狂ってしまった「正当な価格」の存在のことを、このエッセイ上で皆さんに問いかけたいのです。かの竈門炭治郎がもし大正の御代から令和の御代を覗くことがあるとしたなら、きっと嘆くことでしょう。鬼は人々の心の中にこそ存在するのだ――そう言って慟哭することでしょう。
ここまで書いて、想定していた文量を遥かに超える問いかけをしてしまいました。本来ならばもうひとつぐらい例を挙げてなろうの現状を嘆きたいところなのですが、それを語り尽くすにはこのエッセイの余白はあまりにも少なすぎる。
こういう批判を書くと必ず聞こえてくる反論が「無料で読めるサイトなんだから文句言うな」というものです。他にも「趣味で作品を投稿している人もいるんだから全体的な傾向に関してとやかく言うな」などと仰る方もあるでしょう。
ならば逆に問いましょう。
同じく「無料で楽しめて」「趣味」なのだったら、『小説家になろう』のランキングの現状よりも、採ったら採っただけ消えてしまう山菜の現状の方が遥かにヤバいんじゃないの、と。
この論の結びに変えさせて、皆様に改めて言いたいことがあります。
それは「山菜は山の恵み」であるという当たり前の事実です。
恵みであるからこそ、それの維持を疎かにしたり、それで利益を上げようとしたりすれば、まるで国外追放された聖女の加護と祈りのように、あっという間にこの世から消えてしまう。山菜と悪役令嬢は違います。山菜はある山から無くなっても、隣山の王子に溺愛されて幸せに暮らしてたりしません。無くなったら無くなったまま。こうなったらもう何度やり直そうとバッドエンド直行なのです。ドラゴンと違ってどんな敏腕テイマーでもテイム出来ませんし、戻ってきてくれと土下座しても無意味です。
私の尊敬する山人の中にいい事を言った老爺が居ます。
「山菜を採る時は、孫、ひ孫、玄孫、じょんじょろ子の代まで考えて採れ」
なんともスケール感のどでかい話ではないですか。我々は孫どころか我が子の生きとし生ける時代のことすら想像がつかない時代に生きています。そんな中、おそらくは自分が見ることすら叶わないであろう「じょんじょろ子」の時代にまで思いを馳せ、そこに資源を残すことを考えろという教えです。それはいわば矜持というもの――貧しく倹しい山峡の暮らしの中でも決して取り尽くすことなく、今日まで営みのバトンを繋いできたことを誇りに思う気持ち――ではないでしょうか。
その矜持もスケール感も持たぬ人間が今日「山賊」と化し、山村の荒廃から既に先細りしている資源を小銭目当てに奪い合う――竈門炭治郎に言わせればこんなものは鬼を通り越し、わざわざ滅するのも穢らわしい「餓鬼」の所業でしょう。
『小説家になろう』も山菜も、見方を変えればある意味どちらも「恵み」の一環であります。毒があったり、とても食えない草や木が大半である山の中に、ひっそりと枝葉を広げ、我々にささやかな春の喜びを与えてくれるもの――それが山菜です。だからそれに対してもっと数多く生えろ、もっと大きく育てと叱ってみたところで無意味なのです。我々はこと山菜に於いては「書き手」に回ることが出来ない「読み専」であります。であるから、我々に出来ることは先の先の先の先の時代の子孫までもが「美味しいね」と笑い合えるだけの資源を残すこと、これだけです。
しかし、『小説家になろう』は山菜とは唯一違い、「採り専」ではなく「植え専」に回ることもできる便利なサイトです。なろうと山菜は基本的に同じではありますが、ここだけは少し違うところでしょう。
未来の「じょんじょろ子」により良い資源を残せるかどうか、それは今ランキングの現状を嘆いている、読み専のあなたの肩にこそかかっているのかもしれませんね――と、要らぬ進言を以って筆を置かせていただきます。
令和三年五月九日
日本のどこかのド田舎にて、極太のワラビに灰汁を降りかけながら