第1章 就職活動-3 判断
蕪木善太は、ベッドに横になり天井を見つめながら、先ほどまでの話を頭の中で反芻していた。
母の梢はまだ帰っていない様だ。
暁商事。
楠木社長の話は、とても分かりやすかった。
欲しいと思っている人がいるのなら高くても売れる、当たり前の話だ。
そう。楠木社長は、当たり前のことしか話していない。
だが、その当たり前のことが如何に難しいのか、ゼンタでも分かる。
小麦の話で言うと、まず需要予測そのものがとてつもなく難しい筈だ。
少なくとも天候のことなんて、直前にならなければ分かりっこない。
簡単に分かるのであれば、商品市場なんてものは存在しないか、存在しても殆ど値動きのないものになってしまうだろう。
仕入先の話にしても同じだ。
世界中に何千もある小麦を扱う企業の信用情報を得るだなんて、そんな途方も無いことが出来るのだろうか。
カダフィの件にしたって、まさに暗殺を成し遂げてからでないと、その後の政権が上手く回る可能性なんて分かりようがないのではないだろうか。
CIAやMI6の話が出た。
従業員はそう言った諜報機関の出身だと。
そんな人たちをどうやって採用するのだろう。
いや、そこはまぁ良い。なんらかのコネクションがあるのだろう。
ただ、そう言った人たちを集めたからと言って、その需要予測が出来たり仕入先の信用情報を集めたり出来るのだろうか。
見た所、従業員らしき姿は3〜4人しか見えなかった。
それでそんなとんでもない情報を集めることなど出来るのだろうか。
いや、仮に従業員が1,000人います、と言われてもこの疑問は消えないのではないかと思う。
そして何より、ゼンタにとって一番の疑問。
「なぜ、俺が…?」
ゼンタはCIAでもMI6でもない。
情報を集めると言っても何をすれば良いのかも分からない。
その扱い方も分からない。
何が分からないのかも分からない。
新卒で採用されるのだ。
分からなくて当たり前だとも思う。
だがこの“分からなさ”は尋常ではない。
分からないと言うことは、即ち恐怖だ。
楠木社長は、情報を取り扱う会社なんだから、ゼンタのことも知っている、と言った。
ゼンタが報道を希望していたことも知っていた。
だが、ゼンタの同年代で就職活動をしている人が何万人いるんだ。
全ての情報を持っているとでも言うのだろうか。
仮に全ての情報を持っていたとしたら、それこそ自分が選ばれるとは到底思えない。
玄関の鍵を開ける音がする。
開いていた鍵をまた閉めてしまった様だ。鍵がかかったドアを開けようとする音が聞こえ、さらに鍵を開ける音がしたあと、ドアが開いた。
「なんだ、アンタ帰ってたのね。」
「あぁ。」
「何よ浮かない顔して。面接、またダメだったの?」
「あ、いや、そうじゃないんだ。来るかどうかは俺が判断しろって、そう言われた。」
一瞬の沈黙。
そこで、梢は何かを察した様に、一言だけ発した。
「…そう。」
そう言うと、梢はスーパーの袋から大根やら人参を取り出し、冷蔵庫に入れ始めた。
「ちょちょ!“…そう。”ってそれだけ⁉︎採用するともなんとも言われずに、“うちに来るかどうかは君が判断して欲しい”って言われたんだよ⁉︎そんなことある?」
「ふふ。そうね、そんなこと、ないでしょうね。」
母•梢は何故か妙に嬉しそうだ。
「ないよね⁉︎俺も色々就活の話を聞いてきたけど、そんな話は聞いたことないよ!」
「ふふ。きっと、就活の話じゃないからよ。」
「就活の話じゃない?って、じゃあなんの話だよ?」
「あなたの人生の話よ。あなたが人生で何をするのか、何を成し遂げようとするのか、そう言う話よ。それを決めるのは、先方の社長さんじゃないでしょ?」
「…じゃあ、俺がそれを決めたら、雇ってくれるってことかな?」
「う〜んと…、そうね、雇ってもらう…んじゃないのよ。自分で、生きるのよ。もちろん、雇用形態としては従業員として、お給料をいただくかも知れないわ。そのお給料で、あなたは自分の生活を作っていくことになる。でも、そのことと自分で生きるってことはまた別なことなんじゃないかしら。」
「なんだか母さんまで急に難しいことを言いだしたな…。」
「そうね。ちょっと寂しくもあるけど、その日が来たのよ。」
「その日って?」
「あなたが、“自分で生きること”を始める日よ。」
「なんだよそれ…。」
「昔ね、父さんが言ってたの。あなたが、自分で生きることを始める日が来たら、使いを寄越すって。その時は、ゼンタ自身に自分の生き方を決めさせるって。母さんもまさか本当だとは思っていなかったんだけど。」
「父さんが?だってそんなの20年以上も前の話でしょ?それに“使い”って…。その使いが暁商事ってことなの?」
「アカツキ?…そう。暁商事って言うの…。素敵な…、社名ね。」
「なんか、今日の母さんはちょっと変だよ。」
「えぇ、そうかも知れないわね…。さて、晩御飯の支度しなきゃ。今日はビーフストロガノフを作るわ!」
梢はそう言うと、珍しく鼻歌を歌いながら、料理を始めた。