奇術師
舞台の上、白い人形がくるりと廻った。
大型の操り人形のようにも見えたが吊り糸はなく、その動きは踊り子の魂が宿ったかのごとく滑らかだ。
同じ舞台の隅では、口ヒゲを黒々と蓄えた旅芸人が胡座をかき、弦楽器を奏でている。緩やかにたわむ響きは遥か東の国の特徴だ。繰り返される単調な旋律が客席を陶酔へと導く。
だが突然、弦は激しく掻き乱された。
観客が息を飲むと同時に、布人形の四肢がバラバラと解け崩れ落ちる。演奏は止まり、見世物小屋はシンと静まり返った。不安と期待とが一斉に押し寄せる。
一、二、三。
ヒゲの旅芸人──看板には『奇術師』と書かれていた──がゆっくりと指を立てた。
勿体振るようにして片眉を上げ、弦を押し下げながら爪弾くと、二重に張られた共鳴弦がびいんと震え、もの哀しく響き渡る。
ゆら。
人形は再び繋がり、立ち上がった。
怒涛の喝采に小屋が揺れる。
目鼻すらなかった布人形はいつの間にか、白い布を纏う半裸の美少女とすり変わっていた。
少女は琥珀玉のようなあどけない瞳を輝かせ、薄らと朱に染まる繊細な指を精一杯に伸ばし、可憐に舞い始める。
あまりに幻想的で、かつ不可思議な演舞に客席は熱狂した。
幕が降りきった後もしばらく、豪雨のような拍手は鳴り止みはしなかった。
やがてぞろぞろと客が去り半刻ほどが過ぎた。夜もだいぶ更け、見世物小屋の周囲はひっそりとした闇が包んでいた。
小屋の裏手、広場から死角となっている場所に、男が二人。
一方は背が高く、他方は低い。二人ともこの国でよく見かける、極めて普通のくすんだ衣服を纏い頭巾を被っている。
長身の男がもう一人の胸ぐらを掴んで持ち上げ、小屋の壁に叩きつけた。小柄な青年からヒキガエルを握り潰したような声が溢れ、男は慌て、青年の口を塞いだ。
「静かにしろ! ……俺のこと覚えてるか? 久しぶりだな、この前は話をする前にお前、居なくなっちまっただろう?」
そう言いながら男が頭巾の端をめくり上げると、灰色の獣耳が現れた。
壁際の青年の顔が蒼白に変わる。視線を泳がせ周囲を探ったが、助けは現れそうにもなく、逃げる事ができない。
狼耳の男は親指を立て、小屋を指差した。
「まさかこんな場所で会うとはなあ。手伝って貰いたい事があるんだが……お前、やってくれるだろう? ……犬の餌にはなりたくねえよなあ」
青年は表情を強張らせ、首を縦に振った。
※※※
「ねえ、ヘクターさん。昨夜の警吏さん、僕に何か言ってなかった?」
「……別に」
「おっかしいなあ。ホントの、ホントに? 警吏さんの名前とか、聞いてない?」
「……」
無言のまま顔を背けると、ブルーノがため息を吐いた。ヘクターはガイドブックから切り取った地図を睨みつつ、露骨に舌を打ち鳴らす。
今日は裏通りの泥棒市場へ向かい『暗示の首輪』を探して買い戻さねばならない。見つかるという保証は無いが、手に入れなくては身の破滅が待っており、今はブルーノの戯言に付き合ってやる気分には、とうていなれはしなかった。
もう一人、この部屋に泊まる鳥人のハルピは朝の水浴びの最中だ。ブルーノはヘクターから離れ、身支度中のダリアの真後ろに立った。
再び、やたらと大きなため息。
「うぜっ!」
ヘクターは思わず仰け反ったが、ダリアはかなり鈍い。二度、三度。そういう体操であるかのように繰り返し、息を切らし始めた頃、ダリアはようやく振り返った。
「どうかしたの、ブルーノくん」
「……恋煩い……かな」
「そのゼイゼイいう運動が、恋煩いなのか?」
ヘクターは視線を地図に固定したまま、忌々しげに呟いた。ダミ声で鳴き騒ぐ発情猫は煩わしい事この上ない。
だがダリアはこの手の話題が大好きだ。目をランランと輝かせ食らいつく。
「ブルーノくん、誰かを好きになったってこと? ね、ね! 相手は、誰」
「すっごくカッコいい警吏さん。昨日、ヘクターさんを探しに行った時にナンパされたんだけど。言葉があんまり通じないからよく聞き取れなくて……でもまた会いたいなあ」
「そんな事があったんだ。ねえママ、その警吏さん何て言ってたの?」
ダリアからの呼びかけに、ヘクターは渋々と口を開いた。
「普通の事務会話しかしてねえよ。ブルーノがウロチョロしてっから、怪しく思った警吏が仕事で職務質問した、それだけ。ありゃナンパじゃねえ」
ブルーノは不満げに唇を尖らせた。どうあってもナンパだと思い込みたいようだが、紛れも無く職務質問だ。
うーん、とダリアは少し考え込み、いつも通りネジが数本外れた呑気な調子で言う。
「でも、気になるんだよね? 会いたいなら、とにかく頑張って探すしかないんじゃないかなあ。その人がこの街にいる事は確かなんでしょう」
「そうだね。探してもう一度、会わなくちゃ。僕、今日はヘクターさんと一緒に裏通りに行くよ。準備してくるね」
「バカか! 俺とは別行動だ! 一人で行け」
寝室の扉を開けるブルーノの背に、ヘクターは叫んだ。泥棒市場へ盗品を買いに行く道中で、警吏を探したくはない。
扉はまたすぐに開いた。そこから、着替えを終えたブルーノが大張り切りで飛び出した。
「じゃあ僕一人で行ってくるね」
「……おい、その格好でかっ!?」
「完璧でしょ」
ブルーノは刺繍が施されたベストを素肌に羽織り、ゆったりしたズボンをずり落ちる寸前まで降ろしている。
シャツなどは身につけていない。そのため胸や腹部はギリギリまで露出され、しなやかな筋肉に直接重ね付けられたチープな宝飾品が、動くたびジャラジャラと騒がしい。
だが、顔だけは黒い頭巾でしっかりと覆っている。つまりは、なんというべきか……。
「確かに……完璧だな」
ヘクターがボソリ呟くと、ブルーノは尻尾を得意げに揺らし親指を立てた。頭巾からは三日月のように歪む金目だけが覗いていたが、おそらく犬歯を剥き出し笑っているのだろう。
完璧な、変質者。
確かにこの格好ならば、問答無用で職務質問されるはずだ。
「……ブルーノくん? え……えっと……さ、寒くない? 今、冬だよ。コートとか羽織ったほうがっ」
「全然平気! 胸の奥で燃える恋心で、もっと脱ぎたいくらい暑いよ! さあ警吏のお兄さん、僕を職質してそして、愛の牢獄に逮捕してー!」
奇声をあげ、ブルーノは廊下へ踊り出た。ホテルの他の客の声だろう、小さな悲鳴が連なり次第に遠ざかる。
ヘクターとダリアは窓を開き、身を乗り出した。街行く人々はみな、ハルピの時とは違った風に慌て、飛びすさり、道を大きく開けていた。
「……あれなら警吏以外で近寄る奴は、まず、いねえだろうな」
ヘクターは呆れ声で見送り、カーテンを閉じた。
「ど、どうしよ、ブルーノくんあんなカッコで、もしおかしな人に襲われたりしたらっ! 止めに行かなくっちゃ!」
「……あいつ以上に変なヤツいるか? それにあんだけ派手にしてりゃ、すぐ職質してもらえるだろ、大丈夫だ。……それよりダリア、お前、今日も街へ行くのか?」
ダリアは疑問符を飛ばしつつ、頷いた。
ブルーノには心配などしていない。歓楽街育ちのヤマネコだ、いざとなれば『惑乱』で逃げる事もできる。
問題はダリアの方だろう。おっとりと可愛らしい上、単純で騙されやすい。
「絶対に、裏通りには近寄るな。そもそもブルーノが職質されたのも殺人があったかららしい。今日は夕方前にホテルへ戻るんだぞ。それにハルピ、お前も……」
浴室の扉が開く音に振り返り、ハルピへも声をかけた。ハルピは明け透けな性格ではあるが、年頃の美女だ……が。
「……あ、いや、やっぱお前はいいや」
下半身が怪鳥だ。風を操り自在に空を舞う鳥人の討伐はヘクターですら難しく、殺人鬼ごときにやられるワケがない。
腕試しの剣士に狙われる可能性はあるが、ダリアが頭上に乗せてさえいれば、そういったトラブルは起こらないだろう。
「ダーリン、呼んだ? そうそう、ほら見てコレ! ね、どう? あたしに似合うかしら」
ハルピは洗いたての羽毛をバサバサと撒き散らし、ヘクターの正面まで跳ね飛んだ。見れば昨日買ったというスカーフを首に巻き、前に垂らしている。
「ん、それか? あー似合う似合う。食事の時には絶対使えよ、それ」
幼児の前掛け。
ヘクターの頭にそんな言葉が浮かんだ。腕がない癖に生肉を好み、食事のたびに胸元が血塗れになるハルピにはピッタリだ。
「やっぱりい? ダーリンそんな褒めないでよ、やだーあたし照れちゃう」
「ああ。裸よりずいぶんマシになったな。替えは多めに買っとけ」
「ダーリン、あたしにいつも清楚で可愛くいて欲しいって事? 仕方ないわね、今日は女子二人でショッピングかしら! たっくさんお洋服買うんだから」
「……清楚? ……まあ、いいか」
ヘクターはツッコミを飲み込み眉尻を下げた。語彙を正し機嫌を損ねる必要はない。
ダリアとハルピは離れなければ互いに安全だ。
ヘクターは支度を済ませると二人を大バザールへ送り、裏通りへ向かった。
※※※
落とし穴の口が足元にポッカリと開いたかのように、突然膝が崩れた。ぐんっと迫る地面にダリアは小さな悲鳴をあげる。
と、弾けるような羽ばたき音と共に、ハルピが後頭部を強く引き上げた。重心が矯正され、ダリアはどうにか膝と両手とを床につく。
もう少しで顔面を打ち付けるところだった。安堵の息を吐くダリアを、頭上から降りたハルピが眉根を寄せて覗き込んだ。
「どしたの、グラってなったけど」
「ありがとう、でも何でもないよ。……立ち眩み、かな」
「しゃがんでたのに?」
案じてくれているのだろう。ハルピは金の瞳を不安げに曇らせ、首を捻っている。
「大丈夫、だよ」
小鳥人たちの母親役でもあったからだろうか、普段は横柄で気まぐれなハルピだが、時折、こそばゆくなるほどに優しい。ダリアは照れ臭さを笑顔で誤魔化すと、ラックから生地を一枚、抜き出した。
大バザールの中ほどにあるこの露店では、選んだ生地を奥の店舗で洋服に仕立ててくれる。
ダリアが選んだのはキラキラと目を引くサテンシルクだ。真珠のような光沢のある布地に、大輪の花が青々と染め抜かれている。
やはりハルピにはトゥオーロ島の空と海を思わせる深い青がピッタリなのではないだろうか。
「少し派手だけど、とても綺麗。この布でスカーフ作ったら、ハルピさんにすっごく似合うと思うな」
だがハルピは一瞥し、首を横に振った。
「違うの、あたしが欲しいのはこういうんじゃないの。……柄とか色とかじゃなくて……なんて言うか……フィーリング? やっぱり昨日の店ね。あそこ、特別みたいだから」
さあ行きましょと促され、ダリアは地面に伏すようにして頭を下げた。
無駄に羽ばたき風を巻き起こせば迷惑がかかる。つい先ほども数枚の布を吹き飛ばしてしまい、店員を慌てさせたばかりだ。
ハルピは両翼とかぎ爪を器用に使い、頭巾の上へよじ登った。
兎人の力、『重力操作』のおかげで重さは全く感じない。絹よりもずっと滑らかな羽毛が優しく頬を撫で、ちゃんと座ったわと合図する。
ダリアは店員に視線で礼を送ると、ことさら慎重に立ち上がった。
ぐらり。
僅かに、眉間の奥の奥が眩む。
平らなハズの地面は船の上にいるかのように不安定で、足元が覚束ない。
「……気持ち、悪い……」
どうしてしまったのだろう。
視界がぐらぐらと揺れ続けている。