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六(その一)

    六


 病院の階段を一気に駆け上り、目的の階についた聖夜は、ちょうど病室から出てきた葉月の母親とでくわした。母親は申し訳なさそうな、それでいでほっとした顔を見せた。

「月島くん、来てくれたのね」

「はい。葉月の容態は? いったいなにがあったんですか?」

「夕べね、身体がだるいって言って、葉月、ろくに食事もとらないでベッドに入ったの。朝になっても起きてこないからようすを見にいったら、呼吸が浅くて……」

 そう言ってベッドに視線を送る。

「いくら揺すっても目を覚まさないのよ」

 母親は異変を感じ取り、救急車を呼んだと話してくれた。

 病室に入った聖夜は、ベッドに横たわる葉月を観察した。特に首のまわりを念入りにチェックすると、左の首のつけ根あたりに、虫に刺されたような小さな傷を見つけた。

 まちがいなく吸血鬼の牙の痕だ。

 葉月の顔色は蝋のように白く、唇は紫色になっていた。素人目でも極度の貧血状態だと解る。左腕には、点滴の痕なのだろう、絆創膏が貼られていた。

 美奈子、孝則、そして葉月。どうして聖夜の大切な友だちが集中して狙われるのだろう。自分が目的なら、なぜ直接来ない?

 それともこれは吸血鬼ドルーにとってただのゲームで、聖夜が苦しむのを見て、楽しんでいるのか。

 たったそれだけの理由で三人を狙ったのか?

 いや、大切な仲間だけではない。見知らぬ人たちも何人も犠牲になっている。目的がなんであれ、ドルーのしたことへの怒りに、聖夜は我知らず拳をにぎりしめた。爪が手のひらを刺し、痛みがさらなる怒りへと変わる。

「月島くん、そろそろ学校へ行かないと」

「いいんです。それよりお願いがあります。今日一日、ぼくに葉月のつきそいをさせてもらえませんか?」

「でも月島くんも忙しいでしょう。受験を目の前に控えているし。それにつきそいが必要なほど悪いわけじゃないのよ」

「お願いします。今日だけでも」

 理由を聞かれたらなんと答えようかと、聖夜は内心ひやひやしていた。が葉月の母親は説明を求めず、聖夜の申し出を受け入れた。命に関わる病状ではないと思っているからだろう。

 聖夜は、快く許してくれた葉月の母親に感謝した。


   *   *   *


 窓にあしらわれたステンドグラスが、射し込む冬の陽射しを受け入れる。そこを通った光は鮮やかな色に装飾され、教会の床や椅子に、さまざまな色となって落ちる。柔らかな冬の陽射しは、暖かな模様となり、ホールを美しく飾っていた。

 正面におかれたキリスト像は、月島を見下ろし、聖母マリア像は慈悲深い笑みを浮かべている。それらを見ているだけで、胸を支配する苦悩からほんのひととき解放される。神々しいものたちに囲まれ、月島は束の間の安らぎを感じていた。

 自分が勤め、子供が通う学校の校庭で、無惨な姿となった生徒が発見された。以来、月島の心は休まることがなかった。幸いにして犯人は聖夜ではなかったものの、事態は良い方向に進んでいるとはいえない。

 誕生日まであと三日、それまではなんとしても持ちこたえなくてはならない。そのことだけを考えて、今日まで生きてきた。

 扉が開き、初老の神父が入ってきた。懐かしい顔に、月島の緊張がほぐれる。神父は手のひらほどの十字架と小瓶に入った聖水を渡してくれた。

「お望みの品です。お持ちになってください」

 礼を言って受け取る月島に、神父は静かな口調で尋ねた。

「どうしても行かれるのですか」

「ええ。十七年前の決着をつけるために」

 月島は正面のキリスト像を見上げた。

 今の聖夜も、この像と同じように十字架を背負っている。そこから解放される日を、あの日以来ずっと待ち続けた。そしてその日は、目前に迫っている。

 解放されるも、背負い続けるも、あと三日にかかっていた。

 月島は神父に視線をもどし、口元に寂しげな笑みを浮かべた。

「父親として、あの子にしてやれる最後のことになるかもしれません。それだけにわたしは、できるだけのことをやっておきたいのです」

「そうですか。いや、行くな、などと言うつもりはありません。わたしに月島さんが選んだ道をどうこう言う権利などありませんよ。それより――」

 神父は一度言葉を切り、月島の目を見て、また口を開いた。

「無事のご帰還を祈っています」

「ありがとうございます」

 深々と頭を下げたあとで、月島は決意に満ちた顔を上げた。

 もう迷いも苦悩もない。大切な者を守るために、自分の信じる道を力強く進む。これこそが最良の方法だ。

 教会を出る月島の背後で、神父の声が響いた。

「聖なる夜に生まれた少年に、神のご加護があらんことを」

 教会は三日後のクリスマス・イヴに向けて、きれいに飾りつけが施されていた。隣接する幼稚園の園児が作ったのだろう、画用紙でできた素朴な味わいのオーナメントが、庭におかれた(もみ)の木にも飾りつけられている。イルミネーションは消えていたが、日が沈むころには明りが灯され、ステンドグラスとはちがう華やかさを演出するだろう。

 十八年前のクリスマス・イヴの夜、これと同じような光景を、すぐそばにある産院の一室から見下ろしていた。

 その日聖夜はこの世に生をうけた。雪の降り積もる夜に生まれた子供は、母親の死という悲しみを乗り越えて、すくすくと育っていった。月島の危惧するようなことは、なにひとつ起きなかった。

「あと三日なんだ。せめてその日がすぎるまで、なにも起こらないでくれ」

 十八年の歳月を経て、ようやく訪れようとしているその日。聖夜にかけられた呪縛の解ける日が、ここにきて、遠い未来のように思えてならない。そのことを考えるたびに、月島の胸には不安のみが広がっていく。

 鐘がおごそかに鳴り響く。教会の庭に立ち、月島は軽く目を閉じた。神々しい鐘の音が、心をむしばむ暗雲をかき消す。胸に広がる温もりを抱き、月島はしばらく幸せだった日々の思い出に浸っていた。


   *   *   *


 聖夜は病室の窓から沈む夕日をながめていた。

 冬の短い昼が終わり、街は黄昏れどきを迎える。雲は紫から灰色に染められ、夕日は街を赤く彩る。空には昼と夜の境目は存在しない。光から闇へと移りゆく。北風の冷たさをものとせずに外を走りまわる子供たちの声が、遥か遠くに聞こえる。その影は長く伸び、やがて夜に消えていく。一日が終わり、だれもがひと息つける時間だ。

 だが聖夜にはちがった。黄昏れどきは戦いの始まりを告げる合図だ。

 ひとたび太陽が沈めば、敵はいつ姿を現すか解らない。一瞬として気の抜けない時間がやってくる。

 聖夜は朝からずっと葉月のそばですごした。なにができるわけでもない。そして昼間、吸血鬼は襲撃してこない。そのことは充分解っている。でも葉月をひとりにすることはどうしてもできなかった。孝則と美奈子の(てつ)は踏みたくなかった。

 病室に射し込む夕日で、葉月の頬が赤く染められた。青白い肌を、ほんのひととき太陽が隠してくれる。それを見て聖夜は、あることを思い出し、バッグから小さな包みを取り出した。キュートなサンタクロースやスノーマンが描かれているラッピングペーパーに包まれ、赤と緑のリボンがかけられているそれは、葉月へのクリスマス・プレゼントだ。

 本当は三日後のクリスマス・イヴに渡すつもりだった。だが誕生日を一緒にすごす約束は守れないかもしれない。崩れ落ちていく平凡な日々。ささやかな幸せが、指のすきまからさらさらとこぼれ落ちる。

 つい最近までの聖夜は、こんな試練が自分に降りかかってくるなど、夢にも思わなかった。受験勉強が大変でも、友だちと(いさか)いを起こしても、すべては明日につながる日常の出来事にすぎなかった。

 だが今聖夜が対峙しているものは、いとも簡単に穏やかな日々を打ち砕き、過去と未来を分断しようとしている。

 すべては自分のせいなのか。自問しても答えはでない。ひとつだけ解っていることは、自分の存在が吸血鬼を呼び寄せ、大切な友だちをまき込んでしまったということだ。

「ぼくはどうなってもいい。孝則が、葉月が無事でいてくれるなら」

 吸血鬼になってしまった美奈子のことを思うと、胸がはりさけそうになる。もっと早くこのことに気づいていたら、救うこともできたかもしれない。

 聖夜はベッドのそばの椅子に座り、眠り続ける葉月の手をにぎりしめた。暖かい病室にいてなお、真冬の空気にさらされたように冷たい。

 明るく優しい日だまりのような暖かい葉月。いつだってその笑顔は、聖夜だけでなくまわりの者たちに優しい温もりを与えてくれる。なのに今は、その輝きは感じられない。命の灯火は弱々しく、今にも消えようとしている。葉月の手をにぎりしめる聖夜の手には、いつしか力が込められていた。

 ふと自分の手の中で、葉月の手が動いたような気がした。ハッとして顔を見ると、閉じたまぶたがわずかに動き、やがて葉月はゆっくりと目を開けた。

「葉月」

「え? 聖夜……? あれ、ここは?」

 呼ばれた当の本人は、自分のおかれた状況を把握できず、とまどいの表情を浮かべながら病室を見まわしている。聖夜はいぶかしがる葉月に、事情を説明した。

「そう。みんなに迷惑をかけちゃったんだ。人騒がせね、あたしって。ごめんね」

「謝ることないよ。葉月が悪いわけじゃないんだ。それにぼくはだれに頼まれたわけでもない、自分がいたかったからここにいるんだ」

 聖夜の言葉に葉月は微笑んだ。だが元気な口調とは裏腹に、それは弱々しい笑みだった。

「昨日、ぼくの家を出たあと、なにかあった?」

「孝則くん家に行ったけど。え、そこで? 別になにもなかった――いや、ちょっとひっかかることがあったかな」

「ひっかかることって?」

「孝則くんと紅茶を飲みながらCD聴いて話をしてたのよ。好きなアーティストだったからじっくり聴いてたつもりだったのに、途中をよく覚えてないの。あれ、そう言えば淹れたばかりのお茶だったはずなのに、二口目を飲んだときはすっかり冷めてた。なぜそのときに気がつかなかったのかな」

 葉月の記憶に空白部分がある。完全に欠落しているようだ。

 吸血鬼に襲われたときのことは、記憶から消されているのだろう。その吸血鬼は、美奈子だろうか。あるいはすでに孝則も向こう側に行ってしまったのだろうか。

 葉月を救い出すには、闇に引きずり込まれる前に、手を下した吸血鬼の息の根を止めるしかない。だがふたりとても大切な友だちだ。葉月を守るためとはいえ、ためらうことなく倒せるだろうか。

「……夜、聖夜ってば」

 険しい表情をしている聖夜に、葉月が恐る恐る声をかけた。

「あ、ごめん。なに?」

「ねえ、あれなあに?」

 葉月が指さしたのは、おいたばかりのプレゼントだ。

「ちょっと早いクリスマス・プレゼント兼お見舞いだよ」

 葉月の反応を想像しながら、聖夜はそれを渡した。包みを開けて中を見た葉月は、目を丸くして聖夜の顔を見上げた。

「聖夜、どんな顔して買ってきたの?」

「そ、そんなこと聞くもんじゃないよ」

 なかばぶっきらぼうに、そしてなかば照れながら聖夜は答える。葉月はくすくすと笑いながら聖夜をじっと見つめている。その手の中には、ローズ系の口紅があった。デパートのコスメ売り場で、葉月の写真を店員さんに見せて選んでもらったものだ。

 葉月は気怠そうに起き上がり、手元の鏡を見ながらたどたどしい手つきで紅を引いた。口紅は、葉月のもつ少女らしい美しさに、より彩りをそえる。

「やっぱり女の子だ。口紅ひとつで変わるなんてさ」

「なにがやっぱり、よ。自分で選んでおいて、それはないんじゃない?」

 葉月はふざけて聖夜を軽くたたこうとしたが、力が残っていなかった。そっとにぎられた拳は、聖夜の胸に力なく触れるだけだ。口調がしっかりしているだけに、聖夜はそれがつらかった。

「そうだ。目を覚ましたってみんなに連絡してくるよ。葉月は横になって待ってて」

 そう言って椅子から立ち上がったときだ。

聖夜の感覚は、空気のわずかな変化をかぎとった。

「聖夜……?」

「しっ、静かに」

 人差し指を葉月の唇にあててだまらせる。

 聖夜は目を閉じ、神経を張り巡らせた。鋭敏な感覚が、微量の邪気を察知する。

 来たか。

 気づいたとき、外はすっかり日が落ち、世界は魔物たちの支配する夜の時間に変わっていた。



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