天使の母親と悪魔の寝言
白河本邸で一番怖い人は間違いなく敬吾さんだ。
しかし、その敬吾さんにも天敵というべき存在がいる。それが美月様のお母様であり、白河当主の奥方である水音様だ。
水音様は、絶対零度の風を吹き荒らしたり、業火をまき散らしたりして激昂するような方ではない。むしろその逆だ。
ほっそりとしたシルエットが現れたことに気づいたのは、三舟さんが最初だった。続いて敬吾さんが立ち上がり、辰巳があたしを書斎の隅に追いやった。
「ねぇ、ちょっとお邪魔してもいいかしら」
ころん、と上質な鈴が転がるような声。あたしはすぐさま辰巳の大きな背に隠れ、顔が見えないよう頭を下げた。
ゆったりとしたロングワンピースに身を包んだ水音様は、優雅な足取りでするりと部屋に入り込んだ。華奢な体躯にいつも微笑みを乗せた唇は少女のようで、美月様のような大きな娘がいるとは思えないほど若々しい。
「こんな時間にごめんなさい。美月のことでね、お話があるの」
水音様は大きな瞳をまたたかせて、いたずらっぽく言った。
そんな可愛らしい態度の水音様をばっさり袈裟斬したのは、もちろん敬吾さんだ。
「わたくしも伺おうと思っていたところです、奥様。なぜ美月様に鷹津家との婚約についてお話になったのですか」
「怒っているの?」
「いいえ。わたくしは理由を聞いているのです」
「でも怒っているわ」
「怒ってはおりません」
「だって言い方が怖いもの」
「………」
遅々として進まない話に、敬吾さんが言葉を継げなくなる。これなのだ。
敬吾さんが雪ならば、水音様は春風のような人。もう冬は終わりよ、とばかりに敬吾さんを追いつめる。おかげで二人の間にはまともな会話は成り立たない。
しばしの沈黙の後、水音様はしょんぼりと言った。
「いいの。三舟さんが話してしまったんでしょう? 怒られるとわかっていたから、こうして自分からここまで来たのよ。すべては美月のためだもの」
「美月様のため、とは」
結局いつも通り、話したいように話すにまかせることにしたのだろう。敬吾さんは言葉少なに問いかけた。
「美月には幸せになってもらいたいのよ」
慈愛のこもったその微笑みは、まさに子を想う母親にしかできない表情だ。
「知っているでしょうけど、あの子帰るなりお部屋にこもってしまったの。考え事があるからって、わたしも入れてくれないの。こんなの初めて……いえ、二回目ね」
水音様は隠そうともせずに、辰巳へと一瞥を投げた。
「あの子ね、お夕食もとらずに思い悩んでいるの。ドア越しに聞いてみたら、あの子なんて言ったと思う?」
あなたも聞いていたでしょう、と今度は三舟さんを巻き込んだ。
「自分に失望しそうだって。自分ではない誰かに優しくする鷹津篤仁さんを見たら、なんだか悲しくなってしまったって。そんな自分がイヤだって。あの子、まだ自覚がないようだけど本当に鷹津さんが好きなのよ」
その言葉に、あたしの頭は自然と重くなる。美月様にそんな思いをさせたのはあたしだ。今ごろお腹は空いていないだろうか。
ハラハラとしている三舟さんをよそに、芝居がかった口調で水音様は言い募る。
「若い娘がくよくよ悩むものじゃないわ。しかもする必要のない心配だなんて。美月が倒れちゃう。だから教えてあげたの。人に優しくされるのを期待するのではなく、あなたが優しくすればいいのよって。結婚もそういうものよって」
結婚、という単語に、敬吾さんの目がすっと細まる。吹雪が吹き荒れる前段階だ。しかしそんなこと意にも介さず、ますます芝居のように、水音様は長調子のセリフをよどみなく紡いでいった。
「実はあなたと鷹津さんの縁談話があるのよって言ったら、美月びっくりしていたわ! 本当なの、お母様ってすぐにドアも開けてくれた! しょんぼり顔がうってかわって頬を染めていたわ。前は仕方なかったと思うの。当然のことね、不釣り合いだもの。でも今回は違うわ、願ってもない相手じゃない。鷹津さんと美月、お似合いだわ。勝手に言ってしまったのは悪かったけれど、美月のためよ。あの子が好きになったのなら、もう隠す必要もないんじゃないかしら」
まるで水音様は舞台女優だ。ぎゅっと握りしめた両手を祈るように胸の前に掲げ、よく通る声で感情いっぱいに主張する。
娘を想う母親の愛に観客は胸を打たれるかもしれない。だが、この人はそう甘くない。
「そういう問題ではありません。当主様から説明があったと思いますが、鷹津家との婚約は一向に進んでおりません。未だ不確かな情報を与えて後で気落ちさせるのと、美月様にとってどちらがいいでしょうか」
もっともな敬吾さんの意見に、水音様はついに舞台から降りて楽屋へと戻ってきた。
「白河が望む道へ導くのがあなたたちの役目でしょう」
不思議なことに、声の調子は甘くやわらかなままだ。しかし出てくる言葉は違う。
「わたしが来たのは、そのお話をするためよ。もう美月には言ってしまったの。主人だって賛成しているわ。できるだけ早く婚約まで持ち込ませてね。美月をがっかりさせないで」
そう言いつつ、もう用はないとばかりに水音様は退出しようとしていた。しかし、扉に手をかけながらふと足を止める。そして独り言のようにつぶやいた。
「そんなこともできないなら、わざわざ置いてやっている意味がないもの」
あたしは布団の上でぼんやりと座りこんでいた。
今日はいろいろとあって疲れた。
敬吾さんのお説教だけでも体力を根こそぎもっていかれたのに、水音様には精神を削られた。
意味がない。価値がない。あたしがここにいる理由がない。
「アキラ様」
「うん」
「もう遅いです。お休みになられた方が」
「うん」
時刻はすでに日付をまたごうとしている。早く寝た方がいいとわかっているのだけれど、どうしても心につかえるものがあって、あたしは身体を横にできずにいた。辰巳の気遣いにも生返事しか返せない。
ちっちっ、と秒針の音だけがしばらく続く。
「はァ~~~~っ!!」
あたしは耐え切れなくなって大きく息を吐き出した。
「アキラ様?」
そう、こうして辰巳が呼びかけてくれることを期待して、だ。
「辰巳。内緒の話。聞いてくれる?」
そう言うと、辰巳はあたしを無理やりに布団に入れ、電気を消してから枕元に座った。
「俺はちゃんと聞いています。でも、アキラ様は夢の中でおしゃべりをしています。寝言です。だからお立場もお役目もみんな関係ありません」
「うん」
辰巳にうながされ、あたしは目を閉じた。そう、ここからはあたしの寝言なんだ。
「あのね、あたし敬吾さんに報告していないことがある」
「はい」
「これは客観的じゃないからって言い訳してたけど。本当だったらどうしようって思っているから言えないでいる」
「はい」
これを口に出すのはどうかと思う。どうせなら自意識過剰だと笑い飛ばしてほしい。ああ、でも。
「鷹津篤仁は、本気であたしを娶ろうとしているのかもしれない」
辰巳はほんのわずかに間をおいて、また「はい」と相槌をうった。
核心部分だけを言ってしまってから、あたしはどう話そうか、としばし口を閉じた。辰巳はただあたしのそばにいてくれる。
「最近ね。あたしに優しくしてくれる人ができた。辰巳は気に入らないだろうけどアザを作った風紀委員長の城澤。あたしのこと更正させようと思ってるらしい。風紀の松島。あたしが学園にいるとおもしろいと言った」
「はい」
「雀野。対鷹津っていう下心があるとはいえ電話でくだらない長話なんて初めてやった。池ノ内。何かとお菓子くれたりかばったりしてくれる」
「はい」
「嬉しかった。今まで表面的な付き合いはあったけど、好意的なものではなかったから」
「はい」
「松島や雀野は、あたしがどうしてこんなふうに振る舞っているか分かっている。きっと城澤や鷹津に対して、似たような立場にあるからだろう。城澤は違うかも。ただアイツは風評に左右されない鋼の男だから。池ノ内はよくわからないけど、体育会系だからかな。後輩に親切。でも」
あたしはいったん言葉を止め、息を吸い込んでから言った。
「鷹津は違う」
そう、アイツは違う。
「あたしがバカやっている理由だけじゃない。あたしが何を考えているか、何を厭っているか、何を望んでいるのか、知っているみたいなんだ。しかもその理由まで。根拠はないけど、おかしな点ならいくつかある。離れへ押しかけようとした生徒会連中を止めたこと、格下げなんて言いながらあたしにだけ別のものを用意してくれたこと。ああ、今思うとアレもおかしい。あたしが泣きつくのは辰巳だけだって、なんでわかったんだろう。他の人間なら美月様だと考えるはずなのに」
離れがあたしの居室であること。
幼少期のちょっとしたトラウマのせいで、美月様と同じものを同じ場所で食べたくないこと。
本当に甘えられる相手が辰巳ただ一人であること。
なんでそれを鷹津は知っていたんだろう。
まるで、あたしのことを全部わかっているみたいに手を差し伸べる。
まるで、辰巳みたいに。
「辰巳と鷹津が似ていると思ったのはそこなんだ。でもそんなはずない。あたしのことを全部知っているのは辰巳だけ。何もかもわかった上であたしに優しくしてくれるのは辰巳だけなのに」
鷹津からそんな感情を向けられるのが怖い。
「アキラ様」
あたしの混乱を感じ取ってか、辰巳は手であたしのまぶたを覆い、そのまま髪をなでてくれた。
「……あたしのことを調べたのなら、それでもいい。だけどあたしに対する行動は不可解だ。これも敬吾さんには言えなかったことだけど、夫婦の在り方を説かれたときに、夫婦とは誰のことだと聞いたら俺とお前のことだと答えてきた」
辰巳は生え際から毛先まで、指で梳くように髪をなでる。
「初対面のときと合わせて、プロポーズもどきはこれで二度目だ。鷹津はつまらない冗談やウソはつかないだろう。つくならもっと巧妙にやる」
雀野は鷹津のことを有言実行の男だと言っていた。
おそらくそれは間違いじゃない。
「敬吾さんに言ったところで、ご自分にそれほどの魅力があるとお思いですか、とかなんとか切り捨てられると思う。恥ずかしい勘違いならそっちのほうが助かるんだけど」
自分でも最初はまさかな、と思っていた。敬吾さんの望む答えをして、知らないフリを通そうとした。美月様に対して鷹津が好意を向けないはずはない、という考えもあったからだ。実際鷹津は美月様を気に入っていると思う。
しかしあたしを気にかけるような行動が増えるにつれ、小さな疑惑は大きな不安に姿を変えた。今日のことがなくても、きっと近いうちに美月様の嫉妬心は破裂していたに違いない。
水音様からの直々の命令にも震えたが、これからのことを考えるとプレッシャーに押しつぶされそうだ。美月様を悲しませる最大の要因が、自分自身になりかけているのだから。
「これからどうしたらいい」
辰巳は答えない。これはあたしの寝言だからだ。
「せめて鷹津の思惑がわかればいいのに。あたしと結婚するメリットってなんだろう」
鷹津の行動があたしとの婚姻を目的としているなら、その理由がわからない。
あたしは白河本家の人間ではない。
特別な容姿や才能、コネクションも資産もない。
頭が悪く素行も悪い、悪評高いために一緒になったところで鷹津の評価は下がるだけ。
予想される白河の混乱だって、鷹津になんの関わりがあるだろう。火種を作る意味がない。
「……俺も寝言を言いたくなってきました」
「え?」
起き上がって辰巳を振り返ろうとしたら、髪を梳いていた手がまたふわりと瞼の上にのり、布団の上に押しとどめられた。
「あなたと結婚することの最大のメリット。それはあなたとこれからの生涯をともにする権利を得る、ということです」
思いがけない答えに驚いたあたしをよそに、辰巳は寝言を続けた。
「まさか敬吾さんとの結婚を考えていたなんて知りませんでした。あなたのことならなんでもわかっていると思っていたのに」
それはそうだろう。
恥ずかしくてとてもじゃないが言えない。今も後悔中だ。
「つい、妬いてしまった」
辰巳の珍しい物言いに、あたしはふふっと笑ってしまう。
「この俺でもわからないことがあるんです。鷹津篤仁とて、あなたのすべてを知らない。怖がることはない」
「うん」
「鷹津篤仁があなたに結婚を迫ったとしても、あなたは毅然としていればいい。前にも言ったように、こちらをどうぞ、とあの娘を差し出せばいい。万事解決だ」
「こら、辰巳」
「寝言です」
そう言われては叱れない。
「鷹津は手ごわいよ」
「どうすればいいか、考えましょう。俺も一緒に考えます。……それから、岩土さんも」
「妬いてるの?」
「寝言です」
嬉しくなってまた笑うと、辰巳はまた髪を梳き始めた。
「考え事は日が出ているときにしましょう。寝言もこのあたりにして、まずは休んで」
「……うん」
辰巳は、あたしが眠りに落ちるまでずっと髪を撫でていてくれた。
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