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「お疲れ様でした、姫君。
今日のお茶請けはご実家から届いた林檎を使った焼き菓子です。
姫君がお好きなカスタードを添えました」
講義を終えてパーラーに戻ると、いつものようにトムがお茶を入れてくれる。
「ありがと、トム」
あたたかな湯気の上がるカップを取り上げながらわたしは頬を緩ませた。
おじいちゃんの「スノーホワイト」もともとお菓子にするとおいしかったけど、お城の料理人の手にかかると絶品になる。
特にこのバニラ風味のカスタードクリームとの取り合わせが最高。
「それで、この林檎今後定期的にお城の食材として使いたいとかって、料理人が言ってたんですが」
「ほんと?
おじいちゃん喜ぶわ!
お城の御用達ってことになればうちの農園の林檎飛ぶように売れるもの! 」
わたしは弾んだ声を上げる。
「……何が、売れるのですか? 」
そこへリヒャルト卿がふらりと顔を出す。
普段は朝夕の食事の時とダンスのレッスンとか決まった時間でないと姿を現さないのに。
「おくつろぎの時間に失礼します。
姫君に招待状届いてますよ」
首をかしげていると銀のトレーに載せた一通の封書が差し出された。
正直悪い予感しかしない。
わたしに招待状が来るとすれば、学友とか農園のお手伝いをしてくれている人。
結婚式とか生まれた赤ちゃんのお祝いとかだと思うんだけど、そんなのこのリヒャルト卿が許可するとは思えない。
きっと、一面識もない貴族の誰かなんだと容易に推測できた。
全く知らない初対面の人と、どんな会話すればいいんだか。
考えただけで気が沈む。
「……お茶会ですか? 」
先ほどまでのはしゃいだ気持ちが一気に吹き飛ぶ。
「はい、グラニール夫人からのご招待状です」
「はい…… ? 」
どこかでつい最近聞いたことのある名前にわたしは睫毛をしばたかせた。
「グラニール夫人、姫君の大叔母に当たる方ですが、ぜひ陛下のお孫さんの顔を見たいとおっしゃられまして」
そう、確か国王様にはお姉さんと妹さんと弟さんがいて、グラニール夫人は国王様の三つ年下の妹さん。
何年か前に亡くなったグラニール公爵家にお嫁に行かれて今は元公爵夫人。
先日頭に叩き込まれた主だった王族の系図を思い出す。
「本来ならば正式な晩餐会か舞踏会へご招待したかったそうなのですが。
姫君がまだデビュタント前なのを考慮して、今回はごく内輪のお茶会、というより『お茶をご一緒しましょう』程度の簡単な会にあなたをご招待したいそうです」
「でも、ほかにやること、あるわ、よ、ね…… 」
わたしは上目使いにリヒャルト卿を見上げるとその表情を確認する。
食後の休憩したい時間だって肖像画製作とかに充てられていて、わたしの自由になる時間なんて全くといっていい程ない。
少しだけ興味はあったけど、行かせてもらえるわけがない。
きっと「丁重にお礼とお断りする文面の手紙を書け」と言われることを予想した。
ざんねんだけど、その方が気が楽。
「ほかならぬ、グラニール夫人のご招待ですし、お断りするわけにもいきませんから。
それに姫君にも少し息抜きが必要なようですし…… 」
なのに、わたしの予想とはリヒャルト卿の言葉は反対だった。
「行くの? わたし」
呆然とつぶやく。
「そういうことになりますね。
マナーやもろもろまだかなり不安ですが、グラニール夫人のところならば大丈夫でしょう。
明後日の午後、スケジュールは変更しておきますから、楽しんできてくださいね」
リヒャルト卿は穏やかな笑みを浮かべた。
当日わたしは、大輪の花のように広がったドレスの裾をさばいてステアケースを降りる。
初めて着た昼間の正装。
デイドレスよりかさばるし、そのせいか少しだけ重い。
だけど、その重さに背筋が伸びる思いがする。
「いいですか?
わたしは所用があって同行できません。
グラニール夫人は気さくで、細かいことを気になさらないおおらかなお方です。
ですが、くれぐれも失礼のないようにお願いしますね」
車止めまで付いてきてくれながら、リヒャルト卿は一昨日から何度目かの同じ言葉を繰り返す。
「わかっています」
「それから、
グラニール夫人のご家族は…… 」
さすがに耳にタコができそう。
「まって、わたしに言わせて。
夫人と、ご子息の奥様レイディ・アンナと、そのご夫妻の息子さんのウォルフさんとお嬢さんのアリスさんの四人家族。領地は北方の湖水地方。
夫人の趣味薔薇栽培、あと犬がお好きでいらっしゃるのよね。
あとは…… 」
リヒャルト卿の言葉を遮りわたしは指を折りながら昨夜教えてもらった予備知識を復唱した。
本当はお話している人の話を遮るなんて失礼なんだけど、わたしの頭の中にご一家の大雑把な構成はすっかり入っているってわかってもらわないと、馬車の中までついてきて延々と同じ話を繰り返しそう。
「よくできました。
それだけ覚えておけば何とか話題に不自由しないでしょう」
満足そうに笑顔を浮かべてリヒャルト卿は頷く。
「あと、もうひとつ…… 」
「まだあるの? 」
何かを思い出したように付け足そうとするリヒャルト卿の言葉にげんなりとする。
「グラニール夫人のお孫さん、アリス嬢はわからない程度ではありますが片足がご不自由です。
目立つほどではありませんが本人がものすごく気にしています。
ですから、そのことをけして口になさらぬようにしてくださいね」
着馴れないドレスの裾を捌くのに苦労しながらわたしは馬車に乗り込んだ。
グラニール邸は王都の片隅、南の城壁に沿って建っていた。
さすが公爵邸、門構えも立派で広い庭に建つ建物も大きい。
一面の蔓薔薇の絡まる柵に取り囲まれた庭はやっぱり薔薇で埋め尽くされていた。
薔薇の季節なんてとっくに終っているはずなのに、この庭は時が半年前で止まっているみたい。
「いらっしゃい。待っていたのよ」
車寄せに馬車が止まると、待ちかねていたように一人の老夫人が出迎えてくれる。
纏ったいかにも高価そうなすると、でも上品なドレスからするともしかしてグラニール夫人ご本人?
わたしは目を疑った。
わざわざ出迎えてくれるなんて。
「お招きありがとうございます」
わたしは教えられたとおりに礼を尽くす。
「やっと会えたわ。
お兄様の隠し子の娘さんが見つかったって聞いて、一度会わせてほしいって何度もお願いしたのよ。
なのに、お兄様もあのリヒャルト卿もまるで耳を貸してくれなくて。
話の通り、本当にお母さまにそっくりだわ。
お顔も、その小さくて華奢な体型も」
グラニール夫人は満足そうに何度も頷いている。
「今日はね、お天気が良いから中庭にテーブルを出したの」
はしゃぐように言って、夫人はホールを抜けた奥にあるドアを押し開けた。
途端に赤やピンクの華やかな色と芳香が花をくすぐる。
庭や門扉もだったけど、この中庭は一段と花で埋め尽くされている。
手入れは行き届いているけど、ほとんど緑だけのお城のお庭とはまるで違う。
まるでこの世じゃないどこかに迷い込んだかのように思えた。
「どうかして? 」
思わず足を止めてしまうと、夫人が心配そうに訊いてきた。
「素敵すぎて…… お花の季節ってもう終わっているはずなのに、時間が半年くらい巻き戻ったみたい」
「通年とおして咲く品種なの。ご存知ない? 」
「知ってます。
だけど、ものすごく栽培が難しくてなかなか通年咲かせるのは大変だとも聞きました」
これはおじいちゃんのリンゴ園での知識。
「ここの庭師さんて本当に腕がいいんですね」
「あら、ありがと。
自分で手を入れているのよ。
粗雑な庭師には任せられませんもの」
夫人が嬉しそうに微笑んだ。
「どうぞ、こちらよ」
促されて庭に出ると、被毛の長い足の短い小さな犬がわらわらと駆け寄ってきて足元を取り巻いた。
それもあまりの数で、あっけにとられる。
「あら。あら。
我が家の子供たちは、お客様が気に入ったみたいね」
小犬たちはよく躾けられているみたいで、吠えることも無駄にじゃれつくこともしないでお行事よく夫人の後をついてくる。
中庭の片隅に造られた東屋に案内されると、小さなテーブルには、中年の夫人とわたしより少し年上の女性の姿があった。
言われなくても公爵夫人とそのご令嬢なのはわかる。
本当に「会」というよりも普通の家族で過ごすお茶の時間。
最初はマナー間違えたりしたらどうしようかって緊張してたんだけど、気が付くとすっかりくつろいでまるで自宅でお茶している気分になっていた。
「……でね、おばあさまの犬が危うく際限なく増えるところでしたのよ」
アリス嬢の柔らかくて上品な声。
思わず見とれてしまうほど、カップを口に運ぶ姿もものすごく洗練されていて、いかにも生まれながらのお姫様って感じだった。
もともとの育ちが違うから仕方ないけど、わたしなんか、どんなに努力してもこうはなれないだろうな。
「どうかして? 」
優雅な横顔に見とれて声に耳を傾けていると、アリス嬢が言葉をとめた。
「ごめんなさい。
少し驚いちゃって。その、あまりに犬が多いから。
これ以上増えたらどうなるのかなって」
無作法なことをしていたことに気がついてわたしは少し頬を染めながら、言い繕う。
「ええ、もう本当に、あの時には家族全員で困惑しましたのよ。
いっそこのお庭をつぶして犬舎を建てようかっていう話になったら、おばあさまったらあっさり子犬の貰い手を捜してきましたの」
アリス嬢の話に相槌を打っていると、わたしの顔を夫人がじっと見つめていることに気がついた。
「あの? 何か? 」
意地汚く食べ物を口に運んだつもりはなかったけど、クリームでもついてしまったのかとわたしはあわてて口元を隠した。
「……本当に見た目はお母さまに瓜二つなのに、仕草はグレースにそっくりだわ。
笑顔もよく似ていること」
グラニール夫人は懐かしそうに眼を細める。
「グレースおばあちゃんをご存知なのですか? 」
夫人の口から出た思わぬ名前にわたしは目を見開く。
「ええ。よく知っていてよ。
グレースは最初わたくしのコンパニオンとしてお城に上がったのですよ。
お互い十二歳の時だったわ。
わたくしたちはすぐに気があって、何をするのもずっと一緒だったの。
林檎の季節には庭木の一部の林檎の木に登って庭師にしかられたりね。
夜にお部屋を抜け出して、庭を探検して歩いたり。
グレースといるとちっとも退屈しなかったの。
あの頃はまさか、お兄様とあんなことになるなんて、わたくしだけじゃなくて誰も思っていなかったと思いますよ」
夫人は何かに思いを馳せるかのよう視線を遠くに泳がせる。
その思考を破ってはいけないような気がして、わたしは話しかけることができず口を噤む。
「大奥様、ウォルフ様がお帰りです」
少しの間みんなが口を閉ざした沈黙を破るように、現れた従者が事務的に声を掛けてきた。
「あら、そう。
じゃ、お客様にご挨拶をしに来るように言って」
どこかはしゃいだ笑みを浮かべて、夫人は指示する。
「おばあさま、お呼びですか? 」
しばらくすると、二十歳すぎくらいの若い男が姿を現した。
「わたくしの孫よ。
とにかく本が好きすぎて書庫から出てこないものだからまだ独り身で」
夫人は困ったようにため息をつく。
「今日だってきっと、調べ物とか称して城内の書庫に行っていたんだと思いますよ」
「ひどいな、おばあさま。
これでも他にもいろいろあるんですよ」
苦笑いをしながら席に着く。
「君が陛下のお孫さん?
はじめまして、ウォルフです。
君のまた従兄弟になるのかな? アリスともどもお見知りおきを…… 」
そういって向けられた瞳は柔らかな緑色だった。
「今日はごめんなさいね。
年寄りの昔語りなんて退屈なだけなのにね…… 」
夕刻近く、迎えの馬車を寄せた玄関近くまで見送りに出てくれて、夫人は言う。
「いえ、楽しかったです。
わたしの知らないグレースおばあちゃんのこと、少しわかってうれしかったです。
よかったら、またグレースおばあちゃんのこと教えてくださいね」
感謝の気持ちを込めて軽く頭を下げた。
「そう? 退屈させてしまったんじゃないかって心配したんだけど。
よかったわ。
また、いつでもいらっしゃい。
お待ちしていますよ」
夫人はこの上もなくやさしい笑を向けてくれた。
「いかがでした?
大叔母様のお茶会は? 」
「ん、楽しかった。グレースおばあちゃんの若い時の話とかいろいろ聞かせていただけて」
晩餐のテーブルに向かい会い、わたしはリヒャルト卿の問いに答える。
「ご子息にはお会いになられましたか? 」
「ん? ウォルフさまのこと? 」
妙な問いにわたしは首をかしげた。
夫人のお茶会にお招きされたんだから、夫人の印象を訊かれるのならわかる。
なのになぜご子息の話になるんだろ?
「如何でした? 」
リヒャルト卿は念を押すように更に言う。
「如何って……
えっと、やさしそうで、誠実そうだったけど…… 」
わたしは曖昧に答えておく。
結局あのあと夫人がグレースおばあちゃんの話をお一人で続けて、他の方はほとんど会話のできないまま帰ってきてしまった。
なので、終わりの頃になって現れたウォルフ様とはほとんど会話らしい会話をしたわけではなく。
正直言ってわからない。
「公爵はこれから晩餐会や舞踏会などでお会いする機会が多くなる方です」
「? 公爵って、わたし公爵様にはお会いできなかったのだけど」
今日ご一緒したのはグラニール夫人とそのお孫さん二人、それから奥様。
ご当主の侯爵様は結局いらっしゃらなかった。
「いえ、そのウォルフ殿が現グラニール公爵ですよ。
お忘れですか?
夫人のご子息は家督を継ぐ前にお亡くなりになっておりまして、一昨年夫人のご夫君の亡きあとの家督はお孫さんが継いだと、ご説明申し上げたはずですが」
「そう、だっけ? 」
わたしは首をかしげる。
貴族間の詳細なんて数が多すぎて覚えきれない。
「まあ、各貴族の領地から家族構成、姻戚関係すべてを頭に入れるのは一朝一夕では無理ですから、追々といったのはこちらですし。
とりあえず、公爵は舞踏会や晩餐会などであなたのパートナーをお願いすることもあると思いますから、覚えておいてくださいね」
にっこりとリヒャルト卿は笑みを作る。
「はぁ…… 」
舞踏会とか晩餐会とか最近なんだか話の端々に華々しい単語が並びだした。
肖像画を描いてもらうだけだって恐れ多い程の贅沢なのに……
そう思うとなんだか気が重くなる。
わたしはあからさまにため息をつきフォークを置いた。
「いかがしました? 」
リヒャルト卿が顔を上げる。
「ん、なんだかお呼ばれ先でいただきすぎちゃったみたい。
あ、もちろん卿が目を吊り上げるほど無作法に食べたわけじゃないけど……
ごめんなさい、もう休みます」
わたしは席を立つとダイニングを出た。
どこからか小鳥のさえずる声が響きギャラリーの天井にこだまする。
それも毎朝窓の外でさえずっている聞きなれた鳴き声じゃない。
特別な今まで聴いたこともない高く透き通ったさえずり。
まるで歌でも歌っているかのように継続的に続く。
そのギャラリーを横切り、わたしはフランツさんの待ついつものバルコニーへ急いでいた。
……またしても左ターンと右ターンの区別ができず、リヒャルト卿を散々てこずらせた挙句、レッスンの時間をだいぶ長引かせてしまった。
どうしてうまく出来なんだろう。
何度やってもターンの出だしでまごつく。
さすがにリヒャルト卿も苦い顔をしていた。
少し落ち込んだせいか視線が床に落ちる。
その視線の先を男物の靴がふさいだ。
わたしはとっさに足を止め顔を上げる。
視線を上げると、先日わたしを野良猫呼ばわりした、黒髪の若い男が立っている。
改めて見ると年齢はウォルフさんと同じくらい。身なりもお仕着せよりよっぽど高価に見えるから、おそらくは貴族の子弟だとは思う。
誰だろう?
わたしのほうは全く面識はないけれど、男性は明らかにわたしに用事があるような顔をしている。
「何か、御用ですか? 」
このままでは前を空けてくれない気配を察し、わたしは男性の顔を見上げて聞いた。
「お前、ウォルフと会ったんだってな? 」
わたしの顔を真っ直ぐに見据えて訊いてくる。
「…… 」
その問いにどう答えていいのかわたしは戸惑った。
本当ならこんな面識のない人間に答えてあげる義理なんかない。
正直言っちゃうとウォルフさんのことだって紹介されただけで、ろくに話もしていなんだから、話題にできるような情報は何も持っていない。
「会ったかって訊いてるんだよ? 」
無反応なわたしの対応にいらだったのか、男性は語気を荒くして繰り返す。
「どなたか知りませんけど、あなたにお答えする必要はないと思います」
言っておもむろに目を逸らす。
「急いでいますので、ごめんなさい」
目の前に立ちはだかる男性をよけ、その脇を通り抜けようとした。
すれ違いざま、手首を捉えられ引き寄せられた。
「……な! 」
持ち上げられてしまった手首を振りほどこうと身をひねる。
男性のほうに顔を上げた瞬間、突然唇にキスしてくる。
「嫌っ…… 」
わたしは反射的に思いっきり男の胸を突き飛ばした。
「ったく、野良猫そのままだな…… 」
呟くと男はわたしの腕を壁に押し付ける。
その力の強さにわたしは身動きさえままならなくなる。
灰緑色の冷たく光る瞳でわたしを見据えると、再びおもむろに顔を寄せてくる。
貴族の人たちって上品な顔をしているくせに、こんなに乱暴で節操なしな訳?
農園でお手伝いしてくれている男の人だって、口や態度こそ悪いけど、いきなりこんなことしない。
背筋に悪寒が走る。
「や…… 」
逃げられない事実を突きつけられ、迫ってくる男の顔にわたしは身を硬くし思わず目を閉じる。
「その辺にしておいたほうが身のためだと思うけど」
ギャラリーの中にもうひとつ別の声が響いた。
その言葉に男がわたしを抑えていた手から力を抜き身体を離す。
「リヒャルト卿に黙っていてほしかったら今すぐ消えてほしいね」
どこか冷めた、それでいて柔らかな声……
わたしの視界を覆う男の肩の向こうで柔らかな金茶の巻き毛が揺れ動いた。
「でないと、二度とそのお嬢さんには近づけなくなると思うけどな…… 」
「ちっ…… 」
その言葉に男は小さく舌打ちすると部屋を飛び出した。
「……あの、ありがとうございます」
わたしは声をかけてくれた人に軽く頭を下げる。
さっきの男と同じほどの年齢の男。
なのに見た目も纏う雰囲気も行動もしぐさも全く正反対……
大声を上げることもなく、手を掛けて制したわけでもないのに、さっきの男の行動を言葉だけで制してしまった。
「大丈夫だった? 」
やさしい声でわたしに尋ねてくれる。
誰だろう?
見事な金茶の巻き毛が目を引いた。
それにつりあう深緑の瞳の顔はとても整っている。
髪型と着ている物が違えば女性に見える程。
取り立てて催し物のないときに、城のこんな場所まで入ってくる人はだいたい身分の高い人だと決まっているとリヒャルト卿に聞いていた。
それにいかにも高価そうな手の込んだ衣類。
間違えても従者や使用人ではないことから、相当に身分の高い人だとは思う。
「俺の顔に何か付いている? 」
その造作の美しさに思わず見とれていると、男がわたしの顔を覗き込んだ。
「ご、ごめんなさい! 」
あまりにきれいな顔にじっと見つめられて、その上親しくもない男性の顔を見つめてしまった無作法さに気が付いて、わたしの顔には一気に血が上る。
「気にしないで、俺をはじめてみる女の子は大概そういう反応するんだ」
そういって大輪の花が開いたかのような派手な笑顔を向けてきた。
「行けば? 時間で行動してるんだろ? 」
ギャラリーの入り口へ視線を向けて言う。
「あ…… はい! 」
そうだった、パーラーのバルコニーにフランツさんを待たせてある。
「本当にありがとうございました」
わたしはもう一度頭を下げるとその場所を後にした。
突然現れた二人の男に、わたしは嫌悪感と戸惑いと、妙な感情を抱いて廊下を急ぐ。
「……なんのなのよ」
それでもフランツさんにこんな顔見せられない。
先の男が触れた唇を手の甲で乱暴にぬぐいわたしは笑顔を作った。
「どうしたのアデルちゃん? 」
バルコニーへつくと、すでに作業を始めていたフランツさんが顔を上げて訊いてきた。
「え? 」
「……なんだかすごい形相になってる。
リヒャルト卿に何かまた言われて腹でも立ててる? 」
……確かに腹は立てているんだけど、一応頬の筋肉上げて目じりを下げて目いっぱいの笑顔を作ってきたつもりだったのに。
わたしはため息をつきながらいつもの場所に座った。
「もう、フランツさんってば、どうして何でもわかっちゃうの? 」
キャンバスの向こう側のフランツさんの顔を見て呟くように訊いた。
「そりゃ、これだけ毎日顔を合わせていたらね……
しかもね、強引に笑顔まで作って。
何かあった? 」
「…… 」
どう話していいのかわからなくてわたしは黙り込む。
まさかフランツさん相手に、見ず知らずの男に強引にキスされたなんて恥ずかしくていえない。
身持ちの悪い女の子だなんて思われたくない。
「今日はやめにしておこうか? 」
フランツさんはコンテを置く。
「え? でも、確か時間がないって……
わたしなら大丈夫だから」
「言ったと思うよ。
私の腕はそこそこだって。
現実を偽って描くことなんかできないから、今日のアデルちゃんを描いたらきっと陛下のお気に召さない表情に仕上がる。
時間をあげるから、散歩にでも行っておいで」
コンテから絵筆へと持ち換えるともう一度さっきまで描いていた別のキャンバスに向かう。
「ううん、いい」
言ってわたしはフランツさんの隣へ座りなおした。
「しばらくここで見てていい? 」
正面の描きかけのキャンバスにフランツさんが走らせる絵筆の先を見ていった。
「かまわないけど、退屈だよ? 」
「ううん…… 」
わたしは首を横に振って黙り込む。
その時間がなぜか上に絵の具を塗り重ねて行くかのように、さっきまでのいやな思いを消していってくれた。
「そういえばアデルちゃん。
グラニール夫人のお茶会に伺ったんだって? 」
絵筆を動かしながらフランツさんは訊いてきた。
「うんティーパーティって言うよりも、お茶の時間に呼んでいただいたみたいな略式の会だったんだけど…… 」
わたしはわずかに首をかしげる。
さっきの男もそう言ってわたしを問い詰めてきた。
正式なご招待でもないお茶会にわたしが参加したことに何か意味があるのかな?
「それで? どうだった? 」
「お庭の、バラ園が見事だった」
「ああ、あのご夫人はほとんどマニアに近いほど薔薇に入れ込んでいるからね。
季節はずれなのに満開のバラ園なんていいもの見せてもらったね」
「フランツさん知ってるの? 」
「以前一度絵に描かせてもらったことがあるんだ。
背景の参考にしたくてお願いした」
その言葉にわたしの脳裏に一枚の絵が浮かび上がる。
今を盛りに咲き誇る花園をバックにした等身大の女神の絵。
「もしかして、陛下の寝室にあるフローラの絵ってフランツさんが描いたの? 」
「そう。よくわかったね。
それで、ご家族には会った? 」
「うん、ご夫人のレディ・アンナはやさしくて、少しママに似てたかな?
あとお嬢さんのレディ・アリス。
公爵様があんなにお若いのには驚いたけど…… 」
答えながらわたしは何故フランツさんがそんなことを訊いてくるのかちょっと不思議だった。
「……それは、そうとアデルちゃん。
この間のこと考えてくれた? 」
不意にフランツさんが話題を変える。
「この間の? 」
わたしは睫毛をしばたかせる。
そういえば、なんだかあれこれ忙しくて、ほとんど考えている余裕なんかなかった。
「そう。言ったよね。
その気がないならなるべく早くここを出るべきだって」
「……うん」
その意図がまだわからなくて曖昧に返事をする。
「まだ迷ってる? それとも農園に帰る気がなくなった? 」
「あのね、そのことなんだけど…… 」
わたしはゆっくり口を開く。
「正直言っちゃうと、わたしフランツさんの言おうとしていることがよくわからなくて……
リンゴ園に帰るつもりはあるのよ?
だけど、どうして早く帰らなくちゃいけないのかとか、手遅れとかそのあたりが何にもわからないの。 だからかな? わたしにはおじいさまである陛下がご病気の今は、できるだけそばにいてあげたいって言う気持ちのほうが優先しちゃう」
「そっか。
君はこの世界で生まれた訳じゃないからね。
知らなくても無理はないかもしれないね。
あのね、私が言いたかったのは、ぐずぐずしていると戻れなくなるってこと」
「戻れなくなるの? 」
わたしは首をかしげる。
イリャおじいちゃんはいつでも帰ってきていいって言ってたハズ。
「そう、君はリンゴ園に戻るどころか、一生をこの城に縛られることになる」
フランツさんは真っ直ぐにわたしの目を見据える。
その視線の強さに、わたしはフランツさんの言っていることがとても大事な無視できないことなんだと悟った。
「もう、すぐにタイムリミットが来るよ。
本当はもう来てしまっているけれどまだ少しだけなら猶予期間がある。
この肖像画が仕上がるまで位なら。
だけどこれが仕上がるまでに君は決めなければいけないと思うよ。
でないと本当に身動きが取れなくなる」
どこか苦しそうにフランツさんは言った。