悪魔の従僕
敬吾さんは中を一読すると、一つうなずいてそのまま手帳を返してくれた。
「今日は問題なかったようですね。お疲れ様でした」
特筆すべきこともなかったので、あっさり報告は終了だ。一日の中でこの時間が一番気が張る。さっさと退出したいのだが、少しだけ迷ってからあたしは口を開いた。
「あの」
「何か」
「ありがとうございます。辰巳から聞きました」
すでに別の仕事に取り掛かっていた敬吾さんは、なんのことはない、と顔もあげずに言った。
「今にして思えば、離れで鍵がかかる場所といえばバスルームだけという不用心さでした。必要だからつけたまでです。お礼は当主様におっしゃってください」
「はい。……失礼します」
きっと当主様にお礼を言ったところで何の話か通じないだろう。でも機嫌を損ねてはたまらないので、手配してくれたのはあなたでしょう、とは言わない。
風呂上りにぼんやりと化粧水をはたいていると、鏡台に見慣れないものが置いてあった。
四角い小さなリモコン。
これこそ敬吾さんが手配してくれたもの、警備会社のトラックが出入りしていた理由だ。
さきほど辰巳から詳細を聞かされた時は、つい敬吾さんの正気を疑ってしまった。
なんと離れに警報機を設置したというのだ。
とはいっても簡易版で、有事の際にボタンを押すと母屋に緊急コールが届く、というものだ。ちなみに辰巳の携帯電話にも連動しており、会話も可能。
通りかかった使用人の一人を捕まえてたずねたところ、緊急コールがなった際は必ず離れに駆けつけること、と徹底して通達されているらしい。
「説明書は読みましたか」
ドライヤー片手に入ってきた辰巳に、あたしは肩をすくめた。
「一応ね。ありがたいけど、いきなりすぎない?」
「岩土さんが昨日から手配していたようです。離れへの客人の侵入をよほど気にかけてくれたのでしょう」
「おおげさだな」
あたしがそう言うと、辰巳は大きく首を横に振った。
「あのとき俺が間に合ったのは運が良かったからです。ちっともおおげさではありません。他の使用人は普段は離れへ近寄ることを止められていますから、いざというとき困ります。俺から岩土さんにお願いしようと思っていたところでした」
「やめてよ、絶対。にらまれちゃう」
「にらみませんよ、絶対。むしろアキラ様の警戒心のなさを心配しています」
「心配……」
あの白河家第一主義の敬吾さんが?
「本当ですよ」
あたしの寝床を用意してくれながら、辰巳はちらりと横目であたしを見た。疑っているのがバレバレらしい。
「お礼も言ったけど、必要だからつけたまでです、だってさ」
「アキラ様のために早急に手配しましたって言ってくる岩土さんのほうが、俺は怖いです」
「確かに。裏に絶対なにかあるね」
笑い声をあげたあたしに、辰巳は安心したように目を細めた。
「さ、髪を乾かしましょう」
「ん」
一字一字丁寧に書こうとすると、つい余計な力が入ってしまう。それは結果手の震え、線の乱れにつながってしまう。ここまで書いたのだ、失敗するわけにはいかない。
あたしはサインペンを握りしめ、鳳雛学園の校章が刻まれた真っ白な封筒の山と向き合っていた。
「まだあと半分はあるわよ、早くして」
「きれいに書けって言ったじゃん!」
「きれいに書くのは当然なの、問題はスピードよ」
「鬼!」
「あら、自分がなんて呼ばれているか知ってて言ってるのかしら」
本日の生徒会の雑用は、封筒の宛名書きだ。鳳雛学園では年に二回ほど広報誌が発行される。それは銀行口座への振込用紙も同封してOBOGに郵送される。つまりは寄付金集めだ。
基本的には業者に委託し、宛名シールを張られた封筒に詰めてもらっている。しかし歴代生徒会役員の分だけは生徒が手書きで宛名を書いて用意するように決められているらしい。
まったく伝統とは面倒だ。
「これなら校内走り回ってるほうが楽だよ……」
ここにいる以上はきっちりやってもらう、と雨宮は率先してあたしの監視役を買って出た。自分のデスクを持たないあたしは応接スペースのローテーブルで前かがみになって作業をしているのだが、雨宮はわざわざ席を立ってちゃんとやっているか確認しに来るのだ。
最初こそ適当に書き上げてしまおうと思っていたのだが、雨宮は書いたばかりの封筒を指ではじいて「曲がっている」「字が小さい」などと文句をつけてやり直しを命じてきた。おかげで気が抜けない。
「なんだ、アキラ走り回るつもりだったのかー? だから今日はそんな髪型なのか」
池ノ内は気合入ってるな、とあたしを褒めるが、実際気合が入っていたのは辰巳の方だ。今日はサイドから編みこんでアンティーク調の大き目のバレッタで髪をまとめている。普段はゴムでゆるくななめに結わえる程度のシンプルさなのだが、今朝に限って辰巳はいつもより時間をかけて髪を結ってくれた。
あたしの昨日の落ち込みっぷりのせいだろう。あたしは辰巳に髪をさわってもらうのが好きだ。あの大きな手が自分のために動いている、というのがたまらない。
「あたしの専属スタイリストにがんばってもらったんですぅ」
「白河家すげー! そんなのいるのか!」
「ふふっ、アキラってば。辰巳さんのことでしょ!」
「ああ、なーんだ……って、あの人そんなこともできるのか! やっぱりすごいな」
池ノ内が口を大きくあけて感心しているその隣で、初瀬が唇をとがらせて疑ってかかった。
「あの無愛想男が? ウソでしょ。すっごい不器用そうだけど」
「辰巳さんはとっても器用ですよ! アキラもいっつも自慢するんです。その髪型かわいいね、うらやましいなぁ」
「美月ちゃんのポニーテールのがかわいいよ。……そんなに優秀なら、なんで見習いなんかに付いてるの? もったいなくない?」
「え? いえ、辰巳さんはアキラに仕えてるのでそんなお願いできません。でも本当にすごいんですよ、食事に掃除に髪型まで、アキラのことは辰巳さんが全部面倒みてるんです」
「全部って……」
おっと、いけない美月様。それは辰巳のフォローにはなっているが、ちょっと白河家の内部事情が浮き出てしまう。『白河』ではなく白河家の『妹』に仕える使用人、というのは関係性がおかしい。
あたしはすかさず間に入った。
「そうそう! あたし付の使用人って辰巳だけだから。なぜか知らないけど、小さいころからあたし付になる人はみんなすぐ辞めちゃうんだよねー!」
「あっそ。当然だろうね。そうか、あの感情なさそうなぼーっとした男だからこそ見習いの相手ができるのか」
そういうことか、と初瀬は皮肉っぽく笑った。
よし、なんとか軌道修正できた。初瀬の頭の中では、大暴れする幼いあたしが使用人たちを振り回していることだろう。辰巳はワガママ悪魔のお守役として特別に用意された生贄、というわけだ。
「あなたたち、おしゃべりはそこまでにしてさっさとお仕事しなさい」
鬼の雨宮のおかげで会話は断ち切られ、あたしは内心ほっとした。
実際のところ、美月様の言っていることは本当だ。あたしの生活は辰巳によって支えられている。夕食だけは本家で作ったものを分けてもらっているが、他はまったく別々だ。食事も掃除も洗濯も、離れのことはすべて辰巳が切り盛りしている。
そして辰巳は白河ではなく白河アキラ、つまりあたしだけに仕えているというのも本当。あたしの生活費は白河本家から毎月決められた額を出してもらっている。あたしはその一部を使って辰巳を雇いいれているのだ。お金の出所は白河本家だけれど、使い方を決めているのはあたし。だから辰巳の主はあたし一人という理屈だ。
白河家であたしが異分子であるように、辰巳も白河家の使用人の中では異分子だ。あたしは何の気兼ねもなく辰巳に甘え、辰巳はあたしだけを甘やかしてくれる。お互いしかいないのだ、あたしたちの関係がより深くなるのも当然といえる。
美月様には辰巳に何かを命じる権利は表面的にはないし、辰巳も最低限の敬意しか示さない。美月様はその事実を正しく認識しているのだが、同家庭内で別の主従関係があるという不自然さを不自然とは思っていないようだ。だから時折ぽろっとこぼれる辰巳の話にはヒヤヒヤさせられる。
あまり辰巳の話題を出さない方がいいだろう。
「少し休憩しよう」
鷹津の鶴の一声で生徒会室の空気が緩んだ。
「ならまたわたしがお茶を……」
「いや、今日は俺がいこう」
立ち上がろうとした美月様を制して、鷹津はちょっと待っていろと部屋を出ていく。へえ、あの男も自分から動くのか。
いくらもたたないうちに戻ってきた鷹津は、小ビンのジュースを抱えていた。
「毎日甘いものを食べるのはちょっとな。ケーキやら何やらは週に二回程度にしよう」
だから今日はこれだ、と一人ひとりにビンを配る。ビンに張られたシールには笑顔の黄色い果物と蜂の絵が描いてあった。確か四国のお取り寄せ有名品のユズジュースだ。
鷹津は手ずからそれぞれの机に配ってまわった。ご丁寧にストローまで添えている。
「篤仁先輩、いただきます!」
嬉しそうにフタを開けたとたん、美月様は歓声をあげた。
「あっ、ユズの匂いすごい! おいしいですっ」
「本当、いい香りね」
女性陣には好評。しかし一口飲んだ池ノ内と初瀬はどこか渋い顔だ。鷹津はそれを見逃さず、おもしろそうに二人をからかった。
「なんだ、初瀬、池ノ内。お前たちにはダメだったか」
「や、ダメっつーか……。めちゃくちゃ甘いっス」
「濃いから舌に残るんだよね……」
「僕はけっこう好きだ。おいしいよ。篤仁ごちそうさま」
「雀野先輩、実は甘党ッスよねー」
それぞれの意見を聞いた鷹津は神妙な顔を作り、わざとらしく顎に手をあてる。
「ふむ。意見が割れたな。俺たちも試してみるか」
そういうと、鷹津はどっかりとあたしの隣に腰をおろした。
「え、ちょっと、なに?」
「なにって?」
「なんで席に戻らないの」
「今は休憩中だ、ソファに座ったっていいだろう」
鷹津はひょうひょうと言いのけると、あたしにビンを差し出した。
「アキラの分だ。俺たちのは限定版らしいが、これは通常版」
確かに差し出されたものと比べると、鷹津の手にあるビンのシールはキラキラとラメが入っている。こころなしか蜂の笑顔もより輝いていた。
迷いがはしったが、ここで意地をはるのもおかしいと思い直し、あたしはそろそろとビンを受け取った。
「いただきまーす……」
「どうぞ」
よく冷えたビンの表面には水滴がまとわりついて手をぬらす。
飲まないといけないのはわかっている。ただどうしたことか、あたしはフタを開ける気がまったく起きなかった。
理由はわかっている。昨日のことをひきずっているのだ。ここで、この人たちと、飲み食いしたくない。
ああ、もう! 案外繊細なのねー、あたし!
情けなさを自分でちゃかしてごまかしてみても状況は変わらない。一気飲みしてトイレに駆け込む、という案が頭をよぎる。
しかしその前に、ひょいと鷹津があたしの手からビンを抜き取ってしまった。
「あっ」
「まったく、甘ったれのお姫様は仕方がないな。その辰巳さんとやらがいないとジュースも飲めないのか」
鷹津はぽん、とフタを開けて、ストローを差した状態であたしにもう一度ジュースを差し出した。うけとらないあたしに鷹津はぐっと顔を寄せ、他の誰にも聞き取れないほど密やかに言った。
「いいか。これは誰かの残りものじゃあない。この俺が、お前のためだけに、用意したものだ。わかるな?」
驚きのあまり動きをとめたあたしの手を無理やりつかんだ鷹津は、そのままビンを握らせた。そして声の調子をもどし、自然と体を離す。
「さ、感想を聞かせてくれ。今のところ三対二だ」
あたしは改めて手の中のビンを見た。
透き通った黄色の液体が揺れている。
これはあたしの分。この場であたししか飲んでいない。
美月様のお相伴にあずかるのではないのだ。
つまり、辰巳のお弁当といっしょだ。あたしのために用意されたもの。
そう思うとすっと抵抗感が薄れた。
あたしはストローに口をつけ、おずおずと吸い込んだ。
ふわりと鼻に抜けるユズ。はちみつの甘味が広がる。
「………あっま~!!」
「ええっ、アキラもダメ?」
「めちゃくちゃ甘い! のどヤケそうなんだけど!」
水で希釈するのが正しい飲み方なんじゃないか、と思うほどの濃厚さに、あたしはべーっと舌をつきだした。
美月様は「いただきものなのに失礼でしょ!」とあわてている。でもいいのだ、これが白河アキラにふさわしい反応だから。うだうだと思い悩んでいるよりずっといい。
鷹津は機嫌を損ねた様子もなくくすくすと笑いながら、ようやく自分のビンに向き合った。
「これで三対三だな。さて、俺はどうかな」
ぐっと直接あおった鷹津は、おだやかな表情のままローテーブルにビンを置く。
そして沈黙することたっぷり五秒。
「………これ、薄めて飲むんじゃないのか?」
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