悪魔と下っ端風紀
朝のホームルーム前の、教室内に「おはよう」が飛び交う穏やかな時間。あたしの機嫌は最悪だ。ひそひそとこちらを窺いながら何やら言いあっているクラスメイトたちの視線も気にならない。
あたしはじっとりと黒板を睨みつけていた。目つきは普段の三割増しで鋭いはずだ。これは化粧のせいだけではない。
昨日はひどく疲れた。それなのに、帰宅後も散々な目にあってしまったのだ。
後ろめたいことがある時に限って敬吾さんは時間に余裕があり、報告手帳を渡したその場で目を通し、ぎろりとあたしを冷たく見据えた。
なぜ美月様から目を離したのか。
なぜ美月様と東条を接触させたのか。
偶然としか言いようがなかったが、今回のことは風紀に捕まったあたしのせいだ。いくら化粧をする案を出していたのが敬吾さんだとしても、だ。
「あの学園内で、化粧をしているのがあなただけだと思っているのですか、アキラさん」
「え?」
「ファンデーションでそばかすを隠し、エクステでまつげを伸ばし、カラーコンタクトで瞳を大きくしている女生徒に気付いていない、なんて言わないでしょうね。日ごろあれほど周囲に注意を配るように言っているんですから」
「………ええっと」
あたしは化粧初心者であり、女生徒たちのバレにくい凄腕ナチュラルメイク術など心得ていない。
「あなたの化粧がヘタクソなのはいいのです。ですが、それでまた今回のようなことがあっては困ります。風紀の検査にひっかからないギリギリのラインを見極めてください」
これからはもっと要領良く立ち回るように、とこんこんと説教を受けた。そしてフラフラになりながら離れに戻れば、今度はまさかの辰巳が噛みついてきた。
「お疲れさまでした、アキラ様」
「あー、ただいま。疲れたよ、辰巳」
思わず弱音を吐いたあたしの鞄を受け取ってくれた辰巳は、そっと肩に手をまわして支えてくれる。その温かさに甘えたい気持ちがこみあげる。
「………アキラ様?」
「え? ちょ、辰巳? なんか痛い」
不意に辰巳の手に力がこもる。
「なぜ、御髪が結わえられているのです」
「え?」
そういえば、と頭に手をやれば、城澤が結んでくれたままあたしの髪はポニーテールになっている。
「俺におっしゃいましたよね? 結わえないんだと。そのほうが『らしく』見えるから、と。アキラ様、ご自分で結うの上手ではありませんよね。ではこれはどなたが?」
「あー。えっと、これは不可抗力で」
「この髪ゴムはどうなさったんです。お持ちではなかったですよね?」
「も、もらった……」
「俺にはやらせてくれなかったのに、アキラ様はどこぞの誰かにあっさりと髪を触らせたんですね。そうなんですね。俺にはやらせなかったのに」
「た、辰巳ぃ……」
だんだん辰巳の目が据わっていく。ヤバイ。こうなると辰巳はしつこい。
「うるさい先輩に怒られちゃってさ! だから仕方なくだよ」
「そうですか」
「明日から辰巳にお願いする!」
「本当ですか? いいんですか、嫌だとおっしゃっていたのに」
「嫌なんじゃないってば! 必要ないと思っただけだ。でも、敬吾さんにも少し整えるように言われたから。辰巳じゃないとあたしの髪は扱えない」
こわばっている辰巳に正面から飛びついて腕をまわし、ぐりぐりと頭を胸板に押し付ける。
「本当でしょうね」
「ホントだ、疑うな。ね、お腹空いた、さっさと着替えてくるから夕ご飯食べよう」
あとひと押しだな。
長年の勘から、あたしは美月様直伝の上目遣いで辰巳を見つめる。
すると思った通り、辰巳はおだやかな表情に戻っていた。ほっと胸をなでおろした瞬間、すっと髪がほどけて自由になる。
「わかりました。では、これは俺が処分致します。よろしいですね?」
辰巳はあたしにゴムを見せると、ポケットにしまってしまう。城澤に返そうかとも思っていたが、まあいいだろう。
「うん、わかった」
「では、お化粧を落として、制服を着替えて」
「うんうん」
「お風呂に入って髪をよ~く洗ってから、ご飯にしましょうね」
「え、先ごはんがいい」
「お風呂が先です」
「……」
「俺が髪を乾かしますからね。櫛とドライヤー、用意しておきますね。明日はどんな髪型にしましょうか」
「……まかせる……」
おかげさまで、今日のあたしの髪はふわりと左耳の後ろで一本にまとめられている。水色の花のポイントがついたゴムは辰巳が用意していたものだ。
辰巳のご機嫌はなんとか戻ったが、敬吾さんとのダブルパンチであたしはずいぶん疲れた。その上その上、あたしはすご~くがんばった! 風紀の反省文を見事に自宅で書きあげたのだ!
がんばった! あたし、偉い!
これさえ提出すれば、今日は反省室に行く必要はなくなる。
美月様をお守りすることもできる!
「うふふふふ……」
思わずこぼれた声に、周囲はぎょっと身を引いた。
どうぞドン引くがいい。
さて、気分も優れないこういうときはストレス解消に限る。
弱い者いじめに行くことにしよう。
さりげなく美月様のお昼チェックを済ませた後、あたしは早々に1年D組を訪れた。
「ええっと~」
ここでも反応は同じで、あたしが教室のドアからのぞきこんだ途端に「げっ」という声が聞こえてくる。
きょろきょろと見回すと、お目当ての人物を発見。にんまりと口元が歪むのがわかる。
「風紀委員の松島伊知郎く~ん!」
ハートがつくくらい甘ったるく呼んであげると、松島は中学生みたいな幼い顔を、飲んでいる牛乳と同じくらい白くした。
そう、彼は昨日美月様を見捨てて逃げ帰ってきた風紀委員。下っ端とはいえ風紀なので優秀な生徒のはずなのだが、あたしのデータベースにはたいした情報はなかった。
「な、な、な、なに、かな。白河さん」
教室中の視線を浴びて転びそうになりながらも、松島はなんとかあたしのところまでたどり着いた。
並んでみるとあたしと同じくらいの身長で、まだ未成長な体つきはどうにも頼りなさそうだ。これでは東条に立ち向かおうとしたところで、鼻で笑われるに決まっている。か弱い女生徒であるあたしと相対する今でさえ、彼のクラスメイトは松島に同情的な、心配そうな目を向けている。
「やっだなー、なんでそんなビビッてるワケ? あっははは!」
「あ、あはは……」
あたしにつられてひきつった笑いを返す松島くん。より彼を安心させてあげるために、あたしは耳元に顔を寄せて小さな声で呟いた。
「安心してよ。姉さんを見捨てたこと、誰にも言ってないから」
「うっ!!!」
いくら東条相手だったとはいえ、学園の天使を見捨てたとなれば松島の信用はガタオチ、風紀だって叩かれるだろう。だが、すべて無かったことにするという約束で昨日の騒ぎは手打ちにしてもらったのだ。蒸し返すようなマネはしない。
用事は別にあるのだ。
あたしはにっこりとほほ笑むと、松島にA4サイズの茶封筒を差し出した。
「これ、風紀委員長に渡しておいてほしいの」
「え、これ?」
目を丸くした松島は、封筒とあたしの顔をせわしなく交互に見た。
「昨日書けなかった反省文。今日はグロスも塗ってないし、髪だってほら」
あたしは肩にかかる結んだ髪をゆらした。
「あ、そうだね……」
「ね。ふかァく反省してましたって言っといてくれると助かる」
「わかった、受け取るよ」
「ありがと!」
このために呼ばれたのか、と松島はほっと肩の力をゆるめたようだった。
だが、甘い。
あたしは封筒を受け取ろうと伸ばした松島の手首をぎゅっとつかんだ。
「ところでさァ、これも何かの縁じゃん?」
「え?」
「ほら、風紀委員って他の委員と違ってクラスに最低何人、とかじゃなくて、既存の委員からの指名制でしょ。一年生で唯一の風紀、そんな優秀な同級生とはぜひとも仲良くなりたいなァ~って思ってるの」
「……え?」
理解の遅い松島に苛立ち、あたしは低い声ではっきりと言った。
「トモダチになろうって言ってんのよ」
「ひいっ」
短い悲鳴をあげる松島。手首をつかむ手に力をこめ、あたしは彼の顔をのぞきこんだ。
「大丈夫だって、ほんとに仲よくするだけだって。メールとかしようよぉ。それで、風紀の朝の遅刻者チェックの日とか、荷物検査の日とか、委員長のスケジュールとか、いろいろお話しよ?」
「そ、そんなこと……!」
「あれれ? 嫌なの? じゃあ言っちゃうよ? 松島くんが、風紀委員が美月姉さんをあっさりと―――――」
「わ、わわ、わかったよ! ちょっとこっち!」
逆に手を引っ張られながら、松島に連れられて早足で非常階段へ向かった。そのまま外にある階段の踊り場へ出ると、松島はふうーっと大きく息をついた。
「あー、びっくりした。君の所には行こうと思ってたんだけど、覚悟ができる前に君から来ちゃうなんて!」
「え?」
「お姉さんのことでね」
「どういう意味?」
あたしが鋭い目を向けると、松島は慌てて言った。
「別に悪いことじゃないよ! ただ、彼女は学年一番の有望株だから」
「有望株?」
「次期役職持ちの有望株ってこと。生徒会とか文化部総括、運動部総括とかが、優秀な人材を一年の中から探してる。そういうのってやっぱりハクがつくでしょ? だから決定に際しては揉め事が多いんだよ。僕ら風紀はそれを今から注意してるんだ」
「……ああ、そう」
松島はさきほどのおどおどした態度が嘘のように、流暢に口を動かしている。
「あ、連絡先を交換しようか。赤外線使える?」
スマートフォンをとりだした松島に、あたしは逆にうろたえてしまった。
「……ヤケに気前いいね。嫌がったくせに」
松島は照れたような困ったような顔をして、頭をかいている。
「うん、君と親しくするのちょっと怖いんだけど……。でも、これも委員長から言われたことだから」
「城澤に?」
「同学年として、君の動きをしっかり見張っておくようにって。昨日の失態もあるし……」
「そ、そういうこと言っちゃっていいの? 怒られない?」
つい松島を心配してしまったが、彼はけろりとして言った。
「遠くからこっそり監視するより、打ち明けちゃった方がお互い都合がいいと思うな。全部ってわけにはいかないけど、一斉検査とかある日は情報も流す。かわりに君は僕に見張られてることを自覚してもらって、最低限風紀を乱すのはやめる、とか」
ついでに昨日のことを黙っていてほしいんだけど、どうかな、とまた弱気になってみせる松島に、あたしは大きく肩をすくめた。了承の代りにスマートフォンを差し出す。
甘かったのはあたしのほうかもしれない。
ご意見・感想をお待ちしております。