演劇
ぽたり。
額へ水滴が落ち、アネットは視線を上げた。マストの間へ張り巡らされた索具から、雨粒が落ちたようだ。
だが夜空は煌々と明るく、雨雲の気配すらない。
……船ごと満月に捕まっちゃったみたいな光景ね。アネットは呟いた。
帆を畳んだマストは巨大な十字杭のようにも見える。空想の中、月は杭で船を串刺すと、索具で縛りあげた。哀れ船は必死でもがく。そうして海水が飛び散り、額にかかったのかも知れない。
と、背後で扉が閉められ、アネットは意識を揺り戻し足を踏み出した。
先頭は魔法の大盾を持つ若い緑の騎士と、ヤマネコのブルーノ。続いて剣を携えた赤の騎士が二人。その後ろにミューラーとアネット、最後尾を守るのは壮年の緑の騎士。
床から突き出た煙突、束ねられた太いロープ。それらを避け、息を殺し進む。甲板は聞いていた以上に水浸しで、靴の中がぐちゅぐちゅと鳴った。
人魚とヘクターが戦っている。
大広間でそれを聞いたミューラーは、声をひそめた。
「魔物はただの一匹か。ならば客には伝えず我々で片付けてしまおうではないか。周知すればパニックを避けられまい」
今日は偶然、魔導師や騎士の多くが国境へ派遣されており、この船内で戦える者は王子直属の騎士とヘクター、それからミューラー自身ぐらいだ。
でもフツー、王子は待機でしょ。
アネットはそう思ったが、口に出さなかった。この場にはアネット以外諌める者がいない。ここはあえてスルーし、人魚退治へ便乗しよう。
王子と少女とヤマネコ、それから四人の騎士。バランスの悪い精鋭部隊は、気配を伺いながら船首へと進む。
やがて前甲板が視界に入り、ブルーノがワイヤーの影へしゃがんだ。ヤマネコの三角耳は緊張し、一音も漏らすまいと前を向いている。
続く全員が団子状に隠れた直後、空が翳った。
左右から迫る海鳴りの怒号。断崖と見まごう大波が立ち上がり、ザバンと船首へ降り注ぐ。床板がしなり太鼓の膜のように震える。
大柄な騎士の息を飲む音に、団子の真ん中へ押し込まれていたアネットは踵を上げ、僅かな隙間から様子を伺った。
浅いプールのようになった甲板を蠢く、おびただしい数の灰緑……あれは蟹の魔物、屍蟹の群れ。
蟹たちが跳ね飛び、一点へ集まるたびに、刃が煌めき緑の体液が散った。中心に狼がいるのだろう。アネットは目を凝らした。
甲板に人影がもう一つ。おそらくは、人魚。
人魚が滑り出る。狼は後退る。
一定の距離を保ちフロアを回り続ける二人は、踊っているようにも見えた。
アネットの心臓はさらに鼓動を速める。汗ばんだ手の中の硬い塊は、脈動に震え熱を持った。
「こんなにも、魔物が……」
誰かが呟きを漏らした途端、聞こえる筈も無い距離の人魚と目があった。アネットを真っ直ぐに捕らえる、狂った青い瞳。
「ああ、アネットさん! あの子の新しい身体!!」
「っ!? アネット逃げろ!」
狼の叫びと、どちらが速かっただろう。
人魚が手を掲げた瞬間、頭上に堕ちた黒影。顔を上げれば視界いっぱいの、巨大な節足。
アネットは咄嗟に手を突き出した。
直後、強烈な閃光が降り注いだ。船体がぐらりと傾き、音が消え失せる。
落雷が直撃したかのような痛みに呼吸が一瞬、詰まった。反動で吹き飛ばされ背中を強打したようだ。
無意識に固く閉じていた目をそろそろと開ける。
木端微塵の大屍蟹が緑色の体液をまき散らし、アネットの周りに降り注いでいた。
「……このドレス、もうダメね。せっかくブルーノが褒めてくれたのに」
助かった。アネットは脱力し、柱にもたれたまま強がった。
手の中には護身用の魔導具、『雷砲』。人魚へ放つつもりだったのだが、雑魚相手に使ってしまった。空っぽになった『雷砲』を投げ捨て、緑に染まったドレスの裾を裂いて結ぶ。
「アネット! お前……」
ミューラーが走り寄り、アネットの肩を支え立たせた。
「私、戦うの初めてじゃないのよ。……あの時に比べれば見た目が蟹な分、全然平気」
そうだ。初めて殺した魔物は子供の頭部を持つ魔獣、小鳥人だった。蟹の屍鬼を葬り直すくらい、どうということは無い、筈、だ。
「震えてるぞ」
「……だから平気だってば。私はロージーのかわりに人魚をぶん殴らなくちゃいけないの。だけど……」
唯一の武器、『雷砲』はもう無い。
魔法が使えればいいのだが、発動には『陣』『印』『詠唱』を必要とする。アネットの体にはまだ陣の刺青が無く、紙や壁に陣を描いていたら間に合わない。
俯くアネットをミューラーが覗き込んだ。憂慮に揺れる、深緑の瞳。
「……魔法陣、あるじゃないっ!」
アネットはミューラーの腕を掴み、袖をまくり上げた。右腕に刺された『氷砕』の陣。
「ミューにい、こっちの陣を私に貸して!」
「なら、私から決して離れるな。……おい、シャオ! 蟹はこちらが引き受けた!」
緑の騎士が隊を組換え大盾を光らせた。赤の騎士たちはその前に立ち、魔法の詠唱を待ちながら飛び掛かってくる蟹たちを刻む。
声が、震える。アネットはミューラーにしがみついたまま印を結い、詠唱を続ける。ミューラーの全身が二人分の魔力を受け熱く輝いた。
『霧氷』
ミューラーは左腕の陣、『霧氷』を発動させる。氷の息を吹きかけたように甲板が白く凍り付いた。小さな蟹は氷に閉じ込められ、大きな蟹は足を取られもがく。
『氷砕』
アネットの『氷砕』は動けない蟹たちを氷像に変え、次々と割り砕く。
その時、空が七色に輝いた。
胃の腑に響く、低い炸裂音。息を飲むほどに煌めく大輪の花が、夜空に火の粉を撒き散らす。
『雷砲』の光を合図と間違え、小島から花火が打ち上げられたのだろう。
アネットもミューラーも、人魚すらも呆然と空を見詰めた。
「やあやあ、これは素晴らしい月夜ですね。こんばんは」
反対側からの芝居がかったセリフ。振り返れば、メイン帆の見張り台に船長帽の男が立っている。
「マイヤス、降りて来い! ダリアを……返して貰おうか!」
狼が飛びかからんばかりの怒声をあげたが、マイヤスは一瞥もせず人魚へ話しかけた。
「良かった、ヘクター。私の、悪い魔女。来てくれなかったらどうしようかと思っていましたよ。お楽しみのところ申し訳ありませんが、兎さんも狼さんと踊りたいそうですよ。交代して貰えませんか? ……ほら、あっちに」
マイヤスが船首を指し示す。
ふわり。白いワンピースを着た兎耳の少女が、船首楼へ降り立った。
少女の背後では、花火が間断なく打ち上げられている。その度、真っ白な輪郭が幻想的に色を変えた。
「ダリアちゃん……」
アネットが呟くとダリアは耳を揺らし、赤く虚ろな瞳のまま首を傾げてみせた。
※※※
「サラサねえさま……」
壊れかけた人魚は姉の名を呼び、凍り付いた床をゆらゆら滑る。ヘクターが思わず人魚の肩を掴むと、触手に変わった金の髪が腕へ巻きついてきた。
ひたり、ヒルが吸い付くような感触に、慌てて腕を引き触手を刈る。その隙に人魚は宙を跳ね、ダリアの元へ上がった。
兎と人魚、二匹の魔獣のシルエットが船首楼に並ぶ。
甲板から見上げる楼は、さながら劇場の舞台のようだ。ならば花火に仰々しく照らされているダリアとへクスティアは、仮装の俳優と言えようか。
「……なっ! 魔女が……黒の魔女様が二人とも、獣に!?」
壮年の緑騎士が大声をあげ、それこそ幽霊でも見たかのように顔を青ざめさせると膝をついた。
マイヤスが見降ろし、応える。
「人魚に言わせれば『案外よくあること』なのだそうですよ。……私からしたらたまったもんじゃないんですけど……」
拡声装置を使っているのだろうか、付け加えた呟きまでもが甲板の隅々にまで響いた。マイヤスは顔を顰め、咳払いをする。
「コホン……ええと、魔物は人と違い、自ら魔力を作ることができません。そのため人を食べ、魔力と同時にその記憶と姿を身体に移します。……記憶が途切れずに積み重なっているのだから、ヘクターは生きていた、とも言えるかもしれませんね、狼さん。……もっとも今はちょっと、ギリギリみたいですけど」
舞台の上、髪を振り乱しダリアに抱きつく人魚……黒の魔女へクスティア。それを気にもとめず、ボンヤリ耳を揺らすダリア。愛するものたちの変わり果てた姿に、杭を捻じ込まれたかのように胸が痛んだ。ヘクターは二人から目を背けマイヤスを睨み、レイピアを高く掲げ切っ先を向けた。
「だからさっさと降りて来いよ、マイヤス! その口を串刺して黙らせてやる」
「おや、それはどうも。狼さんは血の気が多くて話が早い。大変助かりますが、もう少し待ってくださいね。まだ、客の入りが悪いので」
「……客?」
訝しみ周囲を見渡すとへクスティアと目が合った。へクスティアは楼を飛び降り、ヘクターへ駆け寄る。
「何が、どうなっているの? ねえさまが動かないのよ! ああ、魔力が足りないのかもしれないわね。……私の魔力をねえさまに渡せば、目を覚ましてくれるかしら」
ヘクターは狂った瞳で訴える人魚を、へクスティアと認識してしまっている事に気がついた。
解っている。コレはへクスティアと呼ばなくていい生き物、あの赤い瞳の人魚の、擬態。
壊れたへクスティアでは、ない。
「……でも魔力が足りないの。シャオ、ねえ、シャオ。ねえさまに魔力をあげたいのよ、手伝って……分けて、くれない? シャオ」
懐かしく甘い声。何度も名前を呼ばれ、嫌な立ちくらみがした。縋る手を取れば、触手で捕らわれ喰われる事など明白だ。
だが、一度鈍った刃を再び向ける事は難しい。ヘクターは切っ先を下げ、手を払い除けた。へクスティアの目が驚きに見開かれ、そして自虐的に曇る。それだけで、急所を抉られたかのように心臓が軋んだ。
「シャオ、避けろ!」
ミューラーの声に反射的に身を捻る。脇腹を掠め、へクスティアへ迫る冷気の塊。瞬間、金属を削るような高音とともに蒼い閃光が炸裂した。
船が震える。
軌道を反らされたミューラーの『霧氷』は三角帆を飲み込んだ。帆は舳先ごとアネットの『氷砕』に砕かれ、細氷へと変わりごっそり欠ける。
ごと。硬質な音を立て、へクスティアの前に拳ほどの氷塊が堕ちた。
なんだ? ヘクターは目を細める。へクスティアは蒼白になり急いでそれを拾い上げ、ひしと抱きしめた。
ヘクターは知る術もないが、これは幼い少年、モーリスの魂。へクスティアの盾となり魔法を弾き、凍りついた。
へクスティアは魂を腕に抱いたままミューラーを蔑むように睨み、叫んだ。
「王よ、何と酷い仕打ちを! 私は王のために戦い、全てを捧げたというのに!」
人魚に王と呼ばれ非難され、王子ミューラーは腑に落ちないとばかりに眉根を寄せた。
そしてヘクターも苦しげに顔を歪めた。狂気のへクスティアは、ミューラーを王と間違えている。
魔女へクスティアにとっての王とは、命を懸けて仕えるべき相手であり、姉の恋人であり、そして息子の父親でもあった。
「やはり……ねえさまでなくては、だめだというのですか? 国を守りきれず魔物に成り果てた私は、棄てられて当然の存在なのですか……? ああ、そうだ。あの時シャオも、私ではなくねえさまを選んだ……思い出したわ。海に沈むねえさまを、シャオは抱き上げた」
そう呟くと月を仰ぎ、獣じみた笑い声をあげた。人魚の呼び声に応じ、船の横腹を屍蟹の群れが再び這い上がる。
「次々と蟹を呼ばれては切りが無い。シャオがやらないのならば私が!」
「……やめてよ王子様、僕が行く。女の人があんなにも泣いているんだよ」
剣を構え前に出たミューラーを制し、ブルーノが歩み寄る。
「人魚さん泣かないで。僕なら助けてあげられる」
へクスティアは泣いていた。
狂笑はいつの間にか啜り泣きに変わり、両の瞳は氾濫した小川のように、ボロボロと涙を零していた。
ブルーノはへクスティアの前に跪き手を伸ばす。触手の前髪へ差し入れ、静かに掻き上げると、溢れる熱い涙が甲板に落ち、ゆっくりと氷を溶かした。
「真っ直ぐに僕の目を見て。そうすれば意識を失う事ができる。これはきっと、悪い夢だ。心が落ち着くまでそう思っていればいい」
「夢……?」
「そう。疲れた時は逃げることも必要なんだ。寝て、休まなくちゃ。おいで、人魚さんを眠らせてあげる」
優しい誘惑に、へクスティアは瞳を覗き込む。ブルーノの金目が鮮やかに輝いた。
『惑乱』
ぐらり、人魚の上肢が大きく揺れる。
「相変わらず、厄介なネコですね! 役者以外の参加はご遠慮いただきたい!」
マイヤスが怒鳴り、見張り台の上からガラス瓶を投げつけた。ブルーノは慌てて避ける。瓶はけたたましい音をたてて割れ、灰色に光るどろどろした液体が流れ出た。
「うっひゃあ! ナニコレ、気持ち悪っ!?」
液体は質量を増やしながら薄く伸び上がり形を変えていく。
マイヤスのペット、金属スライム。
「お客様はお静かに、ですよ」
意思があるのだろうか。スライムはあっという間に甲板を横断し、半透明の壁となってそびえ立った。アネットとブルーノ、騎士たちは後方に、しかしミューラーはヘクターやマイヤスたちのいる前甲板に取り残されている。
「王子! くそっ、何だこの壁は!?」
騎士たちは壁を破ろうと叩き、脇を抜けようと動いた、が、その度にスライムは柔らかく形を変化させ、行く手を阻む。
階段の方から悲鳴が聞こえる。
ヘクターは舌打ちした。
開幕の花火に誘われ、招待客が何人かが甲板に上ってようだ。屍蟹に襲われているのだろう。騎士のうち二人が階段へ向かう。
『惑乱』は解けてしまった。へクスティアが立ち上がると、マイヤスは満足げに笑う。
「さて、狼さん。私は今日あなたと話し合いに来たんです」
そう言ってダリアへ手を振った。ダリアは頷き、手で宙を扇ぐ。マイヤスの身体が浮かび上がり、空を飛んだ。
マイヤスは船首楼の上へ降り立つとダリアの肩へ手を置き、下手な語り部のようにワザとらしく話し始めた。