第2章 孤児 -7 黒塗りの高級車
その1週間後、事務所を出て自宅へ向かおうとする楠木の脇に、黒塗りの高級車が停まった。
後部座席の窓が開き、後部座席に乗っている、60歳前後のスーツ姿の男性と目が合う。
頭は少し頭頂部が寂しくなっているが、年齢よりも若く見られるだろう。
楠木は頷くと、ドアを開けて男性の隣に腰を下ろした。
「なぜ相談せん。」
男は、真っ直ぐに前を向いたまま、ドスの効いた低い声でそう楠木に尋ねる。
「とすると、やっぱり来ましたか…?」
「質問をしとるのはこっちだ。なぜ相談せんかった。」
楠木は、1つ深く息をはき、頷きながら答える
「…相談していたら、きっと貴方は別な手段でラフィを守ろうとしたでしょう。そうなると、ゼンタはこのミッションにおいての重要な役割を担えず、私や宍戸が進めるミッションをただ眺めるだけになってしまう。今回のミッションは、暁商事でさえ数年に一度の規模です。社会的な意義も大きい。フレッシュマンだからと言って、ただ傍観者に徹することは貴方も望まないでしょう。」
「だからと言って梢まで危険に晒すことはなかろう。」
「大丈夫ですよ。…あなた方がついていますからね。」
「ふん。安く扱き使いおって…。」
「いえいえ、それも含めて、梢さんにはホームステイ料金を支払っています。通常で考えるとかなりの高額をね。まぁもちろん、正規ルートであなた方にボディガードをお願いするのなら、その100倍請求されるのでしょうが。」
「…。」
「梢さんの性格からしても、あなた方からあの親子に直接お金を渡すことは難しい筈です。ですが今回は、業務に対しての正当な報酬として、クリーンなお金を渡しているんです。感謝して頂いても良いくらいかと思いますが…?」
「ふん。相変わらずの減らず口だな。まぁ良かろう。で、さっきのお前の問いに対しての答えだが…、3日前と今朝と、2回来た。マンションの下で張っとったよ。」
「ヒットマンですか?」
「いや、違うな。聞いたこともない小さな興信所の男じゃった。」
「で…どうなさったんですか?」
「遠ざけておいたわい。もちろん、梢達とは関係なく、組織にとっての要人が住んどる、と言う体でな。」
「なのにもう一度来たわけですか…。」
「あぁ。仕事熱心な男だった様でな。その男は今、うちの別荘に招待しとる。」
「依頼主が誰かは、吐きましたか?」
「なんちゃらと言う貿易会社じゃった。で、調べてみるとどうも外務次官のとこに出入りしてる業者らしい。なんでもトヴァンの王室関係者が若気の至りで家出して、東京で遊び歩いておると。連れて帰りたいから探して欲しいと頼まれたそうじゃ。」
「なるほど。外交官ルートですか…。」
「まぁ、さんざん脅しとるから、今回の興信所から情報が伝わることはないとは思うが、外交官ルートだと、ポイント稼ぎをしたい民間企業がわらわらと手を挙げていてもおかしくはない。そのうちの一人が、梢のマンションまで辿り着いた、と言うことじゃろうの。」
「となると、ほぼ突き止められていると考えた方が良さそうですね…。」
「そうじゃろうな。どこか歩いているところで見られとるかも知れんしの…。もう次は、興信所ではなくヒットマンを寄越して来るかも知れん。」
「まだ2週間…。予想よりもかなり早いな。トヴァンの情報収集力を見縊っていたのかもしれません。どのくらい、保たせられますか?」
「さての…、まぁ向こうの規模にもよるが、日中出歩いている時に隙を突かれるかも知れん。こっちも表立って梢に張り付くわけにもいかんからの…。」
「では、何方か1人、ボディガードをお願い出来ませんか?アカツキからの要請でお願いしたボディガードだと言う事であれば、梢さんも断れないでしょう。素性は…、どっか適当な警備会社の社員という事にして下さい。それにどっちみち、トヴァンに入る時には一緒に来て頂ける方を1人、お願いしようと思っていたんです。」
車は、代々木公園の脇の道を通っている。初老の男は、何かを懐かしむ様に目を細めた。
「…ふむ。期間は?」
「そうですね…、トヴァンへ行って帰って来るまでと思うと、長くても2ヶ月あれば片がつくと思います。」
「分かった。明日、お前の事務所へ行かせよう。」
「ありがとうございます。」
「…ところで」
「えぇ。ゼンタの事ですね?」
「あぁ…、どうだ?アイツは…使えそうか?」
「そうですね…。まだ3ヶ月半なので何とも言えないですが…、だいぶ、顔つきが変わって来ましたよ。」
「…ほう。」
「それに、なかなか頭も回る様です。今回のミッションが終わる頃には、きっと“男の顔”になっていますよ。」
「なら良いがの…。前にも話した通り、お前が使えないと感じるのであれば容赦なく切り捨てて構わんぞ。」
「えぇ。そのつもりでいます。ただ、ゼンタはきっと大丈夫です。現代の大親分と“正義の天才詐欺師”との間に産まれた子ですからね、無能な筈がありません。」
「…ふん。」
男は突き離す様に一言息を吐いて窓の外に目をやる。
その口元には僅かに笑みが見て取れる。
「ゼンタはもう、“自分で生きること”を始めています。今はまだ探りながらですが、今回のミッションがアイツを“男”にするでしょう。あなたや梢さんが望んだ様に、ゼンタはクリーンな人生を歩んでいきます。」
「世話をかける…。」
「はは。お互い様ですよ。」
車はいつの間にか、マンションの車寄せに止められていた。
広尾にある楠木の自宅マンションだ。事務所のある恵比寿からはタクシーで10分程の距離だが、この日は1時間近くが経っていた。
楠木は黒の高級車から降りた。
「さてと。いよいよだな…。」
そう呟いて、発進する黒い高級車を見送ると、楠木は自宅マンションのエントランスを潜った。