表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
兎は月を墜とす  作者: hal
秋の月と夜の海
91/99

甲板の魔物

 兎人の、王。


 人魚の魔女は薄らと目を開け、海面を見上げた。赤の兎が遥か海の上から繰り返し魔女を呼んでいるようだ。

 ボンヤリした寝起きの脳に、真っ白な大兎がほくそ笑む像が結ばれる。あんなやつに呼ばれ、ノコノコ会いに行ったとしてもろくなコトはないだろう。

 行かないわよ、私は。寝言のように呟き、再び瞼を閉じた。


 しかし、いまだ兎は呼んでいる。


 珊瑚のベッドの上、魔女は苛々と寝返りを打った。

 今夜は満月なのだろうか。兎人の王は月の魔力を存分に使い、無視し難いほどの大声で呼び続けている。あまりの煩わしさに思わず耳を塞いだ。


「もー、眠れないじゃない!」


 ぽこり。悲鳴が大きな泡へ変わりユラユラと昇ったが、ただそれだけ。海の底でいくら不満を訴えても兎人まで届かず、それどころか待ちくたびれたと言いたげに、気配は強さを増していく。

 魔女は金糸の髪を振り乱し、唸った。


 と、海中を漂う小さな光の塊……少年、モーリスの魂が顔の前に現れ、揺れた。心配をしてくれているのだろうか。魔女の頬に擦り寄り、何か言いたげに輝きを強弱させている。

 魔女は魂へ微笑みかけ、身体を起こし伸びをしてみせた。喜んでいるのだろう、魂は小刻みに震え、魔女の周りを回った。


「おはよ。兎に起こされちゃったのよ。にしても身体が無いと会話が出来なくて不便過ぎ。早く用意しなくちゃね。……確かそろそろ月見の船が来るハズなのよ。そこでアネットさんから貰うつもりなんだけど……っ!」


 そこまで話して気付き、寝ぼけていた脳が急速に覚醒する。


「て、もしかしたら月見船、今日? ああ、だから兎がこんなに……それにそういえばこの前……」


 海に落ちた兎人の王は姉、サラサの形をしていた。兎が姉に化けたのかもしれないが、優秀な魔女である姉が兎を倒し力を得た可能性もある。

 兎に呼ばれているのなら、会って確かめなくては。


 急いで立ち上がり、海流に号令を下した。兎人の呼ぶ海面まで一直線に繋がる、細長い漏斗渦が現れる。モーリスの魂とともに渦へ飛び込むと、ほんの一瞬で月見船の浮かぶ海面まで引っ張り上げられた。勢い余って夜空へ吐き出され、魔女は笑いながら船首楼へ降り立つ。


 途端、兎の気配が途切れた。


 兎が消えた?

 魔女は首を傾げ、きょろきょろと周囲を見渡した。大規模なパーティーのために造られた、だだっ広い甲板。穏やかな波音の狭間、船内のワルツがうっすらと響き、カンテラ灯りの揺れに合わせ帆柱やロープの影が踊っている。

 姉さま、何処にいるの。魔女は目を閉じ感覚を尖らせた。


「……見つけた」


 マストを昇る網付きワイヤーの影。隠れた獣の気配を察知し、呟いて指差す。


 息を飲む音がする。

 どこか懐かしい、低い心音が聴こえる。


 美味しそうな、匂いがする。


 違う、これは姉さまではない。

 魔女は微笑み、静かに目を開けた。


「……ねえ、シャオ。そんなところにいないで、こっちに来たらどうかしら」


※※※


 どういう事だ、これは。船首楼に佇む魔物の姿に、ヘクターの目は釘付けられた。


 海から上がったばかりなのだろう。しっとりと濡れた金の髪が潮風になびき、水滴がキラキラと振り落ちる。上肢はほぼニンゲンの女のようだが、下肢は一つに纏められ、イルカと似た尾ビレが付いていた。

 ハーリアの海を支配する魔物、人魚。しかしその顔はかつての恋人、へクスティアと同じ。


「シャオ、そこにいるんでしょ」


 懐かしい声が耳朶へ残り、ヘクターは沸き上がる感傷を殺そうと甘く痛む胸を抑えた。

 人魚は尾をくねらせ、滑るようにこちらへ向かって歩む。白絹の肌が揺れるたび月灯りが裸の輪郭をなぞり上げ、胸や腹の繊細な凹凸を露わになった。 狭まる距離。ヘクターはレイピアを握り直し、傍のブルーノを小突いた。


「戻れ。甲板に魔物がいるから来るなとミューに伝えろ。俺が始末するまで誰も上がらせんじゃねーぞ」


 頷いたブルーノが後ずさると、人魚の視線が追う。

 ぞわ。

 魔力の動きを察し、ヘクターはブルーノを押し飛ばした。レイピアに切り裂かれた金糸がぱらぱらと舞い散り、空気に溶ける。人魚は髪を触手に変え自在に操れるらしい。

 扉の閉まる音が聴こえる。ブルーノは無事、下へ向かったようだ。

 ヘクターは物陰から身を出し、レイピアを構え直した。魔物を船内に入れるわけにはいかない。


「ああ、やっぱりシャオだわ。獣かと思ったんだけど、きっと気のせいね。久振り。とても、会いたかった」


 芸術家の刻んだ石彫のように整った、どこか哀しげなヘクスティアの顔で人魚が微笑む。一体どういう仕組みで化けているのだろう。ヘクターは油断なく目を眇めた。


「どうしたの、そんなに睨んで。もしかして私がわからない? そうよね、こんな姿だもの。……でもあなたもいつの間にか、随分おじさんになっちゃってるけど」

「魔物め。船に何の用だ。すぐ立ち去れ!」

「だから私、へクスティアよ。シャオ、本当に忘れちゃったの?」


 眉根を寄せた切なげな顔の生々しさに、ヘクターは唾を飲んだ。

 忘れる事などできるか。十数年前、水中で魔法を放ち沈んでいった最後の笑顔。ヘクターを助け、へクスティアは死んだ。喉を潰し、声を絞り出す。


「あいつは、死んだ」

「そうかもね。私はとっくに死んでるって聞いたわ。今の私は記憶の残りカスだなんて言われたの。でも今でも私は私。信じてくれないかしら」


 ヘクスティアにそっくりな人魚。青い瞳を哀しげに揺らして微笑まれると、どうにも切っ先が向け難い。とにかく船から去ってもらおう。ヘクターは指先で印を結び『捕縛の歌』を口ずさんだ。人魚は歌を聴きつけ、嬉しそうに声を弾ませる。


「ねえ、いつの間にその歌を覚えたの? その歌、歌うなら踊らなくちゃなのよ。手を出して。一緒に踊りましょう」


 眼前に人魚の顔。一息に距離を詰められ、慌てて飛び退った。いつの間にか甲板が濡れ、滑り進む人魚が想定以上に速い。ヘクターは陣を描いた板を使い『疾風』を纏った。

 魔力に反応し右足から駆上がる熱。高揚感。なんだ、これは。確認する間も無く人魚の腕が伸び、ヘクターは跳ね避ける。


「私と踊るのそんなに嫌? ……やっぱりこんな姿じゃ、どう見ても怪物だものね」


 人魚は尾を見詰め、溜息を吐いた。


「じゃあ少しの間、昔話でもしましょう。……シャオ、ちゃんと覚えてくれてるかしら。あの頃は毎日が楽しかったのよ。今でもシャオが告白して来た日の事とか、夢で思い出すくらい。あんなに投げやりで棒読みで適当な告白されたの、初めてだったし」


 思わず噴いちゃったんだから。そう言ってコロコロと笑う。ヘクターは距離を保ち、気づかれないよう『捕縛』を練り直した。


「でもね。その記憶も私自身も、今、少しづつ崩れているの。力を使うたびにぼろぼろと継ぎ接ぎになって、穴だらけに、壊れ、て。それに、時々。ね。ああ、さっきも力を使ったから。……こんな、ふうに」


 人魚が黙り俯く。殺気に皮膚が粟立った。


「……憎らしいオオカミめ、殺してやる」


 へクスティアの顔がぶれる。怒りを露わにしたハーリア前侯爵の顔面が、騙し絵のように重なった。人魚が腕を振り上げると、大波が持ちあがり豪雨となって降り注いだ。『捕縛』は霧散し甲板はくるぶし辺りまで海水に浸る。


「思い出し、た。腹が、減って。魔力が、足りないの。お願い。オオカミ。喰われて、私の、魔力に」


 へクスティアと前侯爵の声が被り聞こえた。

 肉薄する人魚を避け、絡み取ろうと縋る触手を払い裂く。甲板の水は轟々と渦を巻き、足取りを鈍くした。マストへ逃れようにもひっきりなしに降り注ぐ大粒の海水に遮られ、飛び上がれない。


「シャオ。一つに、なりましょう。食べてあげる。から。今すぐに」


 双顔の人魚がへクスティアの声で歌い始めた。



 叢雲は水を含んで重く

 風神をいざなひ降ろす


 わき立つ海ばらに

 あらしの風は立ちあひ戦う



 これは『風鎌(ふうれん)の歌』。

 背筋を冷たい汗が伝う。風の鎌で首を確実に切り落とす攻撃魔法。歌を止めなくては。強く水面を蹴り踏み込んだ。しかし突然、光の塊が割り込んで瞬く。眩む視界の外から腕を絡み取る触手。



 蒼白の死は疾風に乗り

 貧者の小屋も、王侯の城池をも訪れる


 風の神よまづ、彼をいたはりたまへ

 冥府の淵へと、送りとどけたまへ



『風鎌』


 人魚が歌を終えると風が鋭い刃物に変わる。ヘクターは力任せに触手を千切り、背後へ避けた。が、刃は軌道を歪め首へ迫る。


 死、ぬ。


 喉元に切迫する風圧。ひやりと血が滲み死を覚悟した瞬間、足を昇っていた熱が体内で爆発する。


 『祝福』


 ザルバの仕込んだ『祝福』が発動した。狂った風鎌が勢いを緩めず術者へ帰る。


 あっさりと、人魚の首が堕ちた。


 二重の顔を乗せた首は水面で跳ね、輝きを放ち霧散する。

 首を失った胴体が奇声をあげた。骨肉の見える切り口へ光が集まり、再び頭部が形成される。

 新たに生えたのは、朱に塗りつぶされた目を持つ凄然と美しい女の顔。


 人魚が獣じみた声でけたたましく笑った。

 船を呑み込むほどの大津波。大量の海水と屍蟹(しっかい)の群れとが降り注ぎ、女の顔面は再びへクスティアの形へ戻った。


※※※


「……っかしヘクターさん無茶言うよね。僕みたいな庶民がさあ、王子様に話しかけられるわけないじゃん」


 ブルーノはもうだいぶ前に大広間へ着いてはいたが、王子に言伝どころかいまだ近寄る事すら出来ず、柱の影で様子を伺い不平を呟いている。


 貴族は、苦手だ。

 躾のトラウマだろうか、貴族を前にすると極度に緊張し余計な事まで口走ってしまう。

 しかも今回は王族。顔見知りとはいえ、先ほど騒ぎを起こしたばかり。


「さっきまでミューさんと話すなって怒ってたクセに。……そりゃ今、状況が状況だってのは解っているけど」


 王侯貴族とヤマネコを乗せた船が魔物に襲撃されようとしている。成る程コレは由々しき緊急事態、絶体絶命亡国のフチの大ピンチ。

 だが近頃のヘクターはニンゲンである事をちょくちょく棄てつつあり、人魚の一匹や二匹あっという間、鼻歌交じりに片付けてしまいそうだ。


 ……うん。階段に通行止めの札を立てれば良いんじゃないかな。

 そう決めつけ、筆記用具を借りに行こうと回れ右をした直後。


「見つけた、ブルーノ!」

「ぅぐぶえっ!」


 アネットの声だ。

 背後から飛び付かれブルーノは海老反った。アネットの腕がブルーノの喉元をガッチリと押さえ、首からぶら下がっている。アネットは何故、膝を曲げ足先を浮かせ全体重を掛けてくるのだろう。


 首が、折れ……るっ!

 ブルーノは重力に逆らわず、ほぼ直角になるまで背を反らせた。アネットの足が床へ届き、ブルーノはスルリ、ホールドから抜け出る。

 喉元を押さえ咳き込みつつ振り返ると、アネットは心配そうに眉根を寄せた。


「ねえ大丈夫? さっきまであの変態に虐められてたんでしょ。怪我してない?」

「……怪我はないけど、今僕は死にかけたよ」


 あと少しで走馬灯を見るところだった。


「やっぱりあの変態、ブルーノにまた意地悪したのね。ねえ、変態は何処? 文句言ってくる」

「……アネットちゃんのその前向きさ、素敵だよね。ヘクターさんはお仕事で忙しいみたいだよ。ね、ところで紙とペン持ってない?」

「紙とペン? ちょっと待ってね、確かここに……はい、どれがいいかな?」


 アネットはフリルがあしらわれたパーティバックを開け、細長いポーチから色とりどりのペンを取り出すと、ブルーノの鼻先へ扇型に広げた。


「コッチのはラメ入ってて凄く可愛いわよ。……フツーのでいいの? じゃあ紙は……これでいい?」


 受け取ったメモ帳は手のひらに収まるほどで、階段に貼るには小さ過ぎる。

 一枚に一文字づつ書いて繋げればイケる、かな? 呟き首を傾げるブルーノへ、アネットは言った。


「コレじゃ小さいのね。大きなのを貰いに行きましょう。あそこにミューにいがいるから、言えば大抵のモノはどうにかなるわよ」

「ええっ!? そりゃどうにかなるだろうけど、王子様に紙ちょーだいって言うの? こちら王家から賜った『紙』でゴザイマスって、家宝にしなくちゃいけなくなるじゃないかっ! そうだ、それにヘクターさんから王子と喋るなってキツーーく言われてるし、僕、話せないから無理無理!」

「なら筆談したらいいんじゃない? 紙を貰うだけなのに、ブルーノ大袈裟よ」

「筆談って……」


 アネットに背を押され、ブルーノは煌びやかな一団の中心へ転げ込む。

 暗い緑色の軍服を着込んだ水牛のような騎士が二人、警戒心を剥き出し前へ出た。南国の鳥のように艶やかな姫君たちは、扇で好奇心を隠し半歩下がった。

 貴族たちから一斉に匂い立ち混じり合う、強烈な香水の香り。むせかえる程の白粉。鼻が狂い、吐き気がする。

 目の前にはミューラー王子が佇んでいる。冷ややかな程に整い過ぎた顔の、威圧感がある王譲りの瞳がブルーノへ向けられていた。


 頭が、真っ白だ。


 目眩を起こしながらも、ブルーノはメモ帳に震えるペンで字を書いた。


『オオキナ カミ クダサイ』


「……紙、か? 誰かこのネコに紙を」


 手触りの良い紙束を受け取ったブルーノはそれに字を書きかけ、手を止めた。


 えっと、『リ』ってどう書くんだっけ。

 ブルーノは学校に通った事が無く、文字を書くのは苦手だ。呟きが聞こえたのだろう、横からアネットが紙とペンを剥ぎ取った。


「ブルーノ、私が書くわ」

「あ、ならええと、『ありがとうございました』って書いてくれる?」


 アネットが書いたそれを、ブルーノはミューラーに掲げ見せた。


「……あ、ああ……聞こえているのだが、まあ、いい。……ところで紙を何に使うつもりなのだ?」

「アネットちゃん、『階段に使用禁止の札を貼ります』って紙に書いて?」

「はーい」


『階段に使用禁止の札を貼ります』


 ブルーノは再び掲げる。


「穏やかではないな。何があった?」

「アネットちゃん、ええっと『ヘクターさんが魔物を倒すまで、甲板に上がっちゃダメって言われました』って書いて」

「なっ!? 魔物が!? どういうことだ、状況を詳しく話せ!」


 取り囲む輪に嵐のような動揺が走った。貴族たちに詰め寄られ、ブルーノの尻尾は三倍に膨らむ。


「アネットちゃんっ!」

「いいから直接話せ!」


 王子に頭を掴まれた。深緑の瞳に正面から捕らえられ、脳がグラグラと揺れる。下手に目を合わせたら獣の魔力を使ってしまいそうだ。

 こんな場所で王子様相手に『惑乱』を使ったら、首を斬られてしまうに違いない。

 ブルーノは必死で視線をそらし、上滑りする声で言った。


「あ、あ……あのですね! 兎かと思ったら人魚の、あの、ヘクターでした。けどでも、ヘクターさんが倒すからって、ニンゲンやめてるし鼻歌混じりで大丈夫! 髪の毛伸びて甲板は水浸しだから、誰も上がって来るなって、言ってました!」

「……あいつが魔物と戦っているのか?」

「人魚の、ヘクター!?」


 アネットが悲鳴に近い声で叫んだ。


「私、ロージーをあんな目に合わせた犯人を、一発ブン殴ってやらなきゃ気が済まないわ!」

「魔物、か。……ならばまたシャオを助けてやらねばな」


 アネットは人魚への怒りに息を荒くし、ミューラーは何処か得意げに鼻頭を膨らませている。

 ああ。僕は何か大きな失敗を犯したみたいだ。

 ブルーノはヘクターに蹴飛ばされる未来を覚悟し、肩を落とした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ