布人形
昼下がりのバザールを突然、激しい北風が吹き荒れた。
もうもうと砂埃が舞い、そこかしこで悲鳴があがる。顔を庇う人々、飛ばされた商品を追い走り回る人々で、大通りはちょっとしたパニックに陥った。
そんな中、ダリアはただ茫然と空を見上げていた。物色中のストールが風に奪われ、遥か上空へと飛ばされてしまったからだ。
透けるほどに薄い朱色のシフォン布に金糸を刺した上質な刺繍ストール。それが声をあげる間もなく遠ざかる。
「……あーあ。まったく、トロいにもほどがあるんじゃない?」
「ああっ!」
頭の上に居座るハルピの呆れ声で、ダリアはようやく我に返った。
風に攫われたストールは、購入前のもの。刺繍売りは盲目のためか、商品の紛失に気が付いていない。
ダリアはあたふた、腰を上げた。
「あ、あの、ごめんなさい。さっきの風でストール飛ばされちゃって……急いで拾ってきます! そだ『重力操作』で……」
「遠過ぎるわよ。あたしの目でも見えなくなっちゃったもん……でもま、大丈夫! あたしが取ってあげるから」
割り込んでそう言うと、ハルピは羽根先でダリアをはたく。
空を飛ぶつもりだろうか。
ダリアは敷布に座り直し、跳躍の衝撃に備え身を硬くする。
だがハルピは頭を蹴る事なく、スウッと息を吸って胸を膨らませた。直後、猛禽類の甲高い声が空気を裂くように響いた。
『鳥人の号令』
荒れ狂う風が叱られた子供のようにビシリ、凍りつく。
続いてハルピが片翼を振る。
風切羽から衝撃波が生まれ、クッキリとした漏斗型の渦となり、空に伸び上がった。
細長いつむじ風が青空にキュルルと吸い込まれる。
やがて、ダリアの腕の中へふんわりと、花で休む蝶のように、ストールが舞い降りた。
「すっごい! ありがとっ、ハルピさん」
「どーいたしまして。ホラ、ちゃんと握ってなさいよ。それあたし気に入ったんだから。……ね、店員さんこれと……あとそっちのそれ、買うわ」
「……あ、あの……お客様、今、風が……まさか、魔法を?」
刺繍売りは手を止め、声を裏返らせている。
「結果的にはそう、なの? よくわかんないケド」
「……そういえば確かお客様は、魔法使いの国、ヨルドモからいらっしゃったとか……」
「そーよ。でもあたしの場合は、ヨルドモの隣のトゥオーロって島出身だけどね」
「ではあなた様は、ホンモノの魔法使い様……っ!」
ん?
ダリアとハルピは同時に首を捻った。
鳥人の女王、ハルピは風の性質を帯びた魔力を持つ『魔獣』だ。風を自在に操るが、『魔法使い』とは根本から違う。
が、ダリアとハルピの知識は浅い。違うけど、結果似たようなモノなんじゃないかな……程度だ。
無言を肯定ととらえたのだろう。刺繍売りは逡巡ののち、自らを奮い起たせるようにして膝立った。
スカーフで目隠しされた顔をハルピへ向け身を乗り出し、ダリアの手を両手で握る。
その勢いに刺繍売りの肩掛けがするりと落ちた。
「……うわ」
鼻先に迫る体温。
ダリアはツバを飲み込んだ。
顔面スレスレ、鼻先に、先ほどまで肩掛けで隠されていた偉大な双山……刺繍売りの巨乳が迫っている。
ダリアの頭上にハルピが居座っているため、二人で一人、長身のニンゲンと勘違いしているようだ。
……今の私は、ハルピさんの下半身。
ダリアはそう思い込もうとした。呼吸でくすぐってしまわないよう慎重にため息を吐く。胸から身体を離そうにも、両手をがっちり握り込まれている。
窒息してしまいそうだ。
ふわあ。口を大きく開けパクパクと息を飲む。
鋭敏な兎人の嗅覚が大地をおもわせる薫香に痺れ、脳が揺れる。
もしくは風邪のせいかもしれない。
母性の象徴がもつ吸引力かもしれない。
ダリアは柔らかな谷間に埋もれたくなる衝動を抑え、視線を上げた。
「魔法使い様、私はギュゼルと申します。大変厚かましくはありますが、私たちを助けてはいただけませんか」
「なあに急に。……あなたの話くらいなら、聞いてあげなくはないケドも」
頭上で巨乳と美乳が話し込んでいる。
鮮やかなバンダナで顔の半分を覆い目を隠す、褐色肌の巨乳、ギュゼル。
彼女が神に縋る使徒の真摯さで訴えている相手、ハルピは、大鷲の下肢と禍々しい両翼を持つ美乳の鳥人。
ヨルドモの教会関係者が見れば卒倒するのではないだろうか。この涜神的な光景はしかし、絵物語の導入のようでもある。
「私には大事な妹がいるのです。が、病に倒れておりまして……」
貧乳を完全に無視し、サクサクと進む会話劇。口を挟む隙はない。
「病? そーいうのってニンゲンは、神殿や病院で治してもらうんでしょ」
「村の医者にはとうに見放されました。魔法でもない限り、治すことは出来ないだろう、と。……そのため私たちは、魔法使いの国ヨルドモを目指し、長く旅を続けております。かの国に住まう魔法の竜が願いを叶えてくれるとの噂を聞き……」
ふうん、と疑問符まじりにハルピが頷いた。ダリアもやはり、そんな竜の話は聞いた事がない。
両手を包む指先に力がこもる。
手のひらが熱い汗で湿っている。
「魔法使い様!」
ギュゼルから漂う、濃密な大地の香り。
訴えに押されたハルピが細く高い声で戸惑う。
「……あたし、たぶん魔法使いとはまたちょっと違うのよねえ……」
「お願いです、一緒に来て妹の病を癒してはいただけませんか!」
ギュゼルはダリアの手を握り締めたまま、強引に立ち上がった。つられ、ダリアも腰を上げる。
匂いに酔ってしまったのかもしれない。
ダリアは波に流されるように、ギュゼルへ引かれるがまま歩き始めた。
※※※
「妹はあそこに」
そういって示された先、冬枯れの裸枝の合間に、色とりどりの布で飾られた建物が覗いていた。
ダリアたちは今、寺院の敷地にある公園にいる。
この寺院では使っていない建物を舞台兼宿泊施設として旅芸人などに貸し出しており、ギュゼルの仲間がそれを借りて奇術の興行を催しているのだとか。
つまり、あの建物はギュゼルたちのホテル代わりなのだろう。
「私は衣装くらいでしか手伝えてはいないのですが……なかなか盛況なんですよ、ほらちょうど、正午のステージが終わったようですね」
仲間の活躍が誇らしいのか、ギュゼルは少女のようにはにかんで笑った。
なるほど、建物から出る人々は皆、興奮に頬を染め語り合っている。
随分と素晴らしい奇術だったようだ。観てもいないダリアまでも心が弾むほどに。
だが突然、一人の子供が悲鳴をあげた。叫び声は次々伝染し、皆、ダリアたちから飛び退る。
バザールの時と同じだ。ダリアは笑顔を強張らせ、立ち竦んだ。
が、盲目のギュゼルは状況を理解していない。釈然としない風ではあったが、すぐ気を取り直し、さあ行きましょうかと手に力を込めてきた。
一歩踏み出す。
途端、人混みはザバンと分かれる。
建物へ続く真っ直ぐな道。ピンと伸びた標識綱のような、事件めいた静寂と緊張。
居た堪れない。
ダリアは汗ばんだ指を冷やすようにして握り直し、目線を下げたまま足早に進んだ。
目的の建物へはすぐに着いた。
入り口の看板に、口ヒゲの壮年男性が描かれている。彼がギュゼルの旅仲間だという奇術師なのだろう。
興味はあったが、左右からの視線が痛い。じっくりと眺める事を諦め、歩幅をさらに広げた直後。
建物の側面──ごく普通の石積みの壁──がゴウッと煤を吹き散らし、唐突に燃え上がった。炎は両翼を広げるように膨らみ、視界を煌びやかなオレンジに染めると、そして瞬く間も与えず掻き消えた。
湧き上がる歓声。
炎の消えた壁の前では、いつ現れたのだろうか、東方装束の男が恭しく頭を下げている。
「今の何!? それにあのニンゲン、何処から出てきたの!?」
捲したてるハルピの声に、ギュゼルは頬をほころばせた。
「ああ、ビフザート……彼、人を驚かせるのが大好きなんです。奇術のステージが終わると毎回、おかしな登場をして、お客様の見送りをするんですよ」
「すごい……魔力を使った感じがしないわ。ニンゲンの癖にものすごい魔法を使うのね……」
「魔力は使っていません。魔法のようにも見えますが、タネと仕掛けとで不思議な現象を見せているんですよ。奇術ですから」
刺々しかった空気はカラリと塗り替えられ、遠慮ない観衆がビフザートへ押し寄せる。
どうやら彼はずいぶんと背が高いようだ。
人波に顎もとまで飲み込まれ満足げに笑う顔が、ダリアからも見る事が出来た。
看板と全く同じ、黒々とした口ひげ。コミカルなほど大袈裟に変わる表情からはしかし、熟練演者の風格が漂う。
ふいに、視線が重なった。
頭上のハルピのせいだろう、ビフザートの目玉がぎょっと見開かれる。が、数度の瞬きの後、にっと口角をあげ、手のひらを前後に揺らしてみせた。
呼ばれたのだろうか。
ダリアはゆっくり、近寄った。
期待に満ちた観衆が、サッと道を空ける。
一行が前に立つと、ビフザートは貴族同士がするような仰々しい礼をした。ついで指先から二輪の花を産み出し、一輪をハルピの髪に、もう一輪はダリアに渡す。
急に現れた花に戸惑うダリアへ、ビフザートは年甲斐もないほどの人懐こい笑顔をしてみせた。
口ひげが上下する。
低い、柔らかな声。
何と言っているのだろう。おそらくは大陸語なのだろうが、ダリアにわからない。
「……魔獣使い……様……?」
と、ギュゼルが訝しげに呟いた。
その次の瞬間、ビフザートがパァンッと両手を打ち鳴らした。
途端ダリアたちは、割れんばかりの大喝采に包まれる。
近くに居た子供に促され手元を見れば、一輪だった花が豪華な花束に変わっている。
「うわあ……なにこれ? どうして?」
「どいうこと!? 魔法よね、これ、やっぱり!」
視線を上げれば、華やかな花冠に飾られ戸惑うハルピの姿があった。
※※※
「さ、そろそろ」
ようやく歓声が止み、ギュゼルに促され、ダリアはまた歩き出した。
建物に入る時、ビフザートの片眉がほんの少し、歪んだように見えた。
※※※
「私と妹、それとビフザートはヨルドモを目指し、ここより遥か東の国から旅を続けてきました。妹の身体は産まれながらの病に蝕まれ、日を追うごとに土塊のように崩れていっています……足元、気をつけて」
舞台裏の通路は暗く狭く、あちこちに荷が積み置かれている。
ダリアは小箱を跨ぎ、スンと鼻を鳴らした。奇妙な匂いがする。まるで雨の日の森のような……。
匂いは一歩進むごと強くなっていった。
「今はどうにか、呪術刺繍で形をとどめているのですが……どうぞ、こちらです」
頭上から下がる、仕切り布。
カーテンのようなソレを潜り、ギュゼルが脇の小部屋へと入った。
ハルピは小さく羽ばたいて頭上を降り、バタバタ歩く。ダリアも屈んで後に続いた。
その部屋は真っ暗だった。
窓も灯りも無い。盲目のギュゼルと寝たきりの妹には必要がないからだろう。
「……アアチュ、魔法使いさまを連れてきたわよ」
ギュゼルが……おそらく妹のアアチュに、声をかけた。
部屋の奥、寝台があるであろう場所に薄ぼんやりと見える白。巨大な幼虫に似たそれは、微動だにしない。
辺りに充満する濃密な異臭は、アレ、なのだろうか。
ダリアは込み上がる吐き気を必死で堪えた。脂汗が垂れ、膝が揺れる。
「ね、真っ暗過ぎてあたしなんにも見えないんだけど」
「ああ、そうですよね。魔導師様、今ランタンをお持ちします。少しお待ちください」
鳥目のハルピが非難めかして言うと、ギュゼルは急いで廊下に戻った。
「あら、ビフザート! ちょうどいいわ。魔導師様に妹を診てもらうところなの。ランタンないかしら」
そこにビフザートが居たのだろう。カーテンの向こう側でギュゼルが声を弾ませる。二言、三言の会話。再び室内に戻ったギュゼルが、ダリアの前にランタンを置いた。
「申し訳ございません、ビフザートに呼ばれまして……すぐに戻りますから」
部屋がほんのり明るくなったからか、それとも吐き気の波のタイミングなのか、ダリアの体調はすうっと楽になった。
と同時に、隣の部屋のギュゼルの声が兎耳へ飛び込む。
「一月は居るって言ってたじゃない。こんなに急に、何故?」
なにがあったのだろう。ダリアとハルピは顔を見合わせた。
「……奇術師……詐欺師……」
単語の練習をするかのように、会話から啄み、ハルピが呟いている。
だが、盗み聴きは良くない。
ダリアはあえて意識をそらし、廊下から逃げるようにして一歩、塊に近づいた。
「ねえ、ハルピさん……コレ……お人形?」
「……つまりは中身が、妹なんでしょ」
ハルピがことも無げに言い放つ。
妹を布で包んだ塊は、子供サイズの人形のようだ。
ランタンによって落とされた陰影が、白糸の刺繍による複雑な文様を、うっすらと浮かび上がらせている。
中身から漂う匂い。
ぐらり、脳が痺れる。
「わかりました……仕方がありません」
キーンと、耳鳴りがした。
次第に薄れる意識の中、部屋に戻ったギュゼルの声が、ずいぶんと遠く聞こえた。
「魔導師様、大変な失礼をお赦しください。本日はどうか、何も見なかった事にしお引取りを……っどうなさいましたか!?」
「って、ちょっ! なに、どうしたの!?」
完全に取り乱したハルピの悲鳴。
倒れてしまったようだ。打ち付けた肩がじんじんと痛い。
ビフザートもそこに居るのだろう。三人の慌てた声が飛び交っている。
濃過ぎて気持ち悪いけど、この匂い、わりと好きだよ。
ダリアは石の床に頬を擦り付け、微笑んだ。
この匂いは、大地の匂い。
偉大なる母神の加護。
そうなんでしょ?
目鼻すらない布人形がにっこりと笑い返した、気がした。