ダメ姉は、味覚を失う(その7)
「…………マコ姉さま。姉さまは今……味覚を失っているのですね」
カナカナ、そしてレンちゃんと先生が静かに見守る中。私の目の前に立った最愛の妹であるコマから発せられたその一言は、残酷に冷酷に……私に確実な絶望を与えてくる。心臓を鷲づかみにされたような衝撃が襲いかかってくる。
「……なに言っているのかなコマ。あはは……味覚を失うだなんて……昔のコマじゃ、ないんだから。……これは……これは、そう。新しい料理のレシピを……試作していただけで……ちょっと失敗しちゃっただけで……」
それでも自分に出来る精一杯のポーカーフェイスで何でもない風に嘘を吐く私。……声はかすれ、視線はあらぬ方向へ飛び、ぽたぽたと嫌な汗が溢れて……明らかに嘘ついているのが誰が目にも明らかであっても……そうせざるを得なかった。
「マコ。残念だけど、今更何をどう言い繕っても遅いわ。わたしたちの仕掛けに一切気づかなかった時点で言い逃れ出来ないわよ」
「マコ先輩……お砂糖とお塩の区別すら……付いていませんよね……」
「あ、味見をした上で……味に納得した上で……これを誰かに食べて貰おうって思っているのであれば……マコさん。私は貴女を破門します……よ」
「…………」
無論、そんな私の最後の悪あがきを信用する人間など……この場に一人だっているはずもなかった。いつもは私の言うことならなんでも信じてしまうレンちゃんも、私の料理の腕を付きっきりで磨いてくれていた先生も。大親友のカナカナも……誰一人として私の言うことなど信用してくれなかった。
「……かなえさま、それに皆さまも。ありがとうございました。後は私が」
「ん、そうね。今回ばかりはコマちゃんに任せた方が良い案件よね。癪だけど任せるわ。……ほら、柊木も先生も。ここは一旦帰るわよ」
「あ、はい……です」
「そ、そう……ですね……」
もう用は済んだと言わんばかりにさっさと出て行こうとするカナカナ。そしてカナカナに引っ張られるようにレンちゃんと先生も後を追う。そんな皆に声をかける余裕もなく、私はただただ呆然と見送ることしか出来ない。
と、玄関の扉に手をかけた彼女たちは……扉に触れる直前、クルリと私の方を向いてこう告げる。
「あ、あの!マコ先輩……!これだけは言わせてください……ッ!あ、あたしが先輩を尊敬するきっかけって……確かにお菓子作りからでした……!」
「レンちゃん……?」
「で、でも……!でもですね!あたしが先輩を尊敬するようになったのは、お菓子作りそのものじゃなくて……!先輩に励まされた時の先輩の優しさとか、かっこよさとかだから……だから……!…………えと、あの……その……と、とにかく!あたしはどんな先輩でも憧れていて、大好きなんです……!」
最初にレンちゃんが涙目で、一生懸命そう私に伝えてくれた。
「えと……あの……わ、私も……料理がきっかけでしたし……マコさんの神のような舌が機能不全なのは居たたまれない気持ちでいっぱいです……」
「先生……あ、あの……私……」
「ですが……私がマコさんを弟子に取りたいと真に思うようになったのは、貴女の料理に対する姿勢そのもので……なので……もしも仮にこのまま貴女の舌が元に戻らずとも……私にとっては、マコさん。貴女は私の自慢の……一番弟子ですから……どうか忘れないで下さい。……ああそうそう、来週水曜日はマンツーマンでのお料理修業を予定していましたよね。待っていますからね」
先生も私に失望するわけでもなく、ごくごく自然に来週の料理教室の予約の確認をしてくれた。
「んじゃわたしも折角だから言わせて貰いましょうかね。マコ、あんたが何を考えてこのことを黙っていたのかは知らない。けど……おおよその見当は付いているわ。その上で言わせてちょうだいな」
「……なにかなカナカナ?」
「――バッカじゃないの!?」
「ひぅ……!?」
そして最後にカナカナは……私を全力で罵倒してくれる。
「ったく……まさかマコにフラれた時と全く同じ事を言うことになるとは思わなかったわ。この際だから、あの日と一言一句同じ事を今ここで言うわ。マコ……あんたはね――」
『ダメなところもいっぱいあるけど、良いところもいっぱいある―――いいえ、ダメなところも全部含めて……あんたは素敵な女なのよマコ。あんたが自分で思っている以上に……本当に素敵なのよ』
カナカナのその言葉は、私があの日……中学時代カナカナに告白されて……カナカナを振った時にカナカナに餞別として貰った言葉。
「――私があの日マコに言った事、ちゃんと思い出した?」
「……うん」
「そう、なら良かったわ。じゃあ……そのわたしの言葉をもう一度だけよーく胸に刻んでから……盛大にコマちゃんに説教される事ね。それじゃマコ、また明日大学で会いましょ」
そう言って手を振って、カナカナはレンちゃんと先生を連れてこの家を後にする。
「…………」
「…………」
残されたのは私とコマの二人だけ。何も言えず立ち尽くす私をよそに、コマはさっきまで私が作っていた朝ご飯を自分のお皿によそって……そのまま一人食していた。
「……なるほど。これを姉さまがお作りに……半信半疑でしたが……本当に味覚がなくなっているのですね」
黙ってよそった分の食事を食べきったコマは神妙そうに呟く。あのコマが……私の作った料理を微妙そうに食べるなんて……今の私には味なんてわからないけれど、それがどれだけ酷い味だったのか……顔を見るだけで分かってしまう。完食して貰うのがもの凄く申し訳なく思ってしまう……
「……いつ、から?」
「はい?」
「コマは……カナカナたちは、いつから……気づいてたの?」
「今回の件ですか?姉さまが味覚を失っている事自体に気づいたのは2,3日前ですね。レンさま、先生から姉さまの味覚が鈍っている気がするという話を聞いて……もしやと思いまして。私と同じ考えに至ったかなえさまが、だったら確かめてみようと今日の作戦を練ってくれました」
「そっか……」
「ああ、ただ……姉さまの様子がおかしいと気づいたのは大体一ヶ月くらい前からでしょうか?ちなみにかなえさまたちも、同じくらいの時期に姉さまが様子がおかしいことに気づいていたみたいです」
つまり私が変だって事は……最初からバレバレだったって事か……コマにも、皆にも……一ヶ月……皆心配してくれてたんだろうな……やるせなさと申し訳なさでいっぱいになってしまう。
「さて。私も姉さまに聞かせて欲しいのです。姉さまが味覚障害になられたのはいつからなのですか?」
「……ちょうど一ヶ月前」
「ああ、やはりそうでしたか。……ですが姉さま?味覚障害を発症された割に……私の前では普通に味覚は機能していたように思えます。それは何故なのですか?」
当然聞かれるのはわかっていたコマのその質問。数分間言うか言うまいか逡巡したけれど……ここまで来たら何を取り繕っても無駄だと判断し……ぽつりぽつりと答えを紡ぐ。
「…………信じて貰えないかも知れないけど。私にも、どういう理屈かわかんないんだけど。どうやら私……あの時のコマと一緒で……コマと口づけを交わすと……その。味覚が戻るの」
「……へぇ」
「けど……永続的に戻るんじゃなくて、時間制限があって……コマと口づけを交わしてから……大体1時間前後で効果が切れるみたいで。そうなると……また味覚が……なくなっちゃうの。だから……味覚を戻すには、コマとの口づけが不可欠で……」
「…………なるほど。薄々そうなんじゃないかとは思っていましたがやはりでしたか。ここ最近、やけに姉さまが食事前に積極的に口づけを強請ってくれるのは……そういう理由からでしたか……そうですか」
うんうんと頷きながら納得した顔になるコマ。数年前自分も経験していた事だけに、冗談みたいな私の話もコマはすんなりわかってくれる。
「そ、そうなの……!コマに口づけして貰えさえすれば……私の味覚も元に戻るの……!だ、だから大丈夫……!毎度毎度口づけされちゃうのはコマは迷惑かけるかもしれないけど、でも料理前に口づけさえしてくれたら……唯一許された特技である料理だけは――」
「姉さま」
必死になって訴える私。けれどコマは私の話を遮って、コマは長い長いため息の後に……こう宣言する。
「マコ姉さま。姉さまには大変申し訳ございませんが…………今の姉さまとは、口づけはしません。したくありません」




