十二(その一)
十二
冬の短い昼が終わり、夜が訪れた。昼すぎから降り始めた雪は、夜になってもやむ気配がない。このままだと朝になるころには、街は白く覆われるだろう。
聖夜は街外れの洋館の前に立っていた。
この中に、血に飢えた悪魔が潜んでいる。彼を倒し、母を解放すること。これ以上犠牲者をふやさないこと。ふたつの目的を果たすために、聖夜はここを訪れた。
聖夜が近づくと、門が自動的に開いた。訪問者は監視されているということか。それならば正面から堂々と行くだけだ。
階段を上り、玄関の扉に手をかける。先走る気持ちが危険を招くかもしれない。目を閉じて呼吸を整え、扉を軽く押すと、聖夜を歓迎するように簡単に開いた。
正面のフロアには、レンが腕を組んで立っていた。
「まさか本当にくるとはな。ドルーの言った通りだった」
聖夜はなにも答えずに、レンを一瞥した。
「ヴァンパイアとダンピールは、互いに呼びあうのか。おまえに逃げられたと聞いても、彼は平然としていた」
「ドルーはどこだ?」
「さあな。会いたければ自分で探せ」
そうだなと頷いて聖夜はレンの横を通りすぎた。正面の階段前に立ち、ドルーの気を探ろうと二階を見上げたときだ。
「無事で、帰ってこいよ」
「――え?」
意外な言葉に、聖夜は耳を疑う。ヴァンパイアを捜すのをやめて、レンをふりかえる。
「おまえは我々の希望だからな」
「希望? ぼくが」
「そこいらの人間が束になっても倒すのが難しいヴァンパイアを、いとも簡単に倒してしまうのさ。おまえらダンピールは」
「そうなんだ」
「ただおまえの場合は、自分の能力を知らずに育った。おかげで基本的な知識もなければ、訓練もしていない。そんな状態でブラッディ・マスターと対峙したがるとは、まったく無謀なやつだ。せめて基本くらいは教えてやりたかったが」
それを指摘されると答えようがない。
「いいか。ダンピールの最大の弱点は、ブラッディ・マスターになってしまうことだ。ドルーに取り込まれないよう、せいぜい気をつけることだ」
レンは聖夜になにかを投げてよこした。受け取って見ると、水の入った小瓶だった。
「聖水だ。それからあれも」
レンは階段のふもとを指差した。見るとアタッシュケースがおいてある。開けて中を確認したら、白木の杭が一本入っていた。
「手になじみやすい大きさにしておいた。うまく使えよ」
レンはそれをおき土産にして屋敷を出ようとした。
「待って。あなたはいったい何者なんですか」
人間だと聞かされていたが、吸血鬼についてやたらと詳しい。
「もしかしてぼくと同じ、ダ……」
「そうだな。おまえが無事に帰ってきたら教えてやるさ。ドルーには正体を知られたくないんでね。万が一ブラッディ・マスターになられたら、いらぬ情報をあたえることになるからな」
「なら、帰ってきたら話してくれるんですね」
「ああ、約束する」
レンは聖夜を残して屋敷を出た。
言われるまでもなく、無事に帰るつもりでいる。聖夜はふたたびドルーの気を探ろうとしたそのとき、奥の部屋の扉が開き、見覚えのある女性が出てきた。
吸血鬼になるためにドルーに協力している人間、麗だった。聖夜は素早く階段の影に身を隠し、ポケットにしたためていたサバイバルナイフを取り出す。麗は聖夜に気がつかず、こちらに歩いてくる。通りすぎたところで、
「動くな」
「だれ?」
素早く相手の背後に立ち、うしろから首筋にナイフの刃をあてた。
集中すれば他者の動きがスローモーションに見える。ダンピールの能力が聖夜の動きを機敏にしていた。一瞬のことに麗は、逃げることもできない。
「ドルーはどこだ?」
「だれかと思えば、この前の坊やじゃないの」
刃物を突きつけられても平然としている。聖夜はもう一度問いかけた。
「ドルーはどこだ?」
「わざわざ探しにいかなくても、あの人の方からくるんじゃないの? あなたを仲間にするためにね」
麗は口元に笑みを浮かべた。
赤いルージュで彩られた唇は、それ自体が生き物のように妖しくゆがむ。かと思うと突然、両腕を聖夜の首に絡めて引き寄せた。
動いた拍子に刃が麗の首筋を傷つけ、赤い血が滲む。唇が聖夜のそれにふれた。
過激で濃厚な口づけだった。聖夜はナイフを持つ手を下ろし、麗に身を任せた。
官能的なキスが聖夜の魔性を刺激する。目覚めたばかりの本能が、麗の身体を流れる血の道をはっきりと見せる。規則正しい心臓の鼓動が耳の中で大きく響く。
痺れるような感覚に全身の力が抜け、聖夜はナイフを落とした。麗は唇を離した。
「いいのよ。わたしの血がほしければ、飲んだって」
麗は、聖夜の顔を首筋に導いた。傷口から滲む血の香りが甘く誘惑する。聖夜の中のヴァンパイアが外に出ようとする。
「あなたは新しいブラッディ・マスターでしょ。だったらわたしをヴァンパイアにして。永遠の命をちょうだい」
「ぼくじゃ……なくて、ドルーに頼めば……いいじゃないか」
「待ちくたびれたの。もう五年よ。このまま年を取って醜くなるなんてごめんだわ」
麗はドルーを見限って聖夜の側につこうとしている。自分の美を永遠にするために手段を選ばない。その浅ましさに嫌悪する一方で、聖夜は麗の誘惑をふり切る自信がなかった。
「ぐ……」
牙が伸び、ヴァンパイアの血が鮮血を求めて暴れようとする。全力で抗う。
「そこまでにしておくのだな」
階段の上から、ドルーの声がした。聖夜は麗から身体を離した。
ドルーは一段一段ゆっくりと降りてくる。麗は自分の首筋に手をあて、顔を恐怖にゆがめた。
「やめることはない。なぜこやつの喉に牙をたてないのだ?」
ドルーは麗の正面に立ち、彼女のあごにふれた。麗の顔は恐怖の色がさらに強くなり、全身が小刻みに震える。
「そうか。もう五年も待たせたか」
「は、はい……」
「待ち切れないから、あのダンピールに鞍替えか?」
「いえ……決してそんなつも……ぐっ」
震える赤い唇に、ドルーが自分のそれを重ねる。聖夜は力なく壁にもたれたまま見ていた。
ドルーの口づけは麗を狂わせる。
巧みに快楽を引き出す吸血鬼のキスに、人間の女がひれ伏す。欲情を刺激され、身体を震わせる。唇の隙間からうめき声と、熱い吐息をはく。麗は、かつて夢の中で見た女たちと同じ姿で、快楽を逃すまいと必死だった。
これがヴァンパイアの口づけだった。刺激的で官能的だ。
半分残された人間の本能は、魔性の行為に恐怖を覚える。残りの半分は、目の前で繰り広げられる行為に、胸の鼓動を高め、歓喜に身を震わせようとしていた。
ドルーは麗の首筋まで唇をはわせた。目が妖しく光り、鋭い牙が伸びた。
「ああっ」
ドルーの牙が皮膚を切り裂くと、麗が喜びの悲鳴を上げた。恍惚とした表情をうかべ、ドルーのあたえる快楽に酔いしれる。
「あ……う……」
麗の顔から血の気が引く。そのころになってようやくドルーは唇を離した。そして耳元で囁く。
「生死も意志も、マスターに支配される。それでもよいか?」
「……ええ」
「日の光と決別し、闇の世界で、生きることも死ぬことも自分では選べない。未来永劫それが続いてもよいか?」
「若くて輝ける時間なんて、まばたきほどの瞬間しかない。それを永遠にできるなら、すべてを捨てたっていい」
身体をドルーにささえられながら、麗の弱々しい声がつぶやくように語った。
「そうか……」
瞬間、ドルーがなにかを思い出すように、遠い目をする。過ぎ去ったときの彼方においてきたなにかが、とうに忘れたはずの感情を呼び覚ます。
「ならば、飲むがいい」
ドルーは自分の胸元をはだけ、鋭い爪で皮膚を切り裂く。傷口からブラッディ・マスターの血がにじみ出た。
「闇の世界への、片道切符だ」
麗の顔を傷口に近づけ、唇に流れる血を含ませる。赤子が乳を飲むように、麗はドルーの血をすすった。やがて飲み疲れたのか、麗は唇を離して、ドルーに身体をもたれかけた。
「始まったか」
ドルーは麗を抱き上げて、すぐそばのゲストルームに入り、ベッドに横たえた。
「次に目覚めたときは、麗もヴァンパイアの仲間だ。おまえもこちらにこないか」
ドルーは聖夜をふりかえった。
「おまえはブラッディ・マスターだ。わたしの血を飲んだとて、スレーブになるわけではない。自分の意志で行動できる。だれからも支配されない。数少ない、自由なヴァンバイアになれる」
聖夜に手を差し出す。
「ともに、永遠の時間を生きようではないか」
「断る」
聖夜はドルーの手を払いのけた。
「ぼくがここにきたのは、吸血鬼になるためじゃない。おまえの命を貰い、母さんを解放するためだ」
「命を貰う、だと?」
ドルーはしばらく言葉をなくし、やがて大声で笑い始めた。
「ぼくはダンピールだ。吸血鬼を倒す能力を持った者だ。それを忘れたのか?」
「だれにそんな話を吹きこまれたのか知らないが、愚かな思いちがいをしているな。昨日までただの人間だったおまえに、その力が操れるか? 自分の能力を過信していることすら解らないのか」
ドルーがいきなり聖夜の頬を殴った。吸血鬼の力は強く、その勢いでドアを破り、廊下に投げ出された。
「もう一度聞く。我らの世界にこないか? 一度知った血の味は、なにがあっても忘れられない。おまえはもう、人間社会では生きられないのだぞ。家畜の中で、家畜と対等に生きるなどできるわけがない」
壁に打ちつけられて、全身が痺れている。目を開けると、そばにドルーが立ち、見下ろしていた。
人間には戻れない。人間社会では生きていけない。
夜に息づく魔物たちの世界。聖夜はその扉を開け、足を踏み入れてしまった。もう二度と引き返せない。
ドルーは動けないでいる聖夜に手を伸ばした。
「父として、おまえをこちらの世界に導いてやろう。新たなるブラッディ・マスターの誕生だ」
一度は命を奪おうとしながら、血のつながりで縛ろうとするのか。今になって父親面するつもりか。
「あなたは父じゃない。ぼくを育ててくれた父さんが、本当の父だ」
――心配しないで。今夜は無事に帰ってくるよ。
月島と交わした約束は忘れていない。なにがあってもドルーの手は取りたくない。
――無事で帰ってこいよ。おまえは我々の希望だからな。
不意にレンの言葉が脳裏をよぎる。
夜の世界に半分身をおいた自分を、待っている人たちがいる。
「ぼくの生きる場所は、夜の世界じゃない」
聖夜はドルーの手を取らず、自力で立ち上がった。全身の痛みと痺れは短時間で消え、なにごともなかったかのように、普通の状態に戻っている。これがダンピール、そして吸血鬼の回復能力なのか。
「交渉決裂か」
抑揚のない声が響き、聖夜は首に手をかけられた。
「軽く力を入れるだけで、すべてが終わる。ダンピールといっても、あっけないものだな」
力を入れようとしたそのとき、聖夜は胸元を飾る十字架のネックレスを引きちぎり、ドルーの手にあてる。ヴァンパイアの皮膚が焼け、聖夜の喉にかけられた手が引っ込められた。
間入れず杭を手にし、胸に突き立てる。ドルーは一歩下がってかわし、聖夜をおいて走り去る。飛び込んだ部屋には、壁にかけられた剣があった。聖夜の頬を傷つけた刃だった。ドルーはそれを手にした。




