偽物と本物
「あの町辺りにいる事は確かなんだ。ミュー、再度依頼を! 頼む、俺を行かせてくれ!」
机へ打ちつけるほど頭を下げた狼に、ミューラーは一瞬目を剥いた。視線は泳ぎ、渡されたばかりの報告書の文字を誤魔化すように追いかける。幼いころ憧れた狼は不遜な自信家だと、そうあって欲しいと思っていた。臣従の立場にあるとはいえ、こんな姿を見たくはない。
ミューラーは声を平坦に押し潰し、抑揚を殺した。
「……その町を中心に捜索隊を組ませよう。もちろん海上警備も増員し、マイヤスを国外へは出させない。……だが今回、お前の仕事はここまでだ。町が一つ、壊れたようだな。あまり派手な失敗をするな」
ぎりり。隠しきれない歯噛みが執務室に響く。二週間の期日が過ぎ、狼は王都へ連れ戻された。滞在していた港町は突然降り注いだ瓦礫により半壊し、その件についての責までもが狼に押し付けられてしまっている。
ミューラーは真っ直ぐに顔を上げ、狼の嚥下を待った。再び依頼をするわけにはいかない。もし同じ件で失敗を繰り返せば、狼自身が処分されかねない。
「……わかった」
苦渋を含む了承の声に、ようやく緊張が緩む。
ミューラーはほんの少し語尾を上げ、書類を叩きながら言った。
「しかし幸い、少なくともダリアさんは無事だったのだからな。これは、連れ戻せなかったがダリアさんと会うには会えた、という事なのだろう?」
「そう……だ、な」
言い淀む口元。ミューラーは瞳を覗き込んだ。
「何かあったのか? この、町が壊れたというのはやはり、兎の……」
魔導師の天敵種、兎人であるダリアの事は隠しているのだろう。書類にはマイヤスと同行していた少女を目撃した、とだけ書かれている。その為、被害ばかりで成果の薄い報告書となってしまっているのだが。
狼は後ろ頭を掻き崩し、目を反らせた。
「……なにやら様子がおかしかった。もともとぼんやりマイペースな子なんだが、そういうんじゃなくて……意識はあるんが感情がない、というか……」
「感情がない……屍人のように、か? もしやマイヤスに屍人にされたとか!」
ミューラーが机を叩き立ち上がると、狼は頭を振る。
「いや、ダリアは魔法を弾くだろう。それにマイヤスは魔導師じゃない。たとえもし従属の指輪を使ったとしても、ダリアなら屍人にならないハズだ。しかし……指輪、か。……ダリア、あんな指輪、持ってたか?」
朝はつけていなかったよなあ。狼が呟くと、ミューラーはそれだと叫んだ。
「お前の知らない指輪をつけていたのか! やはり従属の指輪なんじゃないのか? 誰か、マイヤスと関係のある凄腕の魔導師が、ダリアさんにも効くよう改造した、と……か……?」
「……」
ミューラーと狼は、ちらりと後を見る。そんな離れ業が可能な魔導師は一人だけだ。背後のソファでザルバは、いつもと同じように胡座を組み本を捲っている。
「まさか。いくらザルバでもそんな事」
二人が顔を見あわせ苦笑すると、ザルバはぱたんと本を閉じ、言い放った。
「……狗、その指輪に赤い石はついていたか?」
「っマジか!? ザルバッ、兎人に効く従属の指輪を作ってマイヤスに渡したのか!?」
「……違う、慌てるな。その様子ではやはり、赤い石だったのだな。それならばコレだろう。お前に預けていた『おもしろくなくなる指輪』だ」
そう言いながらザルバはポケットから指輪を取り出し、狼に渡す。シンプルな赤い石の指輪。狼は怪訝そうに眺め、言った。
「……コレ、なんでザルバが持ってんだ? 俺、返してないよな? もしかして『おもしろくなくなる指輪』を沢山作ってマイヤスにも渡したのか? 兎人にも効くのか、コレ」
「効かないし、渡してもいない。俺の作った指輪はその一つだけで、蜥蜴と会った時に兎が持っていたから返して貰った。兎がいじったのだろうな、装身具としては問題ないが、魔導具として壊れている」
「ん? つまりダリアは『おもしろくなくなる指輪』をつけていないんだろう。ここにしかないのなら」
「そうだが、違う。あの日、指輪の効果を知った蜥蜴は一旦俺から奪い、兎に向かって貰ったかのように振舞い、コッソリと俺に返した。そうした事で何処ぞで買った適当な指輪が、本物の魔導具に変わるわけだ」
「……どういう意味だ? マイヤスがすり替えた、んではないんだよな?」
ザルバは忌々しげに爪を噛む。
「兎の王に魔法は届かない。本物なら壊れてしまうが、兎が本物と思い込んでいるだけの偽物であれば、壊れる事はない」
「そりゃ、まあそーだろうけどな」
魔法がかけられていないのなら、効果自体がないだろうと首を捻る狼に、ザルバは言った。
「わからないのか。兎は今、『暗示の首輪』を着けられているのだぞ」
※※※
黒塗りの天蓋を力任せに殴り割ったように、歪に開けた夜空。船から見上げる星々は黒く不格好なキノコ岩の遥か上で、高く、遠く輝いている。
「……今日は月籠り、でしたね」
マイヤスが呟いた。
明日には新月を迎え仲秋月に入るのだろう。すでに海風は冷たく、甲板は底冷えがした。
ざばん。波に揺さぶられ、船が大きく傾く。僅かにバランスを崩し、手の中のカンテラがぐるり光の弧を描いた。
と、マイヤスは顔を顰める。青月石のドームで、空へ首を傾け続ける兎の子の姿が、ちらりと見えたからだ。
「兎さん、今夜は月がないですから。無理に呼ぶ必要はないのですよ。船室に降りて休んでください」
マイヤスはドームの入り口から声をかけた。月のない夜にどれだけ呼んでも月は応える事など出来ず石は産まれない。
兎の子は頷いた。しかしどこか名残惜しげにまた、天窓を見上げる。
マイヤスは近寄り、カンテラを高く持ち上げた。兎の子の左手で並び輝く青と赤、狼と蜥蜴の指輪。どちらも契約であることに代わりはない。
「……心が、壊れそうになったんですね。狼さんと会った……んですか?」
青白い兎の耳が、くるりと廻る。
「そうですか。でも、その指輪さえつけていれば安心ですよ。もう、誰も壊さないですみますから。さあ兎さん、部屋に戻って寝てください」
そう言うと細い手首を引っ掴んだ。
兎の子が船室に降りるのを見届けたマイヤスは甲板に戻り、手すりにもたれ長い溜息を吐く。
キノコ岩の割れ目ごしの海面は黒く、銀滴を風に散らしキラキラ泡立っていた。
波がうねり、ごつごつした岩々が現れては消える。そのたびにマイヤスの心臓は期待し、ヒビ割れそうなほど飛び跳ねる。
黒い影が、愛する人魚の姿に見えて。
マイヤスは目を反らし、月籠りの空を眺め呟いた。
「兎さん。あなたは本当は自由なんです。その指輪は偽物で、暗示で本物だと思い込ませているだけ。ごめんなさい。あと少しだけ、舞台に立っていてください。私の、人魚のために」
※※※
翌日。秋の中月の初日。
「ヘクターさあぁんっ! 今までいったいどこ行ってたっうふぶぅっ!」
夕刻の鐘が鳴る寸前、騒々しく椅子を蹴飛ばし調理場へ走り込んできた誰かを、ヘクターの本能的な蹴りがとらえた。むしろ足裏に誰かの顔が飛び込んできた、と言った方が正しいかもしれない。
そのため、それが誰かを認識した時にはすでに、ブルーノが鼻を押さえ床をのたうち回っていた。
『青兎亭』は今日から、しれっと営業を再開する。
店長が無断で半月も店を休んでいたのだ。バイトのブルーノが初日から来るとは全く思っていなかった。ついうっかり蹴りをいれてしまったのもその性だ。
「……ほら」
ハンカチを差し出すと、ブルーノは鼻血を拭い立ち上がった。ブツクサと呟きながらも調理場の奥へ進み、帽子とジャケットを脱ぐ。休みの間も義理堅く、店に通っていたのだろうか。いつもと同じく下に着こまれた獣人用のウェイター服。支度を終えたブルーノの三角耳は暴挙にもめげず前を向き、縞尻尾は親しげに揺れている。
いつの間にタフになったのだろうか。成長のめまぐるしさが眩しく、ヘクターは眼を細めた。
「相変わらず酷いよね、ヘクターさん。でもほんと良かったー! お給料上げてもらったばっかりなのに、このお店が潰れちゃったかと思ったよ。僕さっきついでに職業斡旋所覗いてきたんだけどね。『青兎亭』並に条件のいいバイト、見つかんなくってさあ」
「……それ、雇用主にいう事? 他にいいバイトあれば辞める気だったでしょ、ブルーノ」
久しぶりの軽口。表情が自然と綻び、いつもより幾分か素直に言葉を走らせる。
「だけど、私がいない間、お店のこといろいろやってくれてたみたいね、ありがと」
ヘクターは酒屋の伝票を軽く振った。店を放り出していた間、仕入れを止めてくれていたようだ。ブルーノはさも当たり前のように鼻を鳴らしてみせたが、長い尻尾はピンと誇らしげに立ち上がっている。イヌみたいに分かりやすいネコだな、つい苦笑が漏れた。
と、ブルーノの三角耳がクルリと廻る。鼻を震わせキョロキョロと周囲を見渡し首を傾げた。
「あれえ、ダリアねーさんは? 何でいないの?」
「……今日は来ないわよ。ダリアちゃん、親戚に呼ばれちゃったんだって」
「ふうん……ダリアねーさんお休み、かあ。寂しいね」
「そう。しばらくお休み。それよりブルーノ、あんた今日から特訓だからね。お酒の作り方おぼえてもらわなくちゃなんだから」
えー面倒くさい、ブルーノは不満げに唇を尖らせる。
しばらく。
ヘクターは音に出さず呟いた。
途端、耳の穴へ羽虫が一斉に飛び込んだように頭がざわめき、胸は焦燥に埋め尽くされる。
しばらく。そう、恐らくもう、時間がない。
マイヤスに国外へ逃げられてしまえば、狗であるヘクターにはなすすべがない。
再編成された捜索隊への参加は脚下された。もしマイヤスが城塞内へ舞い戻れば捕らえられるだろうが、まず、ありえないだろう。
ヘクターは歯噛みをする。
全く、鎖に繋がれた飼い狗だ。何も出来ずにただ唸り声を上げ、騎士団の活躍を待ち続けなくてはならない。
「……ええと。もしかして、なんだけど」
耳を横に倒したブルーノがおずおずと口を挟み、ヘクターの思考を遮った。
「もし、ダリアねーさんが帰ってこれない、とかなら、僕、伝言が……」
「必要ないわ。ダリアちゃんならすぐ戻るから。……必ず」
ヘクターは間髪入れず応える。
ダリアの伝言。マイヤスの元に連れて行かれることを想定していたのだろう。しかしそれを聞く事はダリアが戻らないと認める事になる気がした。
必要ない。
マイヤスをすぐにでも捕まえ連れ戻すのだから。伝言を受け取るのは、諦める時だ。
羽虫の群れは喉を下り、胃の辺りを飛び回っているようだ。マイヤスへの苛立ちに全身がざらついた。
ハーリアの町であったダリアは、暗示をかけられ意志を奪われていた。
俺が、助けなくては。
そしてマイヤスを八つ裂いてやらなければ気が済まない。
「……へ、ヘクターさーん……だいじょうぶ?」
我に返り顔を上げると、ブルーノは棚の陰から様子を伺っていた。
ああ、酷い表情になっていたのだな。ヘクターはいつもの飄々としたオカマを張り付け直し、小バカにするように笑ってみせる。
「なに言ってんの。私はいつだって大丈夫。ていうか大丈夫じゃないのは、ブルーノ、あなたよ。今月ね、四年に一度の船上パーティがあって、『青兎亭』も参加する予定なんだけど。もしかしたらダリアちゃんが間に合わないかもでしょ。だから、ブルーノ。あなたがバーテンとしてえらーい貴族様たちに粗相のなくお酒を出さなくちゃいけないの。『青兎亭』の未来はあなたの肩にかかってるわ。ブルーノ、あなたが、主役よ」
「えええっ!? なんでバイトに店の未来を託すんだよっ。そんなのヘクターさんがやるべきでしょうっ」
「……私は他に仕事があるの」
「仕事?」
「そう、仕事」
頭をフル回転させているのか、ブルーノは神妙な顔をし、黙り込んだ。
ブルーノはヘクターの仕事について承知した上で店に入っている。仕事の詳細を話してはいないが、ダリアが鼻が曲がると言っていた血の匂いくらい、ヤマネコのブルーノも気が付いているだろう。
今月の満月の夜、月見船が開催される。
前回、ヘクターはバーテンのフリをし要人警護についていたが、兎の王、ダリアの父親に敗れ屍鬼主に捕らわれた。
狼から狗に墜ちるきっかけとなった、因縁深いパーティだ。
体に描いていた陣を焼き、腱を切り、ヘクターの顔を炙った屍鬼主は、何者かに殺された。その息子、核のない屍人モーリスは、ダリアが粉に変えた。
そして鳥人の女王が言う事を信じるのならば、あの兎の王も既に、いないようだ。
今回は問題が起こるはずもない。ブルーノをメインのバーテンとして立たせフォローをしつつ、影から警護をすればいい。
……ただ、胸騒ぎがする。
と、おもむろにブルーノが口を開いた。
「ね、ヘクターさん。そのパーティ、貴族や魔導師がたくさん来るんだよね?」
「ええ、そうよ」
ヘクターは僅かに眉を顰める。ブルーノは貴族である魔導師の男に飼われ、残虐な躾をうけていた。
貴族や魔導師にあまりいい印象を持っていないだろう。
だからと言って参加をごねられると困るのだが。ヘクターは腰を落とし、顔を覗き込んだ。
ブルーノの頬は朱に色づき、金目は、キラキラと輝いている。
「ア、アネットちゃんのお兄さん、来るのかなあ! あの眼鏡の美人さんっ。……街を探しても全然会えないんだよ!」
「……ミューね。うん、来るんじゃないかしら」
「そっかあああ!! 僕、がんばるぅっ! お酒の作り方おぼえるよ!!」
ブルーノは喉を鳴らし、歌いだしそうなほど張り切りはじめた。
この国の王子、ミューラーはパーティでの警護対象だ。どうやら王子をヤマネコからも警護しなくてはならないのかもしれない。
胸騒ぎはコレか。……面倒くせえ。そう呟いてヘクターは調理場にしゃがみ、痛むこめかみを押さえた。