天使と道化と悪魔
通りは人でにぎわい、こうばしい匂いや甘い香りがたちこめている。大道芸の見物客を目当てに出店が出ているのだろう。
アーケード沿いにある広場は街が管理しているもので、小さなステージもあり、よく催物が開かれている。普段から休日になると人が多くなる場所だが、今日はいつも以上の賑わいだ。それもまだ人は増えつつある。
「あっ、はしご乗り!」
人々の頭をはるかにつきぬける高い梯子に登る男は大きく手を振り、開演間近のラッパを鳴らす。本番前の客引きとはいえ、目の前の演技は巧妙だ。
あたしは広場に面したビルの二階にある、喫茶店のテラスにいた。華奢な細工の柵は少しばかり心もとないが、夕涼みや祭り見物にはもってこいの席なのだろう。そして今は、整列してお辞儀をする芸人を特等席で見下ろせる。
だがあたしはオペラグラスをのぞきこみ、観客の最前列でひょこひょこと動いている美月様の後頭部を眺めていた。
「美月様はなぜこちらにいらっしゃらないのです」
隣に控える辰巳が当然の問いかけをした。
そもそも、この特等席は副会長・雨宮によって美月様のために用意されたものだった。
「美月様は下で御覧になりたいってさ」
貴族のように見下ろすのではなく、平民と同じ視点から同じように楽しみたいというご希望だ。
こんなこともあろうかと、あたしは事前に、美月様の世話役である三舟さんに立ち見できる最前列の場所取りをお願いしていた。三舟さんは出来た人で、使うかもわからない場所のために快く時間と労力を割いてくれた。
あたしが用意した場所で立ちながらの見物、という行為に最初こそ迷った雨宮たちであったが、美月様のおねだりにすぐ頷いた。そして空いてしまった特等席に、「どうぞお使いになって」と微笑みと共に追い出されたのだ。三舟さんもいるし、そばから離れても問題はない。そう判断してあたしはさっさと身を引いた。
三舟さんの手伝いをしていた辰巳の姿にぱっと頬を染め、あたしと共に去ることに肩を落とす、美月様のわかりやすいまでの気分の上げ下げは見なかったことにする。
気になっていた上都賀さんは、美月様の熱心なお誘いに根負けしたようだ。生徒会役員たちとしっかり距離を置いているが、見る限りは美月様とはしゃいでいる。よかった。
雨宮や初瀬は美月様にしきりに話しかけ、芸人を指さしたり屋台で買った菓子を分けたりしていた。その表情はおだやかで、普段の必要以上にツンと澄ました顔よりずっといい。そうさせているのは美月様の笑顔だ。
昨日の夜、敬吾さんに報告した時は連日のお叱りを覚悟した。だが意外なことに、敬吾さんはどうぞいってらっしゃいと頷いて見せた。
生徒会連中は家柄も人格も十分保証されているし、交友関係を結ぶのは悪くない。やっかみを受けることもあるだろうが、それをどうにかするのが『妹』の役目、と敬吾さんはサラリと言ってくれる。まったく、結局シワ寄せはこちらにくるらしい。
「アキラ様、ここは三舟さんにお任せして、じっくりご覧になってはいかがです。おもしろいですよ」
「ああ、うん」
オペラグラスを下ろしてちらりと後ろを見ると、辰巳もまた広場に目を向けている。
恐ろしく高い下駄をはいた男が器用にジャグリングを始めた。あたしは柵によりかかりながら、ぽつりと言った。
「辰巳が興味を持つとは思わなかったな。……悪かった」
「え」
「美月様が辰巳も呼んでやれと言っていたんだ。でも、無理に連れ出すのもどうかと思った。だから……」
「アキラ様、あまり身を乗り出すと危ないですよ」
辰巳はそっとあたしの肩に両手を添えた。
「俺はアキラ様と二人で見物したいと思いました。アキラ様はおこもりがちですので、こういった機会もいいかと。俺の興味は大道芸にはありません」
では何に、と聞くつもりはない。
あたしはぽすんと辰巳に体重を預けてもたれながら、しばし肩の力を抜くことに決めた。
とことん甘い世話役に、もっと甘えたくなったのだ。
「辰巳はお手玉得意だったな。いくつまでならできる?」
「そうですね、七つはいけます」
「あっ、刀をのみこんだ!」
「……あれは、どうなっているのでしょう。お時間を頂かないとアキラ様にお見せするのは難しいかも……」
「やれって言ってないだろう」
次から次へと繰り広げられるパフォーマンスに、あたしは辰巳と会話しながらも目が離せなくなっていた。よくよく考えれば、あたしもこういったものを間近で見るのは初めてだ。
動物園や水族館、遊園地といった類の行楽施設も、学校行事以外で行ったことはない。
美月様はご家族でよくおでかけになるが、あたしは家族ではない。当然、行かない。
あたしは自然と辰巳の服の裾を握りしめていた。
隣にいてくれてよかった。心底そう思う。
自分でも意外なほど大道芸に見入っていたあたしは、辰巳が芸ではなくあたしのほうを向いて満足げに笑っていることに気がつかなかった。
「あっ、美月様」
何やら何人かの見物客が手を挙げたかと思うと、外国の鳥の羽根のついた派手な帽子と仮面で目元を隠した芸人が美月様の手をうやうやしくひいて広場へと誘っている。
「なんだ、あの男は」
目を険呑に細めてすっかり警戒態勢に入ったあたしに、辰巳は小さく笑った。
「大丈夫ですよ、アキラ様。よくあることです、観衆から一人選び、ちょっとした手伝いをさせるのです」
「ああ、そういうことか」
「あの方もおとなしく見ていればいいものを……」
「こらこら」
仮面の男は大げさに美月様に一礼すると、かぶっていた帽子を手渡した。美月様は指示通りに中をのぞき、次はふってみせ、周りの観客に何も入っていないことを示した。愛らしい助手にため息がもれる。
美月様から帽子を受け取ると、仮面の男はにっと笑って帽子に手をつっこみ、何か引っかかっている演技のあと勢いよく引きぬいた。すると途切れることなく色とりどりの大量のリボンがあふれ出す。ようやく途切れたところをぐるぐるっと両腕で巻き取ると、男は宙にリボンの塊を放り投げた。落ちてきたところを見事片手で捕まえる。なんと、その高々と上げた右手にはリボンではなく花束が!
これには拍手喝さい、指笛の音が鳴り響く。
美月様も興奮したように手を一生懸命たたいている。
仮面の男はまた頭をさげ、声援に応えた。そして手にした花束をすっと差し出した。
美月様は嬉しそうに両手を伸ばす――――――が、しかし。
ひょい、と男は美月様に渡す直前で花束を自分の手元にさらってしまった。
「え」
小さく戸惑う美月様の声が聞こえたような気がした。
どうなるのか、とドキドキしながらその様子を見守っていると、不意に仮面の男が上を向いた。目元こそ隠れているが、通った鼻筋に厚めの唇、なかなかの男前であることは容易にわかった。仮面の男はしなやかに腕をまわし、花束をふわりと空に投げた。
「え」
今度はあたしが声をあげる番だった。
高く飛んだ花束は花びらを何枚か散らしながら、あたしの膝の上にぽとんと落ちてきたのだ。
いったい花束はどこへ、と観衆全員が目を上にそらした次の瞬間。
「わあっ、すごい!!」
美月様の声に一斉に視線が戻る。
いつの間にやら、さきほどのものよりずっと大きな花束が、膝をついた仮面の男から美月様に差し出されていたのだ。
またもや溢れかえる拍手に、仮面の男は美月様を送ってから何度も手を振りながら後ずさる。次の芸人に交代するのだろう。
去り際、仮面の男はまたふっと視線をあげた。見えない目は確実にこちらをとらえ、にいっと笑う。
あたしが思わず身をすくめると、男は唇に手をあててあたしへと手を伸ばした。いわゆる投げキッス、というヤツだ。
「キザな男だ」
ああいう演出なのだろうか。
思わず彼の姿が消えるまで目で追っていると、視界に妙なものが飛び込んだ。
広場をはさんだ、屋台が並ぶ向かいの通り。サングラスで目元を隠しているが、薄いニットにチノパンのラフな姿で佇んでいるのは会長の雀野ではないか? あの長めのうざい前髪、間違いない。
用事があってこれない、と言っていたはずだが。
堂々と一緒に来ればいいだけの話なのだから、まさかこそこそ美月様のストーキングってことはあるまい。
「いったいどういうつもりだ……? え、あれ?」
さっと取り上げられた花束に、それていた意識が戻ってくる。
「辰巳?」
どうした、と見上げると、辰巳は口の端だけをわずかに上げて笑っていた。
「アキラ様、これはこの店の方に差し上げましょう。御礼がてらにちょうどいいです」
「あ、ああ、うん」
「帰りに花を買いましょうね。こんな花ではなく、もっと美しい気品ある花がアキラ様には合います」
「ああ、うん」
なぜか辰巳の機嫌が急降下していることに気付いたあたしは、とりあえずこてんと辰巳に寄りかかり直し、彼の言うとおり頷いた。
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