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黄昏に立つ少年  作者: 須賀マサキ


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十一(その一)

     十一


 目を覚ましたとき、聖夜はベッドの上だった。文字通りそのまま倒れるように眠りについたのだろう。あきれたことに、シーツに潜ることもせず、上で眠り込んだらしい。

 身体がだるく、寝返りをすることすらおっくうだ。考えもろくにまとまらない。それでも自分のおかれた状況を確認すべく、横になったままあたりを見まわした。

 ホテルのスイートルームのような広い部屋だ。薄暗いが明かりが必要というほどでもない。

 聖夜には、ここにきた覚えが一切なかった。自分のいる場所、理由、最後の記憶をたどらなくてはならないと思うのに、考える気力も残っていない。

 横に目をやるとすぐ隣にだれかがいる。

「うそだろ?」

 葉月がベッドに仰向けになって目を閉じていた。穏やかな寝顔をしている。

 どうしてここにいるのだろう。ともに一夜を明かしたということか。だがふたりとも服を着たままだ。特別なにかをしたわけではないとわかると、安心したような、それでいて少し寂しかった。

 とても長い夢を見ていたような気がする。

 この世界に吸血鬼が現れて、聖夜の平穏な生活が壊されてしまった。大切な友人や恋人が襲われ、犠牲になる中で、自分は吸血鬼の血を引く存在になっていた。

 さらわれたはずの葉月が、すぐそばで眠っている。それこそが、今までのことがすべて夢だったと証明していた。

「葉月、おはよう」

 目を覚まして微笑んでくれることを期待しながら、聖夜は手を伸ばして恋人の頬にふれた。だが葉月は目を開けようとしない。寝顔が不自然な気がした。

 違和感? なぜ? わからない。冷たい肌。恐ろしい予感。

「葉月?」

 肩を揺さぶる。

 閉じたままの瞳。返らない答え。動かない。動けない。穏やかな寝顔。安らかな寝顔? 寝顔? 寝顔? ちがう。寝ているんじゃない。ちがう、ちがう、ちがう。

 葉月を抱き起こそうとして、聖夜はベッドから起き上がろうとした。

「なに?」

 全身が(しび)れ、思うように力が入らない。腕が身体をささえられず、聖夜はベッドから落ちてしまった。

 葉月のことが気がかりでならない。自分の身体が思うように動かないのと同じで、葉月も身動きがとれないのか。

 いや、ちがう。ここにいる葉月は、眠っているのではない。命の温もりが感じられない。

 もう一度葉月にふれたくて、なんとか身体を起こそうと聖夜はあがいた。

「お目覚めのようですね」

 扉が開く音がして、背後で男性の声がした。聞き覚えのある声に記憶をたどる。

 黒ずくめの男。レン。吸血鬼に協力している人物。

 だが彼は夢の中の登場人物だ。なぜここにいる?

「無理して動かないほうがよろしいですよ。きみの身体は変化したばかりですから」

「――変化?」

 突然目の前に、たくさんの映像が浮かび上がった。

 全身傷だらけの孝則。牙を見せる美奈子。月明かりをあびる死んだはずの母。銀髪の吸血鬼。父の語った過去の悲劇。ドルーから聞かされた話。さらわれた葉月。

 甘く魅惑的な香り。痺れるような感覚。堪え難い渇き。全身を駆け抜ける誘惑。変化する身体。血の匂い。血の味。甘く芳醇な香り。命の源。

 愛しい人の柔肌に鋭い牙を立てた。口に広がる極上の飲み物、それは愛する人の身体を流れる血。

 そう、あれは自分が自分でなくなった瞬間だった。

 頭の中で断片的に浮かんだ記憶が、一本につながる。

「夢じゃない、すべては現実?」

 ドルーに刺激されて、聖夜の身体は血を求めた。抑えようとしても抑えられなかった。あれほどまでに強く避けがたい誘惑は生まれて初めてだった。

 うすれていく記憶の中で、自分の身体に生じた変化を自覚していた。生命の源から生き血をすするために、牙が伸びる。そしてだれよりも大切な少女の首筋にそれを立て、流れ出す血をひたすら飲み続けた。

 葉月の血で飢えを満たし、自分を別の生き物に変えた。

「葉月は? 彼女は無事なのか?」

 聖夜の問いかけに、レンは無表情のままで(かぶり)をふった。

「じゃあ……まさか」

「ええ。きみは葉月さんの命と引き換えに、ダンピールとなったのです」

「ダンピール?」

「ヴァンパイアと人間のあいだに生まれた者たちの中で、ヴァンパイアの血が覚醒した者のことです。今のきみのように」

「吸血鬼ではない?」

 聖夜の中でわずかな希望が生まれる。だがそれは一瞬にして消え去った。

「まさか。きみが昨夜したことは覚えているでしょう。半分は吸血鬼、ブラッディ・マスターとなるための第一段階を終えたにすぎません。いずれにしても、もうきみは人間とは異なる存在になったのですよ」

「嘘だ。そんな話、信じられない」

「嘘じゃありません。きみのやったことの結果が、すぐそこにあるでしょう」

 レンはベッドに横たわる葉月の亡骸(なきがら)を指さした。聖夜は言葉をなくし、眠っているような顔を力なく見つめる。

「葉月……」

 これは自分の望んだ結果ではなかった。人間のままでいたかったのに、身体を流れる血がそれを許さなかった。吸血鬼の血は、聖夜の意志をいとも簡単に砕いた。

「そんなものになるために、ぼくは葉月の命を奪ったというの? でも葉月は、吸血鬼になっていたんじゃ……」

「彼女は人間のままでしたよ。ドルーに血を吸われることで暗示にかけられていましたが、吸血鬼にはなっていませんでした。ダンピールに変化するとき、大量の血が必要となります。人を死に追いやるほどの量がね。ドルーは初めから葉月さんにその役を(にな)わせるために、自分の手元においたのです」

 レンは淡々と事実を告げる。少女の命が失われたことになんの感情も見せない。

「そんな……ぼく自身の手で葉月の命を奪ったなんて」

「ダンピールなら、だれもが通る道です」

「でもぼくは、そんなものになりたくなかった。人間のままでいたかったのに」

「ならどうして、ここにきたのです? ドルーはきみの覚醒を願っていた。そんな彼が、きみが拒否するからと言って、あきらめるはずなどないでしょう」

 聖夜はレンの言葉を背後に聞きながら、やっとの思いで身体を起こし、ベッドにもたれかかった状態で床の上に座った。

「別れを告げにくるなどと、そんなセンチメンタルなことをするからですよ。初めからこなければ、人間のままでいられたかもしれません。ドルーに会うことのリスクを考えなかったんですか? その甘さが招いた結果ですよ」

 レンは聖夜の前で片膝をつくと、あごをつかみ、顔を向けさせた。

「きみは以前、なぜわたしがドルーの手下になったのかと尋ねましたね。わたしは彼の手下などではありません。わたしと彼は対等な立場です。ここでの生活を世話する代わりに、彼にはあるものを貰うつもりでね」

 レンから見れば、聖夜は考えの甘い子供にすぎなかった。

「今後きみには、やらなくてはならない大切な仕事があります。だからこそ気をつけなさい。でなければ、その甘さが身を滅ぼす……」

 そのとき聖夜はレンの言葉が素通りしていた。目がレンの首筋に吸いつけられる。そこに息づくエネルギーは、ヴァンパイアなら本能で感じとることができる。

 獲物が自分から近づいてきた。逃してはならない。

 聖夜は身体を瞬時に変化させ、いきなりレンの首筋に食らいついた。

「うわあっ」

 避けるひまはない。レンは聖夜に牙を立てられた。

 温かく芳醇(ほうじゅん)な液体が、口の中に広がる。これこそ自分が求めていたもの。焼けつくような喉の乾きがいやされ、全身にエネルギーが満ちあふれてくる。

 変化したばかりで動きもままならない聖夜だったが、血を新たに飲むことで、不足していたエネルギーが補充できた。全身が温かくなり、力がたまっていくのがわかる。

 牙を立てられた獲物は、捕食者に抵抗できない。逃げようとする意志は、あたえられる快楽によってかき消される。全身が痺れるような心地よさは、これまで経験したことのないものだ。手放したくない。これを得るためならなんでもする。この快楽を手にできるのであれば、捕食者の要求はすべて受け入れる。それが獲物にしかけられた罠だった。

 だがレンの意志は強く、流されそうになる本能を理性が抑え込む。手元のリモコンで部屋のシャッターを開けた。

 輝く太陽の光が窓から一斉に射し込み、聖夜の全身に降りそそいだ。

 冬の柔らかい陽射しが、ダンピールになったばかりの身体を焼きつくそうとする。外はとうに日が上っていた。夜の世界は終わり、明るい昼の世界が広がっていた。

 真冬だというのに、真夏の照りつける太陽同然に強い陽射しだ。聖夜の身体はこわばって動けない。伝説の吸血鬼のように、ここで灰になってしまうのか。

 それならそれでもいい。こんな身体で生き続けるくらいなら、いっそ昼の世界の制裁を受けて、散ってしまいたい。

 日光は負担だった。が、伝説の吸血鬼とちがい、聖夜の身体は散らなかった。

「信じられないか」

 首筋の傷を抑えながら、レンはゆっくりと立ち上がった。

「ダンピールには人間の血が残っている。だから太陽の下でも生きていける。ただし慣れるまでは負担になるし、普通の人間より日光には弱いのさ」

 レンは忌々しいものを見るような目で、陽射しの中で身体をこわばらせている聖夜を睨みつけた。

「血を吸われるとはこういう感覚だったのか。なかなか甘美なものだ。執着する人間たちが多いのも理解できる。強力なドラッグだ。ダンピールとはいえ、油断ならないということだな」

 レンは動きをなくした聖夜の腕をつかみ、両手首を自分のネクタイで縛った。

「妙な行動などしなければ、拘束する必要もなかったのにな」

 ふらつく聖夜を無理やり立たせ、部屋をあとにする。

「ドルーに貰うものとは、おまえのことだよ。月島聖夜」

 あれほど聖夜に執着していたドルーが、これを承知しているとは思えなかった。つまり目を盗んでつれさるのか。

「……なぜぼくを……つれて、いくんだ?」

「説明している時間はない。さっさとわたしの車に乗るんだ」

 葉月をおいていきたくなかった。だが、陽射しでダメージを受けた身体は、思うように動かない。聖夜はしかたなく後部座席に乗った。

 やがて車は、郊外から見覚えのある街に移動した。だが停まることなく走り続ける。どこにつれていかれるのだろう。

 ドルーという吸血鬼をこの街に残したまま離れられない。残された人たちが犠牲になるのは忍びなかった。

 そのとき聖夜の頭にある考えが浮かんだ。

 吸血鬼は、血を吸った相手を意のままに操れるという。ダンピールという中途半端な自分でも、それができるだろうか。

 なんの確信もない。でもなにもしないよりはましだ。聖夜は自分の能力を知るために、行動に移してみることにした。

「レン。車をそこの公園のそばで停めて」

 うしろから聖夜が、レンに話しかけた。ルームミラーを通して、レンの目を見据える。視線があった瞬間、レンの精神を絡め取る。

 聖夜の指示通り、レンは車を公園のそばで停めた。

「拘束を解いて」

 手首を差し出すとネクタイが解かれ、聖夜は自由になった。

「悪いね。でもぼくは疲れている。もう一度飲ませてもらうよ」

 聖夜の中のヴァンパイアが行動を支配する。

 レンは抵抗することなく聖夜に従った。一度快楽を覚えたら、そう簡単に忘れられない。意志の強いレンでも、落とすのは簡単だ。

 自分のしていることにおぞましさを感じる一方で、本能は容赦なくその感情を打ち砕き、命の糧を取り入れたがる。目が獣のように光り、牙が伸びる。

 聖夜はあごのつけ根に口づけ、流れ出す血を飲み続けた。

 

 道行く人がふりかえり、あわてて視線をそらした。そしてなにかを囁きあう。そんな人々の視線を聖夜は感じていた。

 彼らは決して目をあわそうとしない。それでいて絶対に聖夜を無視しない。好奇な視線はいつまでもまとわりつく。

 瞳が妖しく光っているのか。口元から牙が見えているのか。半分は魔物となった身体が、そんなにめずらしいのか。

 いやちがう。外見はなんら変化がない。

 だが人たちは異質の影を感じている。生きるための本能が、聖夜の中に生まれた魔性に気づき、恐れている。

 昼の世界に生きるものを守るために排除されるべき存在。

 そう、自分はここにいられない。人々を脅威にさらす魔物なのだから。

 行くあてのないままどこをどう歩いたのだろう。気づいたとき聖夜は、自分が産まれた産院の前に立っていた。

 十八年前のクリスマス・イヴの日、聖夜はこの世に生をうけた。そして今日、誕生日を目前にして、人間の世界に別れを告げた。

 父に嘘をついてしまった。自分の意志でなかったとはいえ、結果的に同じことだ。

 美奈子が見せた最期の表情が、聖夜の胸をしめつける。夜の住人になったことを喜んでいたわけではない。解放されたことに感謝して、この世を去った。そんな世界に行きたくなかった。

 だがすでに自分は夜の住人だ。いつ襲ってくるかわからない飢えは、否応なく自分を吸血鬼にする。そんな爆弾をかかえた自分が、身近な人々を傷つけないで生きていけるのだろうか。

 いやそれ以前に、生きていてもいいのだろうか。

 地面に視線を落としていると、雪が舞い降りてきた。無意識のうちに見上げると、産院の窓が目に入る。明かりの灯された病室に、母の幻を見たような気がした。じっと見つめていたら、雪が目の中におち、視界が霞んだ。

 聖夜は、産院の向こう側に建っている教会に気がついた。今の自分はここに立ち入ることができるのだろうか。

 開かれた門の前に立ち、中の建物を見上げる。屋根につけられた十字架が、今の聖夜を冷たく見降ろす。

 思わず首にかけた十字架にふれた。手にも胸元にもなにひとつ傷がない。少なくとも拒否されているわけではなさそうだ。

 聖夜は思い切って一歩踏み入れた。

 あっけないほどに、なにも起こらない。そのまま建物まで歩き、扉を開けた。

 ステンドグラスで彩られた光が、聖夜に降りそそいだ。正面には(はりつけ)にされたキリスト像。聖母マリアの慈悲深い表情は、写真でしか知らなかった母の姿を連想させる。神々しいものたちは、ダンピールでも拒否することなく受け入れてくれる。

 聖夜の心に、わずかな安らぎと平穏が生まれた。

 礼拝堂では神父がひとりの人物と話している。

 なんという偶然だろう。そこにいたのは、月島だった。訪問者に気づき、ふたりがふりむく。

 聖夜を見ると同時に、月島の表情がくもった。息子の身に起こったことを一目で理解したようだ。

「そうか、おまえはもう……」

 月島の目に深い悲しみの色がにじむ。

 ――約束を守れなくてごめん。

 そう謝りたかった。

 だが言葉は胸に詰まって出てこない。どうしても返事のできない聖夜は、父から目をそらし、代わりに神父を見た。

 神父もまた聖夜をじっと見つめていた。なにかを思い出そうとするように、あごに手をあてて考え込んでいる。やがて手を下ろして神父がつぶやいた。

「そうですか。きみがあのときのお子さんですか」

 神父の言葉で聖夜は、今いる場所こそが、母が昔助けを求めた教会だと気づいた。

 神父は聖夜のそばに歩み寄った。

「そして、ダンピール。話に聞いたことがありますが、実際に会うのは初めてです」

「神父さまはそのことについて、なにかご存じなんですか?」

 聖夜に問いかけられ、神父は一瞬こまった表情を見せた。なにも答えず、月島に視線を移す。

「お願いです。ぼくは今の自分が何者なのか、少しも解らないのです。ご存知なら教えてください」

 再度の問いかけに、神父と月島は顔を見あわせ、互いにうなずきあう。

「わかりました。お話ししましょう」

 神父は正面のキリスト像を見上げながら答えた。

「きみは、吸血鬼を倒すことのできる、数少ない存在なのです」


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