九(その一)
九
月島は書斎で椅子に座って、月明かりだけをたよりに親子三人で写した唯一の写真を見つめていた。
流香がいなくなってから、ずっと聖夜とふたりで生きてきた。頼る両親もなかった月島がなんとかやっていけたのは、友人たちのおかげだ。人の手を借りたくないと、がむしゃらにがんばる自分を助けてくれたのは、学生時代の友人であり、学校の教師仲間だった。
ひとりでは大変だろうと、お見合い話を持ってくる者もいた。だが月島は、どうしても再婚する気になれなかった。聖夜が覚醒したときは、ふたりで死を選ぶ。そんな明日をもしれぬ生活を送らねばならない自分が、相手を幸せにできるとは思えなかった。
一方で流香のことも、ずっと忘れられないでいる。思いに区切りをつけるために、墓を建てた。それでも気持ちは残る。今でも変わらない。だからドルーのもとで吸血鬼になっている流香を見て、冷静でいられるはずはなかった。
そのとき、考えを遮るように、子猫が月島の足にぶつかった。
「どうしたんだ?」
声をかけると、にゃあと鳴いて答える。月島の緊張がほぐれた。
聖夜が拾った子猫は、夕食を終えたのち、書斎に入る月島のあとを追ってきた。猫用のおもちゃなどなかったので、手元のゴルフボールを渡してやると、じゃれついて遊びまわっている。初めのうちは部屋を荒らされはしないかと気が気でなかったが、その心配はいつのまにか消えていた。
子猫のようすを見ていると、聖夜が幼かったころが思い出される。保育所からつれて帰り、食事や入浴をすませたあと、月島は仕事をするために書斎に入る。それが日課だった。そんなとき聖夜は眠い目をこすりながら必ずついてきて、ひとりでおもちゃを出して遊んでいた。いつだったかクレヨンで床や壁に大量の落書きをされて、困り果てたことがあった。以来しばらくのあいだ、お絵描きするときは要注意だった。今の気持ちは、そのときのはらはらしたものと同じだ。
相手をしてやれなくても、見える範囲にいるだけで安心できるのだろう。
男親だけで育てたにもかかわらず、聖夜は気持ちのまっすぐな、思いやりのある繊細な人間に育った。身体の半分を流れる吸血鬼の血は、影すら見せない。残虐どころか、人の痛みが解る優しい人物だ。
そして今、思いやりゆえに、聖夜はドルーと流香のもとに赴いた。血のつながりがあるという理由だけで、彼らのもとに出向いた。
会いに行くことで聖夜に危険がおよぶかもしれない。そう思った月島は何度も止めたが、気持ちを変えることはできなかった。
「わざわざぼくを迎えにきたんだ。一緒に行けないからこそ、きちんと別れはしておきたいよ」
こちらが気おくれするほどに、決意のあふれた笑顔を見せる。
無事に帰ってほしい。そう願わずにはいられない。だが、もう帰ってこないかもしれない。心の中でそんな予感がする。あの夜ドルーが流香をつれていったように、今度は聖夜をつれ去るかもしれない。
そしてまた自分はひとりになる。
両親は交通事故にまきこまれ、この世を去った。愛した女性は、昔の恋人のもとに帰った。聖夜もまた、実の両親が住む夜の世界に去っていくのだろうか。
たったひとりで残される昼の世界に、どれだけの価値があるのだろう。残りの人生を孤独の中で生きることの意味は、どこにあるのだろう。
夜の世界に生きる……。
月島の中でふと、憧れにも似た感情が芽生えた。
「ばかな。なにを考えているんだ、おれは」
夜の世界に生きるスレーブに自由などない。ブラッディ・マスターの支配下におかれ、生きることも死ぬことも自分の意志で選べない。
血に飢えた悪魔が自由になれるのは、飢えが満たされるわずかな時間のみだ。自分が人間の生き血をすする悪魔だと知って、嘆き、悲しむ。その瞬間だけマスターから解き放たれる。それがドルーのあたえる自由だった。
どこまでも残虐な心を持つ吸血鬼。聖夜はその血を引いている。信じられない、いや信じたくない。
だが今の聖夜には残虐性はかけらも存在しない。覚醒し、ブラッディ・マスターになることで、悪魔が心に誕生するのだろうか。
――無事に帰るつもりでいるよ。でも、万が一ぼくが吸血鬼になって自我をなくしたときは……そのときは、ぼくを殺して。
家を出るとき聖夜はそう言い残した。そこまで覚悟を決め、両親に別れを告げにいった。
「そのときは聖夜。この手でおまえの命を断とう。おまえの魂を救うために」
突然子猫が身構え、窓に向かってうなり声をあげた。
「だめよ。聖夜を殺させはしない」
窓の外から声が響いた。
「まさか……」
遠い昔、いつも耳にしていた懐かしい声だ。
「流香なのか?」
月島はゆっくりとふりかえった。二階の部屋の窓の向こう、人がいられるはずのない場所にいたのは、流香だ。古びた写真と同じ姿で、月明かりをあびていた。
* * *
手の中のグラスが砕けた。ワインレッドの液体が腕を伝い、肘で滴となって床にしたたり落ちる。手のひらはガラスの破片をにぎりしめたままだ。指の隙間から血がにじみ出る。
「本気でそのようなことを考えているのか?」
銀髪を揺らしてドルーがふりかえった。予想もしなかった聖夜からの答えに、表情が厳しくなる。
「あなたたちにはすまないと思っています。でもこれがぼくの出した結論です」
「限りある命を持つ者ならだれしも望むものを、おまえは拒否するというのか」
「はい」
「やがては年老い、朽ち果てていく道を選ぶのか」
ドルーは手を開き、血まみれの破片をテーブルに落とした。
「おのれの身体を流れる血を拒否するのか」
淡い月の光が窓から射し込み、テーブルに転がる破片で反射して、聖夜の頬に淡い光を投げかけた。
――夜の住人にはならない。
聖夜の決意は変わらなかった。
人間として可能性のある未来こそ、聖夜の望むものだ。闇にまぎれて生き存えることに価値は見いだせない。
尊敬する父と同じ、教師という生き方を選んだ。それを実現するために、永遠の命など必要ない。考えるまでもなく、結論は初めから出ていた。
聖夜は自分の考えと決意を伝え、実の両親に別れを告げるために、夜を待ってドルーのもとを訪れた。そして正直な心のうちを話した。
「拒否するなら、なぜここを訪れた? どうして静かに十八歳を迎えようとしない」
「それは……」
聖夜は言葉を止め、ドルーの傷ついた手のひらを見た。
「あなたがぼくの……父だからです」
銀髪の吸血鬼が流す血。それと同じものが、自分の身体の半分を流れている。
「あなたがいるから、今のぼくがいるんです」
可能性のある未来に向かって歩けるのも、ドルーと流香によって命があたえられたからだ。そのことを聖夜は素直に感謝していた。
「興味深い考え方だ」
ドルーが唇の端をゆがめ、にやりと笑った。聖夜の胸にとまどいと違和感が芽生える。
「血のつながりだけで、わたしに会いにきたとは。そんなくだらない理由で、最後の別れにきたのか」
ドルーは聖夜に歩み寄った。一歩、また一歩近づく。口元に浮かぶ冷たい笑みにおされるように、聖夜は無意識のうちにあとずさった。
「昼の世界のどこに魅力がある? 自分と異なる能力を持つというだけで、勝手に期待し、ことが終われば一方的に裏切るような者たちが集う世界だ。欲望と嫉妬に支配され、他人を蹴落とし見下すことに喜びを感じるような下賤の輩に、おまえの未来や可能性は虫けらのごとく潰されてしまう。そのような世界で将来に希望を持てると思っているのか? おまえのいう価値が、どこにあるというのだ」
ドルーの歩みにあわせるように、聖夜はうしろにさがる。
「こちらにはそのような輩はおらぬ。ヴァンパイアの頂点に立つものとして、聖夜、おまえを歓迎する。夜の世界の覇者として、永遠のときの流れをともに生きようではないか」
背中に壁がふれた。これ以上の逃げ場がない。慌ててうしろをふりかえった拍子に、なにかが頬を掠め、痛みが走った。壁にかけてあった剣だ。
「気をつけろ。それは真剣だ。気安くふれると怪我をする」
それはとりたてて装飾を施されているわけでもなく、シンプルなデザインだった。飾るには質素だが、よく手入れされているようで、一点のくもりもない。聖夜には解らないが、名刀なのだろうか。
「忌わしい剣だ、あれは。多くの同胞の命をうばい、わたしまでも傷つけた」
「そのようなものを、どうして手元においておくのです」
「いや、忌わしいのは剣ではなく、これを使っていた者だったな。彼は多くのヴァンパイアを殺した」
「信じられない。そんなに簡単に吸血鬼を倒せる人間がいるなんて」
「あの者は特別だ。彼だからそこできるヴァンパイア殺しだ。人間の側に立ち、やつらの狗となって、我らの仲間を赤子の手をひねるように殺していった。そしてわたしの前に、この剣を従えてあらわれた」
すぎさった遠い日々を懐かしむように、ドルーは目を閉じた。
「ヴァンパイア・ハンターを名乗るだけあって、手強い相手だった。だが彼には、ひとつだけ弱点があった」
「ヴァンパイア・ハンターってなんですか? その人の弱点って」
聖夜の質問を無視して、ドルーは目を開いた。
「あの者のことなど、今さらどうでもよい。わたしにはおまえがいるのだから」
血に染まったドルーの手が頬にふれ、聖夜の思考がとまった。傷口から流れる血が、聖夜の顔を赤く染める。生暖かく粘性のある感触が、聖夜の中で眠る未知の感覚を呼び起こそうとする。
「無理して抑えることはない。おまえ自身のもつ本能だ。心の赴くままに身を任せればいい」
耳元で囁くドルーの声が優しい調べとなり、心の底にある、固く閉じた箱を開けようとする。頬にふれる血が惹きつける。身体中の血が熱くなりそうだ。欲望が目覚め、血の渇きを覚えはじめる。
いやだ、人間のままでいたい。血に飢えた悪魔にはなりたくない。
聖夜は唇を噛み、封印を解こうとする誘惑と戦った。
「なにを躊躇っている。身体は正直だぞ」
魔性の本能は姿を消すどころか、ますます大きくなる。
ここで許してしまえば求める未来は手の届かないところに行ってしまう。永遠の命などいらない。ぜったいにほしくない。
不意に聖夜は、いつかの夢を思いだした。目の前の女性を傷つけまいと必死で本能と戦った夢を。泥沼でもがく聖夜を引き上げてくれたのは、父の力強い腕だった。
「父さん……」
そばにいなくても、父の優しさはいつでも感じられる。
理性が少しずつ戻る。血の匂いにもゆるがない強い精神が、目を覚ました。
大丈夫だ。まだ踏みとどまれる。
ドルーは聖夜の心に芽生えた小さな変化を読みとった。
「そうか。やはり月島がキーパーソンか」
ドルーは頬から手を離した。
「昼の世界に引き止めるのは、おまえを育てた月島なのだな」
聖夜は否定も肯定もしなかった。
「それなら案ずることはない。月島も今ごろは流香の手で、こちら側にきているだろう」
「父さんが? 父さんになにをした」
父の身に迫る危機が聖夜の感情に火をつける。母を使うという卑怯なやり方が許せない。強くにぎった拳の中で、手のひらに爪が突き刺さった。
「父さんは関係ない。だれに言われたわけでもなく、ぼくがひとりで考えて決めたことなんだ」
「だがこのあと月島がいなくなったら、おまえはどうやって生きていくつもりだ? 強がるのもいいが、現実を直視することも覚えておくのだな」
「それでもぼくは……」
噛みしめた唇が切れ、血がにじんだ。
「それでもぼくは、人間でいたい」
ドルーは動きを止め、睨むように聖夜をじっと見る。
「あなたたちと同じ世界には、いきたくない」
聖夜は顔をそむけ、ドルーの視線から逃げた。
「まわりの人間が、こちら側の住人になった。それでも拒否するというのか」
だれも自分から吸血鬼になることを望んだわけではない。ドルーが勝手にしたことだ。聖夜を引きこむための駒として、大切な人たちの未来を奪った。吸血鬼となった人たち、犠牲になった人たちを思うと、胸が痛み、申し訳なさでいっぱいになる。
「どうして。どうしてそこまでして、ぼくを仲間に入れたがるのです?」
聖夜はドルーの目を覗き込んだ。エメラルドの瞳が視線を受け止める。吸血鬼の瞳。その光に射抜かれたとき、聖夜の意識に霞がかかる。
「どこまでもわたしを拒否するのか。そのようなところまで、あの者と同じだとはな……」
「あの者……?」
思考がまとまらない。すべてが霞む。見えるのはドルーの輝く瞳のみ、耳に届くのは妖しい囁きばかり。
「あの者って、だれのことですか? ヴァンパイア・ハンター……?」
問いかけにドルーはなにかをつぶやいた。聖夜の意識はすでに朦朧としていて、言葉を理解できない。
吸血鬼の瞳に射抜かれた聖夜は、少しずつ思考ができなくなった。人間の聖夜が、ブラッディ・マスターと対等でいられるはずなどない。勝敗ははじめから解っていた。
「所詮はこの程度か。覚醒前とはいえ、もう少し手強いかと思ったが」
ドルーは聖夜を思いどおりにできる喜びと、あまりにも簡単に意のままになったことの失望を感じた。意志の強さで、もっと抗うところを見てみたかったのかもしれない。
「あとのことは、わかっているな」
部屋のすみで影のようにひかえていたレンに、ドルーが呼びかけた。
「手筈は整っております」
足取りもおぼつかない聖夜をささえながら、レンは部屋を出ていった。
テーブルにおかれたハンカチで、手についた血を拭う。ガラスの破片で傷だらけになっていた手のひらは、すでに完治していた。
赤いワインの入ったグラスを手にして、ドルーはソファーに身を沈めた。一口飲むごとに、アルコールで身体が温められる。血を飲んだときに生じる温もりにはおよばないが、それでもないよりはいい。限りなく死者に近い身体でも、それが恋しくなるときがある。
「新たなるブラッディ・マスターの目覚めに」
長い時間の孤独がこれで終わる。大切な同胞と袂をわかってからいったいどれくらいの年月が流れたのだろう。極端に数の少ない同胞が、やっと誕生する。
グラスを軽く掲げたのち、ドルーは一気に飲み干した。
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