誓いと呪い
狼は月に飛びかかりました。
冷たい鎖がジャラジャラと、警鐘を重たげに鳴らして引き戻します。首輪が喉にめり込み、息が止まりそうになりました。
鎖がどうにも短すぎるのです。これでは月に噛みつくことなどできません。
青白い月へ兎の影が浮かんでいます。狼はひたすらに、兎を返せと吼えました。
※※※
「おい、今から足を診る。ソファーへ座れ」
ザルバに呼び止められ、ヘクターは振り返った。知らされてはいなかったが、診察をする予定になっていたのだろう。言われてみれば、執務室の隅に桶を持った侍従が控えている。
……めんどくさい。ヘクターは右足をぶらぶらと揺らした。
「これ、まだ診る必要あんの? もう全くなんっともないからとっくに治ってんじゃねえかな。それに俺、新しい依頼もあるから……」
「完治を判断するのは俺だ。それに最近、お前は無駄に駆けまわり過ぎている。だから診るのだぞ、駄狗」
「駄っ……なあミュー、無駄ってことはないよなあ? 依頼数こなしてさっさと結果出した方がいーんだろ」
ヘクターは執務机のミューラーへ同意を求めたが、今回はザルバの味方のようだ。ソファーへ行けと目で促している。ヘクターは仕方なしに座り、桶を受け取って足を洗った。
ザルバの言ったとおり、この半月の間ヘクターは仕事を根こそぎ引き受け、毎晩のように消化している。しかしそれは結果を残し騎士に戻るためではない。眠るためだ。
ダリアを奪われてからというもの、血への興奮で心と体を疲れさせなくては、苛立ちと焦りに翻弄され眠ることが出来なくなっていた。先ほども体調を案じ渋るミューラーから、薬を求める中毒患者のように依頼を捥ぎ取ったばかりだ。
足を拭い終えると、ザルバが傍に跪いた。ヘクターの足をオットマンに乗せ、手術痕を診つつ印を結ぶ。指先で描かれた印跡はしなやかに輝き、蜘蛛の巣を被せるようにふわりと足へ纏わりついた。ヘクターは意識を集中し術式を読もうとしたが、編まれた紋様が独特すぎる。諦め、読むことを放棄すると、ザルバが小さく鼻を鳴らした。
「……また馬鹿にしてんだろ。読めないのはザルバの術式が変だからだ」
「気にするな、わざとだ。……ところで明日は月見船だろう? 実は俺も参加する」
「げっ、まじか!? 最悪にめんどくせーーーっ! ミューとブルーノだけでもアレなのに、ザルバまで来たらトラブル間違いねーじゃねえか!」
ヘクターが唸り、頭を抱えるのをじっくり堪能してから、ザルバは後を続けた。
「……つもりだったのだがな。とてもとても残念なことに、行けなくなってしまった。……蜥蜴の件があるからな」
『蜥蜴』。その一言でヘクターの心臓は大きく脈打ち、肋骨が軋む。
明日は仲秋の満月、一年でもっとも月の魔力、兎の力が高まる夜。そのためザルバは警備を強めるよう指示を出したそうだ。すでに国境結界の要所には魔導師たちが派遣されており、明日の夜は直接、結界を護らせるのだと言う。
「……だからヨルドモの護り手が減る。俺はここに残り王と城を護らなくてはならない。いつ何が起きるかわからないからな。……お前はパーティでミューの警護を……」
「ああ、そうか」
ヘクターが頷く前にミューラーが口を挟んだ。執務机から身を乗り出し、ザルバへ生温い微笑みを送っている。
「今、マイヤスはハーリアに潜んでいるんだろう? 月見船はハーリア港から出港する。マイヤスが空を逃げるのなら、月見船のあたりを通る可能性があるな。それで船にシャオを乗せたがるんだろ。ザルバ、あいかわらずシャオに甘いなあ」
「……顔が不愉快だ、阿呆王子」
「おいミュー、んなわけがねえだろ? それに四年前から船には乗る予定だったし。なあ?」
「…………ああ。全ては、偶然。……いや、まて。だがしかし……これは本当に、偶然、なのか?」
ザルバは診察の手を止め、俯いた。
「……偶然……であるはずがない。……ならば」
しばらく考え込むと顔を上げ、今度は何かを振り捨てるように頭を思い切り左右に振る。無造作に伸ばされた黒髪がザンバラに乱れて分かれ、額までもが露わになった。
「ヘクター、魔女の『呪い』を早々に解かなければなるまいな」
「……のろ、い? ……って、え? ヘクターってお前……?」
不意に現れたザルバの双眸は強情そのもので、魔女、ヘクスティアと色こそ違えどよく似ている。射るような視線にヘクターは戸惑い言葉を失った。
ザルバは手術跡に重ねていた印跡を指先で掻き混ぜる。と、光の糸は神代の文字へ変わった。
『解呪』
「……お前でも読めるよう書き直してやった。さあ、ヘクター、『誓い』を破棄しろ。あんな意味の無い『誓い』は『呪い』と同じだ」
「ちょっと待て、何を言いたいのかさっぱりわからない。……『誓い』って、アレ、の事か? ザルバ、知ってたのか?」
「当然だ。だが俺はお前などよりずっと強く、圧倒的な魔法使いだ。今からお前が命をかけ護るべき『子供』は……俺ではない」
名を『ヘクター』に変える事で、自らにかけた『呪い』。その芯はもう十数年前の睦言。ヘクスティアの子供を守るという約束だ。
「『誓い』を破棄しろ。世界一の大魔法使い様が『呪い』を解いてやる」
へクスティアの子供、ザルバが足に額を預けた。口の中だけで編まれた小声の詠唱。ヘクターに聞き取れたのは最後の一文だけだった。
遥かなる海路 拓かれんことを
ぶわり。
脚から熱が入り込み、全身を駆け巡る。それは、きらきらしいまでの祝福。湧き上がる幸福感に声が裏返りそうになる。
「……な、んだ? これ……ぜんぜん『解呪』じゃねーだろっ。あいっかわらず読みにくい魔法のかけ方するよな」
「だろう、もちろんこれもわざとだがな。さあ『呪い』は完全に解けた。これからお前は本当に護るべきものを意地でも奪い返せ。俺みたいなニセモノの『息子』をではなく、な」
「本当に、護るべきもの……」
ダリア。そう呟くと、ザルバはちょっと違うと言って笑った。
「まあいい。ああそうだ、足はもう完治しているぞ。思う存分走れ。邪魔な鎖を引きちぎるほどにな」
※※※
「おお……こりゃ……」
見事な光景に船長は息を飲んだ。
夜空に広がる鮮やかな星群。月はその頂で、墜ちそうなほどの巨体を輝かせている。海は鏡面のように凪ぎ、反転した夜空を滲ませ空と一続きになっていた。
今宵は満月。
月見の船がハーリア港を出て一刻、大陸へ目を凝らせばいまだ灯台の炎がうっすら見える。
貴族たちが風雅を愉しむためだけの船だ。何も遥か沖まで出る必要などはなく、つい先ほど定められた近海へ護衛艦とともに錨を降ろしたばかりだ。帆を窄めた帆柱では国紋入りのランプが豊作の葡萄のように賑々しくぶら下がり、豪奢な甲板を照らしあげている。
四年前、月見船が大きく揺れ、船員や貴族たちが海へ投げ出されかけた。そのため今回は航海中、招待客が甲板へ上ることはできない。係留し、安全確認を終えたのち、宴の始まりを告げる花火が打ち上げられ甲板が解放される。
今夜は空に雲はなく、風も穏やかだ。
船長はすでに最終点検を済ませ、向かいの小島へ合図を送る為に、カンテラを手に船首楼へ立っていた。
「ん……ああ?」
違和感。
眉間に力を込め、白々しく沈黙する満月を睨む。他に気がついたモノはいないかと、ぐるりを見渡せば、勤勉な船乗りたちは何事もなかったかのように働いている。
「……気のせい……か? いや……」
呟いて首を横に振った。一瞬ではあったが、月光を裂く巨大な鳥影を見たのは確かだ。羽音をたてずに飛ぶのは猛禽類の特徴だが、フクロウやヨタカが海にいるハズもない。
汗がヒヤリと背筋をなぞり、悪寒に首を竦めた。最悪、鳥の魔獣の可能性もある。
とにかく騎士様を呼ばなくては。船長は合図を取りやめ、急いで踵を返す。
「……っ!?」
直後、船長は膝をついた。巨大な掌に押しつぶされたような、初めて体感する重圧。四つん這いになった肩へさらに圧がかかり、伏臥位を強いられる。為す術もない。頬を擦り頭を傾ければ、同じように床へ這いつくばる船員たちが見えた。
先ほどの魔物かもしれない。助けを呼ぼうと息を吸った途端、背中から肺をぎゅっと押され、スカスカな呻き声に変えられてしまった。
と、鼻先に二本の足が現れた。下っ端の船乗りがよく履く、簡素で平凡なサンダル。
誰だ。視線を上げようと力を込めたが、首はピクリとも動かない。
「こんばんは、船長さん。……今夜は随分と月が美しいですねえ。しかしこんな月見日和に大変申し上げ難いのですが……ちょっと、眠っていてください、ね」
船乗りらしからぬ丁寧な口調で男が言うと、船長の口元に布が当てられた。蒸せるほどに濃い甘い香り。意識が急速に薄れていく。
「ああそう、これ貸してくださいませんか。私、実は形から入るタイプなんです」
船長であることを示す半月型の二角帽が奪い取られたが、船長はとうに深い眠りへ落ちていた。
※※※
月見船は海底の柔らかな砂へ錨を降ろし波に揺られている。穏やかに上下する船首楼で、二角帽の男が海を見詰めていた。
宮廷付きの楽団の演奏だろう、弦楽器の音色が綿でくるんだようにかすかに聞こえてくる。
メヌエット、か。男はそっと笑った。彼女は踊りが大好きだった。舞踏曲に誘われ現れてくれたら助かるのだが。
だが海は沈黙を守り続け、やがて男は待つのを諦めた。
※※※
船内の大広間は飾り柱を境に、ダンスホールと晩餐会場とに分けられていた。船の中ではあるが内装は宮殿と遜色がなく、あまたの銀燭がゆらめき、大理石の床は鏡のように磨かれている。
ヘクターの希望通り『青兎亭』バースペースは中央壁際付近、全体を見渡せる位置に設置された。落ち着き次第カウンターをブルーノに任せ、仕事に入るつもりだったのだが、短い行列はなかなか途切れず場を離れられないでいる。
さきほどグダグダに酔った常連客のミズナが話しがあると飛び跳ねていたが、相手をする事ができなかった。諦めた彼女はブルーノと何やら短く会話し、今は夫のクインスとカウンター近くで飲んでいる。
忙しすぎだ。紅いカクテルに金箔を散らしつつ、ヘクターは短く舌を打った。
スッカリ忘れていたが、この国では獣人は珍しい。
三角耳を隠さないヤマネコのブルーノが酔っ払いの好奇心を煽るのも当然の事。『青兔亭』はさざなみのように注目を集めてしまい、ブルーノに話しかけようと居座ったり、店舗の住所を尋ねる招待客は数人どころではすまなかった。
普通のバーなら歓迎すべき事なのだろう。が、『青兔亭』は狗のカモフラージュ。客が押し寄せ繁盛しては本末転倒。
ヘクターはつい、隣に並ぶ気ままなヤマネコ、ブルーノを睨みつけた。と、ブルーノは何を思ったのかドヤ顔のウインクを返してくる。
殺したい。
鋭利な殺意がコルク抜きを逆手に持ち替えさせたその時、カウンター越しに声をかけられた。
「シャ……コホン。ああええとヘクター、ダリアさんは今、どちらに?」
大輪の花束を抱えた大柄な貴族、ゴンドリー辺境伯だ。天鵞絨のロングジャケットに身を包んでいたが、積み上げた岩のような筋肉は隠しきれていない。
立場のある彼が自ら並び、ヘクターに話しかけたことで、列は遠慮がちに霧散した。
助かるがめんどくさい。微妙な表情のヘクターをよそに、ゴンドリーはカウンターの内側を覗き込む。
「いらっしゃらない……もしや」
ファゴットをおもわせる緊張感のある低音で呟き、今度はブルーノを正面から凝視した。ヤマネコの縞尻尾が三倍ほどに膨らむ。沈黙の後、ゴンドリーは目を柔らかに細め、囁いた。
「……もしやあなた、ダリアさんですか?」
ワケが、わからない。
「ええっ、ぼ、僕が? なんでっ?」
「そいつはブルーノ、うちの従業員だ。ちっともダリアと似てねえだろうが。鍛えすぎて目ん玉筋肉になっちまったのか?」
押し付けられた花束に埋れ、ブルーノは目を白黒させている。ゴンドリーは闊達に笑った。
「ははは、まあ半分は冗談だ。が、ヘクター。ダリアさんはサラサ様の娘。ならば、太古の秘術などで姿を変えていても、おかしくはない」
「わざわざコレになってたら、さすがにおかしいだろっ!」
そんな秘術が使えたとしても、こんなにも目立つヤマネコに化ける必要はない。
「……ダリアはいねえ。お前がいるだけで暑苦しくて酒が痛むから、さっさと失せてくれ」
「そうか。いらっしゃらないなら仕方がないな。ではブルーノくん、ソレを二つ、頂いていこう」
ゴンドリーは紅のカクテルを受け取ると、微笑んで踵を返し、数歩先に佇む貴婦人……ゴンドリーの妻でヘクターの義姉、に手渡した。小さな会釈。二人はそのまま、カウンターからそう遠くない距離で酒を飲み始める。
監視をされているようで、あまりにやりにくい。溜息をつくヘクターの耳へブルーノが顔を寄せた。
「ヘクターさん、ヘクターさん! あのキラキラマッチョなオジサマは誰っ!? ミューさんといい、ヘクターさんの知り合いってイケメンばっかり! ねえ、今度合コンしようよ!」
「合コン……全員男で? その場合、何対何になるの?」
「当然、僕対全員」
「何そのハーレム合コンっ!? ブルーノ、自由過ぎてなんだか羨ましいっ。てか紹介するわけないでしょ、あいつ、既婚者な上に女たらしだし」
「えー、僕は構わないけど」
ブルーノが不満げに口を尖らせたが、実兄を合コンで男に紹介など、苦行過ぎる。
だがゴンドリーのおかげでようやく列が途切れた。これでブルーノにバーを任せ仕事に入ることができる。ヘクターはカウンター下にしゃがみ、準備を始めた。
「ブルーノ!」
快活に跳ねる高い声。手を止め顔を上げると、盛装のアネットがブルーノに飛びついていた。ブルーノはそのままアネットを軽々と持ち上げ横抱きにする。いわゆるお姫様抱っこ、だ。
ヘクターのコメカミがヒクリと引き攣った。袖が無く露出の高いドレスは婚前の未成年である証。今日のパーティーは伯爵家の一人娘アネットのお披露目も兼ねている。
「アネットちゃんとっても可愛いね。ホンモノのお姫様みたいだ」
「……っ! ブ、ブルーノもかっこいいじゃない……その……服、とか」
「これ、いつもと同じだけど? さっきから貴族様ばっかりで僕、緊張しちゃってさ、もう疲れたよ。アネットちゃんが来てくれて良かった。安心するよね」
「お爺ちゃんがあっちでずーーーっとお話ししててね、つまんないから逃げてきちゃったの」
ヘクターは急いで立ち上がり、アネットの指す方を見た。ヴェルガー伯爵はホールの端で話し込んでおり、こちらの様子には気がついていない。
ひとまずは胸を撫で下ろしたが、相変わらずブルーノの首にはアネットの細腕が巻き付けられている。ブルーノに男女の愛が無いとはいえ、軽薄そうなヤマネコと頬を重ね笑いあう姿は周囲からどのように映るだろう。
ヘクターはブルーノの袖を引いた。
「ブルーノちょっと、アネットさんを降ろしなさい」
「ええ、お嬢様におかしな烙印が押されてしまってはたまりません。今すぐ、離れて頂けませんか」
語尾に怒りを孕む男の声に、ヘクターとブルーノは凍りつく。
いつからいたのだろうか、カウンターの向こう側からヴェルガー家の執事長、エドゥアールが睨んでいた。夏、社員旅行の馬車に同乗した老執事だ。
瞬時に緊張し混乱したブルーノは反射的にアネットを床へ落とす。そのまま、不満を訴えるアネットには目もくれず、エドゥアールへいっぱいいっぱいの弁明をしはじめた。
「ぼ、僕はですねっ! アネットちゃんとはごく普通の仲の良い友人をさせていただいておられますだけでございます!」
「友人? それにしてはずいぶんと馴れ馴れしい。……アネット様を誑かし浅ましい戯れに連れ出したりなど……」
「そんな事するわけがっ! 前も言いましたけど僕は女性にまったく関心ありませんでございますし、それにヘクターさんの従順なペットですから!」
「ブルーノ、ココでその宣言はさすがに俺が痛いっ!」
会場にはチラホラと見知った顔がある上、話を聞かれかねない距離に実兄、ゴンドリーがいる。
本気でキツい。ヘクターはブルーノの頭を鷲掴んで抑え、手で口を塞ごうとした。が、ブルーノの喋りは止まらない。
「でもヘクターさんってすごい凶暴なんですよ。この前も興奮し過ぎたのか僕のシャツをビリビリにしたし。そーいうの怖いし、僕としてはあっちのミューさんみたいな爽やか知的美人さんのペットになりたいなあとか最近は……」
ブルーノの示す先には華やかな集団に囲まれたミューラーがいた。こちらの会話は聞こえてはいないだろうが、アネットとブルーノの接近が気になり落ち着かないらしい。ヘクターと目が合うと引き攣り笑いを貼り付けたまま『ど う に か し ろ』と、口をパクパクさせた。
一方エドゥアールは勘ぐり過ぎているのか、ミューラーとブルーノ、ヘクターを見比べ顔を青ざめさせている。
「流石は変態犬……いや、ヘクターさま。そのように嗜虐的な性癖までも。アネットお嬢様のお相手としては大変よろしくない……が、しかし。肝心のミューラー王子までもがヤマネコと……もしや例の噂は本当の本当に……?」
「王子!? え、ね、ねえエドゥアールさんどいうことっ、ミューさんて、ホントは王子様なの?」
エドゥアールの独り言に、ブルーノはヘクターを振りほどき飛び跳ねた。
しまった。ヘクターは天を仰ぐ。ブルーノに常連客のミューラーがこの国の王子だと伝えていなかった。船で会うことは予想出ていたのだから、あらかじめ言っておくべきだったのだろうが、しかし後悔は先に立たない。
そしてもう一人、伝え忘れた問題児が。
「えーっ!? ミューラーさんってママのモトカレよねえっ? 王子様だったの!?」
「しーっ! ミズナ、声が大きい!」
クインスが急いでミズナの口を押さえたが、一歩遅かったようだ。ちょうど演奏が途切れ僅かな静寂の訪れた大広間に、酔っ払ったミズナのよく通る声が響いた。
ミズナさん、それまだ信じてたのか……。ヘクターは呆然とする。悪い虫がつかないようダリアに言った口から出まかせ、元恋人設定がいまだに信じられていたとは。すでにバー『青兔亭』は広間中の視線を集めてしまっている。
と、ミューラーが取り巻きを振り切って走り寄り、ヘクターの頭を叩いた。王子直々のキレッキレなツッコミ。船内はますます騒然となる。
「ボーッとしてないで否定しろよっ! シャオ! だから誤解を解けとあれ程あれ程言ったじゃないかあっ!! 聞いてくれ、私には全くそういった趣味はない。極めてノーマルだっ!」
「ね、ね、ね!! ブルーノブルーノ! も、もし変態犬が嫌なら私の家に来たらいいと思うの!! そう、私のペットになるとか! ど、どうかなあ!!!」
「アネット! それは何というか最悪だ!」
ドサクサに紛れブルーノに抱きつくアネットを、ミューラー、エドゥアールの二人掛かりで引き離した。
少し離れた席で聞き耳を立てていたゴンドリーは昔を思い出し、しみじみと微笑んでいた。
「……なんというか、いつの時代の若者も乱れているのだなあ」
「黙れオッさん! とにかく、ちょっ、ブルーノ! コッチに来い!」
「きゃーっ、僕お仕置きされちゃうー」
「馬鹿、ふざけてないでいいから来いっ!」
ヘクターはこの騒ぎの元凶、ブルーノの首根っこを掴み、大広間を後にした。
※※※
──っ!
至近距離での音に、ブルーノの聴覚は引き裂かれた。金属を削るような耳鳴りが脳を揺さぶり、目が眩む。
ブルーノはヘクターに従業員通路へ引き摺り込まれ、壁際へ追い詰められていた。
左を見ればヘクターの右手、右を見れば先ほど炸裂音をあげ壁を貫通したヘクターの杖、鼻の擦れる距離には怒りを剥き出しにしたヘクターの顔。逃げ場はない。
ちょっと、はしゃぎ過ぎたかもなあ。耳鳴りで怒声が聴こえないのをいいコトに、どうせならとヘクターの顔面を観察する。
つい指を差し入れたくなる、彫りの深い眼窩。端整な目元を縦断する壮絶なケロイド。
……そういえば。ふとヘクターの全身に残された拷問の痕を思い出し、目を泳がせた。
やがて耳鳴りが収まり音が戻ってきた。ヘクターの怒りもすでに佳境を超え、収束しつつあるようだ。
「……話をややこしくするの、もう癖になってるだろ! 次は無いからな。今度やったら海に落とす。今日はもう、俺以外と話すんじゃねえぞ」
つまり『今回は大目に見る』ということだ。出来る限りマジメな顔で、神妙に頷いてみせる。
「よし」
そう言うとヘクターは杖を引き抜き、身体を離した。
途端、湧き上がる安堵感に腰が砕け、ブルーノはその場にへたり込んだ。大丈夫とアタマでは理解していたものの、圧倒的な力の差に本能が怯えていたようだ。心臓が今更ながらばくばくと脈を打ち始める。
「さ、ブルーノ、お前はカウンターに戻れ。俺はこのまま仕事に向かう。間違ってもまた、アネットやミューと絡むんじゃねーぞ。じゃあな」
「あ、あのっ! ちょっと!」
踵を返すヘクターを引き止めようと、ブルーノは声を張り上げた。
「あのさ。……まず、ええと、ミューさんってほんとーに王子様、なの? ヨルドモの?」
「ああそうだ。言っとかなくて悪かったな。本物の王子相手にお前がバカやり過ぎたらフォローしきれないだろ。下手すると首を切られるぞ。だからおとなしくしててくれよ」
「そっか……短くて遠い恋だったんだなあ」
「いつの間に恋したんだ。バカ言ってないでさっさと戻れ。戻ってひたすら無言でカクテルを作り続けろ……ってなんだボケっとして。まさかほんとに失恋で凹んでんのか?」
「全く凹んでないよ。チャンスがあれば美味しいよねくらいには思ってたけど。そうじゃなくて僕、ちょっと考えてて」
気にかかっている事は一つではない。だがそれを今、口にしてしまっていいのだろうか。
「そうか、ならゆっくり反省しろ。俺はもう行くからな」
「反省はしていない……いや、そうじゃなくてっ! 殴んないで!! 反省とは別枠で考え事してたって意味だからあっ!!!」
口をついて出た言葉に、ヘクターの怒りが再燃した。この際だ、もう言ってしまえ。手で頭を守りながらブルーノは大慌てで叫ぶ。
「あのねっヘクターさん、僕さっきミズナさんに聞いたんだよ。ミズナさん、前回の船上パーティのコトを思い出したんだってさ。ママが前もバーテンやってたのよねって」
忙しく働くヘクターに話しかけるのを諦めたミズナは、ブルーノへ懐かしむように語った。
『すっごいイケメンのバーテンがいるーって思って、それで何回も並び直して飲んだんだから。でもね』
前回のパーティで見かけたヘクターは、顔に火傷痕はなく、足も怪我をしていなかった。渋みのある男前といった雰囲気で、まさかオカマだとは思ってもみなかった。そのため、直後に開店した『青兎亭』で会った際、同一人物だと気がつかなかったのだ、と。
「その時はまだ、怪我……ていうかそれ、拷問の痕だよね? なくて、オカマ言葉でもなかったって」
「……」
拷問、という単語にヘクターの眉がひくりと跳ねた。目の光の揺れに動揺が見て取れる。ブルーノは立ち上がり、ヘクターの腕をしっかりと掴んだ。
「ヘクターさんもしかして四年前、この船か、その直後くらいに誰かに捕まって……拷問されて、」
「あー、ブルーノ。俺はもう行くから、ちょ、離せっ」
もうここまで来たら聞くしかない。振りほどき去ろうとするヘクターに腕を絡ませ、半ば抱きつきながら言った。
「それで……目覚めたの? こっちに」
「……は?」
ヘクターはキョトンとした表情で、先ほどとは違うタイプの動揺を浮かべている。
「いや、そういうコトって普通にあるよ。キッカケは人それぞれだし。実はヘクターさん見かけによらずかなりのドMだったりとか! だって痛いコトとか他にも色々されてオカマさんになっちゃったわけじゃない」
「ないないないないないないっ!! 他にも色々って、どんな妄想力してんだよお前。ソコとソコを直結で繋げてんじゃねーっ! っていうかこれ以上バカな追求すんな」
「いやでも、僕からしたらすごく大切なコトだからね。ご主人様の性癖はちゃんと把握しておかなくちゃ」
「せんでいいっ! いろんな意味でお前が気持ち悪いから、離っ……っ!?」
急にヘクターが宙を見上げ、口を閉ざした。
じわり。
服の隙間から入り込んだ泥水が背筋を伝い登ってくるような悪寒に、ブルーノも押し黙り身を震わせる。
赤の、魔力。
魔獣の王が放つ原始的かつ強大な魔力が、空気をすっかり塗り替えてしまった。
すぐ近くに赤の魔獣がいる。
「ダリア……。マイヤスめ、ふざけやがって。四年前の再現のつもりか?」
歯噛みの音に視線を動かすと、ヘクターの顔には狂気めいた怒りが浮かんでいた。ブルーノは思わず腕の力を弱める。
ヘクターはブルーノを振り払うと、杖の起動陣をなぞりレイピアを抜き放つ。炎のような憤怒が刀身を燃やし、眩く輝かせた。
「再現? ヘクターさん四年前、この船で何か事件が起きて、その、拷問はやっぱりその時に……って待ってよ!」
ヘクターは狼のように走り、非常用の階段を駆け上がる。ブルーノはヤマネコのしなやかさで跳躍しヘクターに抱きついた。柔軟な手足を強引に絡ませ動きを止める。
「っ邪魔すんな、離せ! ダリアがいるんだ!」
「ヘクターさん落ち着いて! 何があったの?」
前回、この船で起きた事件が拷問の痕とつながっているのなら『再現』させるワケにはいかない。
「四年前、横付けされた船で兎人の王が俺を待っていた。今回もおそらくダリアが待っている。この気配は間違いない、ダリアの魔力だ」
「前もダリアさんが!?」
「違う。いたのはダリアの父親、先代の兎人の王だ。俺は船で王と戦い……敗れた」
「なら絶対に『再現』しちゃダメじゃないか! ヘクターさん頭冷やして。ダリアねーさんと戦う気なの!?」
ブルーノの言葉に、ヘクターから力が抜けた。ようやく冷静さを取り戻したのだろう。ブルーノが身体を離すと、階段の壁に凭れ大きく息を吐きだす。
「……そう、だ、な。マイヤスが何考えてんのかわかんねー分、なおさら前回と同じように動くわけにはいかない……か」
うねる感情を宥めているのだろう。ヘクターはじっと階段の先を見詰め、歯を喰いしばっていた。次第に獣の表情が薄れ、精悍な理性を取り戻していく。
と、赤の気配が変わった。
ただ放たれていただけの魔力は焦ったそうに増減をし、波を描き始める。まるで手招きをしているかのように。
「……ダリア、呼んでるな」
「うん、呼んでる」
「ブルーノ、広間に戻れ。呼ばれてるのは俺だ」
そうなのだろう。だがブルーノはヘクターの服を掴み、言った。
「ヘクターさん、人手はある方がいい。何かあった時の連絡係になれるし、ヤマネコの『惑乱』もある。それに僕は逃げることに関して天才的だ。……ダメでもついていくからね」
ヘクターはブルーノを眺め、小さな溜息をつく。ついて行っても構わない、という事なのだろう。
二人は気配をできる限り殺し、狭い階段を慎重に昇った。天井に開けられた木戸の鍵を外し、静かに押し開ける。
四角く切り取られた夜空の真ん中で、青々と輝く満月がヘクターが来るのを待ちわびていた。