第2章 孤児 -5 進捗
ラフィがゼンタの家でのホームステイを初めてから、1週間が経った。
まだ自分からは声を発しないが、こちらから何かを問い掛ければyes、no程度の返事はしてくれる様になった。
3日目からゼンタは通常通り暁商事に出社する様になったので、毎回食事を共に出来るわけではないが、食べる量は確実に増えている。
特に牛乳をよく飲むそうで、重い飲料を持ち帰るのが大変だから宅配サービスに申し込んだと、梢が嬉しそうに教えてくれた。
今日は金曜日だ。
定例ミーティングがある為、7:30には出社する。
マッシュやアンディ、パトリシアは時差の関係で夜中の方が事務所にいることが多いので、彼らにとっては定例ミーティングは朝の会ではなく、帰宅する前の会だ。
ゼンタも30分前には出社する様にしているが、普段はだいたい、その時間には全員が揃っていて、各個室で作業をしている。
ミーティングの開始ギリギリに来るのはだいたいスージーだ。たまに、遅れて来て他のメンバーに小言を言われることがある。
聞いた話だとスージーは事務所から徒歩圏のマンションに住んでいるらしいが、朝が苦手なのか、それとも単に時間にルーズなのか、小言を言われても素知らぬ顔でミーティングに加わる。
「美人は何をしても許されるのさ。」とイタリア人らしく肩を竦めてマッシュが言い、同じ女性であるパトリシアがそれで怒りの鉾先をスージーからマッシュに変えるのまで含めて、定番になっている。
パトリシアも一般的に見ると美人と言える容姿をしているが、美しさと言う面で言うとスージーが圧倒的なのだ。
そんな女性2人だが、普段はとても仲が良い。
ランチやディナーにも一緒に出掛けることが多いし、2人でふざけ合っているのをよく見かける。
夏には一緒に富士登山に挑戦したらしく、ガイドの男の子が可愛かったと2人で笑い合っていた。
スージーが28歳でパトリシアは30歳。年齢が近いし、お互いに家族とは遠く離れた日本で暮らしているのだから、それぞれで情報をシェアしあっているのだろう。
残りの男性陣は、みんな必要なこと以外は話さない、と言う感じで、一緒にランチやディナーに出掛けると言うことも殆ど無い様だ。
それぞれ働く時間も異なっているし、ガラス張りとは言え個室に篭ってしまうので、意識して覗こうとしないといるのかどうかも分からない。
ゼンタとしては、これはこれで非効率なこともあるのではないかとは思うが、それで上手く回っているのであれば変える必要はないのだろう。
「さて、では今日も定例ミーティングを始める。今日はアンディから行こうか。」
楠木の掛け声でミーティングが始まる。
毎回思うことだが、情報の量も質も、ものすごく高い。
商品やサービス、相場などの話だけでなく、アートや音楽、スポーツの話、それもビジネス側での、例えば誰々の何々と言う絵がいついつどこどこで競売に掛けられるであるとか、どこどこのチームを誰々が買収しようとしているとか、今度誰々が監督をする映画にはどこどこがスポンサーにつきそうだとか、そう言った話もある。
それら全てに対して楠木が、GO、STOP、STAY、More Information、の4択で判断していく。
ゼンタだったらほぼ全てが“More Information”になってしまいそうだが、楠木が“More Information”の指示を出すことは少ない。
それだけ、スタッフがポイントを押さえた情報を出しているということかも知れないが。
何れにしても、楠木の判断力と決断力には舌を巻く。
次々に出される情報に対して、殆ど間髪入れず方針を決めていく。
今日も、ミーティングは20分程で終わったが、終了後、ゼンタと宍戸、スージーに残る様にと楠木が言った。
「さて、先ほど航の報告からもあった様に、トヴァンの情勢がいよいよ差し迫った段階に来ている。恐らく、1ヶ月以内に、この4人でトヴァンに渡る事になる。」
ゼンタが生唾を飲み込む。
「今、待っている事として、トクゾ山のボーリング結果が出るのがあと10日ほど。あとは、オックスフォードに依頼しているサンジャイ•クマールの出自についてのレポート、これはあと2週間から3週間かな。まぁ、ここは見切発車でトヴァンへ行ってしまっても問題ないとは思う。そして3つ目は、ラフィの件だ。ラフィが精神的に回復し、カメラの前で話をして貰う必要がある。少なくとも、これは達成出来ないとトヴァンへはただの観光旅行って事になる可能性もある。ゼンタ、ラフィの様子はどうだ?」
「はい。精神的には少しずつ回復しつつあると思います。今日また、先生のところへ連れて行く日なので、それで何らかの進捗があればお伝えします。」
「話す様にはなったのか?」
「いえ、まだyesとnoぐらいしか…。それも、本当に小さい声で囁くくらいです。僕からも働きかけてはいるんですけど…。」
「なるほど。まぁ、仕方ないだろう。ゼンタ、変に貢献しようとか結果を出そうなんて考えなくてもいいからな。無理にラフィを嗾けたって碌な結果は産まない。ラフィが間に合わなければ、この計画はそもそも無理があったと言う事でストップするだけの話だ。」
「はい…。」
「スージー、カリム大司教の方はどうだ?」
「Doneよ。ヨダレを垂らして私たちが来るのを待ってるわ。強欲ジジィだから多少は吹っかけて来るかも知れないけど、ちょっと握らせてあげればすぐに尻尾を振るわ。」
「典型的な聖職者ってわけか。」
「ふふ。そうね。」
そう言って少し笑うスージーが絵画の様に美しく、ゼンタは息を飲んだ。
「航のほうは?ファランジュは何か言って来てるか?」
楠木はそう言うと宍戸に話を振る。
「いえ、特別なことは何も。強いて言えば、こちらから送ったドローンや発信機を含め、彼らの中に機械系に強い人材がいない事が気になります。彼らはダミアン側からも国王側からもマークされているので、盗聴やハッキングの恐れもあり連絡手段が限られます。我々が行ってから十分にトレーニングの時間を取れるかどうか、そこが少し気掛かりです。」
「そうか…。状況によっては、航には先にトヴァンに入って貰う事になるかも知れないな。」
「その方が確実でしょうね。重要なミッションの最中に空からドローンが落ちて来たなんて言ったら笑えませんよ。それに、タムードからの連絡によると、彼らは少し、待つ事に焦れ始めています。幹部はともかく、若いメンバー達は自分たちを救国の戦士だと思い込んでますからね。迂闊な行動に出ないか、少し心配でもあります。」
「よし、では航の出発は2週間後にしよう。それまでに、こちらで出来ることは準備しておいてくれ。」
「分かりました。」
「では解散だ。それぞれ、仕事に戻ってくれ。」
楠木の号令でそれぞれが仕事に戻る。
「ゼンタ。」
戻ろうとした時、楠木にそう呼び止められ、ゼンタが足を止める。
「ラフィのこと、くれぐれも焦るなよ。こちらの事情はあの子には関係ないんだ。しっかり寄り添ってやってくれ。」
「はい。分かりました。」
「ラフィが仮に間に合わなかったとしても、上手く行かせられる様なプランも考えてみるよ。」
「はい。宜しくお願いします!」
楠木は2度ほど小さく頷き、自室のドアを開けた。
明日の更新はお休みで、次回は8/20(月)の予定です。