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三(その一)

    三


 陽が沈んだのはいつだろう。

 気づいたときには夜が訪れ、部屋は暗くなっていた。だが明りを灯すのも億劫(おっくう)だ。

 このまま闇に包まれていたい。

 孝則は胸に痛みを抱きながら部屋のベッドに横たわり、じっと天井を見つめていた。

 美奈子がいなくなってから今日で三日だ。警察は事件の犯人が連れ出したと見て、失踪当夜不審人物が出入りしなかったかを調べている。

 孝則は、すぐそばにいながら朝になるまで気がつかなかった自分がふがいなく、頭の中は後悔でいっぱいだった。

 いつもなら些細な物音でも起きるのに、その夜に限って一度も目覚めることなく朝を迎えてしまった。不自然なくらいに熟睡していた。

 人の出入りがあったら、絶対に目を覚ます自信がある。それなのになぜ気づけなかったのだろう。頭の中で何度もあの夜のことを思い出すが、いくらやっても答えは見つからない。

 後悔といらだちと無念さで、孝則はおかしくなってしまいそうだ。

 当然のごとく美奈子の両親からは責められた。辛いことだがそれを甘んじて受け入れるしかない。

 昨日、事件を知った孝則の母親が父親の赴任先から電話をしてきた。すぐに帰宅すると言ったが、心配ないからと説得し、断った。

 二年前、孝則の父は九州に転勤になった。家事一切が苦手な父親のもとに母親を行かせたのは、今年の夏のことだ。自由気ままで気楽だったひとり暮らしが、今の孝則にはたまらなくつらいものへと姿を変えた。

 だからといって母が身近にいたら、怒りの鉾先を向けてしまいそうだ。ひとりでいることが自分に科せられた罰だと思って、じっと耐えている。

 テレビもラジオもつけていない部屋は、通りを走る車の音がときおり響くだけだ。孝則は静けさに耐え切れず、ステレオのスイッチを入れて音楽をかけた。イコライザーのインジケーターが、真っ暗な部屋でキラキラと光る。孝則は音楽に耳を傾けながら、パネルをぼんやりと見ていた。

 不意に、コツンと、なにかが窓に当たる音がしたような気がした。無視して音楽を聴き続ける。流れているのは、美奈子の好きな洋楽のナンバーだ。しっとりとしたバラードが流れるこの部屋で、孝則は美奈子を抱いた。白く柔らかい肌の感触が、今でも全身に残っている。

 また窓のあたりで音がした。気のせいではなかったと思ったものの、それ以上追求する気にもなれない。

 音楽にあわせて伸び縮みをするインジケーターに、美奈子の横顔が重なる。部屋におかれているステレオは、オーディオに詳しい彼女が、孝則の好きなジャンルにあわせて選んだものだ。

 スピーカーの上にはクラシックカーをかたどった貯金箱がある。美奈子からのバースディ・プレゼントだ。ベッドに乗せられたペアのクッションはふたりで選んだ。壁のポスターは、ふたりでロック・コンサートにいったときに買ったものだ。

 スピーカーから流れる曲にあわせて歌う姿、宿題だった化学の問題集を手に眉をひそめるところ、おどける孝則を見て楽しそうに笑う顔。部屋のいたるところに美奈子と過ごした思い出があふれている。

 また窓になにかが当たる。何度めかの音を耳にしたとき、孝則は音の正体を確認するために、ベッドから起き上がって窓を開けた。

 通りの向こうに、こちらを見上げたまま立っている人影が見える。その影を見下ろした孝則は、わが目を疑った。

「まさか」

 シルエットは、孝則がずっと待ち続けていた人物に似ている。

「美奈子っ」

 孝則は転げるように階段を下り、玄関先に飛び出した。

 人影がいた場所にはだれもいない。会いたいという気持ちが見せた幻だったのか。孝則はわずかな可能性を信じて人影を探す。美奈子なのか関係ない別の人なのか、それだけでも確かめたかった。

 女性の足ならそう遠くには行っていないはずだ。孝則は美奈子らしき人物を探して、家の近所を走りまわった。十分ほどあたりをさまよったが、思った成果を得られなかった。

 希望が見えただけに落胆も激しい。孝則は重い足取りで階段を上り、自分の部屋の前に立った。

「あれ?」

 ドアが閉まっている。慌てて飛び出したから、扉を閉めた記憶がない。孝則は訝しげに思いながらゆっくりと開けた。

「あっ」

 足を組み両手をひざの上に重ねて、机の上に座っている人影がみえる。

「……だれだ?」

 明りの消えた部屋の中、ステレオの表示盤に灯る光が影の人物にわずかに照らす。暗くて顔は解らない。だが親近感のあるシルエットは……。

「まさか――」

 影は机から身軽に降りて、孝則に近づいた。カーテンの隙間からわずかに射し込む月明かりに、人影が足を踏み入れた。

「美奈子!」

 そこにいたのは、失踪中の美奈子だった。孝則が近所を探しまわっているあいだに部屋に入ったのだろう。

「よかった。帰ってきたんだな」

 美奈子は、胸元が大きく開き、身体の線を強調するような赤と黒で彩られた衣服を身にまとっていた。それまで選んだことのない、成熟した身体を誇示するような衣装だ。

「今までどこにいたんだ? おれ、ずっと心配して……」

 孝則の言葉が途切れる。

 漂うように美奈子が近づく。それまで見せたことのない妖しさに、孝則は目を奪われた。

 艶のある唇が妖しい笑みを浮かべる。赤い口紅で飾っても、ここまであざやかな色は出せないだろう。少年のような魅力の少女は、娼婦の色香を持つ女性に変わっていた。

 白い花が血を吸って赤く染められたようだ。

 美奈子の持つ毒々しさに、孝則は棘を持つ真紅の薔薇を連想した。


   *   *   *


 冬の朝は寒く、吐く息も白く凍る。張りつめたような冷たい空気が、睡眠不足でぼうっとした聖夜の頭を刺激し、眠気を追い払ってくれた。凛とした冷気が朝日の中で輝く冬の朝が、聖夜は好きだ。気の引き締まる思いがする。

 今朝も月島と葉月が一緒の電車で、いつも通りラッシュにもまれて通学する。身近で事件が発生しても、聖夜の日常にはなんの影響も及ぼさない。事件発生当時校門に群がったマスコミも今はすっかり影をひそめ、学校周辺は元の静けさを取り戻している。

 これが現実の世界。学校生活の大きなぶれは修正され、いやでも日常が戻ってくる。校門指導の教師に会釈しながら、聖夜はそんなことを考えていた。

 そのときだ。聖夜たちの背後で、女生徒が驚きの声を上げた。ふりむくと人が倒れている。月島がすぐに生徒に駆け寄り、抱き起こす。

「孝則っ」

 聖夜は叫ぶと同時に走った。月島の腕に支えられてようやく起き上がったのは、親友の孝則だった。

「あ……月島先生」

「大丈夫か?」

「ええ、平気です。ちょっとめまいがしただけ……少し休んだらよくなりますから」

 孝則の額には汗がにじんでいる。

「父さ……じゃない、先生、ぼくは孝則の世話をしてから教室に行くので、稲葉先生にそう伝えてください」

 聖夜はふたり分の荷物を葉月と月島に預けた。そして孝則を保健室に連れて行き、ベッドに寝かせた。

 ほどなくして月島から事情を聞いた担任の稲葉が、心配そうにようすを見にきた。孝則は青白い顔でずっと目を閉じている。聖夜は稲葉に頼み、朝のホームルームのあいだだけ、つきそいを許可してもらった。そして養護教諭が職員朝礼に行ったのを見送ったあとで、ようやく孝則に話しかける。

「美奈ちゃんのことがショックなのは解るけど、もっと自分の身体をいたわらなきゃ。ろくに寝たり食べたりしてないんだろ。美奈ちゃん、孝則のそんな姿見たら心配するよ」

「まさか。今のあいつにそんな優しさや思いやりの気持ちなんてありゃしないさ」

 あざけるような笑い声を喉の奥でたてて、孝則は聖夜を見た。頬がこけおち、目だけが異様にぎらぎらとしている。

 優しさのない美奈子など聖夜には想像できない。孝則の言葉の意味が解らなかった。

「忌々しい太陽だ……真冬の陽射しが、こんなに強いなんて……まぶしすぎる。身体が焼けつくようだ……」

 孝則は窓ガラス越しに入る光に身体をこわばらせている。

 それは聖夜の知る孝則ではなかった。バスケット部のキャプテンで、小麦色に日焼けした肌が印象的な孝則は、明るい太陽の似合う爽やかなスポーツマンそのものだった。

 だが目の前の姿は、柔らかい冬の陽射しすら拒否している。太陽とは相容れない者のようだ。

「どうしたんだい? 孝則のやつれ方は普通じゃないよ」

 ベッドのそばにある窓のカーテンを引きながら、聖夜は穏やかに問いかけた。しかし孝則は天井を見つめたままなにも答えない。

「心配事があるんだろ? ぼくでよかったら話してみてよ」

 聖夜の申し出に、孝則はわずかに微笑みを返した。だがすぐにそれは消え、顔には苦悩の色が浮かぶ。

「あんなこと……話したところで、だれが信じるってんだ?」

「あんなこと?」

 孝則は打ち明けることすら不安に感じている。聖夜は、少しでも緊張をほぐそうと、横たわる孝則のシーツを直した。

「心配しなくていいよ。孝則が嘘をつくような人じゃないってことは、だれよりもぼくが知ってる。だから安心して話してよ」

「おれの話を聞いたあとでも、同じセリフが返せるかな」

 孝則の鋭い視線が向けられた。それを柔らかい微笑みで受け止めて、聖夜は答える。

「親友だろ。みんなが疑ったとしても、ぼくは信じるよ」


   *   *   *


 美奈子の訪問は毎夜続いた。

 夜の中、気配にふりかえると、そこにいつも美奈子が立っている。

 普段どこにいるのかと問いかけても、みんなが心配しているから家に帰ろうと言い聞かせても、美奈子は聞き入れない。

「あたしはもう、みんなのもとには帰れない。住む世界が変わってしまったの。でも孝則のことが忘れられなくて、会いに来てるの」

 美奈子はそう言って目を伏せる。それは、離れたくないと泣いたあの夜と同じ、切なく悲しげな瞳だった。

 はかなげな姿は月夜が見せる幻を思わせる。触れた瞬間に消えてしまいそうなのに、それでも抱きしめたい衝動を抑えられない。

 孝則は恐る恐る手を伸ばし、美奈子の頬に触れた。夜気で冷え切っていたが、幻ではなく確かに存在している。孝則は思わず美奈子を抱き寄せた。

 冷たい身体に引き寄せられるように口づけると、腕の中で美奈子は娼婦に変わる。孝則が抑えていた感情を呼び覚ますように、激しいキスが返ってきた。痺れ、全身の力が抜けて、ベッドの上に倒れる。

 美奈子は孝則の着るシャツのボタンを引きちぎるように外し、胸に顔をうずめる。たくましい胸元を這う唇は、蛭のように吸いつく。鋭い爪が身体中の皮膚を切り裂き、血をにじませた。

「うっ」

 痛みに孝則はうめき声を上げる。

 流れる鮮血を美奈子の舌が受け止めた。喉の渇きをいやすように飲み続ける。唇が胸をはう。強く吸われて痕が残る。爪は新たな傷を作り、若い肉体に宿るエネルギーを流れさせた。

 爪で傷つけられ舌先でいやされる中で、いつしか痛みは快楽に変化する。甘美な感覚に全身の力が抜け、美奈子の動き以外はなにも感じられなくなった。

 美奈子は孝則に口づけた。それは氷のように冷たく、血の味がした。自分の命を美奈子が吸い上げ、そして彼女を通してふたたびこの身体に取り入れる。

「やめて……くれ」

 自分のしていることに、孝則は強い嫌悪を感じた。だが身体は歓喜とともに受けいれる。理性で抑えつけることは絶対にできない。原始的な感情が果てることなくそれを求める。

 魔性の魅力がそこにあった。

 美奈子は魔性の者に変わっていた。それが解っていても離れられない。恐怖よりも遥かに強い力で惹きつける。一度味わったら理性だけでは手放せないのか。

 快楽という名の蜘蛛の巣に絡めとらえられた獲物になり果てる。持てる力をふりしぼって抗っても、誘惑から逃げ出せない。

 不意に美奈子の瞳が月光を反射する。

「孝則、あたしと一緒に夜の世界に来て」

 大きく開かれた口元に、鋭い牙が姿を見せた。

「よせっ。やめろ、美奈子っ」

 わずかに残された理性が警告を発し、美奈子を抑え、牙から逃れようとする。だが蜘蛛の糸は孝則の精神を絡め、身動きすらさせない。

「ぐあーっ」

 悲鳴が上がった。首筋に鋭い痛みが走り、孝則は美奈子の牙にかかった自分を知った。

 それなのになんということだろう。瞬時に痛みは消え、これまで体験したことのない快感が孝則の身体を駆け抜けた。

「美奈子……おまえ、まさか……」

 孝則の脳裏にある言葉が浮かんだ。

 ――吸血鬼。

 フィクションの中で出会ってきた、伝説の魔物。美奈子はその吸血鬼になっていた。太陽のもとでは生きられない夜の住人。住む世界が変わったという言葉の意味が、ようやく理解できた。

 頭が重く思考がまとまらない。身体が(だる)い。

「ときがくれば、あなたもあたしと同じ身体になる。そのときには、孝則、あなたも夜の住人よ」

 ベッドに横たわる孝則の頭上で、美奈子の声が響いた。

「これでもう離れないですむ。永遠のときの流れをともに生きられる……」

 孝則はまぶたを閉じたまま、遠ざかる声を聞いていた。

 しばらくして目を開けたとき、美奈子の姿はどこにもなかった。

 よろけながらもなんとか起き上がり、孝則は鏡の前に立つ。そこに映っているのは、身体中に残る生々しい傷と、首筋につけられた吸血鬼の口づけの痕だった。


   *   *   *




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