大地讃頌
※※※
墨滴を幾重にも垂らしたような雲が、月光をおどろおどろしく滲ませた。冷たい北風が独特の薫香と土埃をまぜ、遠吠えのこだまを乗せて吹き荒ぶ。
夜の刻はとうに過ぎていた。だが、けして安全とは言い難い裏通りを、顔を赤らめた青年が一人、無防備な千鳥足で歩いている。
なにしろ彼の始めた事業が、予想以上に好調なのだ。想定を遥かに超えた実入りを得た上に、立ち寄った食堂で偶然にも良い評判を耳にし、慣れない酒をついつい呑み過ぎた。
特徴のない灰黄色の石壁がひたすらに続き、けぶる砂が視界を遮る。
迷宮じみた異国の地で、道に迷ったようだ。ゴミの散乱する袋小路に入ってからその事に気付き、酔いが僅かに醒める。
右手のカンテラから油が零れ、ぐらんぐらん大きく揺れた。照らされたゴミ山の麓でギラリ、凶暴な光が反射する。
「ひっ……!?」
彼は息を飲み、立ち止まった。酒の高揚など一瞬で吹き飛んだ。
カンテラが捕らえたのは、瞳孔を光らせた野犬の群れ。一斉に此方を睨み、荒々しく喉を震わせながら、姿勢を低くしている。
食事の邪魔をしてしまったようだ。
犬どもの足元にはバラバラの肉や髪の毛……ニンゲンの子供の断片が、惨たらしく散らばっていた。
「……っ!」
漏れかけた悲鳴を、手で塞ぎ抑える。
激しい衝撃から解放されると、今度は背筋が急速に冷え、心臓がけたたましく喚いた。
逃げなくては、喰い殺される。
小刻みに笑う膝を必死でなだめ、彼は慎重に後退った。
トン。
背中が柔らかな壁に当たる。
「どうした?」
肩に手を置かれ、青年はびくりと振り返った。
背後にいたのは背の高い、逞しい男。
民族衣装である長い垂れ布で口元までを覆い、上部から灰色の三角耳を覗かせている。
狼の獣人なのだろうか。珍しいが、全く見かけないほどではない。
青年は安堵し縋り付くと、野犬の群れを指差した。
「あ、あそこに、犬がっ! し、死体を咥え……っひ!?」
慌てて身を離し、今度は壁に貼り付いた。
獣人が担いでいる大きな頭蛇袋。そのシルエットはまるで、ヒトでも入っているかのような歪さだ。
袋から生々しく漂う血の臭いに、野犬がくふん、と鼻を鳴らす。
獣人は小さく笑い、袋を叩いて見せた。
「ああ、これか。どうも一回じゃ、運びきれなくてなあ」
直後、雲が晴れ、サアと月明かりが零れた。獣人の手は、袖口まで赤く染まっている。
あまりの恐怖と底なしの絶望感。
「ひ、ひ……ひひっ」
舌がもつれ、悲鳴は音にならなかった。
青年はそれでも、バネのように跳ね飛ぶと、足をもつれさせながら一目散に逃げ出した。
※※※
大地の国、デュニャ。
その海の玄関口、港街デニズは二重構造の外壁と海へ向けられた砲台で守られている。とはいっても物々しい軍事都市などではない。多国籍な商人たちが集まる娯楽に富んだ大商業都市だ。
穏やかな空、豊穣な大地、無限の恵みを運ぶ大海原。
豊かなこの国では太陽の光までもがさんさんと溢れ、天を満たし照り輝く。
ヘクターはデュニャの民族衣装、頭上から首の後ろまでを覆う長頭巾の下、眩しげに目を細め青空を見上げた。
たなびく筋雲を鮮やかに切り裂く、巨大な怪鳥。呑気な海鳥たちは金切り声をあげ、羽毛を散らし逃げ惑う。
「ハルピ、遊んでねえでさっさと降りて来い! 入港出来ねえだろうが!」
大空を旋回する鳥人──ハルピ、と呼んでいる──を、痺れを切らしたヘクターはあらん限りの大声で怒鳴りつけた。
今、一行は船を停泊させ、桟橋のたもとで入港手続きをしている。
外国籍の船が入港する際にはたいてい、厳重な審査が必要だ。降ろす積荷の検査、入国許可の提出、船の大きさに準じた税金も払わなくてはならない。魔獣のダリアとハルピは積荷に数えられてしまうため、ペット証明を提出し照会する必要がある。
呼び降ろしたハルピを係員へ突き出すと、ヘクターは再び書類に向かった。が、ハルピは本質的に鳥だ。地上でじっとしている事が苦手なのだろう、数秒もたたずに落ち着きを失い、係員から逃れヘクターの周囲を飛び跳ねる。
湧き上がる風圧に、記入直後の書類が数枚、宙を舞い海へ消えた。
「ああああっ! こいつ本気でうぜえっ!」
「ね、ハルピさん、こっちおいでよ。私の、上。重くないし、街でも乗ってたらいいよ」
ハルピは軽く羽ばたき、ダリアの頭に留まった。
ダリアは兎人の性質を持つ合成魔獣だ。重力を自在に操る能力を備えており、成人女性の上肢を持つ鳥人であっても、軽々持ち上げる事が出来る。
が。
「……こんなん連れて街中、歩きたくねえよ」
ヘクターはチラリと見上げ、呟いた。
マスコット的な小動物を肩にちょこんと座らせるのとはワケが違う。屍食の怪鳥を頭にズドンと君臨させたシルエットからは、邪神めいた禍々しさすら漂っている。
かと言ってハルピを降ろし繁華街を歩かせれば、時折交える羽ばたきがバッサバッサ、邪魔な事この上ない。普段は畳んでいるが、ヘクターを持ち上げて飛ぶ事すら出来る両翼は、絨毯のような広さを持つ。
ダリアとハルピは上下に連なったまま観光ガイドを広げ、楽しげに計画を立て始めた。雑貨屋で綺麗なアクセサリーを買い、この国の独特な寺院を覗き、疲れたらオシャレなカフェを探して休もう、などと。
艶やかな宝石で身を飾り、信者となった僧侶たちを引き連れ、カフェで屍肉をついばむ邪神の姿が脳裏を掠め、ヘクターは重い溜息を吐いた。
ハルピがいる以上、観光は諦めるべきなのだろう。
が、ここは港街デニズ。
東西の交易により独特な発展を遂げた、歴史上最も重要な都市の一つ。
ヘクターの旅は世界を巡り知識を国へ持ち帰る事を建前としており、船に乗った当初からデニズを第一目標地点と定めていた。レポートの提出も求められている。多少、無理をしてでも見学し、文化に直接触れなくては。
ブツクサ言いながらも書類を作成するヘクターの手元を、ヤマネコの獣人、ブルーノが覗き込んだ。
「ヘクターさん、そんな名前だっけ?」
「……誰も呼ばねえがな」
「シャオってのは?」
「あれはガキんときのあだ名。ちびすけって意味だ。……末っ子だから」
へえ、とブルーノは感心した風に応えたが、これは既に何度となく繰り返されたお約束の会話だ。
ダリアは『ママ』、ハルピは『ダーリン』、ブルーノは何度訂正しても覚えるつもりがないらしく、相変わらず『ヘクター』と呼んでいる。
全く、何のために名前を取り戻したのだろうか。
※※※
一月ほど前、青月石の船でダリアと再会した翌日。
ヘクターが青兎亭へ戻ると店内には何も無かった。
酒だけではない。椅子や机、カウンター、什器、雑貨、調理器具に至るまでがキレイに消え失せている。
なんじゃこりゃと呟きつつ従業員部屋へ入れば、カーペットの剥がされたリビングで、ブルーノが我が物顔でくつろいでいた。
「あ、ダリアねーさん、ヘクターさんおかえり! 昨日店をくれるって言ってたから、全部売っておいたよ」
「……思い入れとか躊躇とか、一切ないのな、お前。ここまでやられると、もういっそ清々しいな」
ブルーノは悪びれることなく、ニンマリと笑った。
従業員部屋の魔導具や床の結界も消えていたが、他の家具や雑貨は昨日のまま残されている。ブルーノの極めて僅かな良識が働いたのだろう。
旅に出る事はもう決まっており、荷物もまとめてある。置き捨てる予定の店や魔導具を売られたところでなんの痛みも感じない。
「じゃあブルーノ、その金で……っ!?」
その金で達者に暮らせよ、そう言い残そうとした途端、甲高い炸裂音が降りかかった。木片を撒き散らして窓が割れ、真っ黒な塊がうなりをたてリビングへ飛び込む。
破城砲でも撃ち込まれたか、と思ったが黒い塊は木屑を払いつつその両翼を大きく広げ、シナを作ってみせた。
「ダーリン、うふ、来ちゃった」
「帰れ、マジで」
押しかけ彼女のような台詞を吐いたのは、トゥオーロ島の女王、鳥人だ。
カーテンだけが残された窓からは、外の混乱が直接届く。アパートの前に騎士団が到着したようだ。細い路地に押しかけた野次馬を警吏たちが押し返し、進入ルートを確保している。
ダリアはヘクターの腕にしがみつくと、深刻な顔で訴えた。
「ママ! 街に人喰いの魔獣が来たって言ってるよ! どうしよう、怖いね」
「……ほんと、どうしような……こいつ」
騎士団が退治しようとしている人喰い魔獣は、間違いなくこの鳥人だ。
おそらく馬を走らせるヘクターを空から見つけ、たいして深く考えずに後を追ってきたのだろう。魔導師だらけの王都に入ればどうなるかなど、そんな常識を持ち合わせているはずもない。
階段を駆け上る音が響き、続いて魔法の詠唱が聞こえてきた。騎士たちはアパートの廊下で攻撃魔法を準備しているようだ。
だがこちらには対魔導師兵器、ダリアがいる。ダリアを襲う魔法は法則を狂わされ、術者自身を八裂きにしてしまう。
騎士団を細切れにすれば非常に面倒な事になるだろう。ヘクターはつい先日、功績を認められ立場を取り戻したばかりだ。
ダリアを掴んで部屋の隅に放り投げ、騎士たちを止めようと進み出た瞬間。
「ヘクターさん、ゴメン!」
背後から重い衝撃。
ブルーノに力一杯の体当たりをされ、ヘクターは玄関扉の真正面につんのめった。
何しやがんだと振り向いた直後、鼓膜を引き裂くような爆発音とともに扉が砕け散り、視界が溶けるほどの閃光に包まれる。全身の体液が煮えたぎる、灼熱感に似た容赦のない痛み。
魔法の一斉射撃を至近距離で受けたのだ、実際に鼓膜は破れ目玉は溶けたのだろう。が、不死の身体はあっという間に回復し、頑丈な盾となり攻撃を塞ぐ。
不死とはいえ痛覚は健在だ。
死を乗り越えてなお続く痛みは凄まじく、瑞々しく燃え続ける喉から獣じみた絶叫が漏れる。
「……ふっ……ざっけんな! ブルーノーッッッ!! 俺だってなあ、痛えもんは痛えんだよっ!」
「だ、だって、こん中でホントに死ぬの、僕だけなんだからね! 守るならダリアねーさんじゃなくて、僕を守ってよ!」
「雄なら自分の身くらい自分で守りやがれ! 日頃から世話してやってんだろうがっ、恩を仇で返してんじゃねえよっ! 死ねこの馬鹿ネコ!」
魔法が止み、燃え滓となった衣服を肌にこびりつかせたまま、ヘクターはブルーノの首を掴み怒鳴り散らした。ダリアはヘクターの黒焦げの髪の毛を不思議そうに弄り、鳥人は羽先が煤けたのだろうか、顔をしかめ丁寧な毛繕いを始める。
扉の消えた玄関。
騎士たちは呆気にとられ、半刻もの間、廊下で佇んでいた。
※※※
誤魔化し不都合を揉み消す為『郊外で飼っていたヘクターのペット、ハルピが会いに来てしまった』という話を作り、事件は一先ずおさまった。
が、人喰い魔獣を飼っていた、というレッテルは重い。
アパートはもちろん城内にすら居場所を失い、逃げるように慌ただしく国を離れた。そのドサクサに紛れ、ブルーノに倣いダリア、ハルピまでもがペット登録をキッチリと済ませ、強引についてきた。
貰った船があるのだから使わない手はない、と軽いノリで船旅を始めたものの、操船経験はない。
トゥオーロで船乗りを雇うまで帆の広げ方さえ理解していなかったが、月夜に浮かぶ青月石の兎船の力と、風を帆に孕ませる鳥人の力とで大抵の事は上手くいき、航海自体はまさしく順風満帆だった。
見聞を広める……以外にもう一つ、ヘクターには旅の目的がある。
それは兎人の里、もしくは里の跡地を見つけ、ダリアに馴染む魔草を手に入れる事。魔草がなければダリアはやがて、月に盗られてしまう。
一応どの魔草でも魔力の補給は出来るようだが、性質に合う、合わないがあるらしい。兎人の里であればきっと、兎人に合う魔草が群生しているだろう。
兎人の好きな魔草はやはり……アレなのだろうか。
葉が人参に似ており、引き抜く際の断末魔で気が狂うため死刑囚や駄馬に引き抜かせる、アレ。
ヘクターは不死だ。アレをどのようにして抜くのかを考えると、嫌な予感が雷雲のように湧き上がる。が、どうにかして早急に手に入れなければならない。
最近、ダリアの体調が悪い。
以前トゥオーロに行った時には船酔いなどしなかったのだが、ここ数日のダリアは顔を青白くさせ、時折甲板に上がりグッタリと風に当たっていた。
今は元気なようだが、心配だ。この港でなるべく長めの休憩を挟み、その間に文化に直接手で触れ、知識と経験を得つつ、兎人の里についての情報も探すべきだ。
滞在予定期間を長めに記入し書類を差し出すと、港の係員はニッコリと微笑んで言った。
「港街デニズへようこそ! この街の名物は何と言っても、褐色肌の巨乳美女だ。兄さんたち、色っぺえ姉ちゃんが国中からわんさか集まってっから、たっぷり楽しんで来るといい!」
冬ではあるが汗ばむほどに日差しが強く、暖かい。背筋を震わせる悪寒は、気温のせいではないだろう。
「そうなんだ、へー。だからここの滞在期間、長めにとってるんだね、ヘクターさん」
「ンナ訳、ナイに決マッテルじゃナイか、ブルーノ」
「ねー、今おじさん、なんて言ったのー? 通訳してよ、ダーリン」
「するかっ!」
ハルピは大陸共通語を全く理解できず、覚えるつもりも無いようだ。
ヘクターはヨルドモの訛りがあるのだろうが、貴族出身の教養として日常会話程度なら話す事が出来る。ダリアにはヘクターが教え、ブルーノは船員たちから教わり、話す方は非常に拙いが、どうにか聞き取る事は出来るようだ。
「あのね、ヘクターさんがおっぱい大好きなんだって!」
単語が理解しきれていなかったのだろう。ダリアはブルーノの言葉に、胸に手を当てずうんと落ち込んだ。ダリアとブルーノでは、知っている単語の方向性が大きく違う。
それとは逆にハルピは胸を張り、誇らしげに言った。
「ダーリン、見て、触って、あたしのオッパイ! 船乗りさんたちに超、褒められたんだから」
確かに、ハルピの真っ白な胸は形良く盛り上がり、ゆさゆさと揺れながらも野生の張りに満ちている。
ちげえ。
唾を吐き捨てるように呟き、ヘクターは首を振った。
「お前のに触る気は起きねえ。確かに俺は胸が好きだ。谷間、横乳、下乳、色白も褐色もいい。見事な弧を描き豊かに膨らんだ、包み込んでくれそうな母性を感じさせ、それでいて掴めば指が沈み征服欲すら満足させる柔らかな巨乳は大好きだが、脂肪が少なく薄い貧乳であっても、そのダイレクトに尖った感覚の良さを感じつつ愛でる事に趣きがある。ぶっちゃけ先端さえついてりゃ真っ平らだって構わねえ。むしろロマンすらある。だが堂々と晒されてるのはダメだ。警戒心なく無防備に見えた乳房は嫌いではないが、恥じらい無く突き出された常時丸出しの胸に魅力やありがたみは感じねえ。あー膨らんでるねー、で終わりだ」
「……相変わらずヘクターさん、好みの幅広さとコダワリが気持ち悪いよね」
性癖を堂々と捲し立てるヘクターにブルーノは白眼を剥き、ダリアは顔を真っ赤に染めて俯いた。ハルピは不満げに唇を尖らせ、目を眇めている。
「ほら、さっさと行くぞ」
ヘクターはダリアの腕を掴み、強引に歩き始めた。
ダリアの頭上、ハルピが人目を引き、混雑した道は王族の馬車が通るかのように大きく開かれる。
予定しているホテルは市街地の中心にある。
この鳥人がいる以上、部屋を借りる交渉に時間が掛かるに違いない。
ヘクターは異国の大通りを脇見もせずに、足早に歩いた。