十二(その二)
「おまえに、父であるわたしが殺せるのか?」
「さっきも言ったはずだ。ぼくの父は、あなたじゃない。血のつながりがあろうとなかろうと関係ない」
「口で言うほど非情にはなれまい。残った人間の血が、父親殺しを躊躇わせるはずだ。だが我らはちがう。血のつながりなど関係ない。相手が親や子であっても、躊躇いはない」
切っ先が聖夜の喉をねらう。ドルーの目が妖しく輝き、ヴァンパイアの瞳に変化する。聖夜は少しずつ後退りし、ついには壁際まで追いつめられた。
剣が聖夜の喉元をひとつきにした。
「なに?」
聖夜は間一髪の差で身を沈め、刃先を避けた。立ち上がる勢いで、右足でドルーの肘を蹴る。剣が足元に落ちた。
剣を奪おうとする聖夜。その寸前、ドルーの爪が脇腹をえぐる。
「ぐ……!」
鋭い痛みに、聖夜は体勢を崩した。沈みかけた身体をドルーが殴る。聖夜は窓を破り、外に放り出された。唯一の武器となる杭を手放し、丸腰になる。
白い雪の上に赤い血が飛び散る。ガラスの破片が聖夜の皮膚を傷つけ、血を流させる。ドルーは窓に片足をかけ、聖夜を見下ろした。
「少しはダンピールの能力を使いこなせるかと思って期待したが。なんの訓練もしてなければ、宝の持ち腐れだな」
ドルーの表情に、わずかな失意の念が浮かんだ。剣を手に、ふわりと舞うように聖夜の傍らに飛び降りる。銀髪が、夜の中を華麗に踊った。
仰向けになった聖夜の胸を抑え、雪の舞い散る中、ドルーは剣をふりかざした。
「さらばだ」
そのときだった。
「聖夜から離れろ!」
声とともに十字架が投げられ、ドルーの額に当たった。
「くっ」
うめき声を上げて、額を抑える。十字架のふれた皮膚が焼けた。
「月島! 邪魔をする気か」
聖夜は父がいることが信じられなかった。この場所を話したことはなかったのに。
肩で息をしながら、月島はドルーに鋭い視線を送る。十七年の時間を越えた決着をつけるときだった。
「流香、月島はおまえに任せる」
ドルーが声を上げると、流香がどこからともなく姿を現した。月島の前に立ち、行く手をはばむ。
「流香、邪魔をするな!」
昨夜をともにした流香は、その記憶とともに意志をなくしていた。愛しい人を手にかけようとして、鋭い爪を近づける。
「今度はそうはいかない。愛する女性の手にかかって果てるのだな」
流香の手が月島の喉にかかる。
「うっ」
絞めつける手をほどこうと、月島は流香の手をつかんだ。筋肉に無理な力がかかり、肩の傷口がひらいて血がにじむ。
「父さん?」
痺れる身体を引きずるように、聖夜が立ち上がる。父を助けようとして、無意識のうちにドルーに背を向けた。
「危ない!」
月島が叫ぶ。
ドルーの剣が聖夜の背を切り裂いた。
あたり一面に、赤い血が飛び散った。
父の声で自分のミスに気づいたが、避け切ることはできなかった。
聖夜は雪の上に崩れた。父を助けられない。それどころか、自分の命すら守れない。ダンピールが吸血鬼を倒せるとは、ただの迷信。人々の希望が生んだ夢物語だった。
ドルーやレンの言うように、訓練を受けて初めてできる吸血鬼退治なのかもしれない。
聖夜は自分の能力を過信したことを後悔した。そのおごりが自分のみならず、父まで危険にさらした。
そのとき。流香の手が離れ、月島の身体は雪の上に投げ出された。
「流香?」
咳き込みながら、月島は流香を見上げる。
聖夜の流した血の匂いに引き寄せられるように、流香がゆっくりとふりむいた。
「母さん?」
流香の顔には生気がもどっていた。口元に牙はなく、元の黒い瞳をしていた。
「聖夜なの?」
「流香、なにをしている。月島を――」
ドルーの声は流香に届かない。どんな奇跡が起こったのか。傷ついた我が子の流す血が、流香にかけられたブラッディ・マスターの呪縛を解く。
「ドルー、これ以上聖夜に関わるのは、やめましょう」
「それは、わたしへの命令か?」
「聖夜はダンピール。いずれはこちらにくる日も訪れる。その日を待つことくらい、わたしたちにはたやすいことでしょ」
「だが、それまでの時間、スレーブやマスターが何人も散る。こちら側にくることを拒むダンピールは、即殺す。これがブラッディ・マスターの掟だ」
「そう簡単にいくと思うの?」
「ダンピールごとき、わたしの敵ではない。かつてコナーがそうであったようにな」
何百年という時間の中で闇の世界を支配し、刺客をことごとく返り討ちにしてきた。敗北など、ドルーは考えたことがない。
それを見て流香は、あざけるようにフッと笑みを浮かべた。
「聖夜。あの夜の言葉はすべて偽り。父と言えばあなたを縛ることができると考えた、ドルーの作り話よ。だからなにも手加減することない」
囚われの身になった母。散っていった美奈子。犠牲となった人たち。みんなの人生を踏みにじった。美奈子の最期の姿が、聖夜の胸をよぎる。自分のしたことに対する悲しみと、解放されたときの優しい笑顔は、まぶたの裏に焼きついている。
そして自らが手にかけた葉月。生きている限り背負い続ける悲しい十字架となった、愛しい少女。
「おまえさえいなければ、だれも死ぬことはなかった」
血が燃える。熱い。全身に力がみなぎる。今まで抑えてきたなにかが爆発しそうだ。
「やっと本気になったか」
ドルーは、地面にひざまずいていた聖夜に、剣を振り下ろした。それを紙一重でかわし、ドルーの脇をすり抜けて、後方に落ちていたガラスの破片を取る。ドルーがふりむきざまに、聖夜の左腕を切り裂く。
白い雪の舞う中を、赤い血が飛び散る。ダンピールの能力に、身体がついていかない。聖夜は雪上に倒れた。
剣が聖夜の胸をねらう。破片で剣をさばき、地面を蹴って起き上がる。聖夜の流す命の源が、白い世界を赤く染める。
聖夜は間合いを詰めようとした。だがドルーの動きについていけず、距離を縮められない。ジリジリと押されながら、塀際に追いつめられた。
ドルーの剣が聖夜の右手の甲を切る。痛みに破片を落とす。間入れず剣が聖夜の喉元をねらう。左手で受ける。刃先が手のひらを傷つけた。痛みと戦いながらささえる。血が流れて肘まで伝わった。あとがない。絶望が胸をよぎる。
傷を負った右腕が力なくたれて、上着のポケットにふれた。
「これは……」
中に入っていたものを取り出し、ドルーめがけてぶつけた。瓶が割れ、中の聖水が皮膚を焼く。
「ぐっ」
ドルーが剣を手放した。聖夜が奪い取る。
不思議な感覚が聖夜の全身を走り抜けた。
初めて手にしたそれは、ずっと以前から使い込んできたように、聖夜の手に馴染む。多くの吸血鬼の命を奪った剣は、聖夜に流れる血にきざまれた記憶を呼び起こす。
心臓の鼓動が高鳴る。血が熱い。未知の力が全身にみなぎる。力強いエネルギーが、剣を身体の一部に変える。
ドルーが地を蹴り、聖夜にとびかかった。鋭い爪が顔をねらう。剣でかわす。
互いにまわり込みながら、相手を攻撃する。初めは押され気味だった聖夜の動きが、剣を手にしたときから徐々に機敏になる。一瞬のすきもあたえない。
今や優位に立っているのは聖夜だった。激しい動きに息を乱すこともない。ついにドルーを木の幹まで追いつめた。
ドルーは、傷つき、血を流す肩を抑えながら、聖夜をじっと見据えた。その顔には、一切の敗北感も浮かんでいない。
「わたしを殺しても、ヴァンパイアは数多くいる。おまえの存在はまもなく広まるだろう。さすれば彼らは、放ってはおかぬ。それらすべてを敵にまわすか?」
聖夜の眉が、わずかにひそめられた。
「その中には、おまえの父親もいる」
実の父と敵対する。父の世界をすべて敵にまわす。それが自分の宿命ならば、喜んで受け入れよう。自分のために一生を犠牲にした母のため。命を落とした大切な仲間のため。
「それがぼくの生き方だ」
凛とした迷いのない声が響く。聖夜は満身の力を込めて、目の前にいる吸血鬼めがけ、剣をつらぬいた。
木に串刺しにされた吸血鬼は、それでも苦しむことなく、じっと聖夜を見る。口元に妖しい笑みが浮かんだ。身体が徐々に霞む。最期のときが近づく。
「いつの日か、もう一度……おまえの前にあらわれて……そのときは――」
言葉は途切れた。闇に還るように、ドルーは散った。
夜の世界を支配してきた吸血鬼の、最期だった。
雪が洋館の庭を舞う。
冷たい風が、残された聖夜たちを駆け抜けた。
幹に残った剣をぬき、聖夜は父と母をふりかえった。
流香の足元がふらつき、雪上に崩れそうになる。
「え? 母さん?」
そばにいた月島が流香をささえた。
聖夜はふたりのそばに駆け寄り、父の腕の中にいる流香を見た。そこにいたのは、死をまぢかにむかえた少女だった。
「どうして?」
「次は……わたしの番ね。ブラッディ・マスターの死は、スレーブも死ぬときだから」
「そんな。嘘だろ? 嘘だって言ってよ」
聖夜は父を見た。父はあきらめの表情で、顔をゆっくりと左右にふる。
「父親のことで……嘘を、ついたね。ごめんなさい」
「しかたがないよ。あのとき母さんはドルーの台本通り動いてただけなんだろ。でもさっきは、本当のことを言ってくれたんだよね」
「ええ」
「どんな……人、なの?」
「ドルーが心を開いた、唯一の人。あなたに瓜二つ。本当によく、似てる。聖夜は、あの人の生き写し。ドルーがそばにおきたがるはず」
「その人は今、どこにいるの?」
「わからない。ドルーもずっと捜していた。でもどうしても見つけられなかった。そんなとき彼は、あなたの成長した姿を見たの。殺すつもりだったあなたが、あまりにあの人に似てるから、気が変わったのね。殺さずにそばにおくことにしたのよ。あの人の身代わりに」
流香は聖夜の持つ剣を指さした。
「あの人は昔、ヴァンパイアを倒し続けた。でもドルーに出会い、ブラッディ・マスターになることを選んだの。その剣はあの人のものよ」
「流香、その人の名前はもしかして、コナー?」
月島の問いかけに流香が目を見開いた。
「そうよ。でもなぜあなたが知ってるの?」
「神父さまのところで読んだ本に出ていたよ。まさかとは思ったけど、やはりそうだったんだね」
流香は手を上げて、月島の頬にふれた。
「秀貴さん、ありがとう……短い間だったけど、とても楽しかった……」
流香が小さく微笑んだ。春の日だまりを思わせる暖かい笑みだった。
十八歳のままで、生きることも死ぬこともできずにいた流香。時間を止めたまま、永遠のときの流れを呪われた身ですごさねばならなかった。
流香はそんな運命から、ようやく解放された。
「流香!」
最後にもう一度だけ、月島は流香を抱きしめようとした。しかしそれはかなわない。美奈子のときと同じように、流香は少しずつ霞み、やがて消えた。
からっぽになった腕の中を、月島と聖夜は無言で見つめた。
雪が手のひらに落ちて、とけていく。
聖夜はゆっくりと立ち上がった。涙が頬を静かに伝う。
「哀しすぎるよ、こんなのって」
屈み込んだままの父につぶやく。
「遺体すら残らないなんて」
流香だけでなく、ドルーのスレーブはすべて散ったのだろう。麗もあと一日待てば、生きていられただろうに。
ブラッディ・マスターになることは、それらすべての命を抱えること。倒すことは彼らの命まで奪うこと。
それはあまりにも過酷で、重すぎる十字架だ。
「聖夜――」
「ぼくも……死んだらあんなふうに、なにも残らないのかな」
月島は立ち上がり、聖夜の肩にそっと手をおいた。
「そんなことを考えるんじゃない。死ぬときのことなんて、今のおまえが考えちゃいけない」
父の言葉が聖夜の胸に、ゆっくりと染み込む。肩におかれた手から温もりが伝わる。
辛いのは自分だけではない。聖夜以上に悩み、傷つきながら、それでも父は息子をささえつづける。
「そう、だね」
聖夜は小さくうなずいた。
「おふたりとも。お疲れでした」
不意に声をかけられてふりかえると、レンがゆっくりと拍手をしながらこちらを見ている。
「月島さんもおつれした甲斐があった。お役に立ててよかったです」
油断できない人物の出現に、聖夜の警戒心が生まれた。それに気づいたレンは、ふっと笑いを浮かべる。
「これは、きみの持ち物だろう。あんなところに落としたままではいけないな」
レンが差し出した手の中には、十字架のついたネックレスがふたつあった。ひとつは父、もうひとつは聖夜のものだった。鎖の部分は、戦いのときに切れた。聖夜のピンチを救ってくれたこれは、母の形見でもある。
「聖夜、わたしのところにこないか?」
「あなたの……ところ? なぜ?」
「きみの能力を、吸血鬼退治に使ってほしいと思ってね。彼らの脅威は今も昔も変わらない。危険にさらされている人たちを助けてもらいたい」
月島と聖夜は、予想もしなかった言葉に、顔を見あわせた。
「助けるって、やっぱりあなたはダンピールなんですね」
「いやそうじゃない。わたしは普通の人間だ。だがヴァンパイア退治をしている地下組織のメンバーでね。きみをスカウトしたい。我々は新たなダンピールを歓迎する」
「ぼくを……歓迎?」
吸血鬼を倒す能力を持つ自分。それを求めている人たち。彼らのところにいけば、居場所が得られる。こんな呪われた存在でも生きていける。
だが……。
「あのときあなたは葉月を逃がすこともできた。なのにぼくに殺されるとわかっていながら、助けなかった」
「あの場合は仕方のないことでね。きみを覚醒させられるのは葉月さんだけだった。少女ひとりの命も大切だが、それを惜しんでいてはダンピールは誕生しない。我々はひとりの命より、吸血鬼によって犠牲者となる多くの人々を助ける道を選んだ。それだけだ」
「勝手な理屈だ」
聖夜は葉月を取りたかった。大切な人を犠牲にしてまでなりたいものではなかった。
人の気持ちを理解しようとしないレン。彼とドルーの冷酷さにどれほど差がある?
レンの考え方には共感できない。
「ぼくはあなたと手を組むつもりはありません」
「拒否すると?」
「そうです」
「断るなら、力ずくでも――」
聖夜は手にした剣の切っ先をレンにむけた。
「ぼくはダンピールだ。あのブラッディ・マスターに勝ったんです。そのことを忘れましたか? 無理強いしたところで、怪我するのはどちらでしょうね」
聖夜の目が妖しく光った。
「わかったらもう、ぼくの前には現れないでください」
聖夜は剣をおさめ、レンに背を向けた。
「父さん、行こう」
レンは敗北感に叫び声を上げる。
「聖夜。いつか、我々の申し出をことわったことを後悔する日がくるぞ。今のおまえにこれまでと同じ生活ができるわけがない。いずれはまわりを傷つけることになる。それでもいいのか?」
「後悔するかどうか、決めるのはあなたじゃない」
そのとき、レンが杭を手に、聖夜めがけて突進してきた。
身体をわずかにかたむけて避け、聖夜はふりむきざまに剣でレンの右足を斬った。
レンの悲鳴が響いた。
聖夜は無言のままその姿を見る。心臓が脈打つごとに血が噴き出す。放っておけばレンは失血死するだろう。それでもよかった。
人が目の前で死にかけているのに、なにの感情もわいてこない。これが吸血鬼の感覚なのだろうか。
心に生まれた魔性を意識せずにはいられなかった。
聖夜は不安げに見守っていた父を促し、洋館をあとにした。




