第2章 -10 暴漢
宍戸がトヴァンに出発してから、4日が経っていた。
つまり、楠木をはじめとする残りのメンバーがトヴァンへ渡るまで1週間を切っている。
この4日間は、ゼンタも石場も、極力ラフィの側にいるようにとの楠木の指示で、ゼンタが出社するのは定例ミーティングのみ、石場はそこにも参加せず、ずっとラフィに付いている。
トレーニングは、ゼンタの家の近くの公園で早朝に行っているのだが、驚くべき事に、スージーとパトリシアは毎朝その公園にやって来る。恵比寿から世田谷まで、早朝にタクシーでやって来る。
聞くと、石場のレッスンなら名古屋でも大阪でも行くわ、と真顔で答えていた。
そう言わせる石場も凄いのだが、2人の格闘技への情熱には頭が下がる。
2日目からは、ラフィに会っていくとゼンタの家に寄り、シャワーを浴びて帰る様になった。
昨日と今日は、朝ご飯まで食べて帰って行った。
「わざわざ会社の方がいらして頂いているのに、そのまま返すなんて申し訳ないわよ。」
と言う梢は、大勢訪ねて来てくれる様になって嬉しそうだ。
石場は基本的に外で待機している。何度も梢に誘われてはいて、お茶くらいは飲んでいった事があるらしいがそれも数分だけで、頑なに固辞する姿勢を見て、少しずつ誘わなくなった様だ。
スージーとパトリシアの2人は、梢に対してはとてもフランクに接している。
職場での張り詰めた2人の様子とは違い、微笑ましく感じる。
ゼンタと2人の距離も当然近づいたと感じられる。
ラフィは、今のところ2人にはあまり懐いていない様子だ。
2人が帰って行くのを玄関で見送る。
「…ゼンタ、悪いけどスージーを狙うならもうちょっと男を上げないと無理よ。」
「い!いや!違うよ!そんなんじゃないし!」
「そうなの⁉︎だとしたらあなた、それはそれで問題よ?あんなに可愛くて気持ちの良い女の子、若い男子がほっといちゃダメよ。」
「いやどっちだよ!…まぁそれは…、そうかも知れないけど…。けど、なんでパトリシアじゃなくてスージーなんだよ?」
「え?あなた気づいてないの?」
「何が…?」
「何がって…パトリシアはレズビアンよ。あなたが惚れてもノーチャンスね。」
「えッ!そうなの?」
「そうなの?じゃないわよ。…まぁ、あなたもそのうち分かる様になるわ。」
ゼンタにしてみれば衝撃的な言葉だった。
レズビアンと言うのはもちろん理解はしているが、そう言う人が近くにいた事がない。
いや、いても気付かなかっただけなのだろうか。
「スージーがお嫁さんに来てくれたら母さん万々歳だわ。年齢も4〜5歳上でしょ?ちょうど良いじゃない。」
「いやいや、勝手に話を進めないでよ…。」
「ただまぁ、残念ながらスージーはあなたのこと“坊や”としか見てないわね。けどここから2〜3年、しっかり成長出来れば、男として見て貰える日が来るかも知れないわよ?」
「…まぁ、その話はもういいよ。スージーがどうとかじゃなくて、俺自身が成長しなきゃいけないのは確かだし。」
「そうね、頑張りなさい!」
そう言うと、梢はゼンタの尻をビシッと叩き、キッチンへ戻って行った。
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その日は、いつもの精神科医にラフィを連れて行く日だ。
病院は表参道にあるのだが、楠木の要請で電車には乗らず、石場の車で向かう事になっている。
助手席にゼンタ、後部座席にラフィと梢が座る。
世田谷通りから246に入る道はいつも混んでいる。
と、石場が細い道に入った。いつもであれば246を渋谷までまっすぐ進むだけなので、曲がらない筈の道だ。
一方通行、道路幅4m程の細い路地。
「やはり、来てますね…。」
「えっ?来てるって何がですか…?」
ゼンタが問いただすが、石場はその問いには答えない。
「少し運転が荒くなります。掴まっていて下さい!」
そう言うと、石場はアクセルを踏み込んだ。
急加速し、後頭部がヘッドレストに打ち付けられる。
バックミラーを確認した石場が“チッ”と舌打ちする。
ゼンタのドライビングテクニックでは考えられないスピードで細い路地を右折する。
「あぶッ!危ない!」
と言うゼンタの言葉とは裏腹に、車は綺麗に右へと進路を変える。
振り向くと、同じかそれ以上のスピードで後ろから車が迫ってくるのが見える。
濃紺のSUVだ。
みるみる近づいて来たと思うと、「ガンッ!」と言う大きな音を立てて追突される。
身体が一瞬浮く様な感覚。ジェットコースターの様に胃が浮き上がる様な感覚だ。
それでも石場はスピードを緩めない。
“子どもが飛び出して来たりしません様にっ!”
まさに今の状況からするとどこか長閑な感想だが、ゼンタの頭の中から日常を切り離すことができない。
少し広い道路に出た。
一方通行の狭い路地から、対面2車線になる。
と、後続のSUVが急にスピードを上げて対向車線を逆走し、真横につけた。
「伏せて!」
と石場が叫んだと思うと、梢のすぐ横のガラスに“ビシッ”と言う音が響いた。
恐る恐る様子を見ると、ガラスにひびが入っている。
身体が急に前方へ放り出されるが、シートベルトがそれを抑える。
急ブレーキが踏まれた様だ。
見ると、SUVが前方に幅寄せの様な形で止まる。
「シートベルトを外して!車からは出ないで下さい!」
石場の指示が響く。
SUVから、3人の男たちが降りて来た。
「チャイニーズマフィアか!」
1人の男がフロントガラスに向けて銃を構え、躊躇なく発砲する。
先ほどと同じ様に“ビシッ!”と音が響き、ガラスにひびが入る。
もう一発。
同じ様に音が響き、ひびが入る。
気づくと、石場が運転席のドアを開けて飛び出していた。
瞬間、銃を構えていた男の腕を取ったかと思うと、連なる様に倒れる。
銃を構えていた男は、左肩を抑えて悶絶の表情を見せている。
残る2人と対峙する石場。
どうやら、2人の得物はナイフの様だ。
1人の男がナイフを石場の胸に向かって突き出す。
それをひらりと躱す。
間髪入れず、もう1人の男のナイフが石場の顔に向けて薙ぐ様に振られるが、これも躱す。
堰を切った様に繰り出される男たちのナイフ。
間一髪で躱してはいるものの、少しずつ石場が押されている様に見える。
スージーとパトリシアが以前、2対1なら石場に勝てるかどうかと話していたのを思い出す。
結論は、勝てないだろうと言うことに落ち着いた。そう思うと、この2人の男はなかなかの手練れなのだろう。
左側の男の顎に、石場の拳がカウンター気味に入った。
フラつく男を尻目に、石場は右側の男にターゲットを変え、蹴りを見舞う。
やはり1対1なら石場に分がある様で、途端に男が守勢に回る。
石場のローキックが男の膝を砕き、倒れ込んだ男の脳天に踵が落ちる。
と、その石場の背後に向け、先ほどフラついていたもう1人のナイフが振り上げられる。
「危ないッ!」
とゼンタが叫んだ瞬間。
さらに左側から何者かが飛び上がり、男の顔を両手で掴んで鼻に強烈な膝蹴りを浴びせた。
そのまま倒れる男。
馬乗りになって追撃をしようとしたが、気を失っていることを確認してその拳を引き戻す。
その拳の主は…
「かっ…、母さん⁉︎」
馬乗りの状態から、倒れ込んだ男の傍に立ち上がったのは、見間違う筈もない、母親である梢の姿だった。
土日の更新はお休みします。
次回は8/27(月)6:00の更新を予定しています。