兔と赤い指輪
冷やかな雲海が空を塞いでいる。
鳥人の女王は息を止め、翼の先までを刃のように尖らせた。弾みをつけ急降下し、分厚い雲を裂き割ると、海に横たわる緑の大陸が広がる。
兎は何処。
呟いて二度、羽ばたき、高度を上げ直しくるりくるり青空を抉った。
と、鳥人は旋回を止め、海岸の一点を凝視する。
「みーつけた。あたしの、王様」
白く冷えた頬に朱が灯った。赤の兎はあそこにいるぞと、びいいんと痺れた感覚の弦が伝えてくれている。
青屋根の並ぶ港町から離れた、岩だらけの入り江。近づき慎重に見下ろすと、兎の気配を積んだ小型の船が隠されていた。
兎は草食で温厚だ。
前回こそはしくじってしまったが、うまく取り入れば飼育する魔導師たちを分けてくれるに違いない。
「でも、この前は死ぬところだったからねえ。慎重に……最高のタイミングをじっくり待って、あたしがヒーローにならなくちゃ」
鳥人の女王は機嫌よくさえずり、青空を廻った。
※※※
太陽が岩に遮られ、昼過ぎだというのに船室は薄暗い。
カンテラの灯りの下、簡素なダイニングに兎の子を待たせ、マイヤスは食後の茶を用意した。茶葉を入れた急須に湯を入れ、キルトのコージを被せ砂時計を反す。
と、兎の子が鼻を鳴らし、呟いた。
「『花』?」
「……わかりますか。そりゃ、兎さんですもんね。青臭さを消すようブレンドに工夫したんですけど」
そう言いつつカップに注ぐと、意識すればマイヤスでもわかるほど『花』の臭いが広がった。
これでは誤魔化しようがない。マイヤスは舌を打ち、一応、兎の子の前に茶を置いた。
「そういえば。ママを連れておうちにお邪魔した時も、マイヤスさん『花』のお茶淹れてくれましたよね」
肘をつき、ぼんやりと湯気を眺める兎の子に、マイヤスは身体を強張らせる。
あの日、飲ませた二杯目は『花』入りだった。気がついていて、それでも飲んだというのだろうか。
「『花』と知っていて、何で……」
「苦手だけどでも、いつも飲んでたお母さんのお茶とおんなじなんだもん。私、あれで、本当にマイヤスさんが親戚だってわかったんだから」
兎の子がカップを引き寄せ、懐かしむように口へ含んだ。母、サラサを思い出しているのだろう。茶を見詰めたまま兎耳を倒し、俯いている。
サラサも、乾燥した『花』の粉末を茶葉に混ぜていた。
『花』は中毒症状や幻覚作用をもたらすが、使い方を誤らなければ効果の高い薬にもなる。特に『鎮痛』『導眠』『暗示』に有効な……。
ああ、成る程やはり。マイヤスは内心ため息を吐く。
あの日。
兎の子が狼を連れマイヤスの家に来た冬の日。
マイヤスは兎の目が青いことを喜び、意地悪な祝福のつもりで二人に暗示をかけ、屍鬼主の注文通り屍蟹の洞窟に送り込んだ。
狼が一緒ならば屍蟹ごときにやられる筈がない。それに赤でないなら屍鬼主も深追いしないだろう。物語はハッピーエンドだ。
だが春になると、月が兎の王に呼ばれ幾度も輝いた。慌てて王都を訪れたマイヤスは、赤へと姿を変える兔の子を見てしまう。
黒の魔女の『花』を使った暗示により、兎の王はただの子兔に擬態されていただけだった。サラサは以前の兔の王に『魅了』されてしまっている。赤の力を抑え込まなければ娘に欲情し、まともに暮らすことができなくなってしまうため擬態させたのだろう。
兎の子が茶を飲み干すのを確認し、マイヤスはゆっくりと話し始めた。
「兎さん。今日、おつかいをお願いしたいのですが」
「おつかい……外、に?」
「ええ、メモと地図も用意しました。近くの町に出て、食べ物や生活用品を買ってきてもらわなくては」
船に潜んで十日、食糧は切れかけている。マイヤスは魔導師でないため、魔法による保存などできないし、草食の兎は魚を喜ばない。指名手配中のマイヤスよりは、狼以外に顔が割れていない兎の子が行く方がまだマシだ。
見ると兎の子は、視線を泳がせ口元を緩ませていた。
「……ねえちょっと。逃げるつもりですか、兎さん。お願いですから止めてくださいね。まったく、この子は」
マイヤスは右手を伸ばし、『暗示の首輪』に触る。『花』は飲ませてある。しっかりと首輪に言い聞かせれば、命令は絶対に変わる。
左手をポケットに入れた。小さな金属の塊。指先が冷たく痺れるのは、罪悪感のためだろうか。塊を左手に固く掴み、わずかな良心ごと握り潰す。
マイヤスは厳かに、首輪へと命令を下した。
「おつかいが終わったら必ず、ここに戻ってきなさい。狼さんのところには行かないように。何故か、わかりますか?」
兎耳が静かに揺れる。
青い瞳はうつろに、マイヤスへ向けられていた。『暗示』は効いているようだ。
「兎の力は魔導師を壊す力です。生活を共にしていればいずれ、魔導師を狂わせ壊すでしょう。……サラサを壊したのは、あなたですから」
兎の子がびくりと肩を震わせる。
マイヤスはしかし安心しろ、と言いたげに態とらしく微笑み、ポケットから出した左手を兎の子の前に広げてみせた。
指輪。
赤い石がついたシンプルな指輪。
「兎さん。これをあげましょう。感情が乱れ、大切なものを壊してしまいそうになったなら、この指輪をつけなさい。ヨルドモ王国の頂点、白竜の魔導師ザルバが造った『感情の消える指輪』ですよ。サイズも直しておきました。……手を、出しなさい」
兎の子の差し出した手の中に指輪を落とし、握らせる。
「指輪をつければ、大切なモノを失うことも、心が痛み苦しむ事もないでしょう。……お守りです。今すぐ嵌める必要はない。万が一のために、持っていなさい」
マイヤスが暗示の首輪から手を離しても、兎の子は呆然と指輪を見詰めていた。
しばらくし、兔の子は糸操り人形のようにぎくしゃくと甲板へ昇る。マイヤスは慌ててバンダナを渡し、兎の子の頭へショールを被せた。
兎の子はタラップを降り、地図を見ながらふらふら歩いている。
マイヤスは胸を抑え、小さくなる後姿をじっと見送った。
※※※
ハーリア地方にあるこじんまりとした港町で、小さな騒ぎが起きていた。
左右に壁の迫る狭い階段道に、この辺りでは見かけない少女。
都会から来たのだろうか。仕立ての良い濃紺のワンピースを着、白のカーディガンを羽織っている。頭に被せた日よけショールの下から覗く、品のいい鼻とふっくらした紅い唇。
しかし注目を集めているのは少女の愛らしい容姿ではない。か細い左腕に堆く積まれた、屋根へ届くほどの大荷物だ。華奢な見かけによらず馬鹿力なのかサーカスの如く平然と、メモを片手に白砂混じりの階段を降りている。海からの強い潮風が吹く度、重心の高すぎる荷物はゆらりと揺らぎ、道行く人々は悲鳴と冷や汗を零した。
少女の靴は、よりによってヒールパンプスだ。青年たちは少女が躓いたなら支えなくてはと距離を詰め、野良猫たちは紙袋から食べ物が落ちるのを背中をしならせ待っている。
ふと少女が立ち止まった。唇が驚きの形に歪む。次の瞬間、砂粉を巻き散らし脱兎のごとく小道を曲がった。
大荷物がバランスを失い引き崩れる。
紙袋を飛び出した色とりどりの果物が、野鳥の群れが一斉に飛び立つように空を舞った。
※※※
小さな港町に潮風が吹き抜ける。
風を追って見上げれば、段々に連なる青屋根を繋ぐ干し紐で、衣服がはためいていた。
眩しい。
白壁に照り返る午後の陽射しについ目を細めると、雑踏が凍りついた。睨むような目つきになっていたのか、視界の端、恐々と様子を伺う町の人々が映る。
ヘクターは肩を竦めた。
黒革の鎧にレイピア、長丈の黒マント。端正な顔の半分を覆うケロイド痕、眉間に深く刻まれた不機嫌そうな縦じわ。
平和な田舎町に、軍人然とした黒ずくめのヘクターは馴染まない。一挙動ごとに人々は強張り緊張し、口を閉ざして隠れ、道をあける。
まあいい、邪魔をされないならな。ヘクターはそう呟いて歩みを速めた。
マイヤスの捜索のために与えられたのは二週間。期限までもう日が残されていない。
依頼を受け、ヘクターは内陸を他に任せ、港を中心に探し続けていた。ダリアの力があれば、樽でも馬車でも空に浮かばせ逃げる事が出来るだろう。しかしマイヤスの家にあった船の模型が胸に引っ掛かり、船で逃亡するつもりなのだと決めつけていた。
ヘクターは人々の顔を確認しつつ、町の中心部にある市場を目指す。馬車など走らないのだろう、腕を伸ばせば塞いでしまえるほど道は狭い。
壁を蹴飛ばすように角を曲がると、空から木の実が落ちてきた。ヘクターは反射的に手を伸ばし、受けとめる。
……無花果?
ダリアの好きな甘い果物。心臓によく似た小さな赤紫の塊。
ヘクターは落とし主を求め階段坂を見上げた。
逆光の中、果物を拾い集めながら降りてくる少女。潮風を受け膨らんだショールが、翼のようにはためいている。
ごくり、喉音が鳴った。視線に気がついたのか、少女に群がる青年たちが一斉に散る。
声が、出ない。ヘクターは口をパクパクと動かした。
ダリアだ。
正面に降り立ったダリアは無花果に手を伸ばした。
ヘクターは慌てて指先を握る。薬指にはヘクターの青い指輪。人差し指には覚えのない、赤い、指輪。
「……ダリ、ア?」
腕を引き、肩を抱き寄せる。ダリアの抱える荷物が崩れ、紙袋ごと階段を転がり落ちていった。
弾けた果実の甘い匂い。柔らかな身体。すでに懐かしさすら覚える、特徴的な兎の魔力。強く抱きしめれば溶けてしまいそうなほどの熱と、温かな心音が満ちた。安堵にじわり、胸の奥が滲む。
「……よかった。ダリア、ようやく見つけた。大丈夫か? 何か、されたりしていないか?」
身体を僅かに離し、確かめるように頬を撫でた。ダリアは指を顎に当て、ゆっくり首を傾ける。違和感を覚えるほどに能天気な、何も理解していない無表情。
「……っと。問題はおきてないみたいだな。よかったよかった。……とにかくさっさとマイヤスを捕まえてヨルドモに帰ろうな。ダリア、あいつは、マイヤスは何処にいるんだ?」
「ん。……だめだよママ。私、おつかい中なんだから」
ダリアは顔色を変えないまま静かに、転がり落ちた荷物を眺めた。
「あれ、拾わなくちゃ」
ぶわり兎が膨らむ。瞳が赤に塗り潰された。ヘクターの皮膚が危険を察し、毛穴が裏返る。
手加減のない兎の魔力。細月が白々と輝き潮風は竜巻に変わる。白砂利が、洗濯物が、屋根瓦が一斉に空へ吸い込まれていった。
『重力操作』
兎が呟く。
霰となり降り注ぐ砂利や瓦。あちこちで悲鳴があがり、ヘクターはダリアを胸の下に庇い地に伏した。
「ダリアッ、なにを!?」
兎が指先で宙を招く。ぐしゃぐしゃに掻き混ぜられた重力。耳を裂く轟音。石が浮き上がり、壁が崩れる。胃の腑を震わせる地響き。
と、兎はヘクターの腕からするりと這い出した。
「ママ、私、帰らなくちゃ」
「ああ帰るぞ、俺の家に……っ!」
背骨を軋ませる重力の塊。肺が押し潰され、笛のような息が漏れる。肋骨の歪む音に逆らい、ぎりぎりと半身を持ち上げれば、数歩離れた場所で荷物を集め抱え直す兎が見えた。
「ダリアッ!」
叫んだ途端、視界を塞ぐように民家が崩れる。兎がやったのだろう。重力の鎖に縛られ、身体は重く、地に押し付けられている。
「んな、なんでだよっ。なんなんだ! ダリア!!」
束縛が弾けた瞬間、ヘクターは走狗に変わり狡兎を追った。神経の糸を張り巡らせ、瓦礫と化した町を走り抜ける。
兎の匂いを求め、狗は一睡もせずハーリアを駆けずり回ったが、見つからないまま約束の期日を迎え王城に連れ戻された。