神社の猫
私は、一人旅が好きだ。もちろん、友達と行く旅行が嫌いというわけじゃないけれど、一人旅にはまた別の楽しみがある。あるいは、観光地のいかにも「これを楽しんでください」というような押し売りではなく、自分の琴線に触れる何かを探したいのかもしれない。今日も有休を取り、他の社会人がせっせと働くのを尻目に、隣県の特徴のない街にやってきていた。
街並みというものが全国で均一化され、面白みがなくなったという論者もいるけれど、それは大雑把すぎるのではないかと私は思う。確かに表面だけ見ると、均一的で違いのないように見えるが、よくよく観察していくと余所者には見せない内なる顔が日常に溶け込んでいるのではないか。素人の浅知恵に過ぎないが、そんな思いがぼんやりとあるのだ。
これといって特徴のない住宅街を歩いていると、突然視界が開けた場所を見つけた。鳥居もなければ、賽銭箱もない、けれどそれが神社であることは古びた社で分かった。落ち葉や枯れ枝が勝手気ままに散らかり、見たこともない黄色いパッケージのペットボトルや空き缶が転がっている。まさに荒れ放題と言った景色で、長らく手入れされていないことが伺えた。神社と言う神聖さの中に、俗や雑が内包されている、整備された観光地では見られない日常に、私はやはり興味があるのかもしれない。とは言え、あのペットボトルたちは拾って帰ろう。
広くもない境内を散策していると、一匹の猫が現れた。茶色の毛並みは美しく、野良と言うには気品があり、飼い猫と言うには貫禄があった。ここは彼の縄張りなのだろうか。私は、犬か猫と問われれば猫派だが、野良猫が見ず知らずの人間に心を開くとは思っていない。触れようと手を伸ばせば、威嚇されるか逃げられるのがオチなので、彼の所作を無関心を装って盗み見るだけに留める。そういう心配りを知ってか知らずか、私の横を通り過ぎるだけだと思っていた彼は、どんどん私に近づくと、意外なことに私に体を擦り付けだした。
近所の人がエサでも与えているのだろうか、随分と人慣れした猫だった。そうと分かればと、頭を撫で、背中を撫で、終いには無防備に晒された腹までを撫でていた。撫でるのに夢中になっていた私は、周囲から近づいてくる他の猫たちに気が付かなかった。私は、彼らに体毛を擦り付けられ、瞬く間に毛だらけになってしまった。ここは猫の楽園なのだろうか。締まりのないニヤケ顔で猫を撫でまわす姿は、不審者として通報されてもおかしくない。
「おっと、写真撮っとかないと」
今時の若者らしく、私もSNSを利用している。別に四六時中スマホに噛り付く中毒者ではないので、フォロワー数なんかも気にしていないし、日々の呟きが大きな反響を得たことだってない。
「『通りすがりの神社で猫に襲われた~。最高』っと」
写真を添付し、送信ボタンを押した後は、また猫たちの相手に戻る。彼らと戯れるだけでも、貴重な有休を使ったかいがあったというものだ。この呟きが、意外にも猫好きネットワークに捕捉され、拡散されることになるとは、思いもかけないことだったのだ。
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「これ近所じゃん」
気だるげにスマホの画面を眺めていた俺だったが、タイムラインに流れてきた写真に見覚えがあって、手が止まった。猫の集団が撮影者に甘えている様が写っているが、その背後に写る特徴的な立て看板は、近所で見たことがあったのだ。俺は、金髪の三白眼という風体からは想像も付かないが、大の猫好きである。こんな近所の猫スポットを知らなかったことを猫好きとして恥じつつ、帰りに寄ってみようと思った。
「それにしても、こいつニートか?」
平日昼間に猫と戯れているなんて、一端の社会人ではない。俺なんか日中は働き詰めで、あの辺は夜にしか通ったことがないが、それで今まで猫ちゃんと巡り合わなかったのかもしれない。今日ほど仕事が終わるのが待ち遠しいことはなかった。
仕事が終わると、早速目的の神社に向かった。もう夜も更け、人通りがない。猫通りはあって欲しい所だったが、やはり神社には人一人、猫一匹いなかった。それでも、微かな希望にすがって、境内に足を踏み入れる。いつも目にしているが、気にかけていない境内は、よくよく見ると荒れ放題で、途端に化け物でも現れるのではないかと思うほど不気味に思えてくる。
「こんな感じだっけ? ここって?」
不意に漏れる独り言が、夜風に紛れる。その声に反応したのかは知らないが、社の方から、茶色の猫がこちらの方に向かってきた。いつの間に現れたのかという疑問も吹き飛ぶほどに、その猫は堂々と、しかも明らかな敵意の眼差しでこちらを睨んでいる。おいおい、人懐っこい猫じゃなかったのかよ、とどこかのニートを恨んだ。その猫は、俺の二メートル位手前で止まると、ごく自然と口を開いた。
「お前は、この前ここにゴミを捨てただろう」
猫が喋っているとは、最初理解できなかった。どこかで誰かが喋っているのが、さもこの猫が喋っているように見えるだけなのだと思っていた。しかし、周りを見渡してもそういうトリックを見破ることはできなかったし、その猫が見せる侮蔑の表情からも、この猫が喋っているということを信じざるを得なかった。それから、この薄気味悪い場から逃げ出そうと足を動かそうとしたが、まったく動かすことができなかった。
「何を言ってるんだ。そんなことはしてない」
結局、この猫に虚勢を張って言い返すことしかできなかった。実際、俺はゴミをどこに捨てようと気にしたこともないから、もしかしたらここに捨てたこともあるかもしれない。ただ、日頃からやっていることで本当に覚えていなかった。あれだ、「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」という名言の通り、日常的な行為なんて記憶の片隅にしか残っていないものさ。
「罪の意識もないか……。呆れてものも言えん。少々痛い目を見ないと分からんか」
「何を言ってい……」
俺の理解が追い付く前に、その猫はどんどん大きくなっていく。いや、猫だけでなく、社や他の建物も――違う、俺が小さくなっているんだ! 足元に目を向けると、俺の足は既に透明な円柱形になっていた。絶叫は声にならない。既に猫は見上げるまでになっていた。
「それはお前が捨てたものだ。しばらくそうしていろ。大丈夫だ、こんな人気のない神社でゴミを拾う者など居らんだろうから」