第2章 孤児-8 ボディガード
「東海警備から参りました、石場 仁と申します。これから1ヶ月半の間、蕪木様親子とラフィ少年の護衛に就かせて頂きます。宜しくお願い致します。」
つい数分前に楠木から、暫くの間ゼンタと梢、ラフィにボディガードをつけると説明されたばかりにも関わらず、内線が鳴り、リビングルームに案内された男。
刈り上げた短髪にMA1と言う姿は、警備会社の社員と言うよりも軍人の様な印象を受ける。
「蕪木 善太です。宜しくお願い致します。」
そう言って頭を下げるが、急な展開に頭がついていっていないことを感じる。
「石場さんは、トヴァンへも同行して貰う予定だ。日本では、まぁそれほど警戒する必要もないだろうが、あっちに渡ってからのことを思うと、ラフィに早めに接点を持って貰う方が良いと思ってね。それで早めに来て貰う事にしたんだ。」
と楠木。
「そうなんですか…。」
改めて、危険が及ぶ可能性があるのだと言うことを実感して身慄いしてしまう。
「それから、もう1つ狙いがあるんだ。」
「…と言うと?」
「格闘技だよ。ゼンタにもある程度は覚えておいて欲しい。」
「えっ!それって、必要…なんですか?」
「どうだろう。結局は必要にならないかも知れない。あくまで俺たちは、喧嘩をしに行くわけではなくてビジネスをしに行くんだからね。ただ、トヴァンの情勢はゼンタも知っての通りだ。日本にいるのとはわけが違う。備えあれば憂いなしさ。」
「それは、まぁ…そうですね。」
「こう見えても、俺も航もスージーも、武道の心得はあるんだ。」
「えっ⁉︎スージーもですか⁉︎」
「あぁ、ウクライナのホパーク…って言ったかな?そう言う武術があって日本で言うと師範代級の実力者らしい。」
「そう…なんですか…。」
「もしもの時にスージーに護って貰うんじゃ流石に男が廃るだろう。」
「それはまぁ…そうですね…。」
驚いた。スージーは世界最大手の検索エンジンでアルゴリズム分析を担当していた才媛だ。
更にあれだけの美貌で、格闘技まで熟すとは。
「その…トレーニングはどこでするんですか?」
「ん?ここで良いだろう。せっかくのスペースだ。ソファとテーブルを退ければ道場に早変わりさ。」
「は…はぁ…。」
「と言うわけで、今日から毎日1時間、ゼンタにはここで武術を学んで貰う。」
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1時間後。
“リビングルーム”のグレーの絨毯の上にゼンタは転がっていた。
速すぎる鼓動が収まる気配は全くない。
石場というボディガードは、全く息も切らしていない。
“凄さ”は、最初に対峙した時に感じた。
「さぁ、まずはどこからでも打ち込んで来てください。」
そう言って石場は、構えるでもなくただ“立っていた”。
にも関わらず、その圧倒的なオーラでゼンタは近づく事も出来ない。
そもそもゼンタは、喧嘩をしたのも高校生の時以来記憶がない。
人を殴るのが怖い。
そうして逡巡していると、
「来ませんか…。」
と石場が呟き、気づいた時にはグレーの絨毯に投げ飛ばされていた。
「さぁ、立って下さい。次です。」
何度かそれを繰り返したあと、ゼンタからも拳を出したが、その拳が石場に届くことはない。
気付けば同じ様に絨毯の上に転がされていた。
10本を越えた頃から、石場が倒れているゼンタに追撃をしてくる様になった。
なのでおちおち倒れてもいられないのだ。
恐らく、石場の投げ方のおかげだと思うが、ゼンタには不思議な程にダメージはない。
「22本…。そろそろ1時間ですね。出発までにはこれを50本にまで増やしましょう。」
「ご!ごじゅう…っ⁉︎」
「さて、少し休んだら、蕪木さんのご自宅へ向かいましょう。」
そう言うと、石場はリビングルームを後にした。
驚異的な密度の1時間だった。
「50本か…。」
明日からのトレーニングを思うと悪寒がする。
ふと、気配を感じて後方を見ると、いつからいたのか、端に避けられたソファにスージーとパトリシアが座って此方を見ていた。
慌てて立ち上がるゼンタ。
「お恥ずかしいところを…。」
「恥ずかしくなんてないわ。まぁ、仕方ないわよね。」
口を開いたのはパトリシアだ。隣に座るスージーも同意する様に頷く。
「スージーなら1本くらいは取れた?」
とゼンタが聞く。
「え⁉︎無理に決まってるじゃない。あんなタツジン相手に…。パトリシアはどう?」
「う〜ん…。難しいでしょうね…。20本やって1本取れれば良い方だと思う。」
「パトリシアでもそのレベルなのね…。と言うことでゼンタ、あなたが絨毯の上に転がされるのは仕方ないわ。にしても…、あれだけのタツジンを連れてくるなんて、さすがボスね…。」
「私もそれは思ってたわ。あれだけのタツジンは軍隊にだってそうそういないわよ。私たちも時間があれば稽古をつけて貰いたいわね。」
「あら!それ良いわね。ボスに話してみようかしら!」
スージーの顔がパッと明るくなる。
なんだか、格闘技女子たちの話に花が咲いている。
話の内容からすると、コサック武術だかの師範代級であるスージーよりもパトリシアの方が強いらしく、そのパトリシアでも石場は圧倒的に映るらしい。
石場>>>パトリシア>スージー>>>>ゼンタ、という感じだろうか。
そもそも、彼女たちが格闘技の経験がある事すら今日まで知らなかった。
格闘技とか、所謂体術的な強さなどこれまで全く意識せずに生きて来ただけに、少し自信がなくなるのを感じる。
「さて、ではそろそろ行きましょうか。」
エントランス付近から顔を出した石場がゼンタに声をかける。
格闘技女子たちはまるでアイドルでも現れたかのように、2人で頬を上気させてキャッキャと石場を見てはしゃいでいる。
スージーは絶世の美女と呼ぶに相応しいし、パトリシアもスージーと並んでしまうと劣るものの、一般的に見ると充分に美女と言える。
シンプルにそう言う黄色い声を浴びる石場が羨ましい。
その石場は、まるで声も聞こえないかのように、彼女達の方を見る事もない。
「…あ、はい。すみません。」
何処となく、居心地の悪さを感じながら、ゼンタは石場の後を追った。