聖人優奈は聖人である
とりあえず、朝食をとるべく俺と夏目は部屋に戻った。夏目は直ぐ様布団へ入り、それと入れ違うように猫――フレンカだったな――が出て来るが昨日と同じく夏目に捕まってしまい強制的に二度寝。
本当に二度寝になるかは知らないが、フレンカのストレスが心配だ。小動物虐待も少女虐待も似たようなものだからなぁ。それにフレンカが夏目を襲うかもしれないし、その傷によって親元へ返しても告訴されるかもしれないし、ああ、俺のストレスの方が危ない。
俺はそのストレスを食事で発散するために台所に向かい、食糧のチェックをするが、腐ったタコと一日分のお米だけだ。これは学校帰りにお米を買わなければならない。出来ればおかずも。
しかし、それで猫村さんから貰った今月分のお金が保つだろうか。ただでさえいつもギリギリの生活をしているのに、いつまで居るか分からない居候まで出来てしまったのだ。なんとかして猫村さんからお金を貰わなければならない。そうだな。家賃を払うため、と嘘をつけばいいんじゃないか。うん、そうしよう。勿論家賃は払わないが。
俺は昼と朝分のお米を洗い炊いた。その間に着替えを済ませ、夏目とコミュニケーションを嫌々取る。
「夏目、お腹空いたら、あれを食べて」
俺は炊飯器を指差して言った。
夏目は目をこすりながら布団から顔を出し、寝惚けた顔で首肯した。
よし、俺はちゃんと言ったからな。これで文句の言われようはない、はずだ。
そして課題などをやって時間を潰すこと数十分、ご飯が炊けたことを知らせるアラームが鳴り、それを茶碗に盛りつけ食した。白米のみの食事には慣れているとは言え、やはり辛いものがある。水道水でも入れるべきだったか。いやきっと涙がいい味付けになってくれるだろう。
まぁそれはともかく、そろそろ『深海魚』を出なければ道中に人が沸いてしまうので、俺は急いで鞄に教科書を入れ、再び夏目とコミュニケーションを取る。
「絶対に部屋から出るなよ。そんで絶対に誰も入れるな。誰が来ても無視しろ。いいか、分かったか?」
「……うん、わかった」
「本当に分かったのか? 復唱しなさい」
「ぜったいにへやからでるなよ。そんでぜったいにだれもいれるな。だれがきてもむししろ。いいか、わかったか?」
「…………私はここから出ていきます。復唱」
「わたしはここからでていきます。ふくしょう」
「私はここから出て行きます」
そうして、俺は部屋を飛び出した。壊れたドアノブのことは後でなんとかしよう。今は誰かが俺を尋ねて部屋に来ないことを祈るだけだ。
俺は愛着ある自転車に跨がる。
筋肉痛と慣れない場所で寝た代償がここで響いてきた。さらには早朝の冷たい風。今、ペダルを漕ぐ足を止めたら、家に方向転換しそうだ。いや、してやろう。早く信号に捕まりたい。
なぜ、高校は義務教育ではないのか。義務だったら休んでも卒業できるのにな。全く、初始先輩がいなければ高校なんて行かず、高校卒業試験を頑張って高卒資格を取ったのに。しかも俺が行く高校は私立で学資金が高く、そのせいで猫村さんの生活を苦しめてしまっている。まぁ別にそれは構わないのだが、それによって俺の生活まで苦しくなるのがいけない。畜生、なんでニートじゃ駄目なんだ。自分がいなくても回る社会に貢献する必要性を疑問に感じざるを得ない。
そんな感じに社会について考えていたら、いつの間にか学校へ到着してしまった。あのアパートとこの学校は同じ町にあるので、着くのは結構早いのだ。信号に捕まらなかったし……。
学校は狙い通り全く人気がない。おそらく生徒で一番乗りしたのは俺だろう。普段は死にたくなる程五月蝿くて大嫌いな学校だが今の人の呼吸を感じさせない、世界から浮いているような雰囲気は結構気に入っている。ま、それでも嫌いなのだが。
俺は無人の教室へ入って窓際の一番前に位置する我が席に座り、机にうつ伏せになって寝た。睡眠不足なのもあるが、これから教室へ入ってくる人間を視界に入れないためでもある。でなきゃ、こんなに早く『深海魚』を出た意味がない。
俺は少し安堵して、笑い声を漏らした。
気持ち悪いな……俺。ま、でも仕方ない。この平和が俺には久しぶりに感じるのだ。昨日は本当に色々あったからなぁ。アテナさんに会って、夏目が来て……二つしかなかったな。いや、大まかに言ったらなんでもこうなるだろ。えーと、細かく言うと…………あ、眠気がどっときた。きっと安心したからだろう。
俺は意識も机に預けた。
何の前触れもなく腹部に衝撃が来て、俺は無理矢理現実に引き戻される。そして、また朝の時のように酸素を吐き出し、机に伏せながら呻いた。
教室は俺が寝る前より人口が二〇倍ぐらいになっており騒がしい。来月から受験生だろ、勉強しろよ。
俺はとりあえず痛みを堪え、犯人の顔を睨み、視線を胸に逸らす。
犯人は八手奥であった。今は制服を着ている。
「八手奥。またてめえか」
「また俺だ。そしてまたもや安心。スリッパで蹴った」
「……あれ? スリッパって先の方露出してね?」
「どうせ靴下履いてるよ」
「そうか……じゃあ、別にいいか。で、何の用だよ。まさか寂しくて俺に声をかけた訳じゃないよな? ボッチ」
「うるさいぞ、ボッチ。大体、俺がボッチなのはお前のせいだろうが」
八手奥はうんざりとした様子でため息をついて続けた。
「お前が俺のことを八手衆の次期頭領と大声で言ったせいで、皆俺と目を合わせてくれないんだよ。このままだと俺は青春とは縁のない高校生活を送り、人格が歪んで駄目な大人になってしまうぞ。責任取れよ。一八万ぐらい」
俺もため息をして言った。
「しょうがないだろ。皆をお前から守るためだ。恨むならこの世にある常識、いや良識って奴を恨んでくれ」
あと、俺にそうするよう命令した初始先輩を恨め。というか、初始先輩から一八万を貰えばいいのだ。戦神さんを動員しようとも初始先輩からお金を取ることは不可能に近いと思うけれども。
八手奥は定位置である俺の後ろの席へと座り、心底残念そうに言った。
「ここでコネを作りまくって、将来に役立てようと思っていたのに。俺の将来設計は高校生の段階で既に滅茶苦茶だ。せっかく頑張って頭のいいところへ来たのが水の泡だ。はぁ、俺の努力を返せよ。畜生」
「そんなことをどうでもいいから、弁償しろよ、扉」
「おいおい、人の人生をどうでもいいって言うなよ。夏目ちゃんのことばらすぞ」
「…………」
俺が八手奥(の胸)を一生懸命睨んでいると、隣の席から女の声がかかった。
「現次郎君。そんなに人を睨んじゃ駄目だよ。優しく生きよう、優しく。でも、八手君ならいいのかな?」
「だから現次郎って言うなよ、聖人。現実を連想するだろ」
「じゃあ、現次郎君も私を聖人って呼ぶのをやめてくれないかな? 結構恥ずかしいんだよ。そうすれば私もやめるから」
「わかったよ、聖人」「ありがとう、現次郎君」
「…………」「…………」
俺は一応様子を見るために、聖人の方へ目をやった。
清楚な黒の長髪に、温和そうな優しい眼付き。身体は俺よりも小さいが、女子の中では平均サイズだ。しかし本人曰く、胸は平均よりやや上だとか。今は勿論学校の制服を着ていて、柔和な表情で俺を見つめている。そして、三次元だ。
俺は視線を胸に……いや、脚に……机に向けて言った。
「で、八手奥のような屑と話しているような俺に何の用だ?」
「おい、さらっと俺の悪口言うなよ」
聖人は八手奥の言葉を無視して言った。
「いくら八手君が屑だからって、現次郎君まで屑になるという道理はないからね。問題ないよ」
「優奈ちゃんまで……ひどいこと言うぜ、全く。後で覚えていろよ」
八手奥は本業の威圧感を出しながら言うが、聖人は怯むどころか、むしろ微笑みながら言った。
「八手君にはまだそんなことが出来る力はないでしょ?」
「…………阿辻、なんか言ってくれよ」
「喋りかけんな、屑」
八手奥はため息をつき、何の躊躇もなく言った。
「優奈ちゃん。実はこの阿辻、小学生に手を出すような屑なんだぜ」
「つまらない嘘をつかないで、八手君。あと、そろそろ空気読んで席外して」
「……絶対に動かないからな」
聖人は誰にでも優しい女の子だが、八手奥にだけは妙に厳しい。本当に厳しい。何か因縁でもあるのだろうか。
その聖人は八手奥のことを気に掛けるのをやめ、笑顔で俺に言った。
「明日暇かな?」
「明日? 学校があるだろ」
「馬鹿か、阿辻。明日は三者面談で授業は午前中だけだ」
「あのね、現次郎君。明日から三者面談で授業は午前中だけなんだよ」
「そうか。知らなかった。ありがとう聖人。それでまぁ、暇だな」
「おい阿辻、これはデートのお誘いだぜ」
「デートしない?」
「…………え?」
三次元にデートのお誘いを貰ってしまった。こいつは俺の三次元恐怖症を知っている。なのに、なぜ誘うのだ? 嫌がらせ以外の理由は思いつかないぞ。ま、ここはとりあえず断っておこう。
「嫌だ」
断り方を間違えたような気がする。
しかし聖人は表情を少しも変えず、小さな声で言った。
「現次郎君、気晴らしした方がいいよ。何かストレス溜まっているみたいだし」
「……気晴らしのためならそうと早く言ってくれよ。マジでデートだと思ったじゃないか。てか、よく分かったな、ストレス溜まっていること」
「うん、現次郎君は分かり易いからね」
……さすが聖人優奈。初始先輩に一目置かれているだけのことはある。しかし、これで夏目のことを勘付かられるのはまずい。聖人なら信じてくれるどころか手助けもしてくれるかもしれないが、どんなに些細な事件でも聖人を巻き込むのには躊躇いがある。
初始先輩が以前この学校で事件を起こしたとき、聖人にだけは気付かれないように細心の注意を払っていたことがあるのだ。初始先輩が言うには、聖人は優しすぎる故に暴走し易いらしい。ここは初始先輩に倣って、俺も聖人を出来るだけ巻き込まないようにしよう。
その彼女は俺の決意のことなど知らず、優しい笑顔で言った。
「ストレスの原因は、今は聞かないけど、危なくなったら教えてね。現次郎君には返さなきゃいけない恩があるからさ」
「俺には仇で返すんだな、優奈ちゃん」
「…………」「…………」
「それはさておき、現次郎君。結局デートは駄目かな?」
「ああ、いいぜ。気晴らしなら大歓迎だ」
「うん、ありがとね。現次郎君」
そう言って、聖人は嬉しそうに笑った。
ストレスのことが気になっていたので、この話は俺にとってちょうど良かったのかもしれない。だが、わざわざ外に出るのか……いや、どうせ家に居ても夏目がいるのだし別にいいだろう。うん、やり始めるまでの我慢だ。いつも帰る頃には脱皮した蛇のように気分がいいだろ俺。脱皮した蛇の気分が本当にいいのかは知らないけれども。
三次元拒絶反応を軽く抑えながら、聖人と細かな打ち合わせをしていると、また女の声がかけられた。今度は俺にじゃないけれど。
「ゆーうーちゃーん」
乱入者はそう言って、聖人を後ろから抱きしめた。
三次元の馴れ合いを間近で見なければならないなんて早く来た意味がないじゃないか。くそ、八手奥、後で覚えとけよ。まだ俺にも復讐が出来る力はないけれども。
そして、その人目を憚らぬ行為をしたのは森上良子というクラスメイトだ。茶色に染まった短髪で、背は俺よりは低いが女子の方では高い方である。比べると怒られそうだが、胸はアテナさんよりも大きい。だが俺の中でアテナさんは二次元なので、アテナさんの方が大きさも形も上である。そして、三次元だ。
そんな森上さんは楽しそうに、聖人の髪に頬ずりをしている。
聖人はそんな人肌が恋しくなるような寒さだとは言え、あ、勿論俺は人肌なんて欲しくない。今のも客観的に考えてだ。閑話休題。突然抱きついてきた森上に、聖人は驚きも嫌がりもせず笑顔のまま言った。
「おはよう。良子ちゃん」
それに対し、森上はそれが当然のように答えた。
「おはー、ゆうちゃん」
……色々と思うところがあるが、とりあえずこれ以上三次元を見ると腹痛になりそうなので、俺は八手奥が教室にやって来る前の姿勢に戻った。
「あれ? お邪魔だった?」
森上がとぼけた声でそう言った。
「ああ、邪魔だったな」
一番邪魔な男が笑いながら言ったが、聖人にも森上にも無視されたので、笑い声を止めた。
そして、その無視をした張本人達は、
「あれ、秋井じゃん」「久しぶりだね、来るの。大丈夫かな?」「お、のっくんが行った」「宮下君は友達だからね。当然だよ」「それに秋井はこのクラスじゃのっくんしか友達いないから、のっくんが気を利かしてるんだろね」「そういう事は言っちゃダメだよ」
などと、俺とついでに八手奥を忘れ、違う話題で盛り上がり始めている。ま、八手奥はどうだか知らないが、俺にとっては好都合である。いいぞ、もっと俺に構うな。お前らも秋井のところへ行ってしまえ。……あ、席を立った音が。本当に行ったようだ。めでたし、めでたし。
「ぐっ!?」
今度は後頭部に衝撃が走った。一歩間違えれば障害が残る場所なので尋常じゃない痛みだ。残響が頭の中にも届いている。
俺は起き上がった。前には凶器となった筆箱が落ちている。
こんなことをする奴は一人しかいない。俺は後ろを振り返った。
「だから痛みで人を起こすなよ。てか、俺を起こすなよ。八手奥」
俺の抗議に対し、八手奥はわざとらしく笑いながら言った。
「いいじゃねぇか。俺とお前の仲なんだしよ」
「じゃあ、駄目じゃねぇか」
「おいおい。俺は友達と思ってやっていたのに、悲しいな。ま、そんなことはどっちでもいい。とりあえず、森上についてだ」
「森上さんがどうしたよ? なんだ、お前巨乳派だったのか。ロリはどうしたんだよ」
「ああ、そうだ。俺は巨乳派でロリは好きじゃないんだよ。妹は別な。というか森上には既に彼氏がいるだろ。って、何言わすんだよ、テメエ」
「話をずらすなよ。早く本題に入れ」
「ああ、まぁ、そうだな」
軽く蹴られた。机の下での出来事だったので、誰も気付かない。気付いて貰っても仕方ないけれども。
「森上の奴、よく聖人に話かけられたよな。俺達が居たのに」
八手奥が同意を求めるように言った。こいつに同意するのは癪だが、俺も思っていたことなので我慢する。
森上良子。俺達は彼女を痛めつけたことがある(勿論、性的な方でなく)。それはいじめを止めさせるためで、やむを得なかったのだ。誰かに相談するべきだった、と今は反省しているがやった事自体の後悔はしていない。
ま、今はそんなやり方なんてどうでもいい。大事なのはそれによって生じた結果だ。そう、彼女は俺達にトラウマがあるはずなのだ。
しかも、八手奥は痛めつけただけではない。ちょうどその時期に森上家の借金の取立てに行っていたのだ。その額は俺と比べると一〇〇倍以上の差があると聞いている。それに俺には初始先輩という後ろ盾があったのであまり酷い目には合わされなかったが、何もない森上さんは八手奥に相当な目に合っているはずなのだ。
八手奥は俺の考えていることを察して、ため息をつきながら言った。
「お前と比べたら、そんなに悪いことはしてねぇよ。あいつの胸を活かせる仕事を紹介しただけだ。ま、それも今じゃできないけどな」
「なんでだ?」
「借金の一〇倍の額を払うから、一〇年ぐらい放っておいてくれと言ってきたんだ。こっちとしては、あいつはそれなりに頭もいいし男を捕まえる能力もあったから、その契約を博打気分で承諾した。ま、払えなくても、あいつならいくらでも金にできるしなぁ」
そんなことを言い出している時点で十分俺以上に悪いことをしているだろう。それに一〇倍するのは契約時の額ではなくて、利子で倍増した額の方に決まっている。そうなると一〇倍で済むかどうか。森上さんには同情する。いじめをしたのも借金によるストレスからだろう。俺も溜め込まないよう気をつけなければ。
まぁ何はともあれそんな彼女が俺達に構わず乱入して、聖人に話しかけたことに小さな疑問が生じたという訳だ。
ふむ、こんな簡単なことも分からないとは、やはり八手奥は俺より馬鹿だ。しかし馬鹿にものを教えるのも自然の摂理。三次元の自然に従うのは気に食わないが、今回だけは従ってやろう。
「心境の変化だろ」
「そんなもん分かってんだよ。俺は何があって、森上はそうなったのか、って考えてんだ。そんな暗黙の了解程度のこと言ってくんな」
「うるせえよ、八手奥の癖に」「あ? なんだテメエ? 喧嘩売ってんのか?」「売ってない。なんでお前そんなに喧嘩がしたいんだよ。戦闘民族ってある意味下等生物だぞ」「誰が下等生物だ、三次元」「お前こそ誰が三次元だよ」「皆だろ」「馬鹿が。アテナさんは二次元だっつーの」「…………」「ごめん、まだ三次元だった」「…………」「…………」「…………」「今のなしで」「分かった」