第1章 就職活動-7 初任給
年が明けた。
ゼンタが暁商事のメンバーとなってから3ヶ月が経過している。
肩書としてはまだ大学4年生だが、週に1度程度しか大学には行っていない。
卒論もほぼ書き終えたので、大学に行くのはもうあと数回と卒業式ぐらいだろう。
それにしても、濃密な3ヶ月だった。
この3ヶ月でした事と言えば、トヴァンの現地語を教えてくれる人探しから始まり、宍戸さんについて雑務をこなす傍ら、ゼンタ自身もトヴァン王国について調べた。
そもそも大国と言うには程遠い国なので、インターネットでは出て来る情報自体も少なかった。
情報が少なく調べ始めてすぐに壁に当たったが、ゼンタの場合は大学図書館に出入り出来ると言うことが大きかった。
トヴァン王国について書かれた書籍を片っ端から読み漁り、現代アジア史を専門とする教授にも話を聞いた。
元々卒論は別なテーマを考えていたのだが、効率を考えて「トヴァン王国における経済発展と今後」と言うテーマに変えた。
今では、その現代アジア史を専門とする教授よりも、トヴァンについてはゼンタの方が詳しいほどだ。
暁商事内で言うと、火曜と金曜に行われる定例ミーティングでは、相変わらず理解出来ない内容が多い。トヴァン関連のことは理解出来るが、それ以外のアメリカや南米、ヨーロッパなどの話には殆どついていけない。
スージーが担当しているインターネット関連の話は特に、専門用語や技術的な内容が多く、他の話に輪をかけて分からない。
ただそれでも、やはり慣れて来たこともあって、少しずつ理解出来る様にはなって来ていると思う。
せいぜい1%が10%になったと言う程度ではあるが。
また、生活と言う面でも大きく変わった。
既に3度、暁商事からの給与がゼンタの口座に振り込まれている。
その額は、月におよそ85万円だ。
大学を卒業するまではインターンとしての扱いになると思っていたのだが、ある日通帳に記帳して驚いた。
慌てて楠木に確認すると、
「当然だろう。良い仕事は、良い環境と良い精神状態が無ければ出来ない。その為に金は必要だ。しばらくは金の使い方が分からないかも知れないが、自分自身に投資するべきだ。」
とのことだった。
広いフロア全体に響き渡る程の大声で「ありがとうございました!」と言い、宍戸に五月蝿いと顔を顰められた。
そしてその晩、母•梢を誘ってディナーをご馳走した。
奮発して西新宿の高級フレンチ店を予約した。
梢は嬉しそうに、
「あなたにこんな素敵なお店に連れて来て貰える日が来るなんてね。ふふ。母さん幸せだわ。」
と笑った。
思えば、これまでお金に困っていると言うことはない様に思うが、女手一つ、パートに出て稼いだお金でゼンタを育ててくれたのだ。表に出さなかっただけで辛い思いもさせて来たに違いない。
大学の学費や留学の資金も出して貰っている。
感謝してもしたりない程だが、これからは母に楽をさせてあげることが出来そうだと感じ、ゼンタの頬も緩んだ。
2人で3万円を超えるコース料理は少し前のゼンタでは考えられなかったが、梢がどの料理もとても美味しいと言って食べてくれたので、連れて来て良かったと思った。
いずれにしても、ゼンタの社会人としての生活は、まずまずのスタートを切ったと言えるだろう。
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そんなある日、定例ミーティングのあとゼンタは楠木に呼び止められた。
「ゼンタ、悪いんだけど1つお願いしたいことがあってね。」
「はい。なんでしょう?」
「ラフィ•プトゥリと言う11歳の少年がいてね、その子はトヴァンの出身なんだが、その子をゼンタの家にホームステイさせて貰えないだろうか?」
「ホームステイ…ですか。えっと…う〜ん、母に相談してみないとなんとも…。」
「あぁ、それはもちろん分かっている。ゼンタは知っていると思うが、そのラフィと言う少年はダミアン大司祭の側に仕えていたんだ。」
「ダミアン大司祭!そうなんですか!」
ダミアン大司祭と言えば、トヴァン正教のトップだ。3ヶ月に渡りトヴァンを調べて来たゼンタにとっては有名人だ。
「で、とある筋からその少年の保護を頼まれてね。少々複雑な事情があるし、ホテルを取るにしても異国で子どもを1人にさせるわけにもいかないだろう。俺をはじめ、他のメンバーはみんな独り身だ。ゼンタだけではなく、お母様も一緒に面倒を見て貰える、と言う方がその子にとっても良いと思う。もちろん、対価は支払わせて貰うよ。日に3万円をホームステイ代金として支払わせて貰う。」
「いえ!そんな。それは結構です。」
「そうはいかない。ゼンタはともかく、アカツキには関係のないお母様にもご負担を強いることになるんだ。外国人の、しかも子どもを預かるとなると文化的な相違で難しい面もあるだろう。日に3万円なんて少ないくらいさ。」
「はぁ…。ちなみに、期間はどのくらいですか?」
「彼は、来週日本にやって来る予定だ。そして、彼がトヴァンへ戻る時は我々も一緒にトヴァンへ渡る。ゼンタも知っている様にトヴァンの情勢は予想以上に早く進んでいるから、遅くても2ヶ月後、或いは1ヶ月もないかも知れない。」
「そうですか…。分かりました。とりあえず母に相談してみます。」
「宜しく頼むよ。」
そう言うと、楠木は自室に戻っていった。
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その晩、ゼンタは梢に楠木からの提案について聞いてみた。
「あら、良いじゃない。あなたに弟が出来るみたいで嬉しいわ。」
「そんなに簡単に決めちゃって良いの⁉︎」
「大丈夫よ。あら、でもその子、英語は喋れるのかしら?」
「う〜ん、それは大丈夫だと思う。トヴァン王国では英語が公用語だし、いざとなったら俺が現地語も勉強してるから。」
「そう。なら問題ないわ。ゼンタほどではないけど、母さんも日常会話くらいなら英語で出来るし。いつ来るの?」
「来週日本に着くって言ってた。」
「そう。じゃあパートにお休みのお願いをしなきゃだわ。どのくらいの期間?」
「最大2ヶ月くらいだって。もう少し短くなるかも知れないけど、いつまでになるのかは分からない。」
「そう。そんなに長いのね。じゃあ母さん、パート辞めなきゃダメかしら。」
「あ、言い忘れたけど、日当と言うか、日に3万円手当を出してくれるって。」
「あら。日に3万円なんて言ったら、月に90万円じゃない。幾らなんでもそれは多すぎるわよ。そんなに頂くのは申し訳ないわ。」
「うん、俺もそう言ったんだけど、楠木さんが払うって。」
「そう…。楠木さんがそう仰るなら断れないわね…。じゃあ、謹んでお役目を務めさせて頂きます、と伝えて。」
「あぁ。分かったよ。」
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同じ時間、暁商事内の通称“リビングルーム”では、楠木と宍戸 航が向き合っていた。
「ラフィの件ですが、ゼンタに任せて大丈夫なんですか?ボスも知っての通り、あの子の存在は今回のミッションの鍵になります。トヴァンから脱出させるのにもかなり苦労したのに、日本で殺されたりしたら目も当てられませんよ。」
「分かってるさ。そこも考えた上で、ゼンタと、ヤツの母親に任せたんだ。」
「と、言うと?」
「さて…な。これはゼンタのプライバシーの領域だから俺の口からは話せないが…、まぁ何れにしても、あの親子は護られているんだよ。少なくとも、そこらのSPよりよっぽど優秀で獰猛な連中にな。」
「…。」
宍戸は怪訝そうな顔で楠木の顔を伺う。
「まぁ…、分かりました。ボスがそう判断されたのならもう何も言いません。」
「あぁ。で、どうだ?ゼンタのヤツは。使えそうか?」
「どうでしょうね…、正直ここまでのところは、私の足を引っ張ってるだけです。」
「はは、そう言うと思ったよ。まぁ、まだ3ヶ月だからな。」
「ただまぁ、ボスがわざわざ裏で手を回してまで採用したわけですからね。相応のものはあるんでしょう。ところどころで、その片鱗を見せ始めてはいるのかも知れません。」
「ほう。それはどう言うところで?」
「一言で言うと、アイツは勘が良いですよ。それもかなり。悪いヤツらが考えそうなことに気づくまでのスピードが早い。だから今回のミッションでも、具体的な手段までは分かってなくても、黒幕がダミアンだってことは多分もう気づいてます。」
「そうか。それはなかなか頼もしいな。」
「ま、まだ分からないですけどね。私の買い被りかも知れない。」
「そうかも知れないが、僅か3ヶ月で“国防の切り札”とまで言われた宍戸 航に買い被りをさせるんだ。ヤツもなかなかのもんだよ。」
「その呼び名こそ買い被りですよ、ボス。」
「はは。まぁいいさ。何れにしても、ミッションのスタートは間もなくだ。忙しくなるぞ。」
「そうですね、ワクワクしますよ。」
「あぁ、ワクワクするな。」
楠木と宍戸は、クリスマスプレゼントを待つ子どもの様な顔で、笑い合った。