第2章 孤児-9 ボーディング
石場 仁がゼンタ達のボディガードとしてやって来てから、4日が経過した。
まず、筋肉痛が酷い。
毎日1時間だけしかトレーニングしていないのだが、毎朝激痛とともに目覚める。
ベッドから降りるのも一苦労で、一歩足を前に出すたびに激痛が走る。
特に酷いのは内腿からお尻にかけてだ。
だと言うのに、石場に全く触れる事も出来ない状況には変わりがない。
2日目にはスージーとパトリシアが、3日目にはマッシュが加わって一緒にトレーニングを行ったが、彼らはゼンタからするとかなり強い。
特にパトリシアは、石場と良い勝負をしている様にゼンタには見えるのだが、本人は対峙する度に圧倒的な力量の差を感じるそうだ。
楠木の指示で、ゼンタが1時間、残りのメンバーは3人で15分程度しか時間を取れない。
3人ともかなり貪欲に石場の技術を吸収しようとしていて、15分では終わらない事も多いが、梢とラフィからあまり離れられない、と言って石場が強引にでもトレーニングを切り上げて戻っていってしまう。
とはいえそれでも、ゼンタは言うに及ばず、スージー達3人もトレーニング終了後には汗だくになっている。
汗を拭くスージーが非常に色っぽく見えるが、ゼンタの身体があまりにも疲れ切っていて何の感情も湧いてこない。
オフィスには当然シャワールームなどないので、それぞれが自室かトイレで身体を拭いて着替えるだけだ。
自室はガラス張りなので、スージーやパトリシアは自室では着替えない。
暁商事はビルのワンフロア全てを借りているので、トイレには自分たちと清掃員くらいしか入って来ないので、スージーとパトリシアはトイレで全裸になって着替えているそうだ。
覗いてみたいという願望もないわけではないが、ゼンタの身体はあまりにも疲れ切っていて動く気力が湧かない。
そんな中、石場は息も切らせず、汗もかいていない。
「やっぱりタツジンは違うよな。」
とマッシュがゼンタに声をかける。マッシュは元々イタリア軍の所属だったらしい。
どちらかといえばマッシュは武闘派ではなく頭脳派だそうで、軍の中ではそれほど強くはなかったそうだが、それでも軍には猛者たちが沢山居るだろう。そう言うと、石場ぐらいのタツジンと手合せしたことはないそうだ。
ここまで何もさせて貰えなかったことはない、とも言っていた。
スージーとパトリシアも加わり、格闘談義に花を咲かせる。
あの時の投げはどうだ、あのフェイントは分かっていても引っかかる、など。
この時間は、普段の定例ミーティングの時などとは違い、同じレベルで話が出来るのでゼンタにとってはお気に入りの時間になっていた。
格闘技サークルにでも入った様だ。
ラフィは、大きな変化は見られないが、確実に心を開き始めているのを感じている。
あの後も梢とは一緒に風呂に入っている様だし、買い物や公園などにも一緒に行っている様だ。
石場は、ゼンタ達とトレーニングをしている時間以外はずっと2人について回っている。
家にいる時は基本的に外の車で待機していて、夜は別な人と交代して休んでいるそうだ。
昨日、ラフィにゼンタから話をした。
その前に梢とも話をし、強要はしないこと、と言う約束の下で、話をするだけなら良いと思う、と了承を得ている。
ラフィを診てもらっている精神科の先生、彼は宍戸から概要を聴いているのだが、同じ様に強要しないことを条件に了承を得た。
「ラフィ、聞いて欲しい。俺たちはラフィに、今まで…この2年間にラフィが置かれていた状況をカメラの前で話して欲しいと思ってるんだ。」
ラフィの顔が強張るのを感じる。その表情を見て、梢がラフィに寄り添い、肩を抱く。
「ものすごく辛い経験だったと思うし、簡単に切り替えられないのは当たり前だと思う。ただ、同じ様な境遇の子ども達がまだトヴァンにはいると聴いてるし、これからまた、新しい子が同じ境遇になってしまうのかも知れない。ご両親のことも…聴いたよ。そんな国はまともじゃない。俺たちは、ダミアンの様な指導者が、トップにいてはいけないと思ってる。その為に、ボス達が計画を立てて、より健全な環境を作る為のミッションを進めているんだ。」
ラフィの頬を涙が伝う。予想していたことだが、思い出したくないことを思い出させてしまったのだろう。
それでも、あのホテルの朝の様に嬌声を上げたりはしない。
「ラフィ、君は強い子だ。恐らく、心の中では分かっているんだと思う。このままじゃいけないってことを。ただ、怖くて勇気が出ない。そうじゃない?」
涙を流し、鼻をヒクヒクさせながらラフィは頷く。
「うん、やっぱり強い子だ。けど焦らなくても良い。ラフィの準備が出来たらで構わないからね。」
ラフィは、梢の肩に顔を埋めて泣き出してしまった。
これ以上は話せない、と梢が目で合図を送り、ゼンタも頷く。
まだ時間が掛かりそうだ。
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翌日、ゼンタは車を運転し、羽田空港へ向かっていた。
いよいよ、宍戸がトヴァンへ出発するのだ。
見送りに来ているのは、楠木とゼンタ。
当初はゼンタだけが送りに行く予定だったのだが、直前まで打ち合わせをしたいと言うことで急遽楠木も同乗する事になった。
「…いずれにしても、トクゾ山のボーリングの件はクリア、スージーに頼んだ旧教の件も、まぁ実際現地に行って多少のトラブルはあるかも知れないが、概ねクリアだ。サンジャイ•クマールも、ラガルランの生まれではない事が明らかになった。修行もしていない。仮に、ラフィが間に合わないとしても、ミッションとしては充分に達成可能なところまで来ている。」
と言うのは楠木。
「えぇ。あとはファランジャと…ダミアンがいつ動き出すかですね…。」
と宍戸が答える。
「あとは、シャキリと言う内務大臣か。会える段取りは出来ているのか?」
「えぇ。既にファランジャを通してチップも渡してあります。国王やダミアンに負けず劣らず、強欲な男の様で…。」
「はは。まぁ、途上国の大臣級なんてみんな同じさ。」
「そうですね。とりあえずファーストミッションは、シャキリ内務大臣を此方側に引き入れる事ですね。上手くいけば、ボスたちが到着するまでにそこはクリアになっていると思います。」
「あぁ。宜しく頼むよ。」
車が羽田空港の国際線ターミナル駐車場へ入る。
ゼンタが荷物を持って後ろをついて歩く間も、2人の話が途切れることはない。
そして、アナウンスとともにボーディングの時間がやって来た。
「では、行ってきます。」
「あぁ。10日後を追う。頼むぞ。」
「分かりました。」
そう言うと、宍戸は搭乗ゲートへ消えて行った。
「さて、戻るか。ゼンタ、今の話、聞いていたと思うが、我々の出発は10日後だ。こっちも忙しくなるぞ。」
「はい!」
楠木とゼンタは、駐車場へ続く道を歩いた。
“10日後か…。”
ゼンタの頭を過るのは、それまでにラフィのことを間に合わせたいと言う思いと、それが難しそうだ、と言う思い。
“ラフィを信じよう。”
ゼンタは自分に言い聞かせるように2度3度と頷き、運転席に乗り込んだ。