刺繍売り
太陽の光冠をなぞるようにして、海鳥が空を廻った。ギラギラしい午後の日差しは石壁に反射し、街全体を白く輝かせる。
異国の景色の物珍しさに、ダリアは視線を彷徨わせた。
道行く人の顔立ちはさまざまだ。ヨルドモの知人に似た顔もあれば、見慣れない骨格をした浅黒い肌の人間もいる。ヨルドモでは殆ど会う事の出来なかった亜人や獣人も、ちらほらといるようだ。
だがその誰もが頭上のハルピを凝視しては、慌てて目を反らした。小さな悲鳴があがる事すらある。
押し合うほどの人混みだというのに、ダリアたちの周囲はガランと開いていた。妙な節回しの客寄せも不自然に途切れ、張り詰めた緊張がチクチクと刺さる。
「……ハルピさんの事、そんなに気になるのかな」
ダリアが独り言のように呟くと、ハルピは周囲を見渡し確信を持って言い放った。
「島と違ってここ、みんな頭から布被ってるからじゃない? あたしのセクシーさにドキドキしちゃうのね、島なら誰もこんな風には見なかったわ」
「そっか、誰も肌を出してないもんね。ハルピさんは美人さんなのにお洋服着てないから」
この国の女性に肌を出す習慣はない。晒された乳房が直視できないのも当然か。
ダリアがふむふむと頷くと、ブルーノは両手を広げ首を振った。
ここはデニズの大バザール。
寺院前の通りが丸ごと自由市となっており、路面に突き出た庇の下、異国から持ち込まれた様々な品が売られている。
宝石を散りばめたアクセサリーや見た事もない雑貨、甘い匂いを放つ果物や焼き菓子。興味が惹かれる商品は沢山あったが、どの売り子も目を合わせてはくれない。
ママが一緒なら良かったのに。
伏せられた睫毛の長い影が、頬へ寂しく落ちた。
社交能力が高く口の上手いヘクターなら、ハルピやブルーノとの戯れるような口喧嘩に周囲を巻き込み、騒々しい珍客として受け入れさせる事だろう。
だがヘクターはいない。
ダリアの食事に必要な『魔草』を買うために、治安の悪い裏通りへ向かったからだ。
ホテルに篭るのもなんだと三人だけで観光に出た事を、ダリアは後悔し始めた。
居辛い空気に背を押され、足取りは自然と早まる。
気付けば通りの端、寺院の入口にまで辿り着いていた。
「ちょっとあそこ。ねえアレ、見せて」
早々に踵を返すダリアを、ハルピが遮った。
翼で指し示された先、最も端の露店に、華やかな布を膝に広げたまま俯く女性の売り子がいる。
ダリアたちを避けているのではない。ただ熱心に、細っそりとした指を上下させ、布へ緻密な刺繍を施している。横顔を覆い隠す蒼地に金糸が刺された垂れ布から、ツンと尖った褐色の鼻と憂ある唇が僅かに見えた。
タペストリーから抜け出たような、異国情緒溢れる光景だ。
ダリアは足を忍ばせて近寄り、作業の邪魔にならないよう注意深くしゃがみ込んだ。が、すぐさま刺繍売りは顔を上げた。
緩くウェーブした黒い髪が揺れ、唇の端が優しい弧を描く。
柔和で品のいい、穏やかな声。
「こんにちは、ゆっくり見ていってくださいね」
隣に立つブルーノが、あれ……? と疑問符を飛ばした。
ダリアも首を傾げる。刺繍売りの顏は、太い目隠し布で覆われている。
目が、見えないのだろうか。
「ねえ、そのスカーフ見せてちょうだい。違う、それじゃなくて、あっちのよ」
そう言ってハルピが選んだのは、純白の絹布に幾何学文様が刻まれた大判スカーフだ。ダリアはハルピに代わり受け取ると、見易いよう広げて翳した。
「お時間をいただければ、同じ模様を他の布に刺す事も出来ますよ」
刺繍売りは眉尻をほんの少し下げ、自信なさ気に言った。
このスカーフは他の商品に比べシンプルだ。刺された模様は朱一色で、驚くほどに緻密だが派手さはない。
だがハルピはこの布が気に入ったのだろう、目を細めウットリと眺めている。
「お姉さんは……この辺の、人なの?」
ブルーノは布より刺繍売り自身に興味があるようだ。猫の好奇心を剥き出しに話しかけた。
「いいえ、私は旅をしながら行商をしています。この街には十日ほど前に来たのですが、一月ほど資金を貯めて、ヨルドモという国に行く船に乗るつもりなんです」
「ヨルドモ?」
「ええ、魔法使いの国、ヨルドモです。なんでも願いを叶える竜が住むとか……」
「竜……人魚じゃなくて、竜?」
ブルーノとダリアは顔を見合わせた。願いを叶える竜など聞いた事もない。ハルピも怪訝そうに首を回し、言った。
「ふうん。そんな竜なんて、あたし聞いた事ないけど。それよりねえ、やっぱりコレに決めたわ……あ、袋に入れないで良いわよ、すぐ使うから」
ブルーノが支払い、スカーフを受け取ると、ハルピは胸を反らせて翼を広げた。
「あ、そういうことか。……ハルピさん、なんだかんだ、気にしてるんだね。視線とか、ヘクターさんに言われた事とか」
「……さっさと結びなさい」
ブルーノは苦笑いしつつもハルピの首と背中でスカーフを結び、ホルダーネックシャツのようにして胸を包んで隠した。
漆黒の翼に白磁の肌。朱色の幾何学刺繍は、野生的な彼女の魅力を引き立てよく似合う。
ハルピは翼の先でスカーフを撫で回し、満足気に笑った。
「さっ、急いで戻るわよ、ダーリンに褒めて貰うんだから! ……ありがとう、これとても気に入ったわ。ヨルドモに行くのなら、あたしの島、トゥオーロにも寄ってちょうだいね」
え? と、盲目の刺繍売りが呟くのと、ハルピが翼を羽ばたかせ飛び立ったのは、ほぼ同時だった。
※※※
強烈な西陽に伸ばされた影が、日没と同時に街を塗り込めた。
鮮やかな薄布が張られた窓辺に次々と明かりが灯り、誘うように揺らいでいる。
ここはデニズの裏通り。
寺院の管理にある大バザールとは違い、太陽に曝すことの出来ない商品ばかりが集う、いわゆる闇町だ。
並ぶ店には看板がなく、代わりに布越しに溢れる光の色で売り物の種類を示している。例えば緑ならば薬、黄色なら盗品、赤は売春宿といった具合に。
夜が更けるにつれ、喧騒は次第に増していった。縺れた糸のような路地には男たちがひしめき、ごったな欲が熱で煮込まれる。
その中を俯き歩くヘクターの肩に、トン、と誰かの肩がぶつかった。
背に罵声を浴びせかけられたが、ヘクターは足元をギンと睨んだまま視線すら上げようとしない。そのうち男の派手な舌打ちが人混みに溶け、掻き消えた。
無視をしたわけではない。
アタマの中が真っ白で、異国語のスラングが届かなかったのだ。
ヘクターは今、必死で財布を探している。
スられたか、それとも落としたのか。
最後に懐から出したのは、体調を崩したダリアのために万能薬を買った時だ。夕飯に入った食堂で紛失に気が付き、ポケットの僅かな小銭でどうにか支払うことは出来たのだが。
財布として使っていた革の巾着には、買ったばかりの魔草と薬、数枚の貨幣、ヨルドモの印が刻まれた『暗示の首輪』が入っている。
薬も金もどうとでもなるが、首輪は王から賜った忠誠の証だ。外したままでは国に帰れない。
首輪にはヨルドモの技師により繊細な細工が施されている。美しい装身具として泥棒市を流れてくれたなら、何としてでも買い戻すのだが、もし貴族や商人の家へ直接持ち込まれでもしたら、絶望的な事になるだろう。
病むハズのない不死の胃袋がキリキリと悲鳴をあげた。血走った目の傍を脂汗が伝い、ぽたり、地面に黒い染みが滲む。
薬屋から食堂までの道筋は靴底が減るほどに往復し、通っていない道も万が一にと歩き尽くした。市場に並ぶほど時間が経ってはいない。今は一縷の望みをかけ、ひたすらに探す事しか出来ない。
ふと、足元のゴミ屑が目に入った。
骨の欠片。棄てられた生ゴミのようにも見えたが。
赤黒い断面には髄が詰まっている。火を通した様子はなく、生肉がこびりついている。
自然と足が止まる。ブーツの先端で突くと骨の下、長い金髪の束が落ちているのが見えた。
人間……か?
ヘクターは目を眇め膝を曲げた。と、その直後。
「カッコいいお兄さん、僕なんかで良ければっ」
突然耳に飛び込んできた大音量のヨルドモ語につんのめる。
続いてデュニャ語で半ばパニックの悲鳴が聞こえ、ヘクターはズキズキと痛むコメカミをさすりながら立ち上がった。
人だかりの中心では案の定、ブルーノが暴れている。ヘクターは無言で近付き、思い切りぶん殴った。
「痛っ! なにすん……あ、ヘクターさんっ、探しに来たんだよ、僕」
「探してねーだろ、どう見ても」
もう一度、今度は軽くはたく。と、ブルーノの頭巾がずれ、ヤマネコの三角耳が露わになった。
見物人たちは一斉に後退り、それぞれに視線を彷徨わせる。
『惑乱』で意識を奪う金目のヤマネコはチンピラが多く、どの国でもすこぶる評判が悪い。
ブルーノがどさくさに腕を絡める制服の男──おそらくこの街の警吏だろう──も金目から目を背け、ヘクターに助けを求めていた。
「悪い。こいつ、俺のペットだ。迷惑をかけたな」
大陸共通語でそう言いつつブルーノを引き剥がすと、警吏は安堵の息を吐き、流暢な共通語で応えた。
「この街では最近、殺人事件が起きています。そちらの彼がキョロキョロと不審な動きをしていたので、話を聞こうとしたのですが……」
「……職質か?」
ええ、と警吏は頷いた。
この警吏は肌が浅黒く、エキゾチックな魅力のある整った顔立ちをしている。話しかけられたブルーノがナンパか何かと勘違いして舞い上がり、はしゃいでいたのだろう。
ヘクターは溜め息を吐き、入港証明を広げ、手渡した。
「俺たちは今日、この街に来たばかりでな、殺人事件とやらとは、無関係だ」
「……あれ?」
ブルーノが目を丸くし、ヘクターに耳打ちをする。
「ね、ヘクターさんさっき、『職質』って言った?」
「そーだ。怪しすぎだってよ」
「……そっか……ナルホドね。ヘクターさん、どう考えてもニンゲンじゃないもんね」
「バカかっ! 俺じゃねえ、職質されてんのはお前の方だっ!」
ヘクターが再び叩くと、パカーンと小気味の良い音が響いた。おそらく頭の中は空洞だ。
「……ええと、確かに本日、入港されたようですね。失礼いたしました。最近この街はあまり治安が良くない。あちらの路地で子供の遺体が見つかったばかりなので、今、警備を強化しています。ですからこの辺りをあまりウロウロしない方がいいですよ」
警吏は背後を指し示した。
やはり先程のアレは、遺体の残滓だったか。ヘクターは納得し、ふむと頷く。
「では良い旅を!」
入港証明を返した警吏は笑顔を作り、いそいそと立ち去ろうとした。ヘクターは慌ててその腕を掴む。
「そうだ! さっき落とし物をしたんだが」
「……何を落とされたんですか?」
「財布を。少しばかりの金貨と装身具、買ったばかりの薬をいれた革の袋、なんだが……」
言いながらも語尾は萎んだ。聞いたところであるわけがない。
警吏もやはり眉を顰め、首を振る。
「あちらに屯所がありますので、寄ってみたらどうでしょう。しかし、いままで金貨の入った袋が届けられた事など……」
「……だよなあ」
「この街は観光客が多く、その分スリも多い。懐には気をつけてくださいね。……良い旅を。」
観光客に言う決まり言葉なのだろう。しかし今度は小声で付け足し、足早に去っていった。
※※※
「ヘクターさんがいつまでたっても帰って来ないから、ダリアねーさん、ヤバイくらい挙動不審になってたんだよ。もう、ホテルの重力ぐっちゃぐちゃ。
昼間、ヘクターさん胸のこと語り過ぎてたでしょ。あの事でハルピさんまで八つ当たりしてきて、だから僕、逃げて……じゃなくて連れ戻しに来たんだ。」
ヘクターの腕をしっかりと掴み、ブルーノは言った。一人じゃ帰らないからね、という意思表示なのだろう。
だが、すっかり落ち込んだヘクターの足取りは重い。
「……ねえ、財布スられたくらいで、凹み過ぎじゃないかな。そんなに沢山、お金入ってたの? ……どれだけキツいプレイが出来るお店に行くつもりだったの?」
「なんでお前の思考はそっちに直結するんだ? 金の事じゃねえ。……『暗示の首輪』を、財布に入れていたんだ」
ブルーノはああ、と呟き、両手を打ち鳴らした。
「あれ、財布に入っての! どーりで幾ら船内を探しても見つからなかったわけだ。首に巻いとけば良かったのにね!」
ぶち。
頭蓋骨の下、太い血管が切れたような音が響いた。
ヘクターは歯茎を剥き出し、怒りに肩を震わせながら、ブルーノの首根っこ持ち上げて叫んだ。
「てめえが原因だろうがっ!」
『暗示の首輪』は奴隷や魔物を制御するための魔導具だ。暗示の力により、本人の意思とは関係なく命令に従わせる事ができる。
その力を知った後のブルーノの行動は、酷いものだった。
逃げ場の無い小さな船で、四六時中生活をともにしているというのに、隙を狙っては手を伸ばし余りにも無益な暗示を次々と掛けてくる。
ブルーノは他人の意識を自在に奪う、変態ヤマネコだ。
次第にエスカレートする暗示に、ゾッとする程の危機感を覚え、ヘクターは首輪を外し財布に仕舞った。
「……死ぬ……から、ちょっ……っと離し……」
呼吸が止まりかけたのか、青紫のブルーノが力なくタップする。手を離した途端、どぅっと地面に倒れ、ワザとらしい涙目で咳き込み、言った。
「あー……んと、ホントに死ぬからね、僕だけは。ヘクターさんはニンゲン捨てただけあって馬鹿力……っじゃなくて! わー、大変だよねー困ったねー。すぐ見つかるといいねーっ!」
「心がねえな、相変わらず。ともかく、俺的にかなりのピンチなんだ。明日は闇市に張り付いて探さなくちゃなんねえ。薬もまた、買わなきゃいけねえし……明日もダリアの事、見といてくれ」
「それは解ってるけど。でもほんと、何処でスられたんだろうね」
ブルーノは財布は盗まれたモノと、決めつけているようだ。
実際、そうなのだろう。どれ程油断していたとしても、ヘクターはそうそう財布を落とすようなタイプではない。
「……盗られた、とすれば……」
ヘクターは記憶を巻き戻し、視界に入った人間の顔を一つ一つ、疑いながら思い返した。
「あいつ、か? 薬屋で見かけた……」
垂れ布で顔を隠す女。
あの豊満な胸は薬屋の後に入った食堂でも、ちらりと視界に入った。
「巨乳か!?」
「ヘクターさん、お願いだから女性陣の前で胸の事言わないでね。僕、重力で潰されるのも、風で八つ裂きにされるのも嫌だ……」
「とにかく、あの服の上からでもハッキリとわかる立派な膨らみの形は、脳内に焼き付けてある。……そうか。なら明日は巨乳を捕まえてカラカラになるまで搾り、首輪を取り戻さなくちゃな」
「……」
ブルーノが肩を落とし、長々と溜息を吐いた。