一(その一)
一
凍える大気の中、月が青白い光を放つ。家の灯りがひとつ消え、ふたつ消え、やがてあたりは夜の帳におおわれた。
街は眠りについていた。通り過ぎる木枯らしに、裸の木々も目を覚まさない。
今宵、街は音をなくしたかのように静寂を保っている。
夜空にかかる月は冷たい光で街を照らす。妖しいまでに美しいそれは、静かに降りそそぐ。魔物を眠りから起こすように。
夜の中に少女は立っていた。年のころは十七、八。成熟した女性の色香とあどけなさを同居させている。大人の女を演じようと背伸びをしているが、ときおり見える幼さは、少女が男を知らないためだ。
背中まで伸びたくせのない黒髪が、月の光を浴びて輝く。透けるような白い肌は、これから起こることへの期待と緊張で赤みがさしている。赤いルージュで彩られた唇は、虚栄心の現れだ。
漆黒の瞳が青年を見つめた。身体を走る衝動に耐え切れず、その身をさしだそうとしている。そそるようなまなざしだった。
誘いかける黒い瞳に満足して、青年は口元に冷ややかな笑みを浮かべる。
「くるがいい、この腕の中に」
右手をさしのべると、少女はコートを足元に脱ぎ捨て、見えない糸にたぐりよせられるように、青年のそばにゆっくりと歩みよる。
冬枯れの木立を夜風が通り抜けた。足元の芝生は夜露で濡れている。
彼らは人目を避けるようにして肌をよせあっていた。めったに人の訪れないこの場所には、街灯の明りも届かない。ふたりを照らすものは、夜空にかかる月の光のみだ。
少女の着る胸元の広く開いた白いワンピースが、月明りで青く浮かぶ。長い黒髪が素肌にまとわりつき、白いうなじを淫らに飾る。
青年は少女の髪を優しくかきあげた。細い首筋が彼の視線をとらえる。少女のあごに手をそえて青年はすばやく口づけた。まだ青みの残った果実のような瑞々しい唇が、青年の動きにぎこちなく応える。舌を絡め、強く吸うと、
「う……」
くぐもった声がもれる。心臓が力強く鼓動を始め、少女の欲望の高まりを告げた。命の源、あふれるエネルギー、若い生命力が脈打つ。
青年の瞳に欲望の火が灯される。
肩から首筋に小さなキスを浴びせると、少女が小刻みにふるえた。わずかに残ったはじらいが、青年の欲望をさらに高める。
若くて健康な肉体と新鮮な命の源が、刺激し誘惑する。本能の命じるまま心を漂わせ解放すると、徐々に身体が変化を始める。
瞳は月光を反射して獣のように輝き、二本の犬歯が肉食獣のように長く鋭く伸びた。大きく開かれた口元で、濡れた牙が月光を受け止めている。
「ああーっ」
彼の与えた痛みが少女に悲鳴を上げさせた。耳に届く荒い息づかいは、やがて鼻にかかった甘い吐息に変化し、青年の心を妖しく誘惑する。少女はすべての快楽を逃すことを恐れるように、力の限り青年を抱きしめた。
細く白い首筋に鋭い牙を立て、青年は生命の源をむさぼるように飲み続ける。少女のエネルギーが行き渡るにつれて、全身に心地よい温もりが広がった。それは上質のワインを口にしたときにも似て、甘美でとろけるようだ。
生命を吸い上げる。感覚が徐々に頂点に近づく。青年の欲望は、少しずつ満たされた。
「あ、ああ……」
少女の身体が歓喜にふるえた。アルコールに酔ったときのように、青年の全身がほのかに熱を帯びる。
ふたつの生命がひとつになる。そんな感覚をつかんだ瞬間、青年の欲望は絶頂に達した。しばらくのあいだ余韻に身を任せていたが、やがて、ふう、と肩で息をして、青年は少女から身体を離した。
月光が少女の白いうなじを照らす。二筋の血が首筋から流れ落ち、胸元を伝って白いワンピースに赤い染みを作った。
足元がふらつき、少女は地面に崩れかかる。それを青年の力強い腕が支える。少女はゆっくりと顔を上げた。そこには恍惚とした表情が広がっていた。だが顔色は蝋のように白く、唇は赤みが失せている。口づけの前に見せた生命の躍動感は、面影すら残っていない。少女の生命の灯は弱々しく、一息吹きかけるだけで消えてしまいそうだ。
そのとき。
快楽に浸った少女の表情が、一瞬のうちに変化した。目を見開き、声にならない悲鳴を上げる。
断末魔の表情だ。
口から赤い血を流し、少女は糸の切れたマリオネットのように力なく崩れた。
うつぶせに倒れた少女の下から、血だまりが広がる。冷淡な笑みを浮かべ、青年は足で遺体を仰むけにした。
胸元に刺さる短剣に月光が反射する。
青年の胸は返り血で赤く染まっていた。血まみれの手で短剣を抜き、遺体の首筋に刃をつきつけた。慣れた手つきで斬ると、傷口から流れ出る温かい血が芝生を赤い海にする。
むせかえる生臭さと赤く染まる景色の中で、青年は口元を妖しくゆがめた。
月が厚い雲に隠されて、あたりは闇におおわれた。
闇に邪悪な気配が浮かぶ。なにかをすするような不快な音、生理的な嫌悪感を呼び起こす音が闇の中で響く。
青年の心に奇妙な感情が生まれた。原始的な感覚――恐怖感だ。彼の中で別の人格が目を覚まし、瞬時に心は支配される。
雲が流され、月が再び顔を出す。
闇にまぎれて出現したものを青年は見た。
地獄絵だ。血で全身を染めた人間――亡者の姿があった。
渇きをいやすために遺体にむらがり、その血をすする。鋭い二本の牙と月光を反射させる瞳。青年の口づけを受けて従者となった者たちが、主人の与える生け贄の血をむさぼる。青年を亡者たちが囲んだ。
「死肉を……」
「命の源であるエネルギーを……」
ジリジリとつめよる亡者たち。満たされることのない飢餓に、人間だったころの品格は姿を消していた。飢えた獣の目が青年を見つめる。
今すぐここから逃げ出したい。青年はそう願った。だが身体が動かない。恐怖が彼を金縛りにする。
「もっと生け贄を……」
ヤメロ。
「永遠の命の糧を――」
チカヨルナ。
「赤い血を――」
ボクニフレルンジャナイ。
魔物の瞳が彼を射抜く。生気のない目が、恐怖にとらわれた青年を映す。
恐怖のあまり緊張の糸が切れ、彼は叫び声を上げた。
「あ……」
目を開けたとたん、見慣れた風景が視界に飛び込んできた。ここは自分の部屋で、ベッドの中だ。外はまだ暗い。夜明けまで時間がありそうだ。
「今のは夢だったんだ」
それでも胸の鼓動は恐怖で高まったままで、全身に冷汗が流れている。それほど現実感があった。だがひとたび目を覚ませば夢は幻となり、実際に降りかかることはない。
月島聖夜は、ベッドの中で深呼吸をした。日本人にしては淡いブラウンの瞳は、ようやく落ちつきの色を取り戻した。
「どうした? なにかあったのか?」
ドアが開き部屋の明りが灯され、聖夜の父、月島秀貴が姿を見せる。
縁なし眼鏡の奥の誠実な瞳が、心配そうに息子を見つめている。
「うん、なんでもないよ。ちょっと変な夢見てさ」
ベッドから上半身を起こし、聖夜はきまりの悪そうな表情で答えた。背中まで伸びた栗色の髪が細い肩にかかる。シャープなあごとやや狭い肩幅が、線の細さを印象づける。
「夢のせいで大声ね。怖い夢でも見たのか?」
月島は腕を組み、あきれたように小さく息を吐いた。聖夜は人差し指で頬をかきながら、照れくさそうにうなずく。
「まるで幼稚園児だな。まあ、夜泣きしなかっただけでもよしとするか」
「ひどいなあ。それが親の言うこと?」
「親だから言うんだ。悔しかったら、おまえも早く親になるんだな」
「っと、それって聞き方次第で変な意味に取れるよ。これが教師の言葉かと思うと、生徒としては先生を尊敬できなくなるじゃないか」
「なにばかなこと言ってるんだ。さっさと寝直さないと授業中に居眠りするぞ」
文句を言う聖夜を横目に、月島は部屋を出ようとした。その姿がパジャマでないことに気づき、聖夜は枕元の目覚まし時計を見た。デジタルの文字盤は午前四時を表示している。
「父さん、ひょっとして徹夜?」
「ん? ああ。期末テストの採点があったからな」
おやすみ、と言ったあとで明りを消し、月島は部屋を出ていった。
月の光がカーテンのすきまから細く射し込み、枕元の本と写真立てを照らす。何気なく表紙に視線を移したとたん、夢が鮮明によみがえり、聖夜は気分が悪くなった。
あれではドラキュラそのものだ。
寝る前に読んだ自分が悪かったと後悔しながら、枕元の本を手に取る。分厚い文庫本はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』で、レンタルショップで借りた映画の原作だった。
たまたま目についたコッポラ監督の『ドラキュラ』を恋人の葉月と一緒に見たのは一週間ほど前のことだ。怖いシーンで抱きついてくれないかと期待しながら肩を並べて観たが、予想とは違い、ホラー映画というより恋愛映画に近い作品だった。
意外な感じがして原作に手を出してみたが、こちらは一応ホラー小説のようだ。とはいうものの、ハリウッド映画のような派手な作品に慣れた目には怖い小説とは思えず、ドラキュラを追いつめるシーンはホラーというよりアクション映画を連想した。
あの夢は映画と小説の影響に違いない。
夢の中で聖夜はドラキュラの役を演じていた。少女の首筋に牙を立てたときの快楽と、口の中に広がった血の味が、記憶にはっきりと残っている。それは甘い香りと、今まで味わったことのない魅惑的な口あたりだった。
「甘い? 魅惑的? 冗談じゃない」
無意識のうちに感覚を再現し記憶にとどめようとしている自分に気づき、聖夜は慌てて両手で頬を二、三度叩いた。
生まれてこの方、ホラー小説からスプラッタームービーまで、恐怖物を避けてきた。自分からわざわざ怖い体験をしようとする人の気持ちが解らない。件の映画も、恋人が一緒でなければ観ることはなかっただろう。映画一本と小説一作であのような夢を見てしまうとは、自分には恐怖物への免疫がないとつくづく思う。
枕元に本を戻すとき、そばの写真立てに目を惹かれた。写っているのは聖夜の母、流香だ。十八歳の若さで自分を産んだ母は、その半年後に病気でこの世を去った。
枕元の写真は出産直後のものだ。乳飲み子の聖夜をだき、優しい笑顔を浮かべている。長い髪を三つ編みにしたあどけない姿が、まだ幼さを残していた。半年後に訪れる死の影はどこにもない。
聖夜にとって、実感のともなわない母親像だ。父は母のビデオをひとつも撮影していない。残された数枚の写真が母親の記憶すべてだ。夢にすら見たことがない。
生きていれば三十六歳。高校生の息子がいるにしては若い母親だ。
だが流香の時間は十八歳でとまった。死者のまわりは時間が流れない。すぎゆく季節は流香をすりぬける。写真の中の母はいつまでも十八歳のままだ。
今年の誕生日で聖夜も十八歳になる。あと一月もない。気がついたら、いつのまにか母の歳に追いつこうとしている。
高校三年生の聖夜には、子供を持つことはおろか結婚すら実感がわかない。流香は今の自分の年齢に家庭を持ち、子供を育てていた。十八歳という若さにもかかわらず、将来をしっかりと見据えていたのだろう。
それにひきかえ聖夜は同じ歳だというのに、あまり真剣に考えていなかった。
大学進学にむけて受験勉強に専念しているが、教師になりたいという目標もなにか特別な思いがあってのことではない。父親を見てその職業をなんとなく身近に感じ、選んだ程度のような気がする。内部進学できる大学ではなく外部を選んだのは、そこに不満があったからではない。親元から離れてひとり暮らしを経験するための手段にすぎなかった。
春になって家をでるとなると、気にかかることがひとつある。
「母さん、ごめんなさい。例のこと、今日こそ父さんに話すよ。ぼくだっていつまでもここにいられないから」
こういうとき母ならどんなふうに答えるだろう。いくら考えても、記憶のない聖夜には見当がつかない。
ベッドから抜けだし窓を開けると、星座を横切る流れ星が偶然目についた。冬の冷たく澄んだ空気が汗ばんだ肌を凍えさせる。聖夜は窓を閉め部屋の明りを灯し、机にむかった。もう寝られそうになかったので、受験勉強にあてたかった。センター試験まであと何日もない。
写真立ての流香は、優しく微笑みをかえしている。それは母親が子供にむける、慈愛に満ちた笑顔だった。
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