王子と兎
日付も代わり、バー『青兎亭』は店を閉める時刻となった。
厨房を片付けたヘクターがホールを覗くと、ダリアはいまだボンヤリと床を掃いている。
今日は丸一日、ダリアの様子がおかしい。
ミューラーへの態度だけではなく、どこか物思いに沈みがちで、客やヘクターの声に反応しないことが数度あった。
ダリアの事は気に掛かったが、しかしヘクターは再び厨房に戻り、先ほど渡された封筒を取り出した。
依頼内容は出来る限り早く把握しておきたい。場合によっては今夜からでも仕事に取り掛からなくてはならないからだ。
手早く封蝋を割り、四つ折りの依頼状を広げると、ざっと目を通した。
「……はあ?」
つい、声が漏れる。
文字が……細か過ぎる。
調理台にもたれ掛かり目をこすったが、やはり依頼状の文字はびっしりと細い。それはもう、読む気力をごそりと削ぎ落とすほどに。三十代も半ば。まだ老眼ではないがつい眉間に力が入り、縦皺が寄った。
通常、依頼状一枚につき依頼は一件だ。だがこの紙には十件ほどが強引に書き連ねられ、さらにその殆どに『緊急』と追記されている。各依頼の右下にはキッチリと王の承印が押され、最下段には王の筆跡で『死ぬなよ』との走り書きがあった。
ケタケタ笑いながらリズミカルに押印する王の姿が脳裏を過る。
依頼内容は全て、城塞内の魔物討伐。発生日はどれもごく最近で、しかも殆どが屍鬼だ。
言われてみればここ最近、街の治安は急速に悪化している。
中毒性の高い禁制ハーブ『花』が流行し、殺人事件も立て続けに起きていた。大抵が中毒患者の揉め事と片付けられたが、うち何件かは屍鬼によるモノだったのだろう。
「……あれ、まずかったかもな」
ヘクターは大屍蟹の核を破壊した。破壊すれば即、屍鬼主の知るところとなる。
屍鬼主になれるほどの魔導師など、そうはいない。この大量の屍鬼はヘクターが大屍蟹を倒した事をキッカケとして、同じ屍鬼主が作り出したモノかも知れない。
ミューラーは尻拭いをしろという意味合いで、これらの依頼を並べたのだろうか。
ヘクターはそう考えた後、こめかみを押さえ首を振った。
昨日の今日だ、迅速すぎる。
おそらくミューラーは今ある討伐案件を片っ端から詰め込んでみたのだろう。その一覧に王がどう感じ、印を押したかは別問題だが。
「……っざけんな、ミュー。死ねって言うのかよ」
「ミュー?」
「っダリアちゃん!? お掃除終わってたの?」
いつの間にか厨房に入ったダリアが、思い詰めた表情でヘクターを見上げていた。ヘクターは依頼状をさりげなく畳み、ダリアの頭を引き寄せるようにして撫でる。
「うん。ママ、怖い顔してたよ? それ、あの眼鏡の男の人からの手紙だよね。……もしかして、よりを戻した、とかなの? あの人と」
「へ!?」
あまりに予想外。ヘクターはつい大声を出した。
「昨日みんな、ママの昔のカレシが復縁を迫りに来たんじゃないかって言ってて。私もそうかなーって思ってたの。ねえやっぱり、ママはあの人とまた、付き合う事になったの?」
「……」
勘違いにも限度があるだろう。
すぐにでもダリアの誤解を解かなければと思ったが、しかし踏みとどまった。この誤解は案外使えるかもしれない。
ヘクターはこみあがる笑いを押し殺し、ダリアの目を優しく見詰め、真摯な口調で話し出した。
「あの男の子ね、ミューっていうの。私の三年前のカレシよ」
ダリアが眉をハの字に寄せ、戸惑いの表情を浮かべた。もちろん付き合っていた事実などは無く、完全なでまかせだ。
嫉妬したのだろうか?
今日のダリアの不機嫌の原因はコレかとほくそ笑み、ダリアの眉を指先でなぞる。
「そんな不安そうな顔しないで。もう、ミューとはきれいさっぱり別れてるわ。昨日はミューが変な勘違いをしてお店に来たのよ」
「勘違い?」
「そう。最近、ダリアちゃんと一緒に住んでるじゃない? それで私がダリアちゃんと結婚したのかと思って、お祝いの花束を持ってきてたの」
「ええっ!? 結婚って!」
「だから部屋に行って説明してたのよ。他にもいくつか勘違いしてたから、少し説明に時間がかかっちゃったの。ごめんね、心配だった?」
ヘクターが柔らかく微笑みかけると、ダリアは大きく頷いて言った。
「よかった! もし、部屋で変なことしてたらって思うと気持ち悪くて! シャワーとか嫌な臭いがしそうで近寄れなかったの!」
「あー、そういう心配……嫉妬じゃないのね」
ヘクターは八つ当たりを兼ね、ミューラーを引き摺り降ろす事にした。
魔力が並外れて高いミューラーは、繁殖期のダリアにすでに心を奪われている。おそらくまた何か用事を作って会いに来るだろう。
少なくとも繁殖期が終わり魅了状態が解けるまでは、おかしな虫はとことんまで排除しておくベキだ。
「ミューはね、完全に男しかダメなの。それに世間知らずなお坊ちゃんで、しかも騙されやすいのよね。おかしな事言い出すかもしれないけど、あまり気にしないであげてね」
「確かに、それっぽいよね! そっかー、だから結婚とかとんでもない勘違いをしたのね。うんうん」
それっぽいのそれは一体何を指しているのだろう。思わず頬が引き攣ったが、大きな誤解を産みつける事には成功した。何しろダリアは思い込みが激しい。
ヘクターは笑いながら言った。
「でも私、ダリアちゃんとなら結婚したと思われても全然かまわないわ。むしろ、嬉しいくらいよ?」
ダリアもニッコリと笑みを返す。
「知ってる! そういうの、偽装結婚って言うのよね!?」
「……ちがーう。……まあ、いいわ。ダリアちゃん、私今夜、ちょっと用事が出来ちゃったの。朝までには帰るし別に変な事してくるワケじゃないから、心配しないでね」
「はあい」
ヘクターへの誤解は別に今始まった事ではない。それよりも問題は、この大量の依頼をどう片付けるかだ。
※※※
ヘクターは従業員部屋に戻るとすぐ、ソファへ崩れ落ちた。
庇い続けた右足は溶岩に浸したかのように熱く、僅かにでも動かせば、燃え千切れるような激痛が走り、脂汗が染み出る。
今夜は、店を閉めてから朝日が昇る寸前までずっと、屍鬼を追い回し続けていた。
仕事の間身に付けていたマントは建物に入る前に脱ぎ隠したが、それでも身体に染み付いた腐肉の臭いに脳が痺れる。風呂に入りベッドで眠りたかったが、あまりの疲労に動く事すらままならない。
と、ガチャとドアの開けられる音が聞こえた。ダリアが起きたのだろう。
こんなにもみっともない姿は見せたくない。ヘクターは寝返りで顔を隠そうとしたが、足の痛みについ呻き声が漏れた。
「……ママ、大丈夫?」
戸惑いを多分に含むダリアの声が落とされる。
「うん、大丈夫。……生きてる」
「寝れてないでしょ。目の周り、クマが凄いよ。今日の仕入れ、私がやるね」
「……ダメ。危ないから」
ヘクターが呟くように言うと、ダリアは苦笑した。
「危ないわけないじゃない。普通に市場に行って、野菜とお肉とお花を買うだけだよ? お酒はお店まで届けて貰えるし」
「ダリアちゃん誘拐されるかもしれないから。少し寝て起きたら、私がやるわ」
「誘拐なんてされないよ! ママは夕方まで寝て休んでて。私ちゃんと買い物くらいできるし、重力操作が巧くなって来たから、重いものも兎の魔力で簡単に持てるんだから。任せて!」
「特訓の成果ね……」
ダリアが妙に張り切っている。
繁殖期の兎に惹かれた魔導師が手を出そうとするのではないか、と不安だったのだが、毎晩ヘクターを翻弄している兎の力を使えば逃れるのは簡単だ。
「……じゃあ、買い出しお願いするけど、危ない目にあったら、相手を潰してでも逃げなさいね。……後始末はするから」
「……後始末って。
さ、私に任せて、ママは自分の部屋でゆっくり寝てください! ほらほら、お姫さま抱っこしちゃうよー」
「あー。なんか屈辱的」
ダリアは兎の魔力でヘクターを優しく抱きかかえるとベッドまで運び、とても楽しげに頭を撫で、おやすみ、と呟き部屋を出た。
ヘクターは不安げに扉を見詰め、しかしあっさり睡魔に敗れ眠りについた。
屍鬼退治は、夜にしか出来ない。出来る限り早めに依頼を片付けるためには、今は寝ておかなければ。
少なくともダリアの繁殖期までは、死ねない。
※※※
ヨルドモの城下街は、周囲を高い塀に囲まれた堅牢な城塞都市だ。王城はその北寄りの丘に建てられ、南のアーチ橋が市街地へと結ぶ。
城の近く、丘の上の北地区には貴族や魔導師を中心とした閑静な住宅街が、南地区には庶民を中心とした集合住宅が軒を連ね、東地区は職人街、西地区には繁華街、中央大通りには大教会と公園、商店や市場が賑やかに並ぶ。
中央から遠くなるほど治安が悪く、西地区には娼館などが増え、東地区は解体場や処理施設が置かれている。
バー『青兎亭』は西地区繁華街の中央寄りに位置し、比較的治安が良い。
ダリアは買い物メモを手に、中央市場へと向かった。
春の陽気に集まる猫たちが甘い鳴き声で小道へと誘ったが、ヘクターの過保護な心配を思い出し、できる限り人通りの多い道を選び歩く。
ごく普通に二階建ての食品市場へ入り指定の店で食材を選ぶと、『青兎亭』の名を出すだけで値段が下がった。
ダリアは店主が目を丸くしている事にも気が付かずに大量の荷物を軽々抱え、一旦『青兎亭』まで戻った。
店内に片付け終え、今度は花を選びに青空市場へ向かう。
大教会前の公園では大きな噴水が飛沫をあげ、鮮やかな虹を描いている。それを取り囲むようにカラフルな傘を並べた花市が、春の彩りを魅せていた。
ダリアが花に顔を埋めるようにして一つ一つ匂いを嗅ぎ分け選んでいると、突然背後から声を掛けられた。
「……偶然だな、花を選んでいるのか? ダリア……さん。先日は、突然失礼をした」
振り返れば、ミューラーがどこか照れ臭そうに立っている。
ダリアは思わず怯み場を離れようとしたが、しかしすぐ思い直した。勘違いとはいえ、結婚祝いの花束を持って店を訪れたのだ。人柄は悪くはないのだろう。
それに昨日はあからさまに失礼な態度をとってしまった。謝るべきはこちらの方だ。
「こちらこそ、ごめんなさい。少し、思い違いをしていたんです」
「……いや、こっちの態度が悪かったんだ。静かな店内で突然暴れたりしてしまって……」
ダリアは外面良く微笑んだ。
「ミューさん、ですよね? またお店にいらしてくださいね」
そのまま立ち去ろうとするダリアの手首を慌てて掴み、ミューラーは言う。
「いや、あの……そうだ、もしよかったら、街を案内してはもらえないか? この辺りにはあまり詳しくないのだ。……って、嫌そうだな……。悪かった」
「仕事があるので。……少しだけならいいですけど」
今後常連客になるかもしれない相手を、あまり無下に扱うのは良くない。
ダリアが了承すると、ミューラーは太陽のような華やかさで笑った。
※※※
王子ミューラーが歩きだすと同時に、護衛たちはさりげなく散り、それぞれの配置についた。
中央広場付近は治安には問題がないが、買い物客でかなり混雑している。王子から一定の距離を保ちながらも、けして害が及ばないよう周囲に目を配らなくてはならない。
本日の護衛は『緑鷲』『赤鷲』『赤蛇』から一人ずつ、計三人。
護衛対象である王子は、魔力量も剣の腕前も護衛たちより優秀ではあったが、それでも側にさえいればいざという時の盾くらいにはなれる。
『知り合いだ。少し話をしてくるが、邪魔をするな。……離れていろ』
そう言い置いて声を掛けたあの女性は、一般人のようだ。しかし小柄で可愛らしく、本能が惹き付けられる色華がある。
今日の護衛役を命じられた赤蛇の新人カミュは、何故だろうか、その女性の後ろ姿に暖かな懐かしさを感じていた。
王子は時折護衛を気にしながらも、女性と親しげに会話をしつつ店を巡り、野良猫と戯れた後、西地区の小さな建物まで送り届け、別れた。
一刻ほどの短いデートのようでもあるが、あの女性は王子の恋人だろうか? ……いや、そこまでの関係では無さそうだ。二人の会話の様子からは、むしろ王子が一方的に女性へ執着しているように伺える。
雲の上の立場にいる人間にも、そういった甘酸っぱい部分があるのだな、と、年の近い王子へカミュは僅かな親近感を覚えた。
その翌日。
カミュは同じように護衛に向かった。
しかし城を出て橋を渡ったその瞬間、三人の護衛の目の前で王子は『疾風』の魔法を使って駆け出し、柔らかな春の雨が降る街へあっという間に紛れた。
王子に、逃げられてしまった。
だがカミュたちには直ぐ、王子は大方昨日の娘に会いに行ったのだろうと予想がついた。
三人の護衛は苦笑いし、そのまま大教会前の市場へと足を進めた。
※※※
「ダリアさん、こっちへ」
店に飾る花を選んでいたダリアの手首を、ミューラーが強く引いた。花屋の傘から外れた途端、霧のように細かい雨が二人を包みしっとりと湿らしていく。
「えっと、どうかしたんですか?」
「……すまん」
護衛の気配がとはさすがに言えず、ミューラーは早足で歩き語尾を濁した。
昨日は護衛があまりにも邪魔だった。
雑踏のためだろう、昨日の護衛たちは結構な至近距離から目を光らせていた。仕方が無いと理解はしていたが、いくらなんでも女性との会話が丸聞こえな位置まで詰め寄らないで欲しい。
これでは会話にならない。ミューラーは小さな雑貨店へ逃げ込んだが、しかし護衛たちは全員、迷いなくついて来た。狭い店内に帯剣をした男が計四人。おろおろと戸惑う店員が気の毒で、さりげないコミュニケーションなど出来ようもない。
ダリアは気にしていないようだが、もう少し空気を読めと心底叫びたかった。
二人きりで話がしたい。
ただそれだけのためにミューラーは今日、護衛を振り切った。
水溜りを跳ねさせる護衛の足音が聞こえ、ミューラーはダリアの手を取ったまま足を早める。目的地は特にない。護衛のいない、落ち着いて会話の出来る場所ならば何処でもいい。
「ええ、と……ミューラーさん、ちょっと早い、かな?」
ダリアがそう呟いた直後、ふっ、と手の中から重さが消えた。前のめりに転びかけるほどに。
思わず振り返ると、路地の影に護衛の影がちらりと見えた。
「走るぞ」
この軽さはおかしい。そう思いながらもダリアをひょいと抱きかかえる。
……軽いなんてもんじゃない。
生き物としての重さが全く感じられず、ミューラーの心に奇妙な焦りが生じた。雨に濡れた服が張り付き、熱や心音が伝わってくるほど密着しているというのに、ダリアは存在が無いかのように不自然に軽い。
急速に空が濁る。
薄いカーテンのような霧雨と強風。石畳は途切れ、地面は土に変わる。ぴしゃりぴしゃりと、水溜まりに踏み入る革靴が泥を跳ねた。
不慣れな城下の、来たこともない地区。たいして特徴のない壁と細く暗い道が感覚を狂わせる。冷たい雨に体温が奪われ、ダリアとの濡れた接点だけが蒸気が上がる程に熱い。
「ほんとにどうしたんですか? もうずぶ濡れですよ?」
「……ああ、悪い」
言われ、ミューラーはようやく我に返った。出鱈目に走った為か、護衛は無事、撒けている。
とりあえず雨に当たらない庇の下へ入り、ダリアを地面へ降ろした。白くカールした髪の毛はしとどなく濡れ、水を滴らせている。
二人並んで服や髪を絞り、眼鏡のガラスを拭う。小さなハンカチはずぶ濡れの雑巾に変わり、ミューラーの革靴は泥だらけだ。
と、ダリアが鼻をひくひくと動かした。
釣られて匂いを嗅げば、湿気を帯びた隠しきれない獣臭が、建物から漂っているのがわかる。恐らく屠殺場なのだろう。東地区の奥まで来てしまったようだ。
不揃いに割れた石を積み上げた、危うく荒んだ灰色の街並み。雨は強さを増し、材木の散らばるぬかるんだ地面を歩くものは誰もいない。
「とりあえず、雨宿りさせてもらうか」
壁に取り付けられた木の扉をゆっくりと開くと、獣臭さは一段と強くなった。建物の奥から、動物の声がごふごふと響いている。
さらに一歩、中へと踏み込み、ミューラーは呼び掛けた。
「……誰か、いないのか? しばらく屋根を借りたいのだが」
「出来ればタオルも貸してくださいー」
建物内に声は響くが、鳴き声以外の返事が無い。
「……今日は休みなのかもな。とりあえずタオルだけでも借りようか」
「そですね」
奥へと続く内扉を開く。
高い位置の窓から曇りの僅かな光が入るだけの仄暗い部屋は、辺り一面、無数の紅白の塊が天地を返した林のように吊り下げられ、床は赤黒い血痕で汚れていた。小さな羽虫が何匹も群れ、翔び交っている。
放血を終え、皮を剥いだ後の巨大な肉塊。おびただしく下がるそれを掻き分け、タオルを探しつつ奥へ進む。次第に漂いはじめた鼻の曲がる異臭に、ダリアが酷く顔を顰めた。
「……すごく、嫌な臭いがします」
「そうだな。腐っている肉でもあるのか?」
ダリアとミューラーは、顔を見合わせる。
「……戻ろう」
嫌な予感がする。二人はくるりと踵を返した。
だが、通路の先、肉林の迷路の向こうから空気の抜けた呻り声が響いた。ミューラーはダリアの前へ立ち、自らの影へ隠す。
虫たちは耳元で羽を摺り合わせ、不快な羽音を騒々しく合奏する。
ぽたりぽたり。白い糸が床に垂れ、蠢いた。ぶうん、と羽虫がそれを囲んで湧き踊る。
灰色の塊がゆっくりと、肉塊の中から姿を現した。