十三
十三
聖夜と月島が教会に戻るころ、東の空は少しずつ明るくなり始めていた。降り続く雪にあたりは白く染められている。雪になれていない街は混乱し、交通渋滞を招くだろう。聖夜が産まれた日と同じだ。
無事に帰ったふたりを、神父は心から喜んで迎え入れてくれた。冷え切った身体を温めるのは、昨日と同じ、甘いココアだ。
神父の自室で、月島はソファーに座ったまま、外をじっとながめている。その隣で聖夜は、カップを手にして、父の横顔を見ていた。
「そのままでは家に帰るのも困るでしょう。朝になってしまいましたからね」
神父は聖夜が着られそうな服を、寄付されたものの中から見繕って出してくれた。指摘されて初めて、聖夜は自分の着る服が血だらけなのに気づいた。
「どうぞ。着替えるついでに、傷の手当をなさってください」
神父が救急箱をテーブルにおいた。月島が薬を取り出す。聖夜は礼を言って服を脱いだ。
手当をしようとした月島の動きが止まる。ほんの少しのまをおいて、つぶやく。
「……怪我は、なかったのか?」
「いや、そんなことないはずだけど」
手のひらも、足も、腕も、背中も、ガラスの破片を握ったり刃を受けたりして、傷だらけのはずだ。その証拠に服はあちこち破れ、血で汚れている。
「でも聖夜。おまえの身体はどこにも傷跡が残っていない」
言われてみれば、あれだけの傷を負ったのにもかかわらず、痛みは既に消えていた。いやそれ以前に、もし傷が残っていれば、平気で歩いたり会話できたりするはずもないだろう。
聖夜は救急箱の中からはさみを取り出した。柄をにぎりしめ、自分の手のひらを凝視する。
大丈夫だと思っても確信はない。だがどうしても試してみたかった。息をとめ、思い切って手のひらに刃を滑らせる。
「やめろ、なにをするんだ」
月島が止めるまもなかった。
力任せに傷つけた手のひらから血がにじみ出て、肘まで伝わる。月島はあわてて、綿で聖夜の傷口から血をふき取った。
「思った通りだよ」
自分の手をながめて、聖夜がつぶやく。
ぱっくりとわれた大きな傷はほんの数秒で血が止まった。父と神父が見つめる中で、傷が見る見る閉じていき、数分もかからないで完治した。さながら特撮映画のワンシーンだ。
月島が手にした消毒薬が、行き場をなくす。
「やっぱりそうなんだ。ぼくはもう、普通の人とはちがうんだね」
「でもきみは、人々の希望でもあるのですよ」
神父は昨夜と同じ内容を、聖夜にも語ってくれた。そしてコナーの肖像画も見せてくれた。
自分を描いたものだといわれたも、疑うことなく受け入れただろう。それほどに、コナーと自分は似ていた。記録には書かれていないそのあとの物語も、今の聖夜たちには簡単に想像できる。
聖夜は目を閉じ、コナーに思いを馳せた。
昼の世界からも夜の世界からも疎んじられたコナーは、それでも母のいる人間の側につき、たったひとりで彼らのために尽くしてきた。そんな彼が夜の世界に飛び込んだのには、どのような意図があったのだろうか。
夜のなにに魅力を感じ、昼のどこに嫌気がさしたのか。今の聖夜にはわからない。自分の意志で選んだのか、そうせざるを得なかったのか。それも含めて、聖夜には想像できないものばかりだった。
同じ顔をしたダンピールの生き方が、自分の未来を暗示する。
夜の世界か、死か。自分もいつの日か選ぶときがくるだろう。
考えなくてはならないこと、見つけなくてはいけない道。新しい世界の扉を開いてしまった聖夜には、どれもすぐに解決できないものばかりだ。
だが幸いにも時間はありあまるほどある。
「今日はクリスマス・イヴ。おまえの誕生日だな」
月島の言葉が聖夜の思考を止めた。
「約束を覚えているか?」
「約束って?」
「誕生日を一緒に祝おうって言っただろ」
月島の口元に、穏やかな笑みが浮かぶ。
「すべては終わったんだ。今日はゆっくり休みなさい。準備はわたしひとりでもできるからな」
「父さん……」
聖夜のつぶやきは、礼拝堂から聞こえ始めた賛美歌に消された。
「さっそく帰って支度を始めるか」
月島は神父に手短に礼を述べ、足早に部屋を出た。あまりの性急な行動に、聖夜はとまどいを覚える。
「父さん、待ってよ」
聖夜は立ち上がり、先を急ぐ月島を追いかけた。
暖かくて力強い父だと思っていた。どんなときも聖夜をかばい、こんな事件の中でさえ、命懸けで守ってくれた。
今はその背中が、とても小さく見える。
進むべき道が、不意に見えた。
教会の門のそばに立ち、月島は聖夜を待っていた。雪の中、傘もさしていない。
顔にはどこか楽しげな表情が浮かんでいる。戦いが終わったことを喜んでいるのだろうか。それともこのあとのパーティーに気持ちをうばわれているのだろうか。
「父さん?」
聖夜が声をかける。
瞬間、月島の口元が小さく震え、ピエロの仮面がはがれた。
無理してはしゃいで、現実からのがれようとしている父がいた。その姿が聖夜の胸を鋭い矢のようにつらぬく。聖夜は歩みをとめ、月島をじっと見た。
「さあ、帰ろう」
父が自分に手を差し伸べる。
暖かく優しい、大きな手のひらだった。だが聖夜は、その手にふれることができない。
「ごめんなさい、父さん」
「どうした。なにを謝っているんだ」
「もういいよ。ぼくに誕生日はこなくなったから」
「こないって。今日がその日じゃないか」
聖夜はゆっくりと顔を左右にふった。無理して笑顔を作ろうとするが、うまく笑えた自信がない。
「ぼくの時間は止まってしまった。もう十八歳を迎えることができないんだ。だから――約束守れなくてごめんね」
聖夜は月島のそばまでゆっくりと歩き、傍らで立ち止まった。
十八年間、ずっと父をたよりに生きてきた。暖かく力強い手に守られて、なんの不自由も感じることなく育てられた。片親なのを寂しいと思ったこともない。ふたり分、いやそれ以上の愛情で、聖夜をずっと見守ってくれた。
幼いころは見上げなければならなかった父の姿を、見下ろすようになったのはいつからだろう。
目元に刻まれたしわ。毎日一緒に生活し、顔をあわせていたのに、今までそれに気づかなかった。この半月ほどで一気に老け込んだのかもしれない。この事件で、父はまるで数年の時間を旅したようだ。
すべては自分に原因がある。
血のつながりがないぶん、深い絆でつながれた親子だった。こんな事件がなければ、聖夜は月島を実の父親と信じ、疑問を感じることすらなかっただろう。
できればそうしたかった。いつまでも一緒にいたかった。
だがそれはできない。
聖夜は父に向かい、もう一度笑顔を見せる。今度はちゃんと笑えただろうか。
「ぼくをここまで育ててくれてありがとう。父さんのことは、絶対に忘れない。コナーって人が本当の父親だとしても、ぼくにとって父親は、月島秀貴ひとりだけだよ」
月島はだまって聖夜を見つめた。
行くなとも言えない。だが別れの言葉も口にできない。聖夜が今からなにをするつもりでいるのかを理解できるだけに、言葉をなくしてしまう。
「子猫のこと、よろしくね。約束したのに、世話できなくなってごめん。でも捨てたりしないでよ。あの子もひとりなんだから」
「心配するな。面倒はみるよ」
聖夜は安堵の表情を見せた。
「よかった。これで安心して行ける」
「行くって――聖夜」
わかっていた言葉なのに、衝撃は予想以上に大きい。
「父さん。元気で……ね」
強い意志を瞳の奥に宿らせて、聖夜が微笑む。深い悲しみと強い決意の同居した笑顔が、月島の胸を掠めた。
雪の舞い散る中、聖夜は月島に背を向けた。そして家とは逆に向かって踏み出す。
「聖夜!」
月島は、息子の背中に叫ぶ。
「どうしたんだ? どこへ行くんだ?」
歩みが止まる。
「一度覚えた血の味は、忘れられない。このまま成長することもできない。ぼくはここで一緒に暮らせないんだよ」
決してふりかえらない。わずかに震える声だけが、耳に届く。
「ぼくのことはほかの吸血鬼やハンターの地下組織に知られた。この先また同じようなことが起きるかもしれない。そんな世界に、これ以上父さんをまきこめないよ」
「聖夜……」
「今度こそ本当に、さよなら、だね」
一度もふりかえることのないまま、聖夜はふたたび歩き始めた。
雪が静かに舞い降りる。月島はその中で、じっと聖夜の背中を見つめた。最後にもう一度だけ、その笑顔が見たい。忘れないように心に深く刻みつけるから。
だが聖夜は、決してふりかえらない。そうすることで決心が脆くも崩れることを恐れているのだろうか。
それならそれでもいい。今ならまだ引き返せる。
心の中で強く願っても、口にすることは許されない。一歩踏み出して、引き止めることもできない。月島はその場に立ち尽くし、無言で聖夜の後ろ姿を見つめることしかできなかった。
白い雪は静けさをつれて降り続ける。人々の罪を覆い隠すように。不浄の色を清めるように。
血に染められた聖夜の手。身体を流れるヴァンパイアの血。そんな聖夜の肩にも雪は等しく舞い降りる。
昼の世界からは忌み嫌われ、夜の世界からは疎んじられる。両方の血を受け継ぎながら、そのどちらからも拒否される。トワイライトの世界の住人たち。
――まきこめないよ。
ともに暮らすことは、互いのためにならない。一緒にいることで、相手の命を危険にさらしてしまう。
そんなことは解っている。だからなんだというのだ。
それでもいいから、戻ってほしかった。ひとりにはなりたくなかった。
事故で逝った両親。愛する家族を守るために去った流香。そして今、住む世界が変わってしまい、旅立とうとしている聖夜。
どんなに手をつくしても、自分には残されるだけの人生しかないのか。
聖夜、いつまでも待っている。旅の目的を果たしたとき、あるいは破れて疲れ果てたとき。おまえの帰る場所は、ここなのだから。
聖夜の影は雪の中にまぎれ、やがて視界から消えた。
教会からキリストの生誕を讃える歌が響く。聖夜の生まれた夜と同じだ。
始まりはクリスマス・イヴの日。そして終わりもクリスマス・イヴの日。
月島の胸に、あの日聞いたものと同じ曲が、少しずつ少しずつ染み込んでくる。
十八年前のこの日、月島は聖夜と出会った。十八回目の誕生日に、聖夜は月島のもとを去った。
そして月島はひとりになった。




