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四(その一)

     四


 家を出たとき、外はすでに夜の(とばり)におおわれていた。自転車をとばして、聖夜は孝則の家に急ぐ。

 冷たい空気が頬を切る。季節が冬だということひとつとっても、聖夜には忌々しく思えてならない。よりによって一年でもっとも夜が長く、吸血鬼には格好の季節だ。

 住宅街を抜けて大通りを横切ると、聖夜と孝則がすごした公園に出た。広い敷地を迂回するのは時間のロスが大きい。聖夜は迷わず中を横切ることにした。

 日は落ちているがまだ遅い時刻でないためか、ポツリポツリと人通りがある。

 奥まったところで、敷地の一部が立入禁止になっている。殺人事件の現場だ。あの近くにあるベンチで聖夜たちはときをすごした。張り巡らされたテープを見て夢を思い出し、聖夜は吐き気を覚えた。

 孝則のことが気になっているはずなのに、足が止まってしまう。なぜだろう。見えない糸に絡め取られるように自転車を降り、街灯の下でテープの向こうに目をこらす。

 現場は事件の異常さを物語っていた。芝生のところどころに血痕が残っているのが、薄暗い街灯の下でも見てとれる。夢で見た場所と酷似していた。奥では捜査員らしき人たちが、なにやら探し物をしている。

 偶然にしろ、惨殺事件に似た夢を見てしまった。その犯人はほかでもない、自分自身だ。あんな夢を見なければ、事件は起きなかったかもしれない。そんな考えすら浮かび始める。

 それにしてもこのむせ返るような血の臭いはなんだろう。捜査員たちはこの死臭が気にならないのか。

 これ以上ここにいたくはなかった。そうでなくても孝則のことが心配だというのに。

 聖夜は自転車に乗ろうとして正面をふりかえった。そのときすぐそばを、ひとりの女性が通りすぎた。

 大学生くらいだろうか。軽いウェーブのかかった長い髪をポニーテールに結び、厚手のコートを着て、白い息を吐きながら足早に歩いている。事件のあったこの公園を、早くすごそうとしているのだろう。

 自転車のペダルに足をかけながら、聖夜は何気なく彼女のうしろ姿を見る。街灯が白いうなじをほんのりと照らした。一陣の風が吹き、事件現場から血の匂いを運ぶ。

 視線がとらえられた。

 ふと、胸の鼓動が高まる。

 だれかが耳元で囁いた。

 ――生命の源を、おまえのものに。熱き血潮で喉の渇きをいやすがいい。

 白くて無垢なものを破壊し、血で赤く染める。それを熱い胸の高鳴りとともに見つめる。赤い血の支配する魅惑的な世界が誘いかける。

 こんな感情をどこかで抱いたことがあった。

「あの夢の中だ」

 吸血鬼になった、あの悪夢。

 夢と現実――ふたつの世界を隔てる壁が、音もなく崩れ落ちる。

 ――生命の源を……おまえのものに。

 また、だれかの声が囁いた。

 それは聖夜の心を強い力でとらえた。

 逆らえない。声に支配される。もうなにも考えられない。自分がここにいる理由、やらなくてはならないこと、すべてがどうでもよくなる。

 見えない糸に曳かれるように、聖夜は女性のあとをついていった。

 足元に緑の芝生が広がる。夜空を照らす月の輝きが彼女を淡い光で包み込む。

 細い首筋に息づく生命の源。あふれるエネルギー。若さにあふれた生命力。

 喉が渇く。

 胸が高鳴る。

 手を伸ばして、触れたい。

 首筋に口づけたい。

 流れる熱き血潮を、自分のものにしたい。

 上質のワインを口にしたときに似た香りを、聖夜は思い出した。身体のすみずみまで行き渡る温もりが脳裏を横切る。

 もう一度あの感覚を体験したい。

 今の聖夜にとって悪夢は悪夢ではなく、禁断の果実となっていた。一度覚えたら忘れることはできない。口にしたが最後、二度と引き返せないだろう。それが解っていてなお、聖夜は夢で体験した感覚を求めていた。

 胸の高鳴りが理性を麻痺させ、欲望を呼び起こす。同時に孝則からのSOSは、意識から消滅した。

 血の味と赤く染まる世界が支配する。

 聖夜はふらふらと歩き、女性との距離を少しずつ詰める。

 彼女の身体を流れる血の音が聖夜の耳に届き、妖しく誘いかける。

 熱い血が、生命の源がほしい。

 欲望の赴くまま、聖夜はゆっくりと右手を伸ばした。あと一歩。もう少しで女性の白いうなじに手が届く。息づくエネルギーを自分の中に取り入れ、生命をつなぐ糧とする。

 白く純粋なものをこの手で壊し、赤く染める。

 ――聖夜。

 自分を呼ぶ声に、聖夜の動きが止まった。

 ――聖夜。

 声がもう一度呼びかける。優しい温もりが、堕ちていきそうになる聖夜を引き止める。

「うっ」

 頭に激痛が走った。額を押さえ、聖夜はその場にひざまずく。

 ポニーテールの女性は聖夜に気づかないまま歩き続け、やがて見えなくなった。

「今の声は……?」

 欲望は徐々におさまり、理性が目を覚ます。

「ぼくは、なにをしようとしてたんだ?」

 霞のかかった意識の中で、聖夜は自分を支配していた欲望を思い出す。それに操られて、なにをしようとしていたのか。想像することさえ恐ろしくてできない。

 全身は冷汗でおおわれ、いいようのない虚脱感が聖夜を襲った。背中に冷水をかけられたような悪寒が走る。身体が震えて止まらない。

 寒さに耐え切れず、聖夜はひざまずいたまま、両腕で自分の肩を抱いた。

「聖夜」

 声とともに肩に手が触れた。そこから優しい温もりが伝わってくる。聖夜の胸に少しずつ温かいものが広がる。

「どうした? なにがあった?」

 聖夜はゆっくりとふりむき、声の主を見上げた。

「父さん……」

 そこにいたのは月島だった。

 聖夜を呼び止めた声は父のものだった。それを理解したとたん緊張の糸が切れ、聖夜は身体がぐらつくのを感じた。

「大丈夫か、聖夜」

 遠ざかる意識の中で聖夜は、自分を心配とも不安ともしれない表情で見つめる父の顔を見た。そして、崩れ落ちる身体を支えてくれる、力強い腕を感じていた。


   *   *   *


 その影は、腕に女を抱いていた。光が閉ざされ、顔ははっきりと見えない。

 影が聖夜に呼びかけた。

「生命の源は、おまえのものだ。熱き血潮で喉の渇きをいやすがいい」

 聞き覚えのある声は、聖夜にそう囁きかける。身近な、とてもよく知っている声のような気がした。

 影が女を地面に横たえた。聖夜はかけより彼女を抱き起こした。

 女は歓喜の余韻を顔に残している。首筋には小さな牙の痕があった。吸血鬼の犠牲者だ。

「ひどい。なんてことをするんだ」

 聖夜は影に向かって叫んだ。

「ひどい? その女が望んだことだぞ」

「この人が?」

「そうだ。快楽と永遠の命のために。いつまでも年をとらず、若く美しいままでいたいと願った。そしてわたしの牙にかかることを選んだ」

 そんなことのために、未来永劫呪われた存在になりたいのか。聖夜には理解できない。

「おまえもその女に口づけるがいい。望みさえすれば、身体はすぐにでも変化する。その血で、長年の渇きをいやせ」

「断る。ぼくは吸血鬼じゃない。そんなものほしくない」

 影が笑う。あざけるように、高らかに響きわたる。

「おまえはまだ自分が解ってないのか。そろそろ気づいたと思っていたが。ただの頑固者か、あるいは愚か者なのか」

 腕の中の女性が、聖夜の首に腕をまわし、耳元で囁きかけた。

「お願い。あなたの世界につれていって……」

 熱い吐息が聖夜の耳にかかった。傷口から流れる二筋の血が、視線をとらえる。生命の源。命の糧。吸血鬼が生きるために必要なものだ。

「早く……」

 鼻にかかったかすれた声がせがむ。頭上で影が含み笑いをたてた。

「無理に自分を抑えるな。おまえが血をほしがっているのをわたしは知っている」

 女の身体を流れる血……息づくエネルギー。それらが本能を呼び起こそうとする。

「よせ」

 聖夜は女を力ずくで引き離し、背後で見守っていた影に訊いた。

「きみはだれだ? なぜぼくを誘惑する。ぼくのなにを知ってるんだ」

 風が木の葉をざわめかせ、月にかかる雲を遠ざける。影の人物に、月光が射した。

「まさか、そんな」

 驚愕する聖夜に、影は勝ち誇ったように笑い声を上げた。

「わたしはおまえ自身の影。おまえはわたしだ」

 獣のように光る瞳、唇から覗く鋭い牙。そこにいたのは吸血鬼だった。

 だがその顔は、ほかのだれでもない。

 聖夜自身だった。


   *   *   *


 目覚めたとき、聖夜は自分のベッドの中だった。射し込む光は月のものではなく、生命力に満ちた太陽の光だ。冬の陽射しの温もりが、ガラス窓を通して聖夜に優しく降り注ぐ。暖かい日だまりに気持ちも和らぐ。

 聖夜は枕元の目覚まし時計を何気なく見た。デジタル盤は午前九時を表示している。

「……えっ。なんだって?」

 遅刻したと思った聖夜は、慌てて跳び起きようとした。が、

「いたっ」

 酷い頭痛が走って、ベッドに沈んでしまった。

 どうして父は起こしてくれなかったのだろう。疑問を抱きながらもう一度時刻を確認すると、時計の下におかれたメッセージに気がついた。


『今日は欠席だと稲葉先生に伝えておく。

 朝食は机の上に準備しておいたので、適当に食べるように。 ――父より』


 月島の残した伝言は無愛想で、必要なことしか書かれていない。

「これで気遣ってるつもりなのかな」

 聖夜は苦笑しながらメモを枕元におき、今度はゆっくりと起き上がった。見ると、なるほど机の上に朝食が用意されている。クロワッサン二個とミルク、ドレッシングのかかったトマトサラダ。冷めても食べられるものばかりだ。

 昨夜は孝則のところに行けなかった。気になって携帯にかけてみたが、留守番電話が対応するばかりだ。孝則は登校し、電源が切られているのだろうか。

 聖夜はふたたび横になった。目を閉じると、昨夜のことがまぶたの裏に浮かぶ。

 あのとき聖夜は、まるで吸血鬼のように、女性の喉元を狙おうとした。それまで何度となく見てきた悪夢を現実のものにしようとしていた。そして夢の中に出てきた人たちは現実の中で惨殺されていた。

 喉の渇きを血でいやすため、身体をかけめぐる欲望を満たすために自分がやったのか。

「まさか」

 頭の中で紡がれる考えを、声に出して否定する。仮にそれが予知夢だったとしても、夢は夢にすぎない。自分が犯人であるわけがない。

「けどぼくはあのとき、夢が恋しかった」

 薬をほしがる麻薬中毒者のように、聖夜は夢で味わった快楽を求めていた。

「どうして血を飲まなきゃいけないんだろう?」

 頭の中に浮かぶ疑問をひとつずつ整理する。

 事件は夢遊病になった自分が、無意識のうちに引き起こしているのだろうか。

 では、自分は吸血鬼なのか?

 生き血を求め、夜な夜な彷徨(さまよ)い歩く闇の支配者。犠牲者の首筋にその鋭い牙を立て、生き血を飲み干す。夢の中で聖夜は、吸血鬼と同化していた。

「でもぼくは吸血鬼じゃない」

 部屋を満たす太陽の光にも、母の形見の十字架にも、苦痛を感じない。

「それにもしぼくが吸血鬼なら、美奈ちゃんがぼくを襲う必要なんてないはず」

 そこまで考えたとき、急におなかが鳴った。

「やめた。ばかばかしすぎる」

 空腹でいるとろくなことを考えない。

 ラジオのスイッチを入れると、軽快なクリスマス・ソングが流れてきた。十二月に入るとこれらの曲をよく耳にする。自分の誕生日が近いことを感じながら机の前に座り、父が準備してくれた朝食を食べ始めた。

 そのとき、聖夜はあることに気がついた。

「あのときぼくに声をかけたのは、父さんだった」

 月島に呼び止められたおかけで、聖夜は悪夢にとらわれることなく終わった。だが――。

「どうして父さんがいたんだ?」

 孝則の家に行くと告げて出たとき、父は普段と同じように送り出してくれた。なのにこっそりあとをつけてきたというのか?

 なぜ? なにが目的で?

「もしかして父さんは、なにか知ってるんじゃ……」

 聖夜の胸に期待感が広がる。たったひとりで抱えるには大きすぎる問題を、父はともに解決に導いてくれるかもしれない。

 身近にいる父が相談相手になるかもしれないのに、聖夜は一方で強い不安に襲われていた。

 それが、父に対する不信感だとは、そのときの聖夜にはわからなかった。


   *   *   *




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