悪魔と雪原の男
敬吾さんはしんと降り積もった雪みたいな人だ。景色も周りの音も呑み込んでその場を掌握し、余人には踏み込ませない領域を作ってしまう。
あたしは入り込む許可はいただいているものの、頭から呑み込まれて窒息寸前だ。
「その後、美月様は鷹津篤仁と庭で過ごし、パーティ終了間際に当主様のところへ戻りました。帰り際には名残惜しそうに挨拶をする姿も見られ、美月様はいたく彼をお気に召した様子でした。帰りの車内でも当主様に鷹津篤仁を非常に褒めています。物腰はおだやかでスマート、とても親切で話しやすい、とのことです。報告は、以上です」
帰宅後、あたしはすぐさま敬吾さんの下へ向かった。敬吾さんは白河邸の近くのマンションに居をかまえているが、そこには寝に帰るだけのようで夜遅くまで白河邸の書斎で仕事をしているのだ。
どう言おうか、なんて結局迷うだけ無駄だった。包み隠さず起こったことを伝えるのみだ。白河家を取り仕切るこの人に隠し事をするのは至難の業。取り繕うにもボロがでるし、そもそも何をごまかせばいいのかわからない。だが、規則的に瞬きをする他は微動だにしない敬吾さん相手に、あたしの口は自然と重くなる。ましてや非常に言いにくい内容だ。
敬吾さんは薄い唇を開き、氷の息を吐いた。
「美月様とアキラさんが受けた印象は大分異なるようですが」
「……あたしを手近な遊び相手に選んだ点からして浅慮と軽薄さがうかがえます。要人への振舞いは完璧、ただ格下に見た相手には容赦がない。これもあまり良い印象は受けません。」
「妻にする、と言われたというのは?」
「自分が色男であることを自覚した上で、愚かと評判の妹を使って白河をゆさぶるつもりでしょう。あくまで本命は美月様、あたしが白河本家の人間でないことくらい、鷹津は知っているはずです」
「わかっているなら問題はありません」
敬吾さんはかちゃりと眼鏡のズレを直した。
「一番してはいけないことは、あなたが鷹津に見初められたと勘違いをすることです。浮かれて白河の不利益になるようなマネをされては困ります」
なんとか及第点の答えを出せたようだ。ほっと膝から力が抜けそうになる。しかし、あたしの唇の端に触れた敬吾さんの指の冷たさに、背筋がぶるっと震えた。そこは鷹津が口付けた場所でもあった。
「わざわざ似合わないドレスを選び、地味な化粧をさせたというのに。アキラさんはよほど遊び好きの軽い女に見えるのでしょうか」
あからさまな侮蔑の言葉に、かあっと頭に熱が灯るのを感じた。
ずいぶんな言われようだ。
制服の乱れ具合とは裏腹に、あたしは友人も恋人もいない、乱れようのない青春を送っているというのに。それを敬吾さんは誰より知っているはずなのに。
知らずに拳を握る手に力が入っていた。爪が手のひらに食い込む痛みが、冷静さを保たせてくれる。
抗議の気持ちを込めて黙り込んでいると、敬吾さんは観察するように目を細めた。
「……世には十万人に一人、天運を呼びよせる笑貌を持つ人間が現れるそうです。古代中国、周の文王しかり、名宰相孟嘗君しかり」
「はい?」
突然始まった講釈に、渦巻いていた感情が霧散する。
「かの笑みを持つ人のところには自然と人が集まるのです。苦難にあっても救いの手をも引き寄せる。白河の血はまさにその笑貌を持っています。ですがアキラさん、あなたは違う」
そんなことは重々承知だ。
あたしと美月様は違う。
全然違うのだ。
敬吾さんの二本の指があたしの唇をゆっくりなぞっていく。噛みついてやろうか、と一瞬迷った。
「笑貌に魅かれる者は良くも悪くも力が強い。扱えるのは笑貌の持ち主だけです。どうぞお気を付けください。何分あなたは……ちょっかいを出したくなる顔だ」
どういう意味だ。
あたしが問い返す前に、ぷに、と下唇をつまんでから、敬吾さんは背を向けて仕事に戻ってしまった。
「訂正します。アキラさんが遊び好きに見えたというより、白河の人間で美月様のお気に入りだから接触を図ったのでしょう。とりあえず今は様子見です。機嫌を損ねない程度に相手をし、美月様との仲をうまくまとめてください。ただし、主導権を簡単に譲らないように。お疲れさまでした、どうぞ休んでください」
「………はい、わかりました」
そうとも、ようやくわかった。
敬吾さん、今、すご~く機嫌が悪い。
あたしはどうやら八つ当たり……というか、ストレス解消のためにいじめられたようだ。そんな気がする。
不満は残るがようやく解放されるのだ、あたしは無駄口を叩かずに退出することにした。あたしのストレスの吐きだし口は、別にある。
「ただいまっ!」
渡り廊下を駆け抜けて離れに飛び込んだあたしを、待ちかまえていた辰巳が「お帰りなさいませ」とだけ言って受け止めてくれた。
パーティの首尾についても、あたしの不機嫌の訳も、辰巳は何も問いかけなかった。今日は何も言いたくない、でも明日になれば話すから。そういう心の声が、あたしの足音でわかるのだという。
あたしは辰巳の胸に顔をうずめ、鷹津と敬吾さんによって冷えた口元を温めることにした。
布団に入り込んで目を閉じてから、「あ」と思わず声を上げた。
しまった。
敬吾さんへの報告が一つ抜けていた。
実はパーティ会場に戻った後、あたしは血相を変えた雀野につかまった。彼はあたしに近寄るなり、「白河さんはどこへ?」と問いただしてきたのだ。
あたしの思考回路はちょっと狂い気味だったが、ギリギリのところで通常通り作動した。
「知りませんよ。怖い顔してどうしたんです」
「まさか、篤仁と?」
「さあ」
あたしの答えに、雀野は悲しげに眉をひそめた。
「……君が白河さんの生徒会入りを止めようとしているのはわかっている。その理由も、彼女を思ってのことだということも。だけど、どうかこれだけは譲ってほしい。僕には彼女が必要なんだ。もう、僕には彼女しか……」
「……雀野会長?」
興奮したように早口になる雀野は、あたしの声にはっと正気に返ったようで、すぐさま踵を返してどこかへ行ってしまった。
ただそれだけの事だったが、あの時の雀野の様子は普通ではなかった。余裕たっぷりの落ち着きも、あたしを視界にも入れようとしない失礼な態度も、どこかへ置いてきてしまったようだった。美月様をとられそうであせるのは分かるが、それだけだろうか。今思いなおしてみると違和感がある。
だが、報告するまでではないか。この件も様子見だ。
雀野は鷹津の対抗馬となりえるだろうか。
雀が鷹に勝てるのか。字面では完敗だけど、ぶつかり方によっては鷹津という人間を見るいい機会になるかもしれない。
眠りに落ちる寸前、あたしは敬吾さんの奇妙な話を思い出していた。
文王も孟嘗君も、大成するまでに多くの苦難にあっている。捕えられたり息子をミンチにされたり、縁起の悪い日に産まれたからと殺されそうになったり、散々だ。現代日本において美月様がそんな目にあうとは思えないけれど、彼女がひどい苦難にあうのはイヤだ。
あたしには、その苦難の一つが鷹津であるように思えて仕方なかった。でも敬吾さんの話を信じるなら、あのアクの強さが美月様の助けに転じる人物となるのかもしれない。
美月様には確かに不思議な力がある。人を魅了する力だ。
悲しませたくない。
あたしを妹と呼んで慈しんで居場所を与えてくれた人を、守りたい。
そのためにあたしができることは――――――。
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