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「どうぞ。
こちらが姫様専用の居間になります。
主に来客とお会いになる時とかはこちらを使ってくださいね。
普段お過ごしになるには、寝室の前室でも構わないと思いますけど」
言いながらトムはドアに手を掛ける
二間続きの寝室だけだって充分に贅沢なのに別に居間があるってことに呆れたけど、応接間だって言われれば納得がいく。
わたしは別だけど、普通の王族なら毎日来客があったっておかしくないもの。
「手を掛けさせてしまって、ごめんなさい。
ありがとう」
案内してもらったことにお礼を言って部屋へ足を踏み入れる。
途端に視界に華やかな色の洪水が広がる。
部屋のなかにはすでに、ドレスや布地にレース。それからそれらを入れてきたと思われる箱が散らばっていた。
断ろうと思っていたのに、迷ったせいで出遅れてしまった。
わたしはため息を付く。
「あの。その実はですね…… 」
それでもと口を開いた。
「ですから、着ないものを作っていただいても申し訳ないので、お断りします。
ごめんなさい」
ドアの前に立ったままわたしは部屋の中にいた人物にひとつ頭を下げる。
居合わせた身支度を手伝ってくれているメイドや知らない顔の人たちの間で、慌てふためいたような戸惑ったような表現しがたい妙な空気が広がる。
そりゃそうよね。
呼びつ掛けられてわざわざ出向いてきたのに、いきなり帰れなんて言われたら。
わたしだって困惑しちゃう。
だけど、本当に無駄になるもの作ってもらう方がもっと申し訳ないし。
「まだそんなことを言っていたのですか? 」
そのわたしの頭の上を厳しい声が通り抜けた。
振り返るとあのリヒャルト卿が難しい顔をして立っている。
「せめてお召し物だけでも、お気に召されるものをと思ったのですが、姫君にその気がないのであればこちらで適当に用意しましょう。
お願いしますよ」
言って目線を室内にいたメイドとは違う女性に向ける。
お仕着せを着ていないだけじゃなくって、少し控えめだけどセンスのいいドレスを纏ってるところから多分この人がクチュリエールなんだろうな。
「では、こちらでお似合いになりそうなものを見繕わせていただきますわ」
その女性は待っていましたとばかりに立ちつくしていたわたしのサイズを測り始めた。
やっぱりクチュリエールもどっちが依頼主か把握している。
こうなったら仕方ない。
せめてあまり高価なものとか避けて、枚数もできるだけ抑える方向にもっていかないと。
黙っていたら、下着から着替えからとんでもない枚数になってしまいそうだから。
「……わかりました」
気が進まないのを示すように、わたしは大きな息をついて見せた。
「よかったですね。お着換え、早いものは明日届くそうですよ」
夕食を済ませ寝室に戻ると、着替えを手伝ってくれながらローザが言う。
「やっちゃった…… 」
後悔をにじませてわたしはうめくようにつぶやいた。
「どうかなさいましたか? 」
着替えを手早く畳み部屋を整えながらローザが首を傾げた。
「あのね、お着換え極力少なくお願いしようと思ったのよ。
まさかあんなになるなんて…… 」
最初こそ気は進まなかったんだけど、やっぱり新しいドレスを選ぶのは楽しい。
それも自分のものでしかもプロの手で誂えてもらえるとなればなおさら。
知らずにテンションが上がってクチュリエールさんとか、ローザとかとワイワイはしゃいでいるうちに結局複数枚のドレスをお願いしてしまった。
それに合わせて下着と装身具、靴とかアクセサリーとかヘッドドレスとか。
数にしたらすごいもの。
「それでもリヒャルト卿は予定より少なかったってこぼしてましたよ」
わたしの気を引き立てるように言ってくれる。
「充分贅沢よ。
わたしにしたらあれだけあれば十年以上は着るものに不自由しなさそう。
ってことはよ。わたし十年はここにいる義理ができちゃったってことじゃない」
「そんなことありませんよ。
もちろん、わたくしたちはずっと姫様にここにいていただきたいですけど。
何らかの事情であちらにお帰りになることになっても、弁償しろとはだれも言いませんから」
メイドは笑みをこぼす。
確かに、そんなケチなことしそうにないけど。
そもそもわたしがずっとここにいることが前提ってのが気に入らない。
こんなにいろいろしてもらったらますます『帰りたい』って言いにくくなってしまう。
「そんなに深刻に考えずに、ゆっくりお休みください」
片付けを済ませるとローザは忙しそうに部屋を出てゆこうとする。
「あの…… 待って」
その背中に呼び止めようと声を掛けた。
「何か御用がありますか? 」
わたしが今日着ていたドレスを抱えたまま足を止めローザは振り返る。
「その、ドレスどうするの? 」
何故呼び止めたのかなんて自分でも分からなくて強引に言葉を引っ張り出す。
「もう少しお直して置きますね。
夕べウエストと丈ははお直ししたんですけど、デコルテの開きとか……
新しいドレスが届くのは明日と言っても午後かも知れませんし」
呼び止めたもののその返事にわたしはそれ以上何も言えなくなった。
そうなんだよね。
わたしの身の回りを片付けるだけじゃなくて、みんなほかにも仕事があるはずだし。
呼び止めたりしたら申し訳ない。
「え、あ……
ありがと。
でも、もう直してもらわなくれも大丈夫よ。
昨日より大分着心地よかったもの」
「そういうわけにはまいりませんわ。
では、おやすみなさいませ」
ローザは軽く頭を下げると部屋を出て行った。
だだっ広い部屋に一人残され、ソファに身を投げる。
改めて見渡すと、見れば見るほど豪華な部屋。
空色に染めた漆喰の壁に金の浮彫。
天井には無数の天使雲間に飛び交う絵。
天使は部屋の中央に置かれたベッドの天蓋にも同じ天使が施され、下がっている帳も青空に雲を織り出した図。
ベッドだけじゃなくて家具もみんなお揃い。
きっと全部わざわざ特注でこのお部屋のためだけに作らせたものだってわかる。
少し子供っぽいけど、優しい雰囲気で満ち満ちていて、持って帰れるものなら自宅で使いたい。
なんて、おじいちゃんの家の屋根裏にあるわたしの部屋に入る量じゃないけどね。
「……おじいちゃん達今頃どうしているのかな? 」
ポツリと呟くと急に視界がにじむ。
なんか本当に一人ぼっちになってしまったような気に苛まれた。
いつもなら、寝るまでずっと誰かと一緒だった。
おばあちゃんと明日のパイを仕込む。
おじいちゃんとは今頃の時期はどこの畑のどの種類が収穫ごろで、どの林檎をシードルに加工するかなんて話で盛り上がっている時間だ。
とにかくおじいちゃんとなら何時間だって林檎の話をしていられる。
時間なんていくらあっても足りないくらい。
なのに、何故?
今同じ屋根の下にいるはずのもう一人のおじいちゃんのはずの国王様はわたしのこと呼びつけたきり会話どころか会ってもくれない。
一目見ただけじゃ、もう顔なんて覚えてられない。
毎日の仕事もないし、こんな場所ほんと退屈。
きれいなだけじゃ時間はつぶせない。
クッションを引き寄せて抱きしめる。
上質なリネンがサラサラで気持ちいい。
リネンっていえば、結果として自己嫌悪に陥ったけど、今日のドレス選びは楽しかったな。
見たことのない布地や染めにはしゃいで……
そういえばリヒャルト卿もしかしてわざわざクチュリエール呼んでくれたのかな?
着るものなんてどっちでもいいって、わたしが受け付けないのわかってて。
それでも気晴らしにって。
だったら少し悪いことしちゃったかも。
ぼんやりと考えながら軽くあくびを漏らした。
「そろそろ寝ようかな」
抱えていたクッションを膝から降ろして立ち上がると、明かりを消してベッドにもぐりこむ。
だけど……
昨日同様、寝られないのよね。
「やだ、お腹空いたかも」
胃の辺りに違和感を覚えてわたしはつぶやく。
食事はきちんと出してもらっているんだけど、あのリヒャルト卿と一緒じゃ正直食べた気がしない。
なんか、姿勢からスプーンの持ち方ナイフの扱い方まで全部見られているような気がして落ち着かない。
食事なんて楽しければいいと思うんだけどな。
無理に目をつむって何度か寝がえりを打つと、背後でドアが控えめにノックされた。
「アデルちゃん、まだ起きてる? 」
ドア越しの声はフランツさんのだ。
ベッドを降りショールを羽織るとドアを開ける。
片手に籠を下げたフランツさんが立っていた。
「フランツさん? どうしたの」
予期せぬ時間の予期せぬ訪問者にわたしは戸惑う。
「おなか空いてないかなっと、思って」
手に提げていた籠を軽く持ち上げ、ウインクした。
「どうして判ったの? 」
思わずつぶやく。
「君の個室ってわけにはいかないからパーラーにでも行こうか」
フランツさんは柔らかな笑みを浮かべるとわたしを誘った。
夕方近くまで使っていたせいか、パーラーにはまだかすかに暖炉の火が残っていた。
そのせいでふんわりとした優しい暖気が漂っている。
二人して暖炉の前に座り込むとフランツさんは持ってきた籠をわたしの前に差し出す。
「これ、うちの林檎? 」
掛かっていた覆いを上げると赤いつややかな林檎が顔を出す。
「わかるの? 」
フランツさんの目が見開かれた。
「ん、確信はないんだけどお爺ちゃんのだと思う。
多分こっちは『プリンセス・スノーホワイト』でこっちのが『ネオ・スミス』
どっちもおじいちゃんが交配した林檎だもの」
わたしはその林檎をじっと見入る。
ふつうの人が見たらどの農園で採れたってリンゴは林檎なんだろうけど。
毎日見ているからか、わたしには何となくわかる。
で、もって今言った二品種はおじいちゃんの農園にしかないものだからなおさら。
「真っ赤な林檎にスノーホワイト? 」
籠の中に収まる林檎のなかから特別赤い林檎を取り出し、フランツさんは首をかしげる。
「うん、『白雪姫の林檎』。
あれって白雪姫が小人に止められていながらも食べずにはいられなかったほどおいしそうな見た目をしてたんでしょ? この林檎もすごくおいしそうな色だから、わたしが名付けたの。
でもね…… 」
わたしの言葉が終わらないうちにフランツさんはこれをかじった。
「すっ…… 」
とたんに顔をしかめる。
「酸っぱかった? それ生食用じゃないの。
加工用」
わたしはフランツさんのしかめっ面に笑みをこぼす。
「ひどいな、早く言ってくれれば…… 」
「だって、フランツさんわたしが言おうとしたらもうかじってるんだもの」
籠の中からもう一種類のまだらに赤く色づいた林檎を取り出してフランツさんに渡した。
「こっちが生食用。スノーホワイトほど見た目は赤くなくておいしそうじゃないけど、味は保障するわ」
言ってわたしももうひとつ籠から林檎を取り出すとそのまま口に持っていった。
一口かじると、たっぷりの甘みの強い果汁が口に広がる、芳香もかなり強い。
間違えなくおじいちゃんの『ネオ・スミス』だ。
「ね、これ、どうしたの? 」
たまらなくなってわたしは訊く。
「どうしたって? 」
フランツさんは目をしばたかせた。
「だって、スノーホワイトは加工用でスミスは見た目が悪いから一般には流通させてないはずだもの!
もしかして、おじいちゃん? 」
「うん、イリャさんじゃないほうのね」
フランツさんの小さな声が室内の闇の中に響いた。
「国王様? 」
小さく呟くとフランツさんがうなずいた。
「『君が急に家族から引き離されて寂しい思いをしているだろうから』って。
今日おおせつかって私がイリャさんのところにもらいに行ってきたんだよ」
「おじいちゃん何か言ってた? 」
反射的に言って、すぐに後悔した。
声が、震える。
本当は聞きたくない。
もう帰ってこなくていいなんて言われたら、どうしていいのかわからなくなる。
「追い出されるまでは辛抱しろってさ。
ま、君の行儀じゃ追い出されるまでいくらもかからないだろうからって。
少し寂しそうだったけど、笑ってた」
「……そっか」
寂しそうなおじいちゃんの笑顔。
いつも陽気に笑うおじいちゃんが何かを我慢して心の内に隠しているときの表情……
「この林檎本当に国王様がフランツさんにお願いしたの? 」
「そうだよ、それがどうかした? 」
わたしの問いにフランツさんが首を傾げた。
「わたし…… 、しばらくここにいようかな」
「どうしたの急に?
今朝の様子じゃすぐにでも陛下に直訴して帰りたい様子だったのに」
ポツリと呟くとフランツさんが目を見開く。
「うん、なんかね。
みんながわたしにあんまり優しくしてくれるから、帰りにくくなっちゃった……
林檎の件もそうだけど、リヒャルト卿は卿なりにわたしに気を使ってくれているみたいだし。
それにディエゴおじいちゃんがそういうんなら。
せめて陛下の様態が落ち着くまで。
陛下の孫が唯一わたしだけだって言うんなら、そのくらいはしてあげる義務があるんじゃないかな。
なんて思っちゃった…… 」
「君は、本当にイリャさんを信頼しているんだね」
「うん。おじいちゃん達がいなかったら、今頃わたしどうなっていたかわからないもの。
あの農園ね、もともとはパパとパパのお友達で始めたものだったんですって。
だけどパパが亡くなった時、そのお友達の人が農園の全権利を主張して譲らなかったって。
おじいちゃんが見かねて買い取ってくれなかったら、今頃パパの農園はなくなっていたの。
わたし自身もおじいちゃんが引き取ってくれなかったら無一文でどこかに放り出されてたかも」
「そうか。
君がそういうんならわたしはかまわないけどね…… 」
妙なことに、どこか不安そうにフランツさんは呟いた。
「何かあったら気軽に言って、相談に乗るから。
少なくともあのリヒャルト卿より力になれることもあるからね」
そういって柔らかな笑みを浮かべてくれた。
「うん、ありがとう」
その優しい笑みは何故か懐かしくて、わたしを安心させてくれる。
「ほら、せっかくの陛下とイリャさんの心尽くしなんだから、食べて」
手にした林檎をもてあそんでいると、フランツさんが勧めてくる。
「うん」
言われるままに林檎を口に運ぶ。
昨日一日口にしなかっただけなのに、なんだかすごく懐かしい味に思え、目が潤む。
「もう、休むね。
残りの林檎は陛下に食べてもらって。
あ、スノーホワイトの方はジャムかパイにしてね。
おやすみなさい」
その顔をフランツさんには見られたくなくて、わたしは林檎の最後のひとかけを喉の奥に押し込むと立ち上がった。
「お披露目、ですか? 」
数日後、パーラーでおじいちゃんからまた届いたばかりの林檎を手にわたしは向かいに座ったリヒャルト卿の言葉を繰り返す。
あの日以来時々おじいちゃんから林檎が届くようになっていた。
「はい、プリンセスは本来ならもうデビュタントのお済みになっている年齢ですが…… 」
マナーを重んじてか、初日以外リヒャルト卿が寝室に足を踏み入れることはなくて、用事がある時には必ずパーラーを使う。
贅沢だなって思った応接間にもきちんと役割があったんだ。
リヒャルト卿の話を聞きながらわたしは無意識に手にした林檎を口元へ運ぶ。
「いけません」
やんわりとした声と共にリヒャルト卿がわたしの手の中の林檎に伸びると、それを取り上げた。
「どこの姫君が林檎の丸かじりなどするんですか」
ため息混じりに言って、呼び鈴を鳴らす。
すかさず現れたメイドに林檎を手渡すと再びこちらを向き直った。
「そういえば先日もやっていたと聞いていますよ。
よりによってパーラーで」
リヒャルト卿はあきれたように息を吐く。
「もしかして、監視してたの? 」
「まさか、私もそこまで暇ではありませんよ。
たまたま片付けに向かったメイドが目にしただけです。
いいですか、一国の王女ともなれば皆さんの目が常に向いています。
それをお忘れいただいては…… 」
なんか、お説教が始まったけど、今日に始まったことじゃない。
口に物を入れたまま喋るとかスープを音を立ててすするとか人並み外れたことはしていないはずなんだけど、どうもわたしの行儀はこの男の許容範囲を越しているらしくて、初日からダメだしされる。
「それってプライバシーも何もあったもんじゃないってこと? 」
林檎を取り上げられてしまったことにも少し腹を立て、わたしは突っかかる。
「そういうことです。
この行儀ではとてもではありませんが、各国の王侯貴族の前に出すわけには行きませんので…… 」
「だから? 」
いやーな予感がしてわたしはリヒャルト卿の話が終わる前に訊く。
「そういうところもお直しになっていただきませんといけませんから。
陛下とも検討した結果、お披露目の会は半年後程度にして、とりあえずは肖像画を配布するということになりまして」
「はい? 」
てっきりマナーやダンスレッスンの強化を言いつけられると覚悟したところに湧いたやんわりとした話にわたしは気を抜かれる。
「とりあえずは姫君の肖像画を製作し主要なところに配るということになりました。
ですので、つきましてはお勉強の合間に、モデルをお願いしますね」
やんわりと笑っているが、目が笑っていない。
その表情に何かあると感じてわたしは戸惑う。
多分、その『お勉強』ってののマナーの時間とか強化されるんだろうな。
思わずわたしはこめかみをひくつかせた。
「それでモデルって何? 」
「人の話はきちんと聞いてください。
そういうところも直していただきますよ。
姫君の肖像画のです。
幸い当宮廷のお抱え画家は陛下がご自分の肖像画は彼以外には絶対に描かせないとおっしゃったほどの腕利きですのであまりお時間は取らせませんから、ご安心ください」
「フランツさんって、そんなにすごい画家さんだったんですか? 」
「ご存知ありませんでしたか? 」
わたしは大きく何度も頷いた。
「もともとは留学中に隣国で評価された作品を陛下がいたく気に入り、わざわざ呼び寄せて帰国させたんですよ。
まぁ、留学前にすでに一般の画家の最高権威である宗教画講師としての資格をお持ちだったようですが」
「そう、なんだ」
何気なく言ったものの、その華々しい経歴になんかリンゴ園のお兄ちゃんが急に遠くの存在に思えてしまった。
「ですが、さすがに人形を相手にかけるのは身体だけでして、お顔のほうはどうしても実物を写すことになりますから 姫君のお時間を少しだけ頂戴することになります」
「……要は、休憩時間を充てるといいたいわけね」
ため息交じりに確認した。
「ご理解が早くて助かります。
家庭教師の都合もありますし、せっかく組んだカリキュラムを組みなおす余裕もありませんから」
わたしの答えに満足したように、リヒャルト卿の顔つきが少し緩んだ。
そこに先ほどの林檎が皮を剥かれ切り分けられて上品な皿の上に並べられお茶とともに届いた。
「どうぞ、お召し上がりください」
卿はわたしの目の前に出されたお皿を勧めてくる。
なんか、オアズケされた犬になった気分。
「ん、丸かじりのほうがおいしいのにな」
わたしはそれでも、顔をしかめながらその林檎を口にした。
「……やっぱりこの色にして正解でしたね。
よくお似合いですわ」」
寝室の続き部屋で、鏡に映るわたしの姿を目にに腰のボタンを留めてくれながらデイジーが言う。
今度のドレスはここに来て最初に着せられたものと違って腰回りにも少し余裕があり着心地がいい。
着つけてもらいながら、サイズひとつでこんなに違うものなんだと改めて実感した。
「そう? ありがとう。
でも、少し派手じゃない? 」
先日クチュリエールに作ってもらった一枚。
織り糸が上質織りが繊細、その上染が丁寧だから、生地だけで充分綺麗。
そのうえ色が華やかだからリボンとかレースとか控えめにしてもらったんだけど、まだフリルが余計だった、と思うんだけど。
「そんなことありませんよ。
ほかのお嬢様たちはもっと華やかなものをお召しになっていらっしゃいます」
やっぱり、上流階級の感覚ってよくわからない。
あんまりごてごて飾ったら、せっかくの生地が台無しになると思うんだけどな。
首をかしげているとドアがノックされる。
「プリンセス・アデリーヌ。
シルバ卿がお待ちです。
身支度がお済でしたらパーラーへおいでください」
若いメイドの声がする。
「シルバ卿って誰? 」
「リヒャルト卿からお聞きになっていませんでしたか?
姫様の肖像画を描いていただく宮廷画家ですよ」
手早く髪を整えながらデイジーが説明してくれる。
初めて聞く名前にわたしは首を傾げた。
確か今からフランツさんに肖像画を描いてもらうはずなのに。
それとも、宮廷画家って他にもいるのかな?
画家って聞いたから、てっきりフランツさんのことかと思ったんだけど。
陛下のお気に入りの画家さんって、他の人のことをわたしが勘違いしてたんだ。
少しだけ、がっかりして肩を落とす。
「さぁ、よろしゅうございますわ。姫様」
整えてくれていた髪から手を離しデイジーがわたしの肩をそっと押した。
「ありがとう」
鏡に映る姿を確認してわたしは立ち上がると部屋を出た。
「アデルちゃん、悪いけどこっちだよ」
いつもの居間に足を踏み入れるとフランツさんがバルコニーで画材を広げていた。
「この季節に戸外は申し訳ないけど、陛下がね、暗い室内より、明るい戸外をバックにってご所望なんだ。
そこに座って」
言われるままにわたしはバルコニーに出されていた椅子に座るとその顔にほっと息をつく。
「どうかした? アデルちゃん」
その顔をすかさず見てフランツさんが訊いてくる。
「わたしの画書いてくれるのシルバ卿だって聞いてたから」
「ああ、それ。
私のことだよ」
「でもフランツさんの苗字って、エレーラじゃなかった?
フランツ・エレーラ」
記憶を手繰り寄せてみる。
それに『卿』ってたしか王宮で高位の役職についている貴族の人の称号のはず。
「ああ、そのこと? 」
フランツさんはイーゼルに立てかけたキャンバスに手を動かしながら言う。
「君ほどじゃないけど、わたしにも貴族の血が少しだけ入っているんだよ。
母方の祖母の系統にね。それがシルバ家。
宮廷ってところは何かと血統が物を言う場所だからね。
陛下の命でその祖母の家名を使わせてもらっている。
祖母の家と区別するために『卿』の称号ももらっているんだ」
「……そう、なんだ」
貴族の称号までもらっちゃうなんて、フランツさんって、どれだけ国王様に気に入られているんだろう?
なんかまたいっそうフランツさんが遠くの存在に思えた。
「はい、そんな顔しない」
考え込んでしまうと、突然気を引き立てるように明るく言われた。
「笑って! アデルちゃん。
でないととんでもなく不細工の顔の肖像画があちこちに配られることになるよ」
「そこを何とかするのが画家さんじゃないの?
美人はより美人に普通の容姿の人は美人に、そうでない人でもそれなりにって」
少なくともわたしのしっている町の似顔絵画家さんたちはみんなそう。
少しでもお客さんの気分を良くしないと悪い評判がたっちゃう。
「あいにく、私は嘘が描けないんだよ。
陛下もそれを気に入ってくださったみたいなんだ。
似ても似つかないほど美化して描いたらおそらく描き直しだ。
それどころか腕が訛ったってしかられる。
だから私の前ではできるだけいい顔をしているんだよ」
そう言って笑った。
釣られてわたしも笑みを浮かべる。
「よし、その顔。
しばらく動かないで…… 」
言うや否やフランツさんはキャンバスに集中する。
リンゴ園で林檎を収穫するときのフランツさんの顔はよく見ていた。
いっつも穏やかで優しい笑顔を浮かべていた記憶がある。
だけど今目の前にいるフランツさんの顔は真剣そのもので、キャンバスとわたしを交互に見る視線はすごく鋭い。
……こんな顔もするんだ。
なんだかフランツさんの知らない一面を見たような気がした。
「一休みしようか? 」
フランツさんの顔を見つめていたわたしはその声に、我に返った。
「何を考えていたんだい? 」
「なにも…… 」
まさか、フランツさんの真剣な顔に見とれていたとは本人の前では恥ずかしくて言えない。
「難しいこと? 」
フランツさんはからかうようにわたしの顔を覗き込んできた。
「ううん、そうじゃないけど」
「眉間、しわ寄ってる」
コンテの先でわたしの眉間を軽くつつく真似をした。
「え? そう」
あわてて額に手を当てる。
「……なんて、ね。
そんな顔してたらモデルにならないからとっくに言ってたよ。
でも疲れたでしょう?
ずっと同じ顔して動かないでいるのも結構大変なんだよね。
今日はここまでって言ってあげたいんだけど、期日が少しきついんだ。
ごめんね」
そういって傍らの籠を手にすると中から林檎を取り出してわたしに差し出してくれる。
「イリャさんのところのじゃないけど、食べる? 」
「ん、やめとく。
丸かじりするとまたリヒャルト卿に怒られるから」
「この間の、何か言われた? 」
わかっていたのか、フランツさんはくすりと笑う。
「うん。レディが人前で大口開けて林檎かじるなんてもってのほかだって」
「あの人らしい…… 」
「厳しいのはわたしのためだってわかってはいるんだけど。
時々息が詰まるのよね」
椅子から立ち上がるとバルコニーの手すりに両腕を預け、わたしはその先に広がる広大な庭園を眺める。
見渡す限り続く、シンメトリーに植えられ幾何学模様に刈り込まれた樹木、その先には大きな池と噴水。
周囲に広がる芝生のじゅうたんは寝転がって手足を伸ばしたらきっと気持ちいいんだろうな。
なんて思えた。
風がわたしの前髪を軽く揺らす。
「じゃ、戻って。
もう少しがんばってもらえるかな? 」
フランツさんは再びコンテを手にキャンバスに向かう。
それっきり目の前の仕事に集中してしまったみたいで、フランツさんの口は閉ざされた。
本当はもっと沢山話をしたいけど、真剣な顔をしたフランツさんに声を掛けるのはなんだか申し訳ないかな。
つられてわたしも押し黙る。
前髪を揺らした風と同じ穏やかで優しい時間が過ぎてゆく。
「申し訳ございません、姫君」
パーラーの奥から人の近づく足音がしたと思ったら従者が声を掛けてきた。
「そろそろダンスのレッスンの時間だそうですよ。
リヒャルト卿がボールルームで待っています」
フランツさんの手元を覗き込みながらトムが伝えてくれる。
「え? もうそんな時間? 」
わたしはあわてて立ち上がった。
「じゃ、フランツさん。
また、えっと、明日、ここでいいのかな? 」
とりあえず明日の予定を訊ねた。
「はい、お疲れ様でした。プリンセス・アデリーヌ」
従者の前だからかな?
さっきより少し硬い物言いでフランツさんは言う。
その物言いが、また少しフランツさんを遠い存在に思わせた。
「……はい、そこでターン」
リヒャルト卿の声にあわせ、わたしは言われるままに身体をまわす。
「! 」
とたんにバランスを崩して地面がぐらつく。
身体をぶつけることを覚悟して目をぎゅっとつぶるけど不思議とそれ以上身体が落ちることはなかった。
恐る恐る目を開けると卿の手がわたしの二の腕を掴み支えている。
広いボールルームに響いていたヴァイオリンの音色が止まった。
その背後でお抱えのヴァイオリニストが必死に笑いをこらえているのが目に入る。
「大丈夫ですか? 」
そのままわたしを引っ張りあげながらリヒャルト卿は訊いてくる。
体制を立て直して私は頷いた。
「……どうしてそこで逆ターンするんですか? 」
呆れた口調でつぶやかれた。
「だって何にも言ってくれないから」
小さな声で抗議する。
「普通は…… あなたの場合何故すべて左右逆なんですか?
足も手も…… 」
リヒャルト卿は少いらだったように言う。
「……他の事はそつなくこなして、運動神経も悪くはないのにどうしてダンスだけは覚えが悪いんでしょうね」
わたしのもの覚えの悪さに困惑してか、眉間に皺が寄っている。
「そんなの知らないわよ。
だいたいターンなんて回りにくくて……
ダンスのステップってどうしてわざと踊りにくいようにできてるのよ? 」
すでにここ何日かで繰り返される言葉に嫌気が差し、わたしは拗ねてみせた。
「そんなことはないはずですが?
陛下はあんなにダンスがお得意なのに…… 」
国王様を引き合いに出されたって困る。
育った環境が違うんだから、上流階級のフォーマルなダンスのステップなんて、ここにきて初めて知った。
お祭りの時にみんなで踊るダンスだって苦手なんだから、言われて簡単にできるはずない。
「だから?
だったら、やっぱり国王陛下はわたしと血がつながっていないんじゃないの」
リヒャルト卿の言葉に腹が立つ。
そもそも、わたしが国王様の孫だって勝手に決めつけて強引に連れてきたのはそっちのはずなのに、どうして今更血の繋がりを疑うようなこと言うんだろ?
「いいえ! それは絶対にありえませんよ。
こちらにいらしてください」
リヒャルト卿はわたしの腕を掴むとボールルームを出る。
舞踏室に真っ直ぐ続いている大きなギャラリーの一角で足を止め、壁に掛かった肖像画を見上げた。
広いデコルテに大きなレースの付いた時代掛かったドレスを纏う若い女性が穏やかな笑みを浮かべて描かれている。
「国王陛下のお母君、あなたの曾祖母に当たるお方のここへお輿入れになる直前の肖像ですよ。
あなたにそっくりだとは思いませんか? 」
その言葉にわたしは思いっきり顔を横に振る。
肖像画の夫人はさすがに前国王様のお妃様だけあってか華奢だけど威厳があり、誰もの目を引き付けるほど華やか。
それに目元とか口元とかはっきりしたすっごい美人。
どう見たって平凡顔のわたしとはかけ離れている。
「どこがそっくりだって言うのよ。
わたしこんなに美人じゃないわよ。
それとも嫌味? 」
わたしは卿の顔を睨み付けた。
「肖像画は普通美化して描くものです。
描かれているモデルの美意識が強ければ尚更……
この方の場合、……そうですね、六割ほど差っぴいて見て下さい」
「六割って……
もう、そうなったら別人じゃないの」
無茶苦茶なことをいう。
あまりの鯖の読みすぎで、すでに想像すら付かない。
「そうですか? 」
造作もないように言って卿はわたしの顔を見た。
「そっくりだと思いますよ」
リヒャルト卿の頭の構造がどうなっているのかわからない。
こういう環境で産まれた頃から育っていると、こんな芸当くらい簡単にできてしまうものなのかな?
「せめて髪や瞳の色だけでも似てればそういえないこともないんだろうけどね」
肖像画を見上げながら呟く。
鮮やかな栗色の髪と緑の瞳の取り合わせがが印象的。対してわたしは青い目に白みがかった金の髪。
それだけで雰囲気が全く違う。
「あなたの髪と瞳の色はグレース夫人譲りということですからね。
特にそのコーンフラワーブルーの瞳は陛下が格別に愛したものです…… 」
何かいわくでもあるのか、リヒャルト卿は遠くへ視線を泳がせた。
「さて、休憩は終わりにしましょう。
今日は先ほどのステップまではどうしても覚えていただきますよ」
リヒャルト卿はわたしに向き直ると気持ち悪いほど上質な笑顔をわたしに向けた。
「……お手柔らかにお願いします」
本当は逃げ出したいところだけど、この顔のリヒャルト卿相手にそれは無駄だろうと察し、わたしは上目遣いに卿の顔を見上げると、小さく言った。