三(その二)
話を聞き終えた聖夜は、かける言葉をなくしていた。それを疑われていると理解したのか、孝則は喉の奥で皮肉をこめて笑った。
「思った通りだ。信じられないって顔してるな。なにが『親友だろ。ぼくは信じるよ』だ。作り話だろうって思うのはおまえの勝手だが、これはどう説明するんだ?」
荒々しくシャツを脱ぎ捨て、孝則は上半身裸になる。
「まさか……」
聖夜は息を飲んだ。
孝則の胸元と背中には、無数の傷がつけられている。どれもが獣――例えるなら、猫のような鋭い爪と牙を持つ動物――の爪痕を想像させた。
「信じられないだろ。まるで吸血鬼映画だからな。おれ自身、どこまでが現実でどこから夢か解らないんだ。でもこうして傷痕が残り、おれは日に日に弱っていく……」
「たしかに、映画のような話だけど」
聖夜は言葉を切り、孝則にシャツを着せ、ベッドに寝かせる。
「ぼくは信じるよ。孝則は嘘をつくような人じゃないからね」
孝則の話を聞いた聖夜は、先日病院で体験したことを思い出していた。
あれは夢だ。自分自身にそう言い聞かせることで合理的な説明をつけ、記憶から消し去るつもりでいた。
だが実際は違う。母に似た少女が吸血鬼で、美奈子を仲間にした。
いや、あの少女は死んだはずの母かもしれない。吸血鬼なら十八歳の姿でいるのも説明がつく。病院での出来事は現実で、吸血鬼は実在するのかもしれない。
そこまで考えて、あまりに漫画じみた自分の発想にあきれてしまった。聖夜は頭を二、三度軽くふって、今の考えを追い出す。
この科学万能の時代に、妖怪の存在などだれが信じるだろう。墓もある流香が吸血鬼になって生き続けているなんてナンセンス以外の何物でもない。
「おれは美奈子の誘惑をふり切る自信がない。あいつのこと好きだけど、こんなのはいやだ。聖夜、おれはどうしたらいいんだ?」
孝則は美奈子におびえつつ、一方で誘惑を喜んで受け入れる自分自身を嫌悪している。そんな泥沼から引き上げてくれと、すがるような目を向ける。
聖夜は少しのあいだ考えをめぐらせ、そして口を開いた。
「解った。今夜、孝則の家に行くよ。これが本当なら、なんとかしなきゃ。なにができるか解らない。でも、ひとりでいるよりは心強いだろ」
力づけるようにそう言うと、孝則は安心したように小さく笑った。
聖夜には、今の話を合理的に説明できる、ある考えが浮かんでいた。それを証明し、孝則にかけられた呪いを解く。そのために行動することを決めた。
* * *
夕焼けが西の空を赤く染め、やがて街は夜に包まれた。ひとつ、またひとつ街明りが灯され、夜を彩る。人々は闇を恐れ、明りでそれを消し去ろうとする。
闇夜という空間が失われたこの時代に、魔物が存在できる場所は残されているのだろうか。
聖夜は部屋の窓から、日が沈むのをじっとながめていた。紫色に染まる空に宵の明星が顔を出す。夜の訪れだ。聖夜はカーテンを閉め、部屋の明りを灯した。
孝則はベッドに座り、両腕で自分の肩を抱きながら、かすかに震えている。
吸血鬼の存在がどうであれ、孝則の恐怖は本物だ。聖夜はなるべくそのことには触れないで、いつもと変わらない態度で接するつもりだ。
「キッチン借りるよ。今日は孝則のために特別メニューを考えてきたんだ。普段インスタントやレトルトばかりでろくなもの食べてないだろ」
聖夜は孝則をつれてキッチンに入り、持ってきた材料を使って料理を始めた。
母親不在の月島家で台所をあずかっているだけあって、聖夜の包丁さばきは慣れたものだ。手際よく次々と料理を作っていく。
ほどなくしてキッチンがいい匂いで満たされた。
「こんなもんでどうかな?」
聖夜の差し出す小皿にはポタージュが入っていた。夢遊病者のように心ここにあらずの孝則に、無理矢理味見をさせる。孝則は面倒くさそうに口をつけたが、とたんに目に光が戻り、顔がほころんだ。
「うまい。さすがだぜ。たいしたもんだ」
「だろ?」
聖夜は得意げに親指を立てた。
「うわさには聞いてたけど、ほんとに料理が得意だな。月島先生がうらやましいや」
「父さんが作らないから仕方なくしてるだけだよ。料理が趣味ってわけじゃないんだ。作ってくれる人がいたら、さっさとやめちゃうさ」
「というわりには、なあんか楽しそうに見えるけどな」
「どうせやるなら楽しまなくちゃね」
スープの鍋をかき混ぜながらふりむいてウインクした。
聖夜は美奈子の件を孝則の幻覚だろうと推理している。親友の話を信じないわけではない。他人から見れば幻でも、体験している本人にとってはまぎれもない現実だ。
自分の不注意で美奈子を失ってしまった孝則が、後悔と自責の念で精神状態を不安定にし、ありもしないものを見ても不思議ではない。身体に残された傷痕は、幻覚にまどわされた孝則が、自分の手でつけているのだろう。
聖夜はなるべく普段通り接することで、孝則の恐怖心を和らげようと考えた。リラックスすれば幻覚から解放されると踏んでいる。一日でも美奈子が現れない夜ができれば、あとはいい方向に進むはずだ。そのきっかけを作るつもりで今日はやってきた。
「孝則は座って見ててよ。その代わり、味の保証はしないよ」
「だめだ。おれ、すっげえ期待してる。いつも外食かインスタントばっかで、手料理に飢えてんだ」
オーバーなアクションでおどける姿は、いつもの孝則だ。先ほどまでのおびえたようすは残っていない。これなら幻覚を見ることなく朝を迎えられるだろう。安堵しながら聖夜は料理を続けた。
夕飯ができあがるころ、孝則の顔には普段の明るい笑顔が戻っていた。
「ひとり暮らしで手料理に飢えてる孝則サンのために、聖夜クン特製、愛情たっぷりのメニューです。オードブルにマグロのカルパッチョ、スープはコーンポタージュ、トマトたっぷりのグリーンサラダ、メインディッシュはブイヨンで煮込んだロールキャベツ。それから内緒だけど、白ワインもあるんだ。アサリのワイン蒸しとともに召し上がってくださいな」
パステル調のテーブルクロスの上には、上品なデザインの食器に盛りつけられた料理が、ところ狭しと並んでいる。キッチンはおいしそうな匂いで満たされていた。
「酒まで準備してるとはねぇ。もしかして聖夜、いつも家で飲んでんのか?」
「教師の目を盗んでこっそりとね。実は父さんのストックしてるテーブルワインを、だまってもらってきたんだよ」
肩をすくめてウインクしながら、聖夜は答えた。テーブルについたところで慣れた手つきで栓を抜く。ワイングラスがなかったので、代わりにビアグラスについで、ふたりは乾杯した。
「こんなふうに、だれかの家に集まってパーティーなんて、したことなかったな」
一口飲んだあとでグラスをテーブルにおき、うつむき加減で孝則がポツリとつぶやいた。
「これからだよ、こんなことができるのは。大学に行っても夏休みや冬休みには帰るだろ。そのときみんなでやろうよ」
聖夜は食事の手を止め、孝則を励ますように笑顔を浮かべた。
「そう、だな」
「バラバラになるって言っても距離だけだよ。ネット使えば顔見ながらチャットだってできる。その気になればいつでも集まれるんだ。ぼくらはいつだって一緒にいるようなものさ」
「なのに……美奈子はそれが解らなかった」
孝則は手にしたフォークをにぎりしめた。絞り出すような声だった。
その直後。孝則が急に目を見開いた。頬がわずかに紅潮し、口元は自然に浮かぶ笑みを無理矢理消そうとしている。隠し切れない喜びを浮かべる一方で、にぎられた拳は微妙に震えている。
期待と不安が交差する姿に、聖夜の胸がざわめいた。
「感じる……美奈子がきた」
孝則は叫ぶと同時に勢いよく立ち上がり、隣のリビングに駆け込む。聖夜も孝則を追いかけようと席立った瞬間。
一瞬のうちにあたりの空気が変わった。真冬の寒さとは異なる異常な冷気だ。あの夜、美奈子の病室で感じたのと同じものだった。
ドアの向こうから伝わる妖気に、聖夜は頭痛と吐き気を覚えた。椅子にしがみついて呼吸を整える。そして気力だけを頼りにしてリビングの扉を開けた。
ソファーには胸をはだけた孝則が横たわっていた。皮膚を数箇所切り裂かれ、血を流している。そして傷口に覆いかぶさるようにしている少女がいた。
新たな人物の出現に、少女が顔を上げる。
「そんな、まさか」
それは行方不明になった美奈子だった。目は獣のように光り、口元は血で染められている。唇からわずかに見える犬歯は肉食動物を思わせるほどに伸びていた。
その姿は吸血鬼そのものだ。
新たな獲物の出現を喜ぶように、美奈子が聖夜に微笑みかけた。
「へえ。月島くんも一緒だったんだ」
美奈子は聖夜の血の味を想像するように、唇をなめた。
孝則の話は幻覚ではなく、事実だった。ではあの夜、病室で体験したことは夢ではなかったのか。
孝則から離れ、美奈子は聖夜に近づく。逃げようにも妖気に当てられて動けない。
聖夜は美奈子の歩みを、スローモーション・フィルムを見るような思いでながめていた。
光を反射して輝く瞳に意識を吸いこまれそうだ。
その刹那。なにかに共鳴するように聖夜の動悸が激しくなった。身体を駆け巡る血がざわめき、熱を帯びる。
美奈子の肩越しに、横たわったまま動かない孝則が見えた。遠目には首筋に新しい牙の痕が見られない。今ならまだまにあうだろう。孝則が吸血鬼になる前に手を打てば、人間のままでいられるはずだ。フィクションの世界を信じるならば。
だが、まばたきすらできない今の聖夜に、なにができる? 相手は闇の帝王、吸血鬼だ。無力な人間にすぎない聖夜たちは、傷つけられ、仲間にされるか殺されるか、ふたつにひとつの道しか残っていない。
――いやだ。
心の中で叫んだ。
心臓の鼓動が耳につく。
――殺されるのも……吸血鬼になるのも。
鼓動が早くなり、激しさをます。
身体中の血が熱くたぎる。
極度の緊張で体温が上昇する。
「月島くんの血はどんな味がするんだろ」
好物のスイーツを目の前にしたときように、美奈子の口調は無邪気だ。
伸ばされた手が聖夜に触れた。冷たさに体温が奪われ、背筋がぞくっとした。半開きになった唇から牙が姿を見せ、聖夜の首筋に近づく。
そのうしろでは、孝則が額を押さえながら、なんとか立ち上がっていた。だが聖夜を救うような余裕は残っていない。
科学的な解釈などせず、孝則の話を素直に信じればよかった。そうすればなにか別の方法を見つけられただろう。だが今となってはすべてが遅すぎる。
聖夜はくやしさのあまり、唇を噛み切ってしまった。わずかに出血し、口の中に血の味が広がる。
それに気づいた美奈子は、聖夜の唇にキスをして血を飲もうと、顔を近づけてきた。
そのとき。突然、美奈子の口元から笑みが消えた。
「まさか、そんな――」
美奈子が目を見開き、聖夜をじっと見た。唇がわずかに震えている。
ふっと妖気が和らぎ、聖夜にかけられた呪縛が解け、身体が軽くなった。
美奈子に一瞬の隙が生じる。
今だ。このタイミングを逃してはならない。
身を沈めて美奈子の腕をかわし、聖夜は孝則に駆け寄った。動きの鈍い孝則の腕を引っぱる。
「待ちなさいっ」
聖夜は孝則をつれて家の外に飛び出した。
美奈子はふたりを追って出てきた。だが聖夜たちに近寄らない。距離を保とうとしているのは美奈子の方だ。
ふりかえった聖夜と視線がぶつかる。そのとたん、美奈子の顔が驚きから別のものに変化した。
そこにいたのは、恐れを抱き、近づくことを拒否する吸血鬼だ。
見まちがいだろうか。だが美奈子の眼力は完全に失われて、今度はルビーの瞳に動きを奪われることはなかった。
聖夜は孝則の腕をひき、やみくもに走った。
凍りつくような空気の中、聖夜の胸元で月光が反射する。そこにあったのは母、流香の形見の十字架だった。
* * *