月に墜ちる 前編
「狼さん、一緒に世界を廻りませんか?」
投げ落とされた予想外の言葉に、ヘクターは耳を疑った。
真意が読めない。船首楼に佇むマイヤスを鋭く睨みつけたが、飄々とした顔つきで返答を待ち口をつぐんでいる。
ヘクターは声に凄味を加え、低く唸った。
「……ワケがわからねえ。『話し合い』の前に、まずはその手を降ろせ」
マイヤスは微かに口角を挙げてみせたが、ダリアの肩は離さない。
つまりダリアは人質。マイヤスはダリアを盾に、何か要件を飲ませるつもりなのだろうか。
甲板のいたる場所で跳ね飛ぶ屍蟹を串刺しながらも、ヘクターはマイヤスを睨み続けた。
「ねえ、狼さん。私は世界中からたくさんの物語を集めて読み漁り、いつか旅に出ようと心に決めていたんです」
拡声器を身につけているのだろう。花火が鳴っているというのに、マイヤスの声は甲板の隅々まで響きわたる。
ヘクターの背後、金属スライムで出来た半透明の壁の向こう側では、甲板へ上ってしまった招待客たちが集められ、騎士に守られながらも耳をそばだてていた。客の中にはヘクターの立ち位置を知るものも、チラホラと居る。
ヘクターは狗という立場上、国を離れる事が出来ない。今ここでマイヤスの言葉を飲めば、反逆者として追われる身になる。
掌にじわり、汗が滲んだ。
仰々しい演説はなおも続く。
「狼さんは考えた事もないでしょう? この国の外に拡がる世界は、混沌と美しいのです。自然は壮大に無秩序で、獣やニンゲンは雑然と、ひとかたまりの種として生きている。……ヨルドモという国は理の一側面だけを重んじ、魔導師以外……魔物や獣人、力を持たないニンゲンまでも排除し続けた。そのおかげで便利な魔法国家にはなったが、我々には住みにくく、とてもとてもつまらない」
我々。そう言うとダリアの肩を親しげに叩いた。ヘクターが苛立ちの怒号をあげる寸前、マイヤスはまた、言葉を繋げる。
「兎さんの協力で空飛ぶ船が完成しました。それに乗り二人でこの国を出るつもりだったんですが、兎さんに狼さんも連れて行けと怒られてしまいまして。……そんなに睨まないでください。私としても狼さんが来てくれれば、とても心強い」
一際大きな花火が打ち上がった。
空が震え、無数の光が枝垂れ落ち、舞台上の二人が鮮やかに縁取られる。
「さて、もう一度言いますね。……狼さん、私たちと、世界を見に行きませんか?」
マイヤスは理解した上で言っている。例え恋人を人質に取られようと、ヘクターは頷く事が出来ない。
ヘクターはギリと歯噛みし、吼えるように言った。
「行かねえよ! 別の国を見たいなら、俺が黄泉まで送り届けてやる。『首輪』『指輪』『蜥蜴』、どれかを壊せば、ダリアが戻るんだろう? なら『蜥蜴』から壊すのが一番簡単で、早え」
「さあ。私を殺したところで、暗示はとけないと思いますけどね」
マイヤスは肩を竦めると、唇を三日月の形に引きつらせ、にいと笑った。まさに、筋書き通りの成り行きを悦ぶかのように。
「わかりました。つまり返事は『いいえ』なのですね。ああ、とても残念だなあ! 『話し合い』はもう終わり。これ以上用はありませんし、私には狼さんに兎を貸し出す義理もありません」
残念残念、そう呟きながら、マイヤスはダリアに取り付けられた魔導具『暗示の首輪』のペンダントトップへ指を添えつつ、兎耳へ口を近づけた。
暗示。
「兎さん。狼さんとは、もうお別れなんですって。ああそうだ、狼さんと踊りたかったのでしょう?」
ダリアの長く白い耳が、頷くように前へ倒れた。
「踊って来ていいですよ。……ただし、人魚と同じように。……狼を殺すつもりで、踊りなさい」
赤い瞳が光を宿さないままに、見開かれた。
マイヤスが手を離すと同時に、ダリアの体が浮かび上がる。ダリアは空中をガラスの床が敷かれているかのように歩き、ヘクターまで数歩分の位置へ降り立った。
白いワンピースの胸元で、『暗示の首輪』につけられた青月石が、微かに光を上下させている。だらりと下げられた右手には『面白くなくなる』指輪が、左手にはヘクターと揃いの青い石の指輪が、嵌められたままになっていた。
「ダリアッ!」
思わず伸ばした腕は、しかし虚しく宙を掻く。ヘクターが踏み込んだのと同じ距離分、ダリアは素早く後退し間合いを保った。
ヘクターは再度、手を伸ばす。ダリアは避ける。掴みかかる、逃げる、回り込む、かわす。
捕まえてやる。ヘクターは床を蹴った。ぐんと弾みをつけ右腕を振り上げる。予想通り、ダリアは斜め後方へ逃げた。左手のレイピアを突き出すと、退路を断たれたダリアは体制を崩し空へ跳ぶ。
兎が空中に浮かんだ。
ヘクターは軽々と、細い足首を掴み取る。捕まえた。ヘクターが笑みを零した直後、ダリア越しの月に無数の黒斑がまぶされているのが見えた。
シミが、次第に大きくなる。
違う、シミではない。……それは、小屍蟹の群。鋏を垂直に下げ、二人へ降り注いだ。
「ダリア、来い!」
ヘクターはダリアを引き摺り下ろし、身体の下へ囲み入れた。
レイピアへ魔力を注ぎ直し、頭上を薙ぐ。割れた屍蟹の破片が次々と甲板に突き刺さった。
ヘクターが身を起こすと、ダリアはするり懐を抜け出した。再びヘクターとの間合いを取り、右手を掲げ床の蟹片を指し示す。
くいっ。ダリアが指先を上へ向けた。とたん鋭利な残骸が次々と床を抜け、ヘクターの頭上に並ぶ。
「これお前か!? ……ったく」
ダリアの命令で動く蟹のナイフを、ヘクターは軽々打ち払った。これではあまりにも、夜毎の鍛錬と同じ。
大丈夫、当てないから。
いつかのダリアの声が聞こえたようで、ほろ苦い感傷が胸を締め付けた。
おそらく、そうなのだろう。ダリアにはヘクターを傷つけるつもりなどはない。マイヤスに言われた通りに人魚を真似、蟹を降らせてみただけだ。本来の兎の力を使えば、ヘクターを押し潰し殺す事など簡単だというのに。
やはり『暗示』は『暗示』、感情を完全に消す事など、出来ない。
ヘクターは再度ダリアへ掴みかかった。ダリアは上へ跳ね飛び、大量の屍蟹を降らせる。蟹は甲板で砕けたが、それでもまた舞い上がり、降り注いだ。バラバラバラバラと、蟹屑は狂ったように床板を打ち鳴らし続ける。
耳障りな騒音の中、ヘクターは蟹を払い叫んだ。
「その赤い指輪は魔導具なんかじゃねえ、偽物だ。お前はマイヤスの暗示で、心を消されたと思い込まされているだけだ。だからダリア、答えろ! 本当は俺の声が、聞こえているんだろうっ!?」
ダリアが指を止めた。蟹の雨が止む。僅かな静寂。ヘクターは助走をつけ、空へ跳ねた。
思い切り手を伸ばす。
月を掴み取るように。
「目を覚ませ! 指輪も、首輪も捨てて、俺のところへ帰ってこい!」
赤い瞳が僅かに揺らいだ。ヘクターの右手が首輪に触れる。瞬間、平手打ちの音が、鈍く響いた。
ヘクターは甲板に降りた。ダリアに払われた手の甲は、もともと拷問で爛れている。赤くなってすらいないが、奇妙なほどに熱く、痛い。
「……ダリア、戻ってこい」
ヘクターはレイピアを下ろし、右手を広げた。
ダリア胸を抑え、ただぼんやりと浮かんでいた。
※※※
この悪夢はいつ醒めるのだろう。へクスティアは呟いた。
腕の中には氷塊となった息子の魂。目の前にはへクスティアへ刃を向ける守るべき国王。
へクスティアの意思とは関係なく、人魚の触手は王を捕らえようと蠢き、屍蟹たちは体当たりを繰り返している。
王が隙を突いた。王の白刃は触手を打ち払い蟹の壁を破る。ずぶり、剣が心臓を刺し貫き、へクスティアの胴へ大穴が空いた。
だが、痛みはない。
魔力が金粉を振り撒いて集まり、瞬く間に穴を塞いでしまった。人魚の再生能力を目の当たりにし、王が表情を歪める。
私はやはり、化け物だ。へクスティアは滑らかな絹肌へ指を添え、癒えた傷口をなぞりあげた。
残り少ない魔力を使った為か、記憶が不明瞭になる。ぐわん、ぐわん。脳が揺れた。穴だらけの記憶を埋めるように、漠然とした恐怖が混み上がる。
助けて。
へクスティアがボソリと呟くと、どこからか声が聞こえた。
『ヘクター。あなたは記憶だけの存在。人魚の肉体を乗っ取った幽霊です。』
「……兄さん?」
へクスティアは船首楼を見上げる。しかしマイヤスの視線はもう一組へ注がれ、こちらには向けられていなかった。
だがいつかのマイヤスは、へクスティアの耳奥へ語り続ける。
『私はあなたをきっちり殺すと約束しました。その曖昧な記憶の海の中では、溺死する方法すらわからないのでしょう?』
「マイヤス兄さん!」
へクスティアは叫ぶ。マイヤスが振り返り、視線は交差する。
「ねえ、今すぐ私を殺して! 兄さんなら出来るんでしょう? 私を助けて!!」
だがマイヤスは僅かに眉を引きつらせ、目を背けた。へクスティアは絶望に項垂れ、助けを求める腕を静かに下ろす。
「魔物よ、お前は死を望むのか?」
低く空気を震わせ、よく響く声。
素早く首を捻ると向けられていた刃が喉を裂いた。まだ若き王は僅かに怯み剣を引いたが、へクスティアはそれに自らを押し当てた。
切っ先を首へ重ねたまま、王は問う。
「お前にとって生きる事は、そんなにも辛いのか?」
「我が王よ。生きる事が辛いのではありません。緩やかに、今も死に続けている事が恐ろしいのです」
私はただの記憶の亡霊。つまりは、死とはこの記憶が消え去る事そのものなのだろう。
「力を使うほどに、細い細い記憶の糸はもつれ、掠れていきます。やがて糸は密やかに途切れ、全てが黒い沈黙に飲み込まれるのでしょう。そう、この死の先には何もない、その事に気がついてしまいました。天国も地獄もなく、無は恐怖でしかない。惨めに足掻きたくなるほどに、今、消えつつある事が恐ろしい。いっそすぐさま死んでしまいたいほどに」
王は剣をおろした。いつの間にか屍蟹は全て、刻まれている。静かに膝を折り跪こうとする王を、へクスティアは急いで止めた。
「ダメです! 私に無防備に近寄ってはいけない。魔力を食い尽くしてしまう」
髪の触手は意思とは関係なく、本能だけで動き、今も良質な魔力の塊を前に喜びうねっている。へクスティアは髪束を手に巻きつけるようにして触手を制した。
「……魔物よ。しかしお前はずっと、泣き続けているではないか。何故、泣いている。消える恐怖への涙か? それとも……足掻き人を喰らう身体が、悲しいのか?」
へクスティアは目元に指を押し当てた。確かに、涙がとめどなく頬を濡らし続けている。
何故、涙が止まらないのだろう。
戸惑い周囲を見渡せば、兎に変わった姉サラサを、かつての恋人シャオが捕らえようとしているのが目に入った。
胸が押し潰されるように痛み、涙の滴は洪水のようにぼろぼろと溢れる。
苦しい。
へクスティアはぎゅっと身体を丸め、胸を抑えた。
「成る程。お前は恐ろしい魔物ではなく、ただの娘なのだな。……ならば」
王は立ち上がり、楼に立つマイヤスを睨んだ。