五(その一)
五
聖夜は昨夜と同じ公園に立っていた。女性がひとり、足早に通り抜けようとしているのが見える。少しずつ、聖夜との距離が縮まる。
彼女は青白い月の光を受け、どこか幻想的な姿をかもしだしている。白いうなじが聖夜の視線をとらえた。
すれちがいざまに、彼女が聖夜の顔をちらと見た。ほんの一瞬、たがいの視線が絡まる。
突然彼女の表情が変化した。すべての女性が見せた誘うようなまなざしで、聖夜を見つめる。瞳には欲望の火が灯されていた。歩みをとめて、じっと聖夜の顔を見つめる。
――お願いだ。そんな目でぼくを見ないで。でないと、あなたを傷つけてしまうかもしれない。
思考は言葉にならない。思いとは裏腹に、聖夜は少しずつその女性に歩み寄った。
自分の持てるすべての精神力で、彼女に近づくまいとした。だが身体は一切コントロールできない。他人の頭の中に入り込んでいるかのように、指ひとつ自分の意志で動かせない。一歩、また一歩。ゆっくりと女性に近づく。
まぶたの裏に、何度も見た悪夢が再現されようとしていた。血で染められた甘美な世界に、胸の鼓動が少しずつ高まっていく。
思いとは裏腹に、聖夜はこの感覚をずっと待っていた自分に気づいた。
麻薬中毒者が薬を求めるように、聖夜は悪夢を求めている。
昨夜の行動も、禁断症状の表れだったのかもしれない。悪夢の中にひそむ快楽に、聖夜はいつしか虜になっていた。
逃れられない甘美な世界。全身を覆う痺れるような感覚。赤い血の誘惑は、聖夜を放さない。
――だめだ、あなたに触れたら、ぼくは引き返せなくなる。
誘惑に燃えた瞳が、聖夜に残された理性を打ち砕こうとしている。堕ちてしまうとわかっていても、手を伸ばしそうになる。
――だれか、ぼくを救いだして。血に浸る前に……この身体を引き上げて。自分ではどうすることもできない甘美な世界から……断ち切ることのできない麻薬から……。
聖夜は誘惑の魔の手と必死で戦った。声にならない叫びを胸に、力の限り抵抗した。
『聖夜』
不意にだれかに引き止められる。
『大丈夫か? しっかりしろ、聖夜』
強くてたよりがいのあるその声が、堕ちていきそうな自分を助けてくれる。心に理性と強い意志がよみがえる。
赤い欲望の支配する世界で、聖夜は出口を見つけたような気がした。
* * *
明りの消えた部屋に月光が射し込み、夜の世界に彩りをそえる。優しく降りそそぐ淡い光は、古い写真に写る人物を幻の国の住人のように見せた。
机におかれた写真立てには、幸福だったひとときが残されている。家族三人が互いによりそって写したたった一枚の写真を、月島は月明りの中で今一度見つめた。
そばには古びた表紙の日記帳が二冊おかれている。一冊は月島が十七年前に書いたものだ。もうひとつは流香が結婚する前につづった日記だった。
「流香、おれは決心したよ。これ以上の惨事を引き起こさないためにも、聖夜を救うためにもね。きみが命懸けで守ったものを、おれは守り切れなかった。本当にすまない。だがこのまま放っておくことはできない。聖夜が苦しむ姿をおれは見たくないんだ」
妻の写真に話しかける月島の顔には、寂しげな笑顔が浮かんでいた。
「結局おれは、だれひとり幸せにできなかった。流香も、聖夜も……」
月島はまぶたを閉じた。
つぶやきを聞くものは、夜空にかかる月だけだ。苦悩を和らげるように、淡い光が頬を優しく包む。
月の柔らかい輝きは、人の心を慰める。だが一方でそれは、ときとして冷たく青白い光となって、人の心に狂気の火を灯す。いや、人間に限ったことではない。魔物にとってもそれは同じだ。
月の光にとらわれた魔物たちは、人間の皮を破り、獣の姿に戻る。彼らは犠牲者を求め、夜の街を彷徨い歩く。
口元に妖しく光る牙は、血の洗礼を受けるまで満足することはない。闇夜に輝く瞳は、血の赤だけを見つめる。長く爪の伸びた手は、血で赤く染められるときを待っている。
古来より魔性の者は人間社会にたくみに紛れこみ、月夜とともに正体を見せた。それに気づいた人間は、魔物を倒さねばならない。昼の世界の住人を、夜の魔の手から守るために。
「たとえそれが、かけがえのない愛する者たちであろうと」
月島は目を開いた。もう迷いはない。心の底にある深い哀しみの影には目を背けた。
書棚の前に立ち、鍵を外すと、月島はひきだしからふたつの物を取り出した。
ひとつは、小さな十字架のついたネックレス。もうひとつはサバイバルナイフだ。刃先を出し、布でていねいに研く。鋭利な刃は月光を反射して、神々しく輝いた。さながら聖なる光を放つ短剣のようだ。
月島は十字架を身につけ、ナイフを手にした。身体の中から力強いものがわき上がる。
聖夜の部屋の前に移動し、ノブを静かにまわして中に入った。
聖夜は安らかな寝息をたてている。侵入者の存在にも気づくことはない。カーテンの隙間から射し込む月光が、聖夜の額を照らしている。月島はその姿を見つめた。
「聖夜、許してくれ。悲しいことだが、ほかに道がないんだ。だが心配するな。おまえだけを逝かせはしない。おれもすぐ、あとを追う」
月島は両手でナイフをにぎりしめ、大きくふりかざした。刃先が月光にきらめく。そのまま微動だにせず、月島は聖夜を見下ろす。流香の面影を残したその顔を。
「あと少しで十八歳の誕生日だ。ここでやらなくとも、なにごともなくその日を迎えられるかもしれない」
月島の決心が鈍る。
「今さらなにを迷っている? これ以上聖夜を苦しめないために決心したんじゃないか」
心の葛藤が月島にナイフを下ろさせない。ふたつの思いの狭間で、月島の腕は小刻みに震えた。
「……いやだ」
そのときだ。聖夜の口から、うめき声とともに言葉がもれた。
安らかな表情は消え、苦悩が浮かび、額に汗がふきだした。
「だれか……救いだして……この身体を引き上げて……自分では……断ち切ることのできない……」
聖夜は助けを求めていた。なんとかして逃れようと、必死で抵抗している。自分なりに懸命に運命と戦っている。
「なんてことだ。それに気づこうともしないで、おれは取り返しのつかないことをしようとしていたのか」
月島はサバイバルナイフをポケットにしまいこみ、聖夜の肩に手をおいた。
「どうしたんだ?」
身体を揺すって起こそうとするが、いくらやっても聖夜の目は開かれない。
「聖夜、大丈夫か? しっかりしろ、聖夜、聖夜っ」
思い余って月島は、聖夜の頬をたたいた。
「聖夜、目を覚ませ。たったひとりで苦しむんじゃない」
月島の叫びが静かな部屋に響く。
やがて、聖夜の瞳がゆっくりと開いた。うつろな目だ。生気のない瞳が、月島の顔を映した。
「どうした? やけにうなされていたぞ」
月島は優しく穏やかな声で息子に語りかけた。聖夜の目に輝きが戻る。
「あ……父さん」
ため息を吐くように聖夜は声を出した。
「いつかのように、怖い夢でも見たのか?」
月島はポケットからハンカチを取り出し、聖夜の額に浮かんだ汗をぬぐった。
「父さんだったんだね。あの声は。ぼくを助けてくれたのは」
聖夜の目から、大粒の涙がこぼれた。
「ゆうべも、今も……父さんのおかげでぼくは救われたんだね」
頬を伝うしずくが月光を反射する。そこに魔物はなく、忍びよる魔の手と戦おうとする勇敢な者がいた。
「悪夢が現実になって、ぼくに襲いかかるんだ。いやだと思っても、誘惑に勝てなかった。今も父さんがいなかったら、ぼくは……」
そのとき、なにかに閃いたように聖夜の目が輝いた。
「これが今までのように正夢だとしたら、もしかしたら」
弾かれるようにベッドから跳び起き、聖夜は急に着替えを始めた。
「事件が起きてる最中なら、犯人がそこにいるかもしれない」
「どうしたんだ、いきなり。どこに行くつもりなんだ?」
月島の問いかけに答えもしないで、聖夜はコートをはおって家を飛び出した。月島は慌ててあとを追いかけた。
「犯人? 事件が起きてる最中? まさか……ヴァンパイアは聖夜ではないのか」
このときになって月島は、もうひとりの人物に気がついた。
「なんてことだ。それに気づきもしないで、おれは聖夜を殺めようとしていたのか」
聖夜は昨夜の公園に来ていた。周囲を見まわし、夢に出てきた場所を捜す。まず右手に向かおうとした。そのとき冷たい風が頬をなで、聖夜の栗色の髪をなびかせた。
「これは……?」
痺れるような感覚が全身を駆け巡る。風に乗って香しい匂いが運ばれ、聖夜を誘惑する。甘美な香りに目を閉じて、身を委ねようとした。
「聖夜。どこだ?」
父の声で聖夜は我に返った。そのとたん甘美だと感じた匂いに、死臭を想像させられて嫌悪感を覚える。それは血の臭いだった。
聖夜は迷うことなく、風上に向かって走り始めた。
近づくにつれて、血の臭いは確実に濃くなる。
このとき聖夜は、心の中にふたりの自分を感じた。
ひとりは人間としての理性を持っている聖夜だ。血の臭いを死臭と感じている。そしてもうひとりは、夢の中で赤い血をすすっていた聖夜だった。血の匂いに敏感に反応し、酔いしれる。
相反するふたつの感情を抱いたまま、聖夜は走った。
血の臭いに引き寄せられるようにたどり着いた場所は、公園の中にあるグラウンドだった。
一歩踏み入れた聖夜は、フェンスのそばに倒れている人影と、そこを中心に広がった血だまりを見つけた。仰むけに倒れているのは夢で見た女性で、胸元に白木の杭が刺さっている。さながら退治された吸血鬼だ。
遺体には、首筋に小さな二つの傷がある。血を吸われた犠牲者が、吸血鬼となって復活するのを阻止しているように見える。
「ようやく会えたな」
不意に張りのある、よく通る声がかけられる。それを頼りに聖夜はゆっくりとふりかえった。
グラウンドのすみにおかれたベンチに人影が見える。街灯もそこまでは届かず、顔は判別できない。
「だれ?」
月を覆っていた雲が風に流され、あたりは冷たい月光に照らされた。
そこにいたのはひとりの青年だった。年のころは二十歳前後。聖夜とあまり差がなさそうだ。銀色の髪、透けるように白い肌で、やや面長の顔と細くしなやかな指先が、繊細な印象を与える。切れ長の瞳はエメラルドの輝きを思わせ、唇は真紅の薔薇のように赤い。高貴な血筋を思わせる容姿だ。
月光が見せる幻のような青年だ。温もりを感じさせない、幻想的な美を聖夜は連想した。
だが彼は、美しき魔性だ。緑の瞳は月光をうけ、獣のように光っている。赤い唇からは一筋の鮮血が流れている。身にまとうシャツは返り血で赤く染められ、指先からは血がしたたり落ちていた。赤い世界に君臨する魔性の青年は、氷のような透明感とともに冷たさを感じさせた。
彼は吸血鬼だ。聖夜はそう確信した。
青年はゆっくりと立ち上がり、獲物を見つめる狼の目で聖夜をねめつけた。
「おまえが月島聖夜か。なるほど。ここまで似ているとはな。まるで生き写しだ」
「似ている? だれにですか?」
青年は口元をゆがめただけでなにも答えない。
そのとき彼の背後からひとりの人物が姿を現した。その顔に聖夜は、全身に電気が流れたようなショックを受けた。
美奈子の病室にいた、流香と同じ顔をした少女だった。
「やっぱりあれは、夢じゃなかった」
青年は少女の肩に腕をまわし、胸元に抱き寄せた。少女は無表情な瞳で聖夜を見る。病院で会ったことも忘れているようだ。
「夢で口にした血の味はどうだ? 赤く染められた世界をどう感じた?」
だれにも話したことのないあの悪夢を、青年は知っている。聖夜は当惑して、なにも答えられない。
青年の口元が妖しくゆがんだ。少女は愛しい人にするように青年の首に腕をまわす。
「おまえは血を甘く感じた。赤い世界を魅力ある物と思った。どうだ」
否定できなかった。だが認めることは絶対にできない。聖夜は背徳の世界に足を踏み入れたくはなかった。
「まあいい。答えは聞かずとも解る」
青年はそうつぶやくと、少女の髪をかきあげ、白いうなじをあらわにした。聖夜の胸に鋭い痛みが走る。
「やめろっ。その人を傷つけるのは」
聖夜が動揺のあまり唇をゆがめるのを見て、青年は満足そうににやりと笑った。口元に二本の鋭い牙が見えた。
少女を助けようと一歩踏みだすと、青年が聖夜に向けて腕を伸ばす。エメラルドの瞳に射抜かれたとたん全身が硬直し、すさまじい力場にとらえられたように身動きできなくなった。
夢で見た惨劇が目の前で行われようとしている。なのになにもできない。青年が大きく口を開くと、月光をあびて、濡れた牙がきらめく。
「よせっ」
少女の首筋に鋭い牙が立てられた。聖夜は顔をそむけることも目を閉じることもできず、その光景を見つめていた。
「ああ……う……」
少女が身体を弓なりにそらせ、小さくうめいた。恍惚とした表情を浮かべ、吸血鬼を受け入れている。
聖夜は唇をかみしめた。助けられなかった。母の面影を持った少女をみすみす犠牲にした。自分の非力さが情けなかった。
「聖夜っ」
背後で月島の叫び声がし、聖夜の呪縛がふっと解けた。全身に痺れが残り、足元がぐらつく。倒れる寸前に月島が駆け寄り、身体をささえてくれた。
新たに出現した人物に気づき、吸血鬼が少女の首筋から唇を離した。
青年と父が対峙する。氷の瞳と炎の瞳がぶつかった。
「月島か。ここでおまえに会えるとはな」
「ドルー。久しぶりだな」
ドルー。それが吸血鬼の名前だった。
月島は吸血鬼に話しかける。声は落ち着き、事実を冷静に受け止めている。ふたりは面識があるらしい。聖夜には信じがたい事実だ。
「月島よ、おまえは十七年前の約束をまだ覚えているか?」
「ああ、覚えている。一日たりとも忘れたことはなかった」
その言葉を聞いて、ドルーは歓喜の表情を浮かべた。
「そうか。おまえは十七年間ずっと苦しみを抱いてきたのか」
人気のない公園に、悪魔の笑い声が冷たく響く。
首にまわされた少女の腕をはずし、ドルーは耳元でなにか囁いた。長く伸びた髪をふわりと揺らし、少女がゆっくりとふりかえった。
「まさか。流香なのか?」
冷静だった月島の姿は失われ、目を見開き微動だにせず、少女の姿をじっと見つめている。少女は月島に微笑みかけた。ドルーと同じ、魔性の者が浮かべる、邪悪な微笑みだった。
「流香は自らの意志で夜の世界にきた。だれに強制されたわけでもない。我らとともに永遠のときを生きる道を選んだのだ」
「うそだ。そんな話にだまされると思うのか?」
「信じる信じないは好きにすればよい。だが、目の前の姿こそが真実だ」
雲が風に流されて月を覆い隠し、あたりは闇に包まれた。
「聖夜よ、わたしは今日のこの日が来るのをずっと待っていた」
闇の中で、ドルーの声が響く。
「長いようで短い年月だった。あとはおまえの覚醒を待つのみ。目覚めよ、我らの血を引く者よ……」
歓喜に満ちた吸血鬼の笑い声は、闇夜にとけるように徐々に遠ざかっていった。
やがてドルーたちの気配が消えあたりに静けさがもどったころ、月が顔を出して闇を追い払った。
ドルーと流香、そして犠牲となった女性の姿はどこにも見あたらない。残された血だまりだけが、今のできごとが現実であったと無言で物語っている。
静かな公園に繰り広げられた悪夢と牙が残した傷をあとにして、聖夜と月島は互いをささえるようにして家路についた。