子兎
黒雲で塞がれた空に鐘の音が轟いた。厳めしいその音に驚かされ、マイヤスはビクッと肩を震わせる。夕刻。暗い窓ガラスに映る亡霊じみた顔は、いつの間にか齢を重ねた自分のモノだ。
どうやらウトウトと眠りかけていたようだ。手で頬を叩き、目蓋に力を入れ直す。静まりかえった室内に、椅子にもたれ毛布を被る兎の、密やかな寝息だけが響いていた。
あれからずっとマイヤスは、窓際で大通りを睨んでいる。
天気と傘に妨げられ、通行人の顔を見分ける事が難しい。橋門の松明が雨粒を滲ませるその辺りを、目が痺れるほど見つめた。秋の日暮れは早い。あと半刻もたてば街は夜に包まれ、さらに視界が悪くなってしまうだろう。暗いからといって、彼を見過ごすワケにはいかない。マイヤスは焦りと苛立ちに爪を噛んだ。
しかし次の瞬間、それは安堵に変わる。傘の隙間を縫うように走る男。
「……ふう、やっと来てくれましたか。まったく、遅過ぎです。なんて諦めの悪い狼さんなんだ」
マイヤスの声が自然と弾む。
狼は他人を押しのけながら手続きを済ませ、城へ続く大橋を走り抜けていった。小さくなる背中に向かって、マイヤスはさようならと手を振る。
ようやく、狼が城に入った。今のうちならば鉢合わせをせずに帰ることが出来るだろう。
急がなくては。
マイヤスは音をたてずカーテンを閉め、兎を揺すり起こした。
「そろそろ出かける時間ですよ。何台か馬車を乗り継ぎます。寝るなら馬車で寝てくださいね」
※※※
街はまだ、雨なのだな。
ヨルドモの王子、ミューラーは執務室の出窓の縁から、城の内庭に造られた噴水庭園を見下ろし呟いた。
ぽつり、ぽつり。夕刻の鐘に応え、石灯籠が順繰りに灯されていく。彫刻で支えられた三段式の噴水が、刈り整えられた蔓草へキラキラしく水滴を撒き散らす中、仕事を終えた庭師たちが夢中になって首を上げ、口をポカンと開けたまま空を眺めていた。
ミューラーはクスリと笑う。そちらからの雨空は、素晴らしく美しいのだろうな。しかし執務室からの光景もなかなかなのだぞ。
眼下の庭園には光の金鎖が連なって広がり、揺らぎ続けている。庭師に習い天を仰げば、幾重にも生まれ消える金環の波紋。
まるで流れ星の振り注ぐ海を漂っているようだ。
雨の日に見られるこの不思議な現象は、城を覆う傘状の結界に原因がある。
数年前にザルバが貼った巨大な結界は、攻撃的な魔力を拒むだけではなく、一定速度以上の物理侵入物をも防いだ。例えば矢や石つぶて、それから雨までも。
侵入物を跳ね返した結界は、薄っすらと金に揺らぎながらたわみ、ほんの一瞬、半球型の輪郭を露わにする。
雨粒が落ちる度、庭に落ちる光の影。限りなく繰り返される降雨に光は重なり、幻想的な光景を創り出していく。城に暮らすミューラーたちでさえも、つい、目と時を奪われるほどの。
「……」
「馬鹿王子、涎をこぼすな」
唐突に浴びせられた罵声。ミューラーは慌てて窓枠から飛び降りた。乾いた口元を拭い振り向けば、白竜の長ザルバがそこにいた。
「この国は随分と平和だな。次期国王が白目を剥いて昼寝とは」
「涎など出てはいないし、白目も剥いていないっ! 私はただ外を見ていただけだ。だいたい仕事がないのはお前がなあ……」
「……やはり暇だったのだな。ほら感激に咽び泣き喚くがいい。俺が新しい仕事を持ってきてやったぞ」
ザルバは腕に抱えた書類の束を執務机に投げ落とした。
無駄に時間が余ってしまったのは誰のせいだ。ミューラーは唇を不平に曲げる。
この美しい結界を作り上げた魔法使いで腹違いの弟ザルバは、世間から隔離されて育てられ、魔力は多いが一般常識が足りていない。ザルバが起こす日々の厄介事を、ミューラーと白竜の騎士たちで幾つ揉み消しただろうか。
しかしひと月ほど前の会議で、ザルバが『蜥蜴』との面会に城下へ赴く事が決定されてしまった。
もちろんミューラーは大反対をしたのだ。魔法の使えない市民ばかりが暮らす城下町に、野生の大魔法使いを放てば混乱どころでは済まされない。歴史的建造物の幾つかが原因不明の倒壊をし、数十人が神隠しに会うだろう。
ところが老貴族たちには『蜥蜴』の名に逆らえない者が多くいるようだ。畏怖か恐怖か、軽蔑かやましさか。とにかく大臣たちはあっさりと言った。一刻程度の外出、しかも向かいのホテルなのだから問題が起こるはずもない、と。
だが昨夜、旅行用品を嬉々として鞄に詰め込むザルバを見かけ、ミューラーは頭を抱えた。
……こいつ、脱走して旅に出るつもりだ。
常識人な兄ミューラーは徹夜で政務をこなし、朝方には今日の予定分を全て終わらせた。王子自ら奔走し、困った弟を捕らえるためにだ。
しかし結局、ザルバは拍子抜けするほどまっすぐ帰還し、つい先ほどまで自室に閉じこもっていた。
部屋でコレを書いていたのか。ミューラーは昼までの経緯を思い返し、書類の束へ目をやる。
と、ガタンと音が鳴り、室内を風が吹いた。ミューラーは慌てて手を伸ばし、浮いた書類を捕まえる。執務室のドアが勢いよく開かれた為、紙が舞い上がったようだ。
「おいっ! ザルバはいるか!」
静寂ごと扉を蹴破る大声が執務室に響く。騒々しく走りこんだ狼の凄まじい形相に、ミューラーは言葉を詰まらせた。全身ぐっしょりと雨に濡れ、髪も衣服も肌に貼り付き、ぽたりぽたりと落ちる滴は足元で水たまりを作っている。開かれたままの扉の向こうに、床を拭う侍女たちが見えた。
極度の興奮状態なのだろう。水分が湯気となり立ち上っている。迫力に押されミューラーは後ずさった。
「……来たか」
しかしザルバは待っていたとでも言いたげに大きく頷いてみせる。狼はザルバの肩を掴み、前後に揺すりながら叫んだ。
「魔女の遺産だっ! ザルバが受け取れ!」
「……遺産? 何の話だそれは。俺はてっきり別の件で来ると思っていたのだが」
ザルバは狼を振り払うと、眉を顰め首をかしげる。頭に血が昇っているのだろう、狼は唾を飛ばし一息にまくし立てた。
「黒の魔女サラサはザルバの伯母さんだろう? 母親の姉だもんな。サラサはちょうど一年前の今日、城下町のアパートで亡くなったらしい。今さっき教会で調べてきたんだ。マイヤスはな『たった一人の親戚』として、遺産相続の手続きを行っていたんだ」
「マイヤス……『蜥蜴』が、か?」
ザルバの表情が鋭く変わる。狼は大きく頷き返し言葉を続けた。
「ダリアはサラサが魔女だと知らなかったからな。近所の人に手続きを手伝ってもらったって言ってたし、貴族の死亡届けではなく一般市民として書類を作ってしまったみたいだ」
「……ダリアさんっ?」
ダリアの名前にミューラーも緊張を浮かべる。狼のいつにない動転から、ダリアがまた事件に巻き込まれた事が見て取れた。
「マイヤスの遺産相続手続き自体は正当なものだが、サラサの死亡届けに問題がある。間違いを正さず手続きをしたのは、他の相続権利者に話がいかないようにだ。ザルバ。お前にはマイヤスよりもずっと、遺産の相続権利がある」
「狼ちょっと待て、早口すぎるし、話がさっぱり解らない。黒の魔女って、ザルバの母親のヘクスティアの事だろう? もう十五、六年前に亡くなったはずでは?」
ミューラーが口を挟むと、狼はガクリと肩を落としミューラーを視界から外した。
「……あーもう、そこからかよ。説明するのが面倒だからミューは黙ってろ。……もともとヘクスティアは黒の魔女じゃねーんだよ。姉の代わりに責任を被って、矢面に立たされてただけだ。当の黒の魔女は、城下町でふつーのおばちゃんやってたんだってよ」
「っんな、はああ?」
矢継ぎ早の真実にミューラーは絶句する。真の黒の魔女が、つい最近まで城下でおばちゃんをやっていたなど。
呆然とするミューラーとは違い、ザルバは見当がついたぞ、と顔を上げた。
「ほう。魔女の遺産。か。俺の伯母上が一年前にひっそりと亡くなり、その遺産を蜥蜴が掠め取った、と。で、その遺産の内訳に問題があるのだろう? お前がここに来たのは、そのせいなのだな」
「そうだ。お前に相続権がある遺産だ。道理くらい幾らでも曲げれるんだろう? 今からでもザルバが受け取れ」
「遺産の内訳はなんだ?」
狼は苦々しげに俯き、歯を剥き出した。
「兎人の合成魔獣、だ。薬の知識と、歌による詠唱魔法を魔女から学び身につけている」
「……ダリアさんが、キメラ!?」
驚き、声を荒げたミューラーを、ザルバが手で制する。
「ああ、ようやくわかった。……なるほどあの合成魔獣自体が、魔女の財産だったのだな。それを蜥蜴が相続したのか。……蜥蜴は実験を兼ね狗に預けていたと言っていたが」
ヘクターが凍りついたように動きを止めた。しばらくの沈黙ののち、裏返った声を絞り出す。
「……ザルバ、お前、マイヤスに会ったの、か?」
「そうだ。今日、蜥蜴と合成魔獣に会って来た。もうだいぶ前から、城の前のホテルでの面会を約束していたからな。……おい狗、今追ったところでもういる筈もなかろう。会ったのは昼前だ。……さて、そうだな。俺も確かに魔女の財産には興味がある。薬学、魔法の知識、それだけではないな、アレの存在は、魔導師にとっても、はたまた創造主である神にとっても新たな脅威となるだろう」
ザルバは言葉を区切り、ミューラーをちらりと見た。
「しかし、俺は王子の持ち物、『次代の王を守る竜』だ。俺が権利を主張しお前の合成魔獣を受け取ってしまうと、合成魔獣はこの王子の持ち物になる。ひいては、あの女好きな王のモノ、という事になってしまうぞ。それでも構わないのか?」
「ええっ! ダリアさんが、私の!?」
顔を赤く染め軽く混乱するミューラーをザルバが小突き、黙らせる。
狼はしばらく俯き沈黙した。
やがてゆっくりと頭をあげ、顔を歪ませたままザルバを見つめる。狼は静かに、低く唸るように、声を出した。
「解った。……ミューがついているのなら、マイヤスの元よりはずっといい。あいつのところになぞ、おいては置けない」
そう、か。ザルバはそう呟いた。
「……狗。一つ質問だ。お前の知っている限り、持って行かれたモノはその合成魔獣以外にはないのか?」
「ん、確か遺産は、宝石と薬と衣装と魔導書……っだったかな」
「本当に、それだけか? アレ、は……魔女の遺産以外に奪われたモノだ。身に覚え、無いのか?」
「アレ……ってなんだ」
ザルバが狼を正面から見つめた。夜の黒に塗りつぶされた瞳が狼の言葉を疑い、真実を探る。
狼はほんの少し、訝しげに眉根をよせた。何も覚えがない、と言いたげに。
ザルバは狼から視線を外すと溜息をつき、ミューラーへ向き直る。下唇を噛み隠してはいたが、顔は憤りに満ちていた。
書類の束をミューラーから奪い取り、その一枚を鼻先へ突きつける。
書類は狗への依頼状。あとはミューラーがサインをするだけになっていた。ミューラーはザルバへ頷くとペンを走らせ、書類を完成させる。
ザルバへ書類を返すと、また新たな用紙が渡された。これは、今の依頼状と対になっている書類だ。ミューラーはサインを描き、読み上げる。
『マイヤス邸強制捜査令状』
「狼にマイヤス邸宅の強制捜査の指揮を依頼する。即刻ハーリアのマイヤス邸に赴き、動向を調べ、邸宅内の怪しいモノを没収し調査しろ……か。なるほど」
「わざわざ俺が相続権を主張するまでもない。蜥蜴の持っていったモノの中に一つ、あいつに権利のないものが紛れている。狗、お前はそれを取り返せばいい。そうすればお前の合成魔獣ごと戻ってくるだろう」
ザルバがそう言うと、狼は唖然とザルバを眺めた。目の奥に火が活き活きと灯っている。
「……それはなんだ?」
「さっさと動け。適当な騎士を何人か見繕って連れて行け。お前はとにかく、蜥蜴に会って『一番大切なモノを返せ』とだけ言えばいい。俺と王子は今からこの書類を完成させなくてはならない」
「そう、か。……ありがとな、ザルバ」
狼は急ぎ部屋を走り出た。騎士の宿舎に向かうのだろう。
濡れた床を、侍女たちが雑巾で慌しく拭い始める。ザルバは乱れた書類を束ね直し、選り分け、ミューラーに手渡した。ミューラーも執務机に向かい、丁寧に読み上げ書類の粗を直していく。
清掃を終えた侍女たちが一礼し、部屋を出た。
それを合図に、ミューラーが口を開く。
「その、なんだ? 蜥蜴に権利の無いモノって」
ザルバは手を留め、顔を上げた。不愉快そうに鼻先にシワを寄せ、声を潜める。
「アレ、か。狼の子供だ。つまり、ヒトと合成魔獣が完全に合わさってできた新種の生物だ。どんな魔獣が産まれるのか全く予想もつかない。が、合成魔獣の腹の中には、確かにシャオの欠片があった。マイヤスの目的は、新種の生き物を作らせ、盗み取る事だ」
「おまえっ、何故それを言ってやらなかったんだ! 今すぐ伝えなくては!」
書類を叩きつけ立ち上がるミューラーを、ザルバが引き止め、声を荒げた。
「お前は言うつもりなのか!? 失ったのは妻だけでなく、実の子供もだ、などと!」