- 1 -
開け放たれた窓から吹き込む夕風がひんやりと頬をなでる。
「そろそろ、晩餐の時間です。
参りましょう。姫様」
ドアが開いたと思ったら従者が声を掛けてきた。
「もう、そんな時間?
ありがとう」
お礼を言って手元の本を閉じ立ち上がる。
「今日のデザートは林檎のコンポートだそうですよ」
ダイニングへ向かっていると、トムがこっそりと耳元で囁いてくれた。
「ホント? 」
わたしは目を輝かせてみせる。
「姫様がお好きだとわかってから多くなりましたよね。
リヒャルト卿は苦手のようで苦い顔をなさっていますが」
トムがくすりと笑みをこぼす。
「ん、そうなのよね?
生の林檎はおいしそうに食べているのに、コンポートは嫌々口に運んでいるのが見えみえなの。
なんか皆に気を遣わせちゃって悪いみたい」
「気にしないでください。
姫様に笑っていただければ私達これ以上嬉しいことはないんですから」
「私がどうかしましたか? 」
一足先にダイニングの入り口に立っていたリヒャルト卿がこちらの話を耳に入れたかのように訊いた。
「いえ、卿はコンポートはお好きじゃないのかなって」
かすかに笑いながらわたしは答える。
「進んで食べたいシロモノではないというだけの話ですよ。
林檎独特のせっかくの食感が台無しですから」
表情を崩さずに言ってテーブルに着いた。
「……もう、カトラリーの使い方も完璧ですね」
食事を終えると満足そうにリヒャルト卿が目を細めた。
「そう? ありがと」
「シルバ殿がなんと説得してくれたのかはわかりませんが、あのあとのあなたの成長振りには目を見張るものがあります。
特に国史と帝王学の成績には陛下も大変ご満足していますよ」
その言葉がお世辞でないことは真っ直ぐにわたしを見つめる卿の目でわかる。
イリャおじいちゃんやおばあちゃん、林檎園の皆の命を盾に取られたらもう腹をくくるしかなかった。
だからわたしはその言葉にはお礼を言わない。
「あとは、ダンスがもう少し何とかなれば…… 」
惜しい、とでも言うようにリヒャルト卿は呟く。
「だったらダンスのステップの方を直すほうが早いかもしれないわよ」
皮肉を言って席を立つ。
「お茶は、あとで部屋に届けてね」
トムに言いつけてわたしはダイニングを出た。
部屋に戻る途中でわたしは足を止める。
夕日が落ち静まり返った中庭にひとつの影……
「フランツ、さん! 」
声をかけてその背中に駆け寄る。
「やあ、君も月見? 」
言って視線を向けた先には真珠のような丸い月が光を放っている。
「ううん、フランツさんが見えたから。
何しているのかなって思って」
「ん? 女神の構想」
「今の絵? 」
「そうモチーフにね使おうと思って」
そういってまた視線を月に戻す。
わたしはそのフランツさんの横に立ち、同じように月を見上げた。
「姫様…… 」
背後から柔らかな声で呼びかけられて振り返ると、やや離れた場所にローズが立っていた。
「リヒャルト卿が至急パーラーに来てくださいと」
「こんな時間に、なに? 」
いつもなら表向きに出てくるのはメイドじゃなくて従者のトムの仕事だから、その時間も手伝ってわたしは少し不安になって訊いた。
「何かお話があるそうなので…… 」
傍にあるフランツさんの手を握り締める。
「何の話かわからないけど、とにかく行ったほうがいい」
フランツさんに促されてわたしはパーラーへ足を運ぶ。
ドアを開けると、リヒャルト卿とトム。そしてトムと同じお仕着せを着たわたしの警護に付いてくれている従者。少し年かさの剣を佩いた身なりのよい、知らない男性。
皆が一様に難しそうな顔をしている。
「遅くに申し訳ありません。姫君」
リヒャルト卿がわたしの顔を見るなり口を開く。
「実は、先日の犯人を捉えたのですが…… 」
年かさの男がそれを受けて続ける。
わたしの足が思わず震える。
「大丈夫、アデルちゃん」
そっとわたしに手を沿えフランツさんが囁いた。
「卿、その話はまだ姫君には早くありませんか? 」
フランツさんはリヒャルト卿を見据えた。
「ええ、わたしも本来ならそっとしておきたかったのですが、そうも言っていられなくなりまして」
リヒャルト卿は渋い顔を崩さない。
「何か? 」
「実はあの時の使用人の証言から犯人らしい男を捕らえたのですが、本人がなんとしても認めようとしなくてですね。
このままでは釈放するしかないということになりまして」
年嵩の男が少したどたどしく言う。
「つまり、このままお咎めなしで釈放になってしまうと、また同じことが起きないとも限らないので。
この先の姫君の安全を考えると、絶対の証拠を突きつけて縛っておきたいというのが我々の希望です。
そこで大変心苦しいのですが、姫君にあの時気づいたことを何でもよいので訊いておきたいと」
「犯人は確かにカルバラン卿だと思うのですが。
問い詰めても
『野良猫にちょっかい出したのは昼間の二回だけだ。
それも一言二言言葉を交わしただけだ』
と言い張るばかりで…… 」
年嵩の男は額の汗をぬぐった。
「その、姫君を野良猫呼ばわりするのはあまりに失礼なのですが、男がそう言っていますので」
リヒャルト卿ににらまれ男は小さくなる。
野良猫……
その言葉にわたしはつばを飲む。
……何か違和感がある。
「……そうじゃないの」
同時にわたしの口から言葉が転がりでる。
「姫君、何か? 」
リヒャルト卿がわたしの顔を覗き込む。
「その人じゃない、と思うの」
あの時のことは思い出すだけでも身体が震える。
それを押さえるように胸の前で握り締めた両手に力をこめる。
……確かにあの時、男はわたしのことを「ドラ猫」と言った。
だけど、今捉えられている人は「野良猫」と言っていたという。
そう、昼間の黒髪の男はわたしを「野良猫」と呼んだ。
それにその声は確かに同じものなんだけど…… どこかが違ったような気がする。
「呼び方が違うの。
あのときの男はわたしを「ドラ猫」って…… 」
呼吸が荒くなり肩で息をしながらわたしはかろうじて言葉にする。
「多分、違う人じゃないかなって、思います」
「な! 」
わたしの言葉に居合わせた全員が息を呑んだ。
「瞳は? 瞳の色は? 」
年嵩の男に問い詰められ、わたしは首を横に振る。
「わからないの。あの時暗かったし、気が動転してたから目の色まで覚えてない」
「確かに執事も暗めの瞳としか言っていませんでしたね」
リヒャルト卿と、男は顔を見合わせる。
「まさか! 」
「アルト伯がきている、ってことか。
いったいいつ?
誰か姿を見た者は? 」
「少なくとも姫君が襲われた日にはすでに城に入っていたということになりますが」
あわてた男の言葉に平然とリヒャルト卿が答える。
「弱りましたね……
あちらの男でしたか」
「とにかく至急手配します! 」
言うと男はトムと残りの二人を連れて部屋を飛び出していった。
わたしは立っていることができずにその場にへたり込む。
「アデルちゃん、しっかりして」
フランツさんが抱きとめてくれる。
「……厄介なことになりました」
リヒャルト卿がいつもにもまして難しい顔で呟いた。
「姫君、私からのお願いです。
これからしばらく絶対にお一人での行動をお控えください」
リヒャルト卿が改めてわたしに何かをお願いしたことなどこれまで一度もなかった。
それは事がこれ以上なく重大であることを物語っていた。
「姫様はこちらですか? 」
翌日の昼過ぎ講義を終えたところへトムが顔を出した。
「ん、今終わったところ」
講義をしてくれた学者先生を送り出し、本を戻していたわたしはその声に振り返る。
「何か、用? 」
トムがわたしを探すときには用事があるとき以外にはない。
「お客様がきてますよ。
パーラーでお待ちです」
言われたわたしは首をかしげながらパーラーへ急ぐ。
ここにつれてこられてからこの方、わたしにお客様なんか来たことがない。
毎日欠かさず林檎が届くからイリャおじいちゃんとかは時々来ているのかもしれないけど、合わせてもらったことなんて一度もないし。
だから、わざわざパーラーにお通しして待っていただくお客様なんてよっぽどの人だと思うんだけど、そんな人に知り合いなんてまだ一人もいない。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって」
謝罪をしながらパーラーに入るとこちらに背を向けて座っていた人影が優雅なしぐさで立ち上がる。
「いいえ、突然お邪魔してしまったのはこちらですもの、お気になさらないで」
衣擦れの音をさせドレスの裾をあげて膝を折る、深緑の瞳の少女。
「レディ・アリス? 」
一度グラニール夫人のお茶会で顔を会わせた記憶を手繰り名前を引っ張り出す。
「お元気そうで何よりですわ」
少女はやんわりと微笑む。
その笑顔がもう上品そのもので改めてわたしとの生まれの差を感じてしまう。
「ありがとう」
釣られてわたしも笑顔を浮かべる。
「今日はおばあさまのお使いで参りましたの」
そういって足元におかれていた少し大きなバスケットを取り上げた。
中からは何かカリカリと引っかくような音が聞こえる。
「? 」
得体の知れないものが動くのが気味悪くて、早く何が入っているのか見極めて安心したくて、わたしはバスケットを開くアリスの手元を覗き込んだ。
「わん! 」
バスケット蓋が開くと同時に、何か生き物が飛び出してきた。
「え? 」
目を見張ると、黒い斑の子犬がアリスの足元に駆け寄る。
「この子…… 」
模様と大きさはともかく長い被毛に短い足、あの日グラニール夫人のお庭にいた犬達に特徴がそっくりだった。
「先月産まれた子犬ですの。
よかったらもらっていただけませんかって。
おばあ様から預かって参りましたのよ」
ドレスの裾にじゃれ付く子犬を抱き上げながらレディ・アリスは言った。
「いいの? 」
わたしは目を見開いた。
斑の子犬はくりくりした目でアリスの腕の中ならじっとわたしを見つめる。
そのしぐさだけですっかり魅了されてしまう可愛さだ。
おまけに、どこかで見たような気がしてわたしはひと目で気に入ってしまっていた。
「ええ。
おばあさまったら、際限なく増やすのですもの。
お話したようにまたお庭をつぶして犬舎を建てる羽目になりそうですのよ」
アリスはため息混じりに笑みを浮かべた。
確かに、あのお屋敷に居た犬の数、半端じゃなかった。
家族の中で一番年長の夫人のやることには逆らえないながらも、さすがにあの数には辟易しているって言った感じ。
「あ、斑の子犬がお気に召さないのなら、茶色の子とかもおりましてよ」
そういってくださる。
「ううん、この子がいい! 」
わたしはレディ・アリスの腕の中の子犬を抱きとった。
問題は……
わたしがある難しい顔を思い浮かべていると、ドアがノックされる。
「レディ・アリスにご挨拶をと思いまして…… 」
思い浮かべた顔そのものが現れた。
「ご機嫌よう、リヒャルト卿」
アリスは先ほどと同じ優雅な動作で挨拶をする。
「レディ・アリスもお元気そうで何よりです」
満足そうな笑みを浮かべたリヒャルト卿だったが、わたしの胸元で動く物体に目を留めるといきなり表情が険しくなった。
「その犬は? 」
明らかに不満そうに片眉を上げて訊く。
「おばあさまから、プリンセス・アデリーヌへ贈り物ですのよ」
レディ・アリスはにっこりと満面の笑みをリヒャルト卿に向ける。
「く…… 」
少女の華やかな笑顔と、言葉にリヒャルト卿は何も言えずに口を噤む。
「せっかく…… わたくしが、てずから、お届けにあがりましたの。
プリンセスのお手元においていただいても、よろしいですわよね」
明らかに誰が見てもわかる相手の表情をまっるきり見ないことにしたようにレディ・アリスは卿を真っ直ぐに見据え、最高の笑みをたたえた顔で言った。
「仕方がありませんね」
ひとつ大きなため息をつくとリヒャルト卿は頷いた。
「姫君にも気晴らしをする相手は必要でしょうし」
その答えにレディ・アリスはこっそりとわたしに向かい軽く目配せした。
さすがというか、この気品で、この物言いをされたらリヒャルト卿は絶対に断れない。
レディ・アリスはそのことを熟知しているようだった。
「ただし、陛下のご寝所には絶対に連れ込まないでくださいね」
それでも、リヒャルト卿はしっかり釘をさすのは忘れなかった。
◆
「いた? 」
「いいえ、どこにも」
「中庭は探した? 」
「いなかったですよ」
あちこちから声が上がる。
その声を耳にわたしはパーラーのソファの脇を覗き込んでいた。
「そんなところにはいつくばって、いったい何をなさっているのですか? 」
頭上から振る声に顔を上げると、難しい顔をしたリヒャルト卿が立っている。
「ごめんなさい」
わたしはあわてて立ち上がるとドレスの前についた埃を払った。
「あの……
トト見ませんでしたか? 」
わたしの問いにリヒャルト卿の片眉があがる。
「トト? ああ、先日グラニール夫人にいただいたあの犬ですか? 」
「うっかりドアを開けたら、飛び出してしまったの」
「そうですか? まぁ、犬のことですから気が済めば戻るとは思いますけれど、見かけたら保護しておきますから」
「お願いします」
頭を下げる。
「……でも、よかったわ。
姫様、あの仔犬がきてから以前の姫様にお戻りになったみたい」
「ええ、あの事件のあとしばらく、なんていうか怖いような雰囲気でしたものね」
その背後で、窓の外を通るメイド達の声が聞こえた。
「わたし、そんなにひどい状態だった? 」
なんとなく胸が締め付けられてリヒャルト卿を見上げた。
「お気になさらず。
使用人は主人の顔色を伺ってそれに沿って動くのも仕事ですから…… 」
少しだけ優しい声で言ってくれる。
「私としては犬にかまける時間の分までがんばってくださっていましたから、そちらのほうがよかったともいえなくはないですが。
夫人に、お礼をしなければなりませんね」
相変わらずの口調で言った後、一つ息をつきやんわりと微笑んでくれた。
「姫様、中庭のほうで見かけたと庭師が…… 」
庭のほうからトムの声がした。
「ごめんなさい、じゃ、行きます」
わたしはあわてて中庭に駆けていった。
「トト、おいで…… 」
噴水の脇、植え込みの下を覗き込んでわたしは仔犬の名前を呼ぶ。
さっきがさがさと枝が揺れていたから仔犬はここにいる筈だった。
「わん! 」
犬は一声吠えると、尻尾だけを見せて次の植え込みの下に駆けて行ってしまう。
「トト、どこ? 」
見失ってあわてて名を呼ぶ。
すると傍らの茂みが仔犬がもぐったとは思えないほどの大きな音を立て揺れた。
驚いて身をすくませる。
「お前、どこから来たんだ? 」
茂みの影から柔らかな声がして、一人の若い男性が仔犬を抱えて茂みの中から立ち上がった。
「あの、その犬」
見ず知らずの男性を前にわたしは口を開く。
「え? ああ…… もしかして君の犬? 」
額に零れ落ちた豪華な金茶の巻き毛をかきあげながら男は仔犬を差し出してくれる。
以前どこかで会ったことがあるような?
「ありがとう」
わたしは仔犬を受け取りながら考える。
まるでその豪華な髪にあつらえたような深緑の瞳が華やかで印象的だ。そしてその華やかな髪色につりあう華やかな容姿、装い。
その取り合わせには見覚えがあった。
「あと、先日もありがとう。
嫌な思いしているところを助けていただいて」
わたしは軽く頭を下げる。
「……ああ、そのこと?
だったら気にしないで」
男性は覚えていないかのように少し考えた後答えて、背を向け歩き出した。
「あ、そうそう。
俺、エリック。またね、従妹姫」
振り返るとそういって軽くウインクした。
「また、助けてもらっちゃった」
その背中を見ながらわたしは腕の中の仔犬に話しかけた。
……それにしても従妹姫ってどういう意味なんだろう?
わたしに従兄弟はいないって、リヒャルト卿は言っていた。
だからわたしがここにつれてこられたんだって。
それとも……
ああいった華やかな人は誰にでもそんな言葉をかけるのかな?
わたしは腕の中の仔犬を抱きしめた。