第1章 就職活動-5 初日
1-5
暁商事。午前8:00。
「OK。では、定例ミーティングを始めよう。」
社長の楠木がひとつ、手を叩く。
暁商事オフィス内の広いリビングルーム。
長方形に設置されたソファには、ゼンタを含めて7人のメンバーが座っている。
詰めて座れば20人は座れる程の広いスペースだ。それぞれが、ゆとりのあるスペースに思い思いの姿勢で陣取っている。
「と、その前に、さっきからみんな気になっていたと思うが、今日から新しいメンバーが加わる。うちとしては初めての新卒社員だ。蕪木善太君!」
「え、え〜っと。ありがとうございます。明鏡大学経済学部4年、蕪木 善太と申します。今日から皆さんのメンバーに加わらせて頂きます。宜しくお願い致します!」
パラパラと、疎らな拍手が響く。
「じゃあ、ゼンタにメンバーを紹介しておこう。左から、宍戸 航、彼は主にアジアを担当して貰ってる。」
「宍戸です。宜しくお願いします。」
「蕪木善太です!宜しくお願いします!」
「次は、マッシミリアーノ•ディ•フランチェスコ。みんなはマッシュと呼んでる。彼の担当はヨーロッパだ。」
「マッシミリアーノです。よろしく。」
「蕪木善太です!宜しくお願いします!」
「次に行く前に…、ゼンタ、君が蕪木 善太だってことは、もうみんな分かったと思うから、次からは名乗らないで良いよ。オーケー?」
「分かりました!すみません!」
ハハ、と笑いが起きる。
「では次だ。スージー•ブテリン。彼女はインターネット担当だ。」
「スージーよ。よろしく。」
昨日、面接の時に軽く手を振ってくれた美女だ。
その美しいダークグリーンの瞳に見つめられると、途端に顔が赤くなるのが分かる。
それを誤魔化すための作り笑いに力が入った。
「次は、パトリシア•カヴァー二。彼女は中南米の担当だ。」
「パトリシアです。よろしく。」
「最後は、アンディ•ドノヴァン。アメリカ担当だ。」
「アンディだ。よろしくな、ゼンタ。」
「この5人と俺とゼンタ、7名が暁商事のメンバーだ。よろしくな。」
「はい!よろしくお願いします!」
ゼンタが昨日見かけた人数よりは多いが、それでも7人、と言うのは少ない。
「さて、それではいつも通り、ミーティングを始めよう。まずはマッシュ。」
と言う楠木の声で、ゼンタは慌ててノートを広げる。
「Si。まず、前回もお伝えした英国のEU脱退ついてです。メイはやはりハード•ブレグジット路線を強め、EU側の反発が強まっている話は前回伝えた通りですが…」
「あ、マッシュ、ちょっとすまん。ゼンタ、メモを取らないでくれ。ここでの内容は全て、頭の中にメモをするんだ。」
「は、はい。すみません!」
相手が話し始めたらメモを取る、と言うことは大学の就職課で言われたことだ。
そうするのが正しい、と。
ただ、ここではそうではないらしい。
「悪いなマッシュ、続けてくれ。」
「Si。そのメイに対し、国内ではLSEとバンクオブイングランド、HSBCの発言力がかなり強まっています。特にマーク•カーニーはかなりタフに食い込んで来ていて、彼らの狙いとしては…。」
その先の話は、ゼンタには殆ど理解が出来なかった。
それぞれがおよそ3分程度、各担当するエリアについて説明するのだが、そもそも全て英語で行われている。
ゼンタは留学経験もあり、通常のコミュニケーションには不自由しないと思っていたが、それでも聞き取れないところが多かった。
言葉が聞き取れない上に、アルファベット3〜4文字の団体名らしき名前が出て来て、人名が出て来て、その殆ど全てがゼンタには分からない。
「オーケー。今日のミーティングはこれで以上かな。スージー、ワタルの話にもあった様に、トヴァンの情勢が逼迫し始めているようだ。この先しばらくはワタルと連携して、トヴァン関連のデータマイニングに注力してくれ。アンディも、トヴァンの対米貿易についてアメリカ側の進展や姿勢を調べて欲しい。トヴァンは、輸出入のかなりの部分をアメリカに依存してるからな。早ければ1年、いや半年後には何らかのミッションをトヴァンで始める事になるかも知れん。」
「「イエス、ボス。」」
「では以上だ。」
会議自体の時間は20分もなかっただろう。時計はまだ8:25だ。
だがその密度の濃さに、ゼンタは圧倒されていた。
それぞれが立ち上がり、部屋に戻っていく中で、ゼンタだけ口を開けて座ったままだ。
「はは。良いんだよゼンタ。最初から君が理解出来るなんてこっちも思ってないから。」
そんなゼンタを察した楠木から声が掛かる。
「はい…。正直、圧倒されました…。」
「まぁ、そうだろうね。それが普通の反応だと思うよ。」
「はぁ…。」
「まぁ、これから少しずつ慣れていくさ。で、ゼンタに最初のミッションを与える。」
「は、はい!」
「さっきの話の中にあった様に、トヴァン…、正確にはトヴァン王国、と言う国の動きが慌ただしい。」
「はい…。」
「半年後か1年後か、我々はトヴァンに行く事になるだろう。ゼンタ、その時は君にも同行してもらう。」
「は、はい。」
「トヴァンは、英語を公用語としているが、40代より上は現地語を話す人も多い。ゼンタは、これからの半年でそのトヴァン現地語を学んで欲しいんだ。」
「現地語…ですか…。」
「あぁ。ペラペラになれとは言わないが、最低限のコミュニケーションが取れるレベルになって欲しい。必要なら講師も付けるし、そのぶんのコストはもちろん持つ。ただ、悪いけど講師を探したりって手間はかけられないので、自分で探してくれ。」
「はい。」
「あと、これからしばらくはワタルの下でアシスタントとして付いて貰う。所謂OJTだ。」
OJTは、On the job trainingの略で、要は先輩に付いて仕事を覚えろ、と言う事だ。
本当はスージーと言うあの美人に付きたかった、と一瞬頭をよぎったが、その思いを慌てて打ち消す。
宍戸さんはゼンタと楠木を除いては唯一の日本人だ。
その意味でも、最初に付かせて貰う相手としてはありがたい。
日本語でのコミュニケーションが取れる、と言うのはやはりゼンタにとっては大きい。
「“自分で生きること”を始めるんだろ?その決意を、卒業までのこの半年で見せてくれ。」
「はい!」
ゼンタは力強く頷くと、楠木に一礼して「Shishido」と書かれたドアをノックした。
「蕪木善太です。宜しくお願い致します!」
「…それはさっき聞いたよ。とりあえず、今は手が離せない。そこに座って…あぁそうだ、その黒いノートPCは君のだ。wifiのパスワードは、入口の脇にサーバーが置いてあってそこに記載されてる。とりあえず、設定だけしてしまってくれ。」
「は、はい。」
正直ゼンタは、どちらかと言うとPC周りには詳しくない。
家では、梢がゼンタ以上に機械に弱いためになんとかwifiのセッティングを行ったが、それもかなり手間取り、3時間近く掛かった覚えがある。
説明書に書いてある通りにやっている筈なのに何度やっても出来ず、あれこれやっているうちに“急に出来た”。
なので、出来る前と出来た後で何が違ったのか、何故出来たのか分からない、まぁとにかく出来たなら良いや、と考えたのを覚えている。
その後も、たまにwifiが繋がらなくなることがあり、梢からなんとかしてと頼まれるのだが、その度にかなり気が重く感じてしまう。
今回も、出来れば宍戸に手伝って欲しかったのだが、宍戸は既にモニターへ視線を移して、ゼンタが今まで映画やテレビでしか見たことがないくらいに速いブラインドタッチで何かを入力している。
とても、手伝って下さいなんて言える雰囲気ではない。
仕方なく、黒のノートPCを持って入口に向かう。
…が、家のwifiの比ではなく、見た事も無いような黒い横長の装置が20近く重なるように置かれていて、どれがwifiのルータなのか全く分からない。
1つ1つ見てみるが、分からないものは何度見ても分からない。
仕方がないので、スマートフォンでBUFFARO〇〇…と言った機器を1つずつ調べてみた。
「…何してるの?」
暫くして、背後から声が掛かり、慌てて振り向く。
と、あの美しいスージー•ブテリンが腕を組んで立っていた。
「あ!あぁ、えっと宍戸さんからwifiのセッティングをしてこいと言われまして…。」
「wifiのセッティング⁉︎」
「えぇ…。」
「その為に、さっきから15分以上もここでスマートフォンとにらめっこしてるの…?」
「えぇ、まぁ…。」
「全く…。ほら、これがwifiのパスワードよ。で、ちょっとPCを見せてね。」
と言うと、ゼンタの膝に置かれていたPCの向きを変え、スージーが何か操作している。
ちょっと距離が近い。
スージーの髪からシャンプーの香りが漂う。きっと、朝シャンプーをして来たのだろう。
濃厚な香りがwifiに向かっていたゼンタの気を逸らす。
「ほら。ここにそのパスワードを入力して。」
スージーの如何にも業務的な声がゼンタの意識を現実に戻す。
「は!はい!」
10桁ほどのアルファベットと数字を入力すると、PCの画面右下にwifiのマークが出た。
「こんな事で15分も20分も使うなんて馬鹿げてるわ。分からないなら航に聞きなさい。」
「はい、すみません…。」
「日本の男の子はシャイなのが可愛いけど、それが職場だと周りをイライラさせるだけよ。誰かが手伝ってくれるまで何時間でも待つつもりだったの?」
「いえ、そう言うわけではないんですが…。すみません。」
「はい。これでこのPCは使えるから、航に次の指示を仰ぎなさい。多分、待ってたら彼はあなたのことなんてずぅ〜っと、放っておくでしょうから、自分から無理矢理にでも入り込んでいかなきゃダメよ。」
「は、はい!すみません、ありがとうございました!」
そう言うと、スージーは軽く手を振って自室に戻っていった。
そのパーフェクトな後ろ姿に見惚れるが、慌てて首を振る。
“これこそ、学生気分が抜けてないってヤツだな…。もっと積極的にならないと。スージー!……さん、ありがとう。”
ゼンタはPCを脇に抱え、再び宍戸の部屋のドアを開けた。