月に墜ちる 後編
「兎さん、命令を理解できていないようですね。もう一度言いましょう……狼さんを、殺しなさい」
マイヤスの言葉が響き、甲板は沈黙した。ダリアも、ヘクターも、へクスティアも、ミューラーも、薄壁を隔てた観客たちまでもが息を潜める。
ひゅるり、笛のような長音を鳴らし、火の玉が夜空を駆け上った。
「殺しなさい」
マイヤスが今度はハッキリと命じた。
直後、空が轟く。大輪の花火が炸裂し、星空を飲み込んだ。
兎が吼え、満月の射るような光が辺りを包む。砲弾のような空気の塊が直撃し、ヘクターの身体は吹き飛ばされ床板に強く打ち付けられた。
がらん、金属音を鳴らしレイピアが転がり落ちる。
ダリアはヘクターのすぐ横へ降りレイピアを拾い上げ振りかざす。と、マイヤスが呆れたような声を出した。
「それワザとやってるでしょ。あなたに武器が扱えるわけがない。……上へ」
ダリアは従順に、レイピアを腕に抱いたままゆるりと浮かび上がる。
身体二つ分ほど登ると、マイヤスが命令を下した。
「兎の力で、狼を磨り潰しなさい」
ビクリ、身体が跳ねる。
拒絶するように動きを止めたダリアの首に『暗示の首輪』が食い込んだ。喉が絞られ皮膚が赤く引き攣る。青月石が揺れギラリと輝くと、虚ろなままの赤の瞳から大粒の涙が一粒零れ落ち、微かに残された光さえも完全に消え失せた。
「殺れ」
見えない紐で操っているかのように腕が持ち上がり、兎の子は指先を揺らした。
途端、月が輝き数倍にも膨れ上がった。虚空が振動し、潮騒がおどろおどろしく鳴り響く。
メイン帆が湿った軋音を鳴らし、中ほどから倒れた。張り巡らさせた策具がたわみスライム壁に引っかかる。
咆哮。
半壊の船を、見上げる程の大波が取り囲んだ。
……いや、波が立ったのではない。船が垂直に沈んでいる。ヘクターを襲う重力のあまりの強さに、船そのものが海へ押し沈められている。船縁をやすやすと越えた海水が、甲板にどっと流れ込んだ。
船が、堕ちる。重圧の中心に置かれたニンゲンの脆い肉体は、悲痛な呻き声と骨の崩れる音を発した。
「姉さまっ!? シャオ!」
へクスティアが走り寄る。
「何してるの姉さま、止めてっ!」
叫んだが、ダリアは心を閉ざしたまま月へ吠え続けている。
圧はますます強まり、ヘクターの身体がぼきぼきと砕かれた。へクスティアがヘクターに覆い被さると、身体が軋み悲鳴をあげる。骨が割れ、内臓が破れた。が、不死の肉体は光り輝き、すぐさま再生し形を保つ。折れては戻る細腕の下に、海水に浮かぶ恋人と氷付けの子供の魂。へクスティアは盾となりひたすらに守った。
再生に魔力を使う度、魔女の存在は掠れていく。仮面が剥がれ、波の昂りは次第に身体へ馴染む。へクスティアの残滓は縮み、荒々しい海の魔力が湧き上がる。
魔女が消えていく。ぽっかり開いた黒い闇に、思考が飲み込まれていく。
へクスティアは薄れゆく意識の中、四つん這いで耐え、獣に祈った。
人魚。
海の魔物よ。
壊れた姉と、崩れた恋人を、助けて。
全身が眩く輝き、再生した身体が全く別の……本来あるべき姿へと作り変えられていく。
瞳が赤に塗り替えられ、人魚が目覚める。
海の女王は、月の王へ威嚇の雄叫びを放った。耳をつんざく高音が兎を黙らせ、船を軋ませていた重力は空へ霧散する。月は僅かに陰り、水は穏やかな海へ帰っていく。
しん、と甲板が静まりかえった。
寝起きの人魚は気だるげに腕を下ろした。手のひらが横たわるヘクターの胸の上へ何気無く重なる。
心音がない。
それもそうか、満月兎に潰されたのだ。魔女が守ったからこそ形を保ててはいるが、骨は折れ、臓器も爆ぜているだろう。
人魚は呟き、遺体を撫でた。ちくり、黒いベストの隙間に押し込まれた塊が指を刺し、人魚はそれを摘み眼前に翳す。
これは昔、人魚が作った命の塊。兎に頼まれ、貴族の子供を魂だけの存在へ変えたのだ。
人魚は目を細め、塊を眺める。
戻ったばかりの混沌とした記憶が、少しずつ整理されていく。
と、死んだと思っていたヘクターが小さく呻き、血と胃液を吐瀉した。
なんだまだ生きていたのか。人魚の女王は目を見開き、楼に立つマイヤスを見上げ笑った。
「やはり、お前たちニンゲンは、しがみついてまで生きるんだね。この先の未来がどれほど、ろくでもないモノであろうとも」
そう言うと体液に汚れたヘクターの顔を、水掻き膜が貼られた指で拭う。
整った眉間に浮かぶ苦悶の縦皺と、彫りの深い目元を縦断する無惨な火傷跡。身体に残るほんの僅かな魔女が、切なげに打ち震える。
「魔女よ。おまえはいまだ呪われ、苦しむのか。……ならば、最後の一欠片が掻き消える前に、望むところへ送ってあげようじゃないか」
人魚は白銀の尾をくねらせ、ヘクターの身体を登った。両手で頬を掴み顎の角度を変えさせる。人魚が前へ倒れると、流れ落ちた金糸の髪が重なりあう横顔を隠した。
人魚は喰らいつくようにヘクターの口を抉じ開け、舌をねじ入れる。大きく開かれた口腔へ、魔女の最後の欠片が流し込まれた。
経験。知識。懺悔。執着。ひっそりと閉じ込めた甘い思い出。
歪で不器用な、愛情。
心の中で繰り返すばかりだった、愛しているというフレーズ。
魔女を送り終えると再び、人魚は慈しむように唇を重ね直した。
赤の人魚の穏やかな口づけは、死を吸い上げる。破裂した内臓は医され、骨格は組み直された。
魔女の祈りと人魚の祝福に、心臓はゆったりと拍を打ち始め、血液を存分に巡らせる。
※※※
──。
揺り戻さればかりの意識の底に、声が響いた。
じわり、胸の奥から全身へ広がる優しい熱に、思わず手を伸ばす。指先が滑らかな肌に触れ、薄っすらと目を開いた。
赤い瞳。
鼻先のぶつかるような距離で、楽しげに覗き込む、赤の人魚。
人魚はさらに一回り小さくなった氷の塊をヘクターの胸へ落とした。しかしそれは空中で砕け、キラキラと輝いて溶けて消えた。
「……な?」
事態を飲み込めていないヘクターに人魚は笑いかける。
「宝物を魔女に返しただけだ……おっと」
そう言って人魚が宙を跳ねた。直後、ひゅんと風が掠め床板に刃が刺さる。
ダリアだ。
ようやく硬直から解放されたダリアは、虚ろな瞳のまま甲板に降り、投げたレイピアを引き抜いて構え直した。
刃が繰り出されヘクターは飛び起きた。身体を捻り、ダリアを捉えようと腕を伸ばす。
違和感。
身体が軽過ぎる。
制御が効かず勢い余り、突き出した手が正面から切っ先へを掴んだ。
ザリ、と嫌な音を骨に響かせ、レイピアが腱の隙間に押し込まれ貫通する。
熱い。
痛みの熱に痺れる手を、思い切り引き抜いた。が、ぽかりと空いた大穴からは血の一滴も溢れない。それどころか肉片が蠢き、瞬く間に傷を埋めてしまった。
「……これは!?」
この穴ばかりではない。
皮膚を隙間なく覆っていた拷問の火傷痕、刺し傷。まだらに残る騎士の名残の刺青の色素や、幼い日の古傷ですら、跡形も無く癒え去っている。
戸惑う間も与えられず白刃が舞った。デタラメな残弧を描く、ダリアの稚拙な剣技。
捕まえなくては。
距離を詰めると、ダリアは素早く空に上がり間合いを取った。
魔法を。それも、出来る限り魔力の弱い魔法を。
ふと、頭の中に知らない筈の歌とキーが浮かぶ。ダリアから教わってはいない低級魔法、『火球』の歌。
へクスティアの残した魔女の『知識』。
ヘクターは短い歌の詠唱を早口で終えた。指先の印跡が金の魔力を編み『火球』を作り出す。
金尾を連ね、放たれる炎の塊。それを追うようにヘクターは跳躍した。
精一杯に伸ばした指が、空へ逃れるダリアの首輪へ僅かに届く。
『火球』の暴走。
魔法は兎に狂わされ、術者へ返り目的を忘れ全てを砕く。
ヘクターの皮膚に無数の亀裂が走り、掻き消える。指の先で『暗示の首輪』がビリリと震えた。
※※※
「不味い、兎さん! 剣ではなく『重力操……」
「黙れ」
首の側面、頸動脈にあてられた刃に、マイヤスが口を閉ざした。
数拍間を置き、慎重に首を捻り視点を動かす。
「……ミューラー殿下、でしたか。いつの間にここまで上がって? おそれいりますが、目がチカチカするんでコレ、下げては貰えませんかね」
喋る度に上下する喉を、輝く切っ先が掠めている。ミューラーは剣を下げず、逆に顎を持ち上げるように刃を傾け睨みつけた。
鈍な鉄剣とはワケが違う。魔力を存分に吸った王家の剣だ。軽く擦るだけで柔らかな喉など簡単に裂く事ができる。
マイヤスが仰け反り、後退った。ミューラーは切っ先を重ね、じっくりと追う。
「ダリアさんの、暗示をとけ」
「ここからじゃできませんって。それにさっきも言ったんですが……」
魔法剣に照らし上げられたマイヤスの顔面が大きく歪み、口の端が極限まで吊り上がった。
「やはりソレ、眩しすぎです。どけてくれません?」
突然、マイヤスが身を乗り出した。視界が顔面で埋まるほどに顔を寄せ、にんまりと笑う。
剣から伝わる確かな手応えに、ミューラーは混乱した。この角度で刃が入ったのなら首は折れていなくてはならない。
マイヤスがさらに踏み込む。密着する熱のおぞましさに、ミューラーは思わず腕を振った。
ザン、と音をたて、剣が滑らかな弧を描く。刃は確実に首を落とした、ハズだ。
しかしマイヤスは背後へ飛び、逃れていた。どのような手品を使ったのか、首には傷一つない。
唖然とするミューラーから距離を取り、マイヤスは懐へ手を入れる。
「殿下をどうかするつもりはなかったんですがねえ」
そう、嘲るように微笑んだ。
皮膚が粟立つ。この奇怪な蜥蜴が何を隠し持っているのか、見当もつかず焦りだけが広がり、足が凍りついた。
「伏せろ、ミュー!」
凄まじい轟音をあげ、風が唸る。膝を落としたミューラーの頭上を掠め、ヘクターの『火球』が灼熱の渦となってマイヤスを包んだ。
黒煙とともに火柱があがる。
奇妙なほどに燃え盛る炎の中、マイヤスは嬉しそうに何かを取り出した。キイイイと鼓膜を裂き破るような金属音が鳴り響く。
手の中に見える、宝石のような石。それを口元へ当て、マイヤスはゆっくりと声を発する。
「兎さんもう一度、狼さんを潰しなさい。この船ごと全て、壊してしまって構わない」
言い終えるとマイヤスは石を投げ捨てた。ガン、と床にぶつかる音とともに、唐突に 金属音が止んだ。
命令に応え、兎が吼える。
狼さん、約束、忘れないでくださいね。
業火の中で呟くと、マイヤスは両手のひらを勢いよく重ね合わせた。
パンッと柏手のこぎみよい快音が鳴る。
※※※
アネットを腕に守りながら、ブルーノは煌々と輝く満月と、狂ったように咆哮するダリアとを見詰めていた。
兎の魔力に高波がうねり、船のそこかしこから耳障りな軋音があがっている。
船はとっくに半壊だ。砕け散るまで時間は残されていないだろう。
招待客や船員たちは救命ボートと共にココへ集められていた。
操舵しようにも帆は折れている。逃げようにも波が高すぎる。
上下左右、激しく揺れる船から投げ出されないよう、互いにしがみついて一塊になった。
最早、為す術はない。
人々は、兎の魔物へ立ち向かうバーテン姿の 男へ一心に祈り、希望を注いでいた。
と、誰かが真上を指差し悲鳴をあげる。
「……なん、なんだ……これ」
ブルーノも見上げ、呟きを漏らした。
沈黙していた金属スライムの壁が踊るように揺れ、策具を海へ振るい落としている。
スライムはそのまましなやかに伸びあがり、月光を反射させながら形を歪め、空一面へ広がった。
充分に質量を増やし終えると一瞬動きを止め、ぎゅるり、覆い被さって身体を丸める。
やがて、客を包み込んだ頑丈で巨大なスライム球が、甲板に建てられた。
※※※
月は兎の子にあとからあとから、月光を注ぎました。
ほら、思い切り力を使いなさい。
体の中を月一色に塗り替えて、月になってしまいなさい。
※※※
辺り一面に光が溢れ、月は洪水のような魔力をダリアへ注いだ。
力を使え。頭の奥で囁く、声。
──い、や。
光は意識の深くまで 入り込み、脳天から爪先までを快楽で貫き揺さぶった。
首輪の力が薄れたためだろう。ダリアは宙に磔にされ、ぼんやりとした眼で虚空をみつめながらもどうにか抗う事ができた。
狼を潰せ。潰せ。潰せ……。
繰り返しているのは蜥蜴か月か。意識を塗りつぶし、身体を支配しようとする何者かの意志に、ダリアは必死で堪えた。
力を使おうとしないダリアを、仕置きとばかりに首輪が締め続ける。強烈な痛みと吐き気、危うい衝動がダリアを襲う。
ぷちぷちと、繊維の裂ける音がした。
痺れを切らしたのだろうか、怪しい月は真昼の太陽以上に照り輝き、ギラギラしい魔力を一斉に流し込んだ。焼き千切れるような痛み。猛烈な速さで脈打つ心臓。全身が雷に打たれたかのように痙攣しダリアは悲鳴をあげる。身体を通り抜け、溢れた魔力が膨れ上がる。
兎が絶叫し、星空が堕ちそうなほどに夜空が震えた。
──嫌ぁっ!
悲鳴と同時に、首輪が千切れ飛ぶ。ヒビの入っていた青月石は砕け散り、空に強奪された。
ダリアはようやく肉体を取り戻したが、喜びは一瞬だった。
制御装置を失った兎は、月の魔力の変換機に成り果てる。満月は兎に膨大な力を注ぎ入れ、兎の存在そのものを月の結晶へと染め変えていく。
暴風のような上昇気流。
月は兎を連れ去ろうと、重力を狂わせた。メキメキと千切れた船のかけらが空をのぼり、天地を間違えた豪雨のように海水が月へ降り上がる。
ダリアの視界に、ニンゲンたちの姿が映った。見た顔の常連客、着飾った貴族、ミューラー、アネット、ブルーノ……そして、ダリアの腰に腕を絡め船骨を掴み重力へ抵抗を続ける、ママ……ヘクター。
「行くなっ! ダリア!」
ずっと聞きたかった、愛しい声。胸の隅々までもが優しく痺れ、満たされる。回された腕の温もりが心地よく、もう離れたくはない、そう強く感じた。
──だけど。
ダリアは首を振る。
このままでは船ごと月へ運ばれてしまう。ダリアは月の力を捻じ曲げ、振り切るように船を押し返した。
ヘクターの握る柱が折れる。
ダリアはヘクターをぶら下げたまま宙へ浮かび上がった。
「ダリア! 帰ってこい、月には行くな!」
ヘクターを月に連れては行けない。ダリアは重力を操り、ともすれば飛び上がってしまう身体を中空に留める。
「ママ、ごめん……ごめんなさい。痛くして、ごめんなさい。……それに、もう行かなくちゃ。離して」
この身体はもう、月のモノだ。これ以上地上に留まる事は不可能。そう、本能が告げていた。
「謝ってんじゃねえ。謝るくらいなら、隣に居ろ。これからも、ずっと」
「……ママ」
「さあ、俺たちの家に帰ろう。そして帰ったら沢山、話そう。俺にはずっと、ダリアに言えなかった事がある。ダリアの事だってもっともっと知らなくちゃいけない。何日でもかけて、話したかった事を全部、話すから。……もう、俺は独りでは眠れないんだ」
ダリアは首を振った。滂沱の涙がとめどなく零れ、空に流れ堕ちる。
「ウチに帰れ! 今までと同じように、一緒に暮らそう。ずっと」
ヘクターの左手がダリアの左手をさすった。かちゃり、互いの青い指輪が重なり合う。
「……ごめん、なさい」
「……なあ? 演劇、観に行けてないじゃないか。楽しみにしてただろう? 明日にでも行こう。……ダリアが旅行に行きたいのなら、ちょっと時間はかかるかもしれないけどな。俺が何処にだって連れて行ってやる」
ダリアは俯き、また顔をあげた。涙をキラキラと溢れさせながらも口角を引き上げ、くしゃくしゃの笑顔を作る。
「楽しそう……だね。でもママ、ごめんなさい。私は月になるの。たがらずっと、月になって空からママを……ママだけを見てるから……」
「ダリア。俺を置いていくな。……行かなくちゃいけないのなら俺も行く。俺も、月になる」
「……ニンゲンを、連れては行けないよ」
ダリアは静かに顔を寄せ、柔らかく唇を重ねた。惜しむように交わされた唾液は、わずかに塩辛い。
長い口付けを終え、そっと唇を離す。二度目を求め顔を交差させようとするヘクターの頬を、ダリアは咎めるように撫でた。
『重力操作』
「……ダリア……っ!?」
ダリアは思い切り腕を伸ばし、重力球を投げつけヘクターを突き飛ばした。船の甲板へ打ち付けられたヘクターはしかし、すぐさま起き上がろうとする。
ダリアがレイピアを投げ落とした。
レイピアはヘクターの胸部へ真っ直ぐ突き刺さる。ダリアはその柄に重力球をぶつけた。
鈍く残酷な音を立てて、レイピアが根元まで押し込まれる。ヘクターの身体はしっかりと甲板へ縫い止められた。人魚の祝福を受けた身体からは一滴の血も溢れない。蠢く肉がぎゅうぎゅうとレイピアを締め付け、押し出そうとする。ヘクターはレイピアを握り、力一杯引き抜こうとした。
「ママ。今までありがとう。……愛してるよ、これからも、ずっとずっと」
轟々と風が鳴り、ダリアは月光に満たされた。
兎が、月へ吸い込まれる。
「ダリア! 行くな!!」
レイピアを引き抜いたヘクターが立ち上がった。跳躍しようとしたその瞬間、船が大きく傾く。重力からの解放に船は真っ二つに砕け、甲板を垂直にし海へ沈む。
兎を吸い込んだ月は平然と沈黙する。
穏やかに凪いだ海には無数の船屑と、金属スライム球が浮かんでいた。
※※※
大きな青い月は昼間のように明るく輝き、ぐしゃぐしゃに壊れた船と、花畑のように輝く波を照らしました。
兎の哀しげな歌が微かに響き、波間で人魚がバシャンと跳ねました。
※※※
「あらダーリン、こんなとこで会うなんて奇遇、やっぱり運命なんじゃないかしら! ……なーんてあたし、ぜんぶ見てたんだけどねー」
煩わしいまでの羽毛を散らし、場に不釣り合いなほどに陽気な口調で、鳥人が板切れの端へトンと降り立った。板が重みに傾き、ヘクターは慌ててバランスを取り直す。何しろここは海のただ中。ヘクターは気絶してしまったミューラーを背に担ぎ、小さな板切れへ掴まって海を漂っている。
鳥人の女王は返事を待たず、けたたましく喋り続けた。
「ダーリンはもう、人魚の祝福が尽きるまで死なないの。かじっても減らない夢の魔導師様になったんだからっ!」
「……なら血でも指でもくれてやる。こいつを今すぐ、安全な場所へ運んでくれ」
ミューラーは海中から救い出したばかりだ。出来る限り早い処置が必要だが、向かいの小島までそれなりの距離がある。
鳥人は翼を上下させ、得意げに胸を反らせた。
「もちろんいいわよ! ああ、なんて素晴らしい夜。蜥蜴の言ってたとおりね」
「蜥蜴? マイヤスを知っているのか!?」
「誰それ。あたしが言ってるのは蜥蜴って名前のニンゲン。夕方くらいに頼まれて月見の船まで運んだの。この近くにいればきっといい事があるからって言われてね。……さあ、手を出して!」
鳥人が脚を差し出し、ヘクターはそれを掴んだ。途端、風が鳴りはためく。ぐいと持ち上がる気流に乗り、鳥人は大空へ舞い上がった。
※※※
鳥人はミューラーを護衛艦に降ろし、そのまま島の裏側へ向かった。招待客たちを乗せたおかしなスライム球も、護衛艦が回収するだろう。
ひと気のない浜に降り、ヘクターは岩に凭れる。不死に変えられた身体は疲労を感じてはいなかったが、脳が痺れ思考を拒絶している。
考えれば、喪失感でどうにかなってしまいそうだ。
「ダーリン、あたしとっても役に立ったでしょう。ご褒美、頂戴!」
鳥人の言葉にヘクターは目を閉じ、ひどく投げやりに返した。
「指でも腕でも……頭でも喰っちまえ」
「そんなには要らないの。ダーリンなら小指の先くらいで、充分。なーんにも解ってないのね。
あたしたち魔獣はね、自分で魔力を作れないのよ。だから魔力のある生き物を食べるんだけど。食べ過ぎると、魔力と一緒に記憶が流れ込んできて、狂っちゃう。
ダーリンの頭なんて食べたらあたし、乗っ取られちゃうわ」
「……そうか」
へクスティアが人魚になっていたのは、そういうことか。
ヘクターはようやく納得をした。人魚はへクスティアの魔力を取り込み、へクスティアに記憶と姿を乗っ取られた。『不死』の人魚であるからこそ、その本体は揺るぎなく、ニンゲンの魔力が尽きれば元の姿へ戻る事が出来る。
だが……。
「……赤い目の魔獣は、ニンゲンを食べて魔力を取り込む必要なんてないんじゃないか?」
ダリアは月の魔力を取り込む事が出来た。魔力のために、わざわざニンゲンを食べるまでもない。
「違うわよ。例えば人魚は海の魔力を貰えるけど、貰いすぎると海に塗り潰されて、同化しちゃうの。
それを防ぐために、人魚は魔導師を食べて魔力の質を変えなくちゃならない。ダーリンとこの王様だって、魔力の高い草、食べてたでしょ?」
「……魔力の高い……魔草を、か?」
鳥人は当然、とばかりに頷いた。
「だって、草食だもの。ダーリンがいくら魔力を注いであげても、兎人には消化できないじゃない」
そんな草など、見たこともない。
ヘクターがそう言うと鳥人は首を傾げる。
「よくわかんないケド。少なくとも王様になる前は食べてたハズよ、死んじゃうもの」
ダリアの母親、魔女サラサは、薬師だ。少なくともヘクターよりもずっと、魔草の知識があっただろう。
俺ではなく、魔獣や魔草に詳しいニンゲンが側にいれば、ダリアは月へ取られずにすんだのか?
自責し黙り込むヘクターへ、鳥人は世間話のように言う。
「王様、月になっちゃったわねえ。今頃、別の兎人が新しい王様になってるわ。 兎が欲しいのなら、会いに行ってみたら?」
「……なあっ!」
ヘクターが声を荒げた。鳥人は切れ長の金目を僅かに丸くする。
「俺は、どうしたら良かったんだ!」
「さあ? ダーリン、なんにも知らなかったんだから、どーしよーもないじゃない。最初っから、手遅れだったのよ」
手遅れ。
おそらく出会った日には、すでに。
「……っ!」
憤りは声にならず、ヘクターは力任せに岩を殴った。運命と自分へ向けた怒りに、全身が小刻みに震える。
岩肌に葉脈のようなヒビが走った。が、ヘクターの拳からは一滴の血も流れない。皮膚が掠れる事も、赤くなる事すら、ない。
ただ痺れて痛い。それだけだ。
愛しい恋人はもう、帰って来ない。
ヘクターには、死に逃げる事すら出来ない。
僅かな弧を描く水平線の淵を、燃えたつような朝日が滲んでいる。月は輪郭を柔らかにぼかし、紫の空へ消えようとしていた。
長い満月の夜が、白々と明けていく。




