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広いホール、白い壁に金のストゥッコ装飾、細かい細工の彫られた額縁に取り囲まれた大きな絵。高い天井から下がるシャンデリアがきらめく……
生まれて初めて足を踏み入れた王宮は、まるで別世界だった。
まるで別世界に迷い込んでしまって、わたしの体が委縮するには充分だったけど、それだけじゃすまない。
「お帰りなさいませ、リヒャルト卿」
あけ放たれたドアの両側に揃いのお仕着せを来た男女が並んで一斉に頭を下げた。
「な、なに? 」
家に帰ってきた時に出迎えるのは誰だって当たり前なんだろうけど、この光景は一体何?
いくら何でも仰々しすぎる。
仕事の手をわざわざ止めて玄関に並ぶ必要なんかないんじゃない。
もしかしてこのリヒャルト卿って呼ばれたおじさんに火急の用事があって、帰りを待っていたにしたって数が多すぎるでしょう。
などと惚けながら考えていると用事は済んだとばかりにそれぞれに散ってゆく。
……やっぱりただの出迎えだったんだ。
いかにも早くやりかけの仕事に戻りたいとでもいうように、みんな早足であっという間に姿が消えた。
あとには指示待ちのように二人のメイドらしい女性が残る。
ふわぁ、ほんとに出迎えのためだけに時間を割くんだ。
正直あきれるやら、感心するやら。
「そのお嬢様がプリンセス・アデリーヌでいらっしゃいますか? 」
残ったかなり年かさの女性がわたしを目にリヒャルト卿に訊いている。
「ああ、そうだ。
なかなか骨の折れるご令嬢のようだがよろしく頼む」
なんか聞き捨てならない言葉が混じる返事をして卿の視線もこちらを向く。
「お任せくださいませ」
女性は軽く頭を下げると今度はわたしにまっすぐに向き直った。
「まぁまぁ、陛下のご母堂に面差しがよく似ていらして…… 」
懐かしそうに眼を細める。
そういえばさっき、卿もそう言ってた。
すでに完全に老人の現国王様のお母さまなんてわたしはまるっきり顔すら知らないけど。
……そもそも国王様の顔だって正直曖昧。
新年、記念日にお城のバルコニーから手を振る姿を拝めるだけでもありがたい一般庶民からすると、遠目でしか見たことのない顔なんて詳細まで知ってるわけがない。
もし普通の服装して町中にいたら絶対わからないと思う。
「お部屋にご案内して、それから着替えを……
整った頃迎えに行きます」」
そんなわたしの思考をよそに卿は女性に支持を出すとわたしから背を向けた。
「かしこまりました。
さぁ、こちらへどうぞ。
ご案内します、プリンセス」
男性の背中を見送った後、女性はわたしに声をかけると先に立って歩きだした。
「あの…… ですね。
その、着替えなくてもいいんですけど。
それより、国王様にお会いするんじゃないんですか? 」
広い廊下をとおり階段を上った先にある、だだっ広い部い二間続きの部屋に案内され、着替えを促されてわたしは戸惑いながら声をあげる。
顔を見て言いたいことだけ言ったら帰るつもりだから、着替えなんて必要ないんだけど。
だから、このまままっすぐ国王様の居室なり謁見の間なりに案内して欲しかった。
てっきりそうなると思ったのに、いきなり着替えを要求されたのには驚く。
「何を仰っておりますの?
まさかそのみすぼらしい格好で陛下にお目見えするつもりですか? 」
少し非難のこもった女性の言葉。
まぁ、急につれてこられることになってしまったんだから、いつもの着慣れたディ・ドレスどころか農園用の作業着には相違ないけど。
それも林檎摘みの作業の後だったから、多少埃っぽい自覚はある。
に、しても「みすぼらしい」はあんまりよね。
これでも一応街に暮らすみんなと比較しても人並みな服装のはずなんだけど。
きちんと破れやほころびは繕って、洗濯だって毎回きちんとしてる。
作業後の汚れはお疲れ様の勲章みたいなものだもの。
そりゃこの豪華な建物の中じゃ似つかわしくないのはわかる。
こんなことになるのがわかっていたら、お祭り用の一張羅か礼拝用の余所行きでも着てきたんだけど。
いまさら遅いし。
わたしはため息を付く。
「に、しても……
何ですか? このウエストは! 」
強引に着せ付けたコルセットの紐を引き締めながら女性はうなる。
「ぐ…… 」
そのあまりの力の強さに一瞬わたしの呼吸は止まった。
「まるで野放しもいいところじゃないですか! 」
なんと言われても返事のできる状態ではない。
野放しって、そんなの要求されたって無理に決まっている。
貴族のお嬢さまみたいに毎日座って毎日刺繍や読書だけしていればいいわけじゃないんだから。
こっちには家事も農園のお手伝いもあるの。
こんなにぎゅうぎゅう絞められたら動くことなんてできないじゃない。
言ったところでどうなるものでもないから黙ってはおくけど。
「ちょっと、まって…… きつい! 」
それにしたってこんなに力いっぱいコルセットの紐引き締められたら、ほんともう息なんてできないんですけど。
「いいから動かないでくださいまし」
「息ができないんだから仕方ないじゃない」
「もう少しだけ、我慢していただけますか?
紐を結んでしまえば少しは楽になりますよっ」
女性の手にはわたしの意思とは反対にまた一段と力がこもった。
「さしあたり、こんなところでしょうか。
何とか着られてようございましたわ」
しばらくして、大きな姿見に映ったわたしの姿を肩越しに見ながら女性は額に浮かんだ汗をぬぐう。
女性がこれでもかって程わたしのウエストを絞めた理由が何となくわかった。
貴族のご令嬢サイズのドレスは全くわたしの体に合わないってこと。
そのうえ、レースをあしらった淡い色のドレスは少し日に焼けたわたしの肌色にはそぐわない。
いかにも「借り物! 」って感じがありありとしていた。
「その、変じゃない? 」
鏡を前にわたしは首をかしげる。
「だから、着替えはご遠慮し…… 」
ウエストを締め過ぎられたせいで、息が苦しく肩で息をしながらつぶやくわたしの言葉が終わらないうちにドアがノックされた。
「着替えは済みましたか? 」
女性がドアを開けるとわたしを迎えに来た男性が部屋に入ってくる。
「いかがですか?
お嬢様は思ったよりお小さかったので用意していたドレスではあちこち余りましたけど。
すぐにでも、ドレスをあつらえませんと…… 」
少し困惑したように女性は眉根を寄せた。
「とりあえずは充分ですよ。
ご苦労様でした」
女性をねぎらうと卿はわたしに向き直る。
「では、参りましょうかプリンセス・アデリーヌ。
陛下がお待ちです」
リヒャルト卿は貴婦人をエスコートするときのようにごく自然にわたしに手を差し出す。
「あ、はいっ! 」
こうなったら似合うも似合わないも関係ない。
とりあえず国王様に顔を見せさえすれば帰れる訳だから。
そう腹をくくってわたしは卿に歩み寄る。
クリノリンっていうの?
初めて付けた最近流行りの巨大な籤を輪にして縫い付けたペチコートは軽くて楽だけど、足を出すたびにふわふわ揺れる。
「ドレスをそんなに揺らして歩かないでください」
卿は唸るように言って眉間に皺を寄せた。
よくわかんないけど、マナー違反ってことだよね。
もう少し上品に、あえて言うなら滑るように歩けって。
とは言ったって、どうやったらいいんだか。
「……なこといわれたって、こんなに大きく膨らんだスカート、揺らさないでどうやって歩けっていうのよぉ。
いつも使っているパニエならともかく、こんなの着たの初めてだもの」
自然とわたしの口からこぼれる言葉。
「……言い訳ですか。
どうやらあなたには、徹底したマナー教育が必要なようですね」
卿は難しい表情を浮かべると、ポツリと呟いた。
「いいですか?
ここだけの話、陛下はだいぶ弱っています。
本当は面会ももう少し体調のよい日を選びたいところですが、陛下ご自身がひと目でもお会いしたいと切望なさっての面会です。
くれぐれも陛下を刺激なさらないでください」
天井の高い広い廊下を歩きながらリヒャルト卿は説明する。
ところどころに豪華な壺とか彫刻なんかが置かれて、まるで美術館みたい。
こんな状況で連れてこられたんじゃなければ、物珍しい光景に興奮してたと思う。
だけど、卿の言葉はまるで国王様に面会したら開口一番わたしが言おうとしていることを察して釘をさしているようだ。
ってことは、わたしに何にも言うなってことで。
その言葉で今身を置いたこの豪華な空間への興味が一気に消えてゆく。
なかなか気の重いことになりそうな予感がした。
そうこうしているうちに卿はあるドアの前で足を止めた。
敬語の人だと思われるドアの両側に立つ若い男性二人が軽く頭を下げた後ドアを軽くノックする。
「陛下、お待ちかねのリヒャルト卿がおいでになりました」
返事のようにドアが開かれる。
採光の関係か方角の関係で少し薄暗かった廊下とは反対に明るい光がいっせいにこぼれて視界を白く占める。
壁の三方に造られた窓から、これ以上ないほどの光が注ぎ込んでいる、寝室には不向きと思われるような部屋だった。
薬草のにおいが流れ出してきて鼻を突く。
卿の言葉通り体調が悪いのは本当みたい。
ぼんやりとその豪華な造りの部屋の中を眺めていると、部屋の中にいた初老の人物がベッドの脇に歩み寄り、そっと誰かを抱き起す。
「陛下、アデリーヌ様をお連れいたしました」
リヒャルト卿がベッドの脇まで歩み寄るとそっと告げている。
「アデリーヌ? 」
ベッドの上に起き上がった、白いひげ老人が呟いて視線を泳がせた。
「そなたが、アデリーヌか? 」
わたしと目が合うと、まるで見定めるように老人は訊いてきた。
「本当にグレースの娘の子か? グレースに似たところはないではないか」
少しがっかりしたように視線を落とすとつぶやいた。
「ですが、面差しは王太后殿下によく似ておりますよ」
取りなすように卿が言う。
「ああ、そうだな…… 母上に似ているような気もしないでもないか。
……近う」
小さく呟いて、わたしを手招きした。
「どうぞ、こちらへ。
陛下がお呼びですよ」
卿が自分の立つ場所を譲るように一足下がりながらわたしを促した。
「え? あ…… はいっ! 」
室内の様子をぼんやりと眺めていたわたしは、声を掛けられ慌てて前を向き、言われるままにベッドの脇に歩み寄った。
「確かに、この髪の色はグレースそのものだな。
瞳の色も瓜二つだ」
老人はわたしの顔を覗き込む確認するかのように言と手を伸ばしわたしの手に触れる。
もともと浅い呼吸が激しくなる。
見かねた初老の男が慌てて、老人に手を貸して横にさせる。
老人の手にこめられた力の弱々しさに何も言えなくなりながらわたしはその様子をぼんやりとみつめる。
「よく戻ってきてくれた、シフォン…… わたしの小さな宝物…… 」
老人は更に小さく呟くと、目を閉じ枕に頭をうずめてしまう。
その姿は、一国を担う国王の姿には到底見えなかった。
ただただ普通の病みやつれた老人だ。
「陛下はかなりお疲れのご様子です。本日はこのくらいにしておきましょう。
またお時間をとりますから」
リヒャルト卿はベッドを離れるようにわたしを促した。
病人を刺激しないようにできるだけ足音を忍ばせ、卿に続いて部屋を出ようとしたわたしは足を止める。
部屋の片側の壁、ベッドに枕を預けていても目に入るような位置にこの国で広く信仰されている花の女神を描いた一枚の絵がかけられていた。
見るからに人目を惹く女神らしい神々しい絵なんだけど、なぜか妙な違和感がある。
一般的に花の女神の髪はおつきの野ウサギを従え淡い青紫、瞳は赤紫。
だけど、この絵の女神はくすんだ金の髪に紫がかった青い瞳をして、うさぎの代わりに小型犬を侍られている。
それに、この面差し……
「いかがなさいました? 」
立ち止まってしまったわたしに、リヒャルト卿が振り返る。
「ううん、なんでも」
わたしは慌てて卿の後を追った。
「128、129…… 」
その晩、わたしは明かりに照らし出された、天井に描かれた天使の数をぼんやりと数えていた。
ベッドの置かれた奥の部屋の天井には贅沢にも特殊な塗料が使ってあるのか、部屋にともされた明かりに天使の姿だけが浮かび上がって見える。
まるで眠っている間、天使に護られているようだ。
もし眠ったまま息を引き取っても間違えなく天国まで連れて行ってもらえそう。
ほの白く浮かび上がる天使の姿はそんなことを思わせる。
国王様に顔を見せたら事情を話して、わたしにその気がないことも話してその日のうちに帰してもらうつもりだったのに……
あの弱りきった姿を見たら、リヒャルト卿の言うように刺激を与える一言は厳禁だって思えた。
帰るって言いだせなくなって、、わたしは一晩ベッドを借りることにした。
「……みんなどうしているかな? 」
天使の絵を見つけながらわたしはつぶやく。
用意してもらっただだっ広い部屋に一人で放り込まれ、何もすることがなくて早々にベッドにもぐりこんだけど、慣れないベッドのせいか、慣れない人たちと交流したせいか、はたまたお腹が空いているせいか全く寝付ける気がしない。
こんなことなら無理してでも出された食事食べておくんだった。
これでもかって程コルセットを締め付けられ、おまけにテーブルを挟んで一緒に食事したのがあのリヒャルト卿だったこともあって、豪華な食事だったのにほとんど喉を通らなかった。
だいたい、余計なことを一言も言わせないようなあの居たたまれない空気は何?
家なら今頃夜業を終えたおじいちゃんと一緒に夕餉の時間だ。
今夜はたぶん、おばあちゃんの得意料理のあったかい魚のパイに、デザートは冷たくした林檎のコンポートクリーム添えのはずだった。
豪華とはいいがたいありきたりな食卓だけど……
農園のお手伝いに来てくれているみんなと一緒に、ワイワイ今日あったことを話して笑いあって。
お酒が進んで機嫌がよくなった誰かが歌を始めてそれに乗せてダンスが始まる。
一日で最高に楽しい時間のはずなのに……
大好物の魚のパイがフイになっただけじゃなくて、楽しいはずの時間まで奪われるなんて……
それが一番悔しくてわたしは唇をかみしめるとぎゅっと目をつぶる。
何度か寝返りを打ち、妙な思考というか夢を伴った浅い眠りと覚醒を繰り返し、気が付くと窓の外にかすかに小鳥のさえずりが響き、部屋の空気が白み始める。
その頃になってわたしは頭から毛布をかぶりなおし、ようやく眠りに付いた。
「……デリーヌ。アデル」
……誰かがわたしを呼んでいる。
「ん、おばあちゃん。もすこし…… 」
もぞもぞといってわたしは瞼を通してでもわかるまぶしい光をさえぎろうと毛布を引っ張りあげる。
ん、なんだかいつもの毛布よりやわらかいような……
「お起きになってください、プリンセス・アデリーヌ」
あれ? この声おばあちゃんのじゃない男の人だ。
だけどおじいちゃんのでもなくて、誰なんだろう?
えっと……
まだ回らない頭で考える。
おじいちゃんでもなくて農園で働いてくれている人でもなくて。
えっと、まだなじみの薄い、昨日初めて耳にした声。
あれは、確か!
そこまで来て、わたしは一気に覚醒し飛び起きた。
ベッドの脇に、見慣れない年嵩の男性がが立ってあきれたまなざしをわたしに向けていた。
確か昨日のリヒャルト卿とかいった。
「いゃぁああああああああああああ」
寝乱れたネグリジェ姿のままの自分を思い出し、わたしの頭に一気に血が上る。
あわてて毛布を引き上げながらわたしは悲鳴を上げていた。
……なんで? どうして?
何で親しくもない男性がわたしの寝室に?
非常識すぎて、信じられないっ。
「あなたがいくら起こしても起きないからですよ」
リヒャルト卿はは全く表情を変えずに言う。
「もしやお体の具合でも悪いのではと、メイドが心配してわたしのところに相談に来たのです。
しかし……
神経が太いというか、初めての場所でよくあれだけ熟睡できたものです。
あきれて物が言えません」
言葉通り完全にあきれているとみえ男は大きなため息をもらした。
初めの場所。
そういえばわたし昨日結局帰るって言えなくなってこの部屋のベッドを借りたんだ。
結局、寝付けなくて、眠りに入ったのは明け方窓の外が白み始めた頃だった。
だから起きられなかった訳なだけど……
言ったところで言い訳にしか聞こえないよね。
「ごめんなさい」
だから、とりあえず謝っておく。
「いいから起きて身支度をお願いします。
普段農園で働いている者はもう少し早起きだと聞いていたのですが」
嫌味のように言いながらリヒャルト卿は部屋を出て行った。
そりゃ、そうなんだけど。
起きられなかったことは仕方がない。
ドアが閉まり男性の目がなくなったところでわたしはベッドを降りる。
「おはようございます。プリンセス」
チェストの上に据えられたピッチャーを見つけて、顔を洗っていると昨日着替えを手伝ってくれたメイドらしい女性が部屋に入ってくる。
「ゆっくりお休みになれたようで何よりです」
「ごめんなさい。
驚かせたみたいで」
着替えを手伝ってもらいながら軽く頭を下げた。
多分、この人だよね。
わたしが起きないって心配して、リヒャルト卿に相談に行ったの。
「いいえ、慣れない場所でお疲れになったんですよね。
申し訳ございません。
わたくし大騒ぎしてしまって」
手早くコルセットを締め、ドレスを着せ付けてくれながら謝ってくれる。
「ううん、起きられなかった私が悪いんだから、謝らないで。
ね? それより今日は国王様に会えるのかな?
わたし、家に帰れる? 」
昨日と同じサイズの合わないドレスに強引にウエストをねじ込まれながら訊いてみる。
「わたくしには解りかねます。
そういうことはリヒャルト卿にお訊きになっていただけますか? 」
明らかに視線を反らせてそう言われた。
「家に、帰る? 」
朝日の差し込む小さな部屋で、朝食のスープを口に運ぶわたしにリヒャルト卿が訊き返してきた。
「そうよ。
今、林檎の収穫の真っ最中だもの。
人手がいるの。
一時間でも早く帰っておじいちゃん手伝わなくっちゃ」
「無理ですね」
リヒャルト卿はあっさりと返してきた。
「どうして?
国王様に顔を見せたら返してもらえるんでしょ?
今日にでもお話する時間をとってもらうって訳にはいかない? 」
「昨日言いましたが、陛下は今のところあまり容態がよろしくありません。
数日は安静にして様子を見ませんと。
それでなくてもグレース様とシフォンお嬢様がすでに世を去っていたとお知りになりショックを受けていらっしゃいます。
この上更に興奮やら気落ちされるようなことが続いてはますます体調が悪化されます。
しばらくはご辛抱ください」
「じゃ、いつ会えるの? 」
スプーンを銜えたままわたしはうめく。
「何ですか? その行儀は」
卿がわたしをにらみつけた。
「昨日も思いましたが、あなたには初歩からの徹底したマナー教育が必要なようですね」
「え?
だからわたしは帰るの、おじいちゃんのところへ。
マナー教育なんていらないの」
どうしてそうなるんだろ?
帰るって、最初から言っているのに。
この男はわたしの話なんて何にも聞いちゃいないらしい。
一方的にじぶんの都合で勝手に決めつけて押し付けてくる。
「マナーの教師は早急に手配することにして。
とりあえず本日はクチュリエールを呼んでいますので、ドレスをあつらえてくださいね」
「クチュリエールですか? 」
なんだか、慣れない言葉にため息が漏れる。
普段着や下着なんか日常的に扱うものをあつらえる仕立て屋さんの存在はしってるけど、そんなの高嶺の花。
お祭りのドレスとかお嫁入りの荷物とか特別の時でなくちゃ使わないのが、わたしの周囲での常だ。
小物は自分で作るし、デイドレスは古着なんてのも当たり前。
そうやって地道に暮らしている。
そのクチュリエールを使うだけじゃなくて、呼びつけるなんてどういう金銭感覚なんだろう。
「そんなのいらないわ。
無駄になるだけだもの」
「お言葉ですが、一国の姫君にサイズの合わないドレスをいつまでの着ていただいている訳にはいきませんので」
……やっぱり、この人わたしの言っていることなんか完全に聞いちゃいない。
わたしにしてみたら高価なドレスなんてあつらえてもらってもこの先着る機会なんかないんだけど、リヒャルト卿にしたらわたしがこの先ここにいることが再前提になっている。
「ね?
わたしの話聞いてる?
わたし、帰らなくちゃいけないの。リンゴ園。
いつまでって言ってくださらないのなら、今日にでも帰ります」
少し語気を強めて言って乱暴に席を立つ。
「承知しかねます。
あなたにはこれからこの国の王女殿下としての勤めがありますから、林檎農園へお返しするわけには行きません」
だけど、この程度の脅しじゃ効かないみたいで、卿は涼しい顔で一人食事を続けている。
「どうしてそうなるのよ?
それじゃ、わたしの意志はどうなるの? 」
「その件に関しては通らないと諦らめてください」
すでに決まったこととでもいうようだ。
「な……
おじいちゃんがそんなの承知する訳ないじゃない」
だって、おじいちゃんの孫はわたしだけで、リンゴ園を継ぐのはわたしだってずっとずっと言ってくれていた。
「あなたの保護者であるイリャ氏でしたら、同意済みです。
お帰りになるのはかまいませんが、きっと家には入れてもらえないと思いますよ」
冷たい言葉がわたしの耳に突き刺さった。
「同意ってそんな訳ない! 」
例えわたしの身柄と引き換えに金銭をって提示したって、あのおじいちゃんが承諾する訳ない。
小さな頃から知っているおじいちゃんはそういうことが大っ嫌いな頑固者だ。
「このお話はもうやめにしましょう。
さぁ、今日から忙しくなりますよ。
あなたにはマナーに語学帝王学等、王女殿下にふさわしい教養を身につけていただきます。
幸い学校での成績は上の中。
そこそこの頭脳をお持ちのようで助かります。
マナー等、少々一からのものもあるようですが。
お付き合いなさっている特別な関係の男性もいらっしゃらないようですし」
食事を終え、口元をぬぐうと、リヒャルト卿は言う。
「って、調べたの? 」
学校の成績とか、交友関係とか。
「当たり前です。
当王家へお迎えするお嬢様ですからね、下調べはどんなにしても充分とは言えませんからから」
卿は立ち上がるとわたしに向き直った。
「じゃ、最初から?
わたしこのお城に引き取られるために連れてこられたってこと? 」
「そうですよ。
すでに保護者の同意等、手続きはすべて済んでいます。
申し遅れました。
わたしは王女殿下の生活全般の管理を仰せつかりました。
フレドリクソン・リヒャルトと申します。
よろしくお願いします、プリンセス。アデリーヌ」
卿はわたしの手を取るとその甲に軽く唇を押し当てる。
「それから、お部屋にいたメイド二人が姫君付きのレディメイドを勤めます、デイジーとローザです。
こまごましたことは彼女たちに申し付けてください」
「レディメイドだなんて、わたしどこかの公爵様の奥方じゃありません。
自分のことくらい自分でできますから」
普通レディメイドが付くのは貴族の奥方と相場が決まっている。
いくら貴族でも未婚の娘に専属のレディメイドが付くわけがないことくらいわたしも知っている。
「あなたは公爵令嬢どころか公爵夫人でもありませんよ。
この国の王女殿下です。
王妃様も王太后殿下もいない今、この城でトップに立つ女性はあなたです」
射る様な瞳でわたしを見据えリヒャルト卿は言い聞かせるように言う。
「あと、この従者も姫君つきになります」
さっきからダイニングの中を行き来してお仕着せを着て給仕をしてくれている整った容姿の若い男を振り返る。
「給仕や、メイドにできない仕事などは彼に。
では、わたしはこれで。
家庭教師の手配を早急にしなければいけませんので」
時間がないというようにリヒャルト卿は足早にダイニングを出て行った。
その後姿が消えたことを確認してわたしは息を付く。
本人の承諾なしに、一方的に何もかも決めつけて、押し付けられて、押し切られてしまった。
もう、どうしていいかわからない。
「お茶のお代わりはいかがですか? 王女様」
先ほどまで無言で給仕をしてくれていた従者がわたしに声をかけてきた。
「ありがとう、えっとなんて呼べばいい? 」
とりあえず名前を訊いておかないと、なんて呼べばいいんだかわからない。
「トーマスです。トムって呼ばれています」
従者はにっこりと微笑む。
その笑顔がとてもかわいらしくてわたしの気分が少しほぐれる。
「よろしくね、トム」
微笑み返してわたしは出されたお茶を飲み干すと席を立つ。
「えっと、わたしはお部屋に戻ればいいのかな? 」
だだっ広いダイニングに一人残されたことに初めて気が付き、わたしは少し戸惑う。
確かクチュリエールが来るとかって言ってたけど、この広いお城のどこで応対すればいいのかとか、全然わからない。
「多分パーラーのほうだと思いますよ。
場所お分かりですか? 寝室の下の階のお部屋が姫様専用のパーラーになります。
そろそろクチュリエールが来ている頃ですから、行ってください」
トムが言ってくれた。
ダイニングを出るとパーラーにと廊下を急ぐ。
ドレスを作ってもらう意思がない以上お断りするのなら待たせたら申し訳ない。
寝室の下の階ってこの小さなダイニングがある階と同じ。
無駄に広いのもどうかって思う。
大体お部屋なんて寝室と家族で使うリビングダイニングだけでたくさんのはずなのに。
建物の中は無駄に広いだけじゃなくて静まり返っていた。
お掃除や身の回りのお世話をする使用人がいてもいいはずなんだけど、人の気配が全くない。
そのことでわたしは現実ではない空間に迷い込んでしまったような奇妙な感覚を抱いた。
ふいに言いしれない不安がよぎる。
こんなところに迷い込んだから訳のわからない分不相応なことを突き付けられているんじゃないかって。
ここから出たら、家に帰れる。
今までと同じ生活に戻れるんじゃないかって。
この、やけに豪華な建物の出口はどこなんだろう?
足を止め周囲を見渡す。
廊下の先に階段らしい手すりが見えた。
多分あそこ。
あの階段、昨日登った覚えがある。
だったら、あの側にエントランスのホールがあるはず。
わたしはその方向に引き寄せられるかのように足を進めた。
「え、っと…… 」
たどり着いた階段を下りた先で足を止めわたしは戸惑った。
確かに昨日はこの先に吹き抜けのエントランスホールがあったはずなんだけどな。
降りた先には手入れの行き届いた庭に面した通路が続いているだけだった。
窓を開ければ確かに庭には出られるんだけど。
どうしよう、昨日馬車で入ってきた時に見た光景とは全く違って、どこをどう歩けばこの敷地から出られるのかわからない。
目の前に広がる庭園は今いる建物の中よりもっと広大で、思わずめまいがした。
「どうしたの、大丈夫? 」
思わずふらつくと、誰かがわたしの体を支えて、そっと声をかけてくれた。
「え、ああ、大丈夫、です。
ありがとう」
気を取り直して顔を上げると、どこかで会ったことのあるような男性が心配そうにわたしの顔を覗き込んでいた。
「アデルちゃん? 」
不意に柔らかな声で名前を呼ばれる。
その声も、やっぱりどこかで聞いたことがあるような。
「はい? そうですけど」
名前を呼ばれ反射的に返事をしながら、わたしはこの人が誰なのかを考えた。
砂色の柔らかな髪、若草色の瞳。笑った顔がとても優しくて……
以前林檎園を手伝ってくれていた若い男、わたしが「おにいちゃん」と呼んでいた人に面影が似ているような気がする。
「あの…… もしかして…… フランツさん?
間違っていたらごめんなさい。
わたしの知っている人によく似ていたものだから」
それこそ顔形だけじゃなくて声までそっくりだった。
「間違いじゃないよ。
正解。
久しぶりだね、アデルちゃん。
きれいになったね」
男性は声と同じ柔らかな表情で微笑んでくれる。
この笑顔間違えない。
「フランツさん、どうしてここに?
いつかおばあちゃんがフランツさんは絵の勉強に海外留学に行ったまま帰ってこないって言ってたんだけど? 」
わたしは首をかしげる。
「行ったよ。
で、帰国してからはここでお世話になっている」
「そう、なんだ。
ここで何をしてるの?
お仕着せを着てないから…… まさか職人さん? 」
お城の中の仕事なんてよくわからないけど、従者さんとかお掃除掛かりとかみんな揃いのふくそうなんだけど、目の前のフランツさんは違っている。
「残念、近いけど、不正解。
今は国王陛下のお抱え絵師。
陛下の肖像画を描いたり、収蔵品の修復や絵画コレクションの買い付けをしてるんだ」
「そっか、フランツさん。収穫の時期にうちのリンゴ園手伝ってくれていた時から画家さん目指していたんだものね。
夢が叶ったんだ。それもこの年齢でもう宮廷画家なんてすごい出世……
おめでとう! 」
「ま、ね」
フランツさんは照れくさそうに笑う。
「あ、じゃ、もしかして? 」
わたしはふいに思いつきフランツさんの顔を覗き込んだ。
「もしかして、何? 」
「陛下の肖像画を描くってことは陛下のお顔見る時もあるんでしょ? 」
「そりゃ、それが仕事だし。
それがどうかした? 」
「お願いがあるの、フランツさん! 」
媚びるつもりで少しだけ首をかしげる。
「何? 私にできることなら…… 」
「あのね、陛下に合わせてほしいの」
わたしは勢いで言った。
「陛下に? 」
フランツさんは眉根を寄せてあからさまに顔色を曇らせた。
ん~、やっぱり簡単にはいかないか。
リヒャルト卿はだめでもフランツさんならわたしのお願い少しなら聞いてくれるかなって、期待したんだけど。
「お願い。
あのリヒャルト卿じゃらちがあかなくて。
わたし、帰りたいの! リンゴ園に」
とりあえずもう一度お願いしてみる。
「それは…… 」
フランツさんは口ごもる。
明らかに困っているのは確か。
やっぱり国王様に近くても、自分の仕事以外のことは簡単に話ができないってことなんだろうな。
「あ、いたいた。姫様」
がっかりして、肩を落として床を見つめると、さっきの従者が呼びかけながら寄ってくる。
「迷ったんですか? こんなところまで来て。
クチュリエールが待ってます。
パーラーに行きますよ。ご案内します。
フランツさん、また」
側に立つフランツさんに軽く会釈すると、トムは逃がさないとでも言いたそうに、わたしの手を取り軽く引いた。