人間嫌いのネット嫁
まだ肌寒い三月の中旬。
俺――阿辻現次郎は高校生の貴重な休日を使い、アパートから自転車で一時間もかかる駅前の喫茶店に来ていた。
駅前は建物がぎっしり詰められていてなんだか息苦しい。この喫茶店もその一部で、店内には老若男女様々な人間が寛いでいた。
俺はこの場所が嫌いだ。
いやこの場所というより人がゴミのようにいる(略して人混み)、この状況が嫌いなのだ。
顔を上げて目に入るのは三次元の顔。
さすがにもう反吐は出ないが、ため息は出てしまう。
では、なぜそんな引き籠もり生活に向いた俺が、こんな解放された空間にいるのか? 答えは簡単だ。
人を待っているのだ。
それは俺の妻だ。
…………勿論ネトゲでの話である。いくら俺が一八歳で結婚が可能だと言っても、俺を婿に貰おうという女性はそれこそファンタジーだ。
そして彼女はネトゲ――『壁の中のダンジョン』の世界で『聖母アテナ』として女神的な存在として神聖視されている。彼女は常に最前線に立ち続ける最強のヒーラーで、そのジョブのイメージに合った優しい心の持ち主だ。彼女がギルドの争いの仲裁に行けば、必ずそのギルドは彼女の支配下になってしまうという耳を疑う伝説を持っている。
そんな彼女と結婚を果たした俺は勿論彼女に見合うほどのプレイヤーだ。現時点での最強のボス『残忍な殺意』を無課金で倒した唯一の男、『金無しのニジゲン』として壁ダン界で名を馳せている。
ちなみに結婚すると、相手の元へ何のリスクも消費もなくワープが出来るようになる。つまり、最強のヒーラーがいつでもどこでも駆けつけてくれるのだ。その逆も然り。
俺はそれが狙いで結婚を決めた。彼女もそうかは知らないが、多分そうだろう。
しかしここまで昇り詰めてしまうと、やることと言えば地味なレヴェル上げだけになる。
そう思うと俄然やる気を失った。ネトゲの卒業を決心するほどに。
そしてそのことを妻に報告した際、「最後にリアルで会ってみませんか」というお誘いを受けたのだ。
断る理由は沢山有ったが、どうしても気になることがあったので俺は渋々了承をした。
振り返り終了。
こうやって自分の過去を振り返るのは、物語を読んでいるようで少々楽しい。この世界が二次元だったならば、少々では済まないのだが…………涙腺が……。
とりあえず一段落したところで、俺は紅茶の入ったカップを手に取り一服した。
【一三時五九分】
待ち合わせの時間まで、あと一分だ。
さて、一体どんな奴が来るのだろうか?
相手が女とは限らない。むしろ、男である可能性の方が高い。しかも、最強と呼ばれるほどやり込んでいるような奴だ。そうなると、肥満体質の中年(無職)というのが相場と決まって……アテナさんに限ってそれは無いと思うが。
それならなぜリアルで会おうとしたのだろうか?
ホモか? 恐喝か? 押し売りか? ……アテナさんに限って、それは無い気がする。
まぁなんにしても、どうでもいいことだ。
今日、俺はアレを確認しに来ただけだから。
俺がまた過去を振り返りに入ろうとしていると、突然声がかかった。
「あの、ニジゲンさんですよね? 初めまして、アテナです。今日はこんな所まで来て頂きありがとうございます」
その声の主は、通路に立っている大学生ぐらいの女性であった。
頭の両側についた短い三つ編みに、優等生が掛けるような赤縁眼鏡と茶色のコート。胸は大きめである。背は俺と同じぐらいだ。緊張しているせいかおどおどとした物腰で、大人しそうという印象が受けた。そして、三次元である。
このままジロジロと観察しているのも失礼、あと俺の正気度が減少するので、俺は彼女の背後の景色に焦点を当てた。
茶色の壁である。
……顔はきちんと視界に入れているので、失礼ではないはずだ。多分。
まさか、リアルでも女の子だったとは……相場を調べなおす必要がありそうだ。
しかも彼女の口調はわざとやっているのか天然でやっているのかは分からないが、ネットでのそれと変わらない。あとこの文学少女が成長したような容姿と大人しめだが芯のある声色が、俺のイメージ通りだ。
次元以外は。
俺はアテナさんに気付かれない程度の小さなため息をついた。
しかし、ため息には気付かなくても残念そうな雰囲気には気が付いたらしい。
アテナさんは俺の顔色を窺うように尋ねた。
「……違いましたか?」
「ニジゲンです。初めまして」
アテナさんは安心したようにため息を吐くが、それを失礼だと思ったのか「すいません」とすぐに謝った。
「よかったです。無事会えて」
彼女は無警戒な笑顔を俺に見せた。
……これが演技だったら俺はもう誰も信じられなくなってしまうだろう。しかしアテナさんに限ってそんなことはないはずだ。きっと。
アテナさんはそんな俺の疑心を知っている訳もなく、ただ嬉しそうに三つ編みを揺らしながら俺の顔を観察している。
「…………」
「…………」
恥ずかしくなってきた。
「とりあえず、席に座ったらどうです? ここを予約したのはアテナさんですし」
「あ、そうですね」
彼女はどこか気まずそうに、俺と反対側のソファに腰を落ち着けた。
「待たせましたか?」
「いえ」
「良かったです」
「でも、この場所は嫌いです」
「悪かったです……」
「…………」
「…………」
気まずい沈黙。
しかし俺はこの沈黙を打破する気はない。もう俺の目的は果たされたからだ。
あとは帰るタイミングを図るのみ。一瞬でも早くこの場所から離れたい。居すぎると吐いてしまうぞ。
だがアテナさんは違うようで、何から話すべきか少し悩んでいる様子だ。
「そういえば、なぜリアルで会おうと?」
時間が掛かりそうだったので自分から話しかけてみた。何も喋らずに帰るほどの度胸は俺にはないのだ。
「え、あの、えーと」
アテナさんは言い淀む。あと、若干顔を赤くしている。
一体何が目的なんだ? 早く言って欲しい。客観的に見ると惚れちゃいましたテヘペロにしか見えないぞ。
しかし彼女が三次元だとはいえ、急かすのは胸を痛めそうだ。
なので、俺は天上にある羽根車がゆっくりと回転している姿でも見て時間を潰すことにした。
「ニジゲンさん!」
「は、はい」
数分後、ようやく決心がついたのかアテナさんははっきりした声で目を回し始めた俺を呼んだ。
俺はアテナさんの三つ編みに焦点を合わせる。ずっと見上げていたので首が痛い。
アテナさんは真剣な表情で俺の目を見ながら言った。
「私、ニジゲンさんとチャットで話すのが、とても大好きなんです。だから、友達になってください!」
「――ッ!?」
……こうもはっきりと言われると、例え相手が三次元だとは言え照れくさくなってしまい、俺は逃げるように視線をまた羽根車に戻した。
……俺と話すのが大好き。
俺もアテナさんと話すのは好きだ。
これは結婚してから思うようになったことだが、彼女と話すとなぜか胸が温かくなる。なぜか充実感が得られるのだ。ここが三次元ではなく、二次元だと錯覚してしまうぐらいの。
そうだな。うん、そうだ。
俺は顔を戻し、少し辛いがアテナさんの目をしっかりと見て言った。
「ネット上の友達でお願いします」
俺は今日、俺にこんな錯覚を抱かせるアテナさんが本当に三次元の人間なのかを確かめに来たのだ。
最初見た時はやはりかと落胆してしまったが、二次元だと錯覚させる空前絶後の能力をもつ彼女と顔を見合わせない友達となれるならば、嬉しい以外の表現は出来ない。
「…………」
アテナさんは驚いたように、口を開けている。
無理もない。リアルでネット上の友達になろうと言っているのだ。
俺はよく常識知らずの変人扱いを受けるがそんなことはない。俺はきちんと常識をもっている。しかし、完璧完全な常識があってもそれを体現出来る素質が俺にはないのだ。
まぁ、これは大袈裟に言った場合だが。
「すみません」
俺は素直に謝った。
このように常識的な行動は普通にとれる。むしろ、その方が圧倒的に多いぐらいだ。ただ、そうじゃない行動の方が印象に残り、変人のイメージが取れないだけなのである。
アテナさんはハッと我に返って言った。
「いえ。こちらこそ、見苦しい所をお見せして……では、ネット上から始めましょう」
了承を得て、思わず顔がニヤケそうになってしまう。
だが俺にはニヤケ顔を見せるような趣味はないので、隠すように紅茶を飲んだ。
「…………」
「…………」
どうやらアテナさんに理由を追求する気はないらしい。
それは拒絶のようなことをされたショックのせいなのか、それともチャットでのやり取りで俺の三次元嫌いをなんとなく分かっているのか俺にはやはり分からないが、どちらにしても聞かれないのはありがたい。俺も常識知らずと思われるような恥ずかしいことは言いたくないのだ。
あ、まさかアテナさん、俺を気遣って言わないのか。アテナさんなら有り得る。何せ聖母と言われている御方だからな。流石だぜ。
その若き聖母は、空元気に見えるような笑顔で俺に言った。
「ネット上の友達も、友達だから、いいですよね!」
俺は揺れる三つ編みを目で追いかけながら頷いた。
真の友達には立体的空間など不要なのだ!
「でも、それだけだったら、わざわざリアルで会わなくても」
「一度、ニジゲンさんと会ってみたかったんです。リアルで」
「ああ、なるほど」
……納得していいのか、自分。しかしそこを詰問するのは薮蛇な気がする。
アテナさんは残念そうに言った。
「私はリアルで直接会って喋る方が好きなんです」
「すみません。俺、アダルトビデオとか、音声だけの方が興奮するタイプなんですよ」
「……………」
「……………」
「……………」
「今のなしで」
「分かりました」
俺は振り返らない。反省もしない。なぜなら、全て無かった事になったのだから。
後悔だけはしている俺を見てアテナさんは微笑みながら言った。
「喋るのはいいんですね」
無かった事には出来ない。それが人生。
「喋るだけならいいですよ」
三次人を見なくていいのなら。
「じゃあ、電話番号を交換してくれませんか?」
「……いいですよ」
そういえば、メアドしか交換してなかったな。まぁ二次元と喋る疑似体験が出来るのなら大々的に大歓迎だ。
俺は猫に引っ掻かれまくった歴戦の猛者のような黒色の携帯電話を取り出し、赤外線の操作をする。ちなみに折畳み式である。そのおかげで画面には猫の被害がない。
「ニジゲンさんも猫飼っているんですか?」
「俺は飼ってないです。アパートで隣の部屋に飼っている人がいるんですよ。それが俺の城に不法侵入して……」
「そうなんですか」
アテナさんは楽しそうに微笑み、自分の携帯を見せた。
それはアテナさんのイメージにあった緑色の携帯電話。しかし俺の物と同じく容赦ない傷痕がついていた。ついでに彼女のも折畳み式だ。だから画面に傷はないだろう。折り畳み万歳。
「買ったばかりだったんですけどね」
「それは残念でしたね。また買ってください」
苦笑しながら、アテナさんは赤外線ビームを俺に向けて言った。
「私が送ります」
「分かりました」
俺もビームを彼女の携帯に向けた。すると、すぐに彼女の個人情報が俺の携帯の電話帳に登録された。
俺の電話帳に人の名前が登録されるなんて久しぶりだ。最後に登録をしたのは警察の電話番号だったしな。
「じゃあ、次は私が貰います」
今度は俺が送る番か。
間違えて他の奴のデータを送るなんて失敗はせず、無事に交換は終わった。
「ありがとうございます」
再びアテナさんの無警戒な笑顔が俺に向けられた。
しかし、まさか友達(ネット上限定)になってしまうとは。
何か、俺の人生を狂わすような罠でもあると思ってここに来たのだが、この分では本当に友達に成りに来ただけのようだ。平和万歳。これからはアテナさんだけは信じよう。
さて、お互いの用事が済み、俺は既に昼食は済ましているので、俺がこの喫茶店にいる必要はもうない。
「じゃ、俺はこれで失礼させてもらいます」
「え。もう帰るんですか?」
アテナさんは本当に寂しそうな目で、俺を見る。二次元だったら危なかったぜ。
「はい」
これ以上ここにいたら、本当に反吐を吐くかもしれないので。
「それじゃあ、ニジゲンさん」
「これからもよろしくお願いします!」
アテナさんは無邪気に笑いながら、右手で俺の手を握った。
無理無理無理無理。気持ち悪い悪い良くない善くない好くない。死ぬ生きたい死ぬ。死ねない。生殺し。見苦し。手苦し。鼻苦し。聞き苦し。味苦し。感狂い。生理的拒絶感が俺の全身を光の速度で駆け抜ける。進撃する。そして、死んだ。いや、まだ生きてる。俺も三次元だ。だが二次元ふぁ。あーあー、化物化物傷物、俺に何を語れと、あわあわあわですの。ぐりふぉお――
「ん?」
我に返ると俺はソファの上に立っていた。
通路には割れたカップの破片が散乱し、居場所を失った紅茶は床や机を潤している。
そして、アテナさんは右手を左手で押さえながら、
怯えた表情で俺を見ていた。
「い、まの、なし、で」
俺は震え声でそう言った。