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兎は月を墜とす  作者: hal
秋の月と夜の海
84/99

兎と白竜

 ホテルの部屋、窓際に座っていた合成魔獣(キメラ)が立ち上がった。


 兎耳を生やした少女型の、奇妙な獣。

 初めて見るその姿に、白竜の長ザルバは喉音を立て唾を飲んだ。冷ややかな満月が脳裏をよぎり、心臓が打ち鳴らされ魂は舞を踊る。

 これは月の精霊ではないだろうか。輪郭を縁取る髪も滑らかな肌も、月光を束ねたように白く、神々しい。青い瞳がザルバを射ると、満月に吸い込まれたかのごとく目が眩み、視界は白く掠れた。


「ああ忘れてました。これ、半分兎人ですからね。白竜(ザルバ)ほど魔力が高いと発情期じゃなくても捕らわれてしまいます。魅入られないよう気を保ってください」


 耳元を揺さぶるマイヤスの声に、墜ちかけていたザルバは正気を取り戻した。

 なるほど、兎人から溢れる月の力が魔導師を狂わせると聞いたことがあるな。未だ火照る額に手の甲を当て冷やす。


 獣は町娘風の衣服を身に着け、石のついた革ひもを首に巻いている。デザインが変えられてはいるが、あれは『暗示の首輪』だ。

 たしか半年ほど前の、春の祭の翌日。

 城を訪れたマイヤスに『魔法の通じない魔獣が荒れ狂っている。魔力を制御したい』と持ちかけられ、暗示により魔獣を制御する魔導具『暗示の首輪』を譲った。つまり目の前に居るこの獣が、マイヤスの言うところの『荒れ狂う魔獣』だったのだろう。


合成魔獣(キメラ)……そうか、ヒトと兎人を重ねたか。二種類の魔力を持つのはそれでなのだな。しかし……」


 しかしこの獣は不完全だ。自らの尾を飲み込む蛇のように、ヒトの魔力へ兎人の魔力が喰らいついている。危うげなバランスを『暗示の首輪』で保たせてはいるが、そう遠くない未来、崩壊することは明らかだ。

 理を外れた命の創造、それ自体が罪深い。ザルバは指先を軽く振り、哀れな合成魔獣(キメラ)へ祈りを奉げた。


 とはいえ、この生物は伯父マイヤスの偉大なる研究成果とも言える。人型の合成魔獣(キメラ)など、そうそう作れはしない。

 ザルバは興味深げに観察した。

 獣は相変わらずザルバの黒目を眺めている。海泥に腕を突っ込み、失せ物を探るかのように。

 視線が重なり、じわり、胸の奥が甘痒く疼いた。先程の魅了とは違い、どこか暖かく懐かしく、噎せるほどに息苦しい。

 奇妙なことだ。咄嗟に目を反らし、深く息を吐いた。顔を見れば惑わされてしまう。視界を閉ざし、闇に神経を這わせれば、獣が発する二種類の魔力がくっきり浮かび上がった。絡み喰い合う金と青。一束ずつ選り分け、注意深く調べる。

 違和感。ザルバの眉間を深い縦皺が走った。

 この獣の魔力を俺は何故か知っている。ヒトの金の魔力も、獣の青の魔力も。


「……おい、これは、狗のものではないのか?」


 この青の魔力は、狗の周囲で縄張りを主張していたものだとザルバは気付いた。

 対しマイヤスはしれっと答える。 


「はい、実験も兼ねて、()さんのところに預けてましたから。そんなことよりほら、白竜の(ザルバ)。気がついたのはそれだけですか? 兎さんにもっと近寄ってみてください。これ、珍しいでしょう。興味があるのでしょう?」


 促されるがままにザルバは歩み寄った。獣も戸惑いを隠すことなく、ザルバを眺めている。

 向かい立つザルバと獣は背丈がほとんど変わらない。お互い、鏡のように首を傾げあった。


 青。


 やはりこの瞳の色には見覚えがある。再び、心臓が切なげな軋音をたてた。

 遠い昔に見た青。ザルバは記憶に釣針を刺し、引き上げようとしたが、針の痛みに顔を顰め、また目線を落とす。


 俺は今、何を思い出しかけた?


 視界の端、マイヤスがつま先立ちになり、様子を伺っている。そのおどけた仕草が癪に障り、ザルバはゆっくりと顔を上げ直した。


 絨毯の毛足に半ば埋まったハイヒール。僅かに朱に染まる膝頭、濃紺のスカートに覆われた腿、幼さを残す薄い腰。ザルバは視線を動かし、そして固まった。錆びついた金属を捻るように強引に首を回し、振り返る。

 その様子にマイヤスが口の端を大きく引き上げ、爬虫類然と笑った。


 ザルバがここに呼ばれた理由。マイヤスの魂胆をようやく飲み込み、ザルバは顔を歪める。

 この動揺は隠すべきだったのだろう。しかし、ザルバの顔色はもはや蒼白で、マイヤスは確証を得たと喜色を浮かべている。誤魔化すにはもう遅い。


「……おいどういう、ことだ? 狗の」

「あーもうわかりましたから! よかったよかった。そういうことです。私は研究者ですから、同族ならわかるでしょう? これは、ちょっとした実験ですよ。私が作らなくて済みました」

「ちょっとした実験……か。確かに、しかし、あまりにもこれでは」

「物語をハッピーエンドにするための実験。そのタネですよ。わー、成功するといいんですけど!」


 ザルバが口を開くたび、マイヤスは饒舌に言葉を重ね遮る。何を言っても無駄だ。ザルバは溜息を吐き、獣へ目をやった。

 獣は相変わらず首を傾げている。この獣……少女、は自分の身体がどういう状態になっているのか、全く解っていないようだ。

 もし俺が合成魔獣(キメラ)の研究をしていたならば、同じ実験をするのだろうか。ザルバの自問は結論に至らなかった。だが少なくとも同じ事を思いつき、誘惑に揺さぶられるだろう。

 真っ直ぐに向けられた少女の視線。後ろ暗さに俯き、ザルバは呟いた。しかし俺ならば、責を狗に被せたりなどはしない。


「……なにを企んでいる。狗は、知っているのか」

「そりゃあわかってるでしょ。自分がやったんですから。そうですねえ。(あなた)蜥蜴(わたし)と同族、求道者。確かにまだ青々しいチビ竜ですが、それでも私が何を考えているかくらい、だいたい想像できるハズです」

「同族、か。だが蜥蜴の企てなど、幾年経とうとも理解すべくないがな」


 マイヤスは両手を広げわざとらしく肩を竦めてみせた。そのまま視線を扉へ流し、顎を上げる。

 要件は済んだのだから、さっさと帰れ。口に出さず、マイヤスはそう語った。


 ザルバはそれを無視し再び少女を観た。見覚えはあるが思い出せない。こんなにも印象的な瞳の青を忘れようもないと思うのだが、それでも埋もれてしまうほど遠い記憶なのだろうか。前髪を掻きあげさらに凝視する。ひりひりとした胸の痛みに逆らい、静かに時を遡った。


白竜の(ザルバ)。もう城に戻った方が。あまり遅くなって他の皆さんに入ってこられるとほら、すごーく面倒な事になりますし。それに私とーっても急いでいるのです」


 肘を掴み集中を妨げるマイヤスを、ザルバは煩わしげに払い、再び思案の海へと沈む。


 ヒトと兎人の合成魔獣(キメラ)。蜥蜴はそう言っていたな。ならば俺の記憶に触れるのは、ヒトの部分だけではないのか。

 悪寒に全身が粟立つ。すぐ横のトカゲに薄気味の悪さを感じ、冷たい汗が毛穴から一斉に吹き出した。


 これは誰の合成魔獣(キメラ)だ。


 ザルバは再び瞳を閉じる。青と金が溶け合い月色の繭と化した魔力。その中に一つ、波長の違う微かな金を見つけザルバは顔を顰め、目を開けた。


「おい蜥蜴。さすがにそれは返せ。首輪と一緒に使うなど、あまりに下種いぞ」

「げ、下種……い? 何を言うんですか、唐突に。多少私がアレなのは認めちゃいますけど!」


 マイヤスは苦笑し眉尻を下げた。

 空々しい。ザルバはマイヤスを睨みつける。アレは俺が蒔いた種とも言える。取り返しておかなくては。


「指輪だ。あれは俺が狗に預けたものだ。返せ」

「はあ、指輪ですか。オボエが全くないんですけど。えっと……これ、ですか?」


 マイヤスが少女の左腕を掴み掲げ上げた。薬指には青の指輪。大事なものなのだろう、少女は顔色を変え、取られまいと隠す。


「何をとぼけて。それではない、赤い石がついた指輪だ。俺の作った『面白くなくなる指輪』を、合成魔獣(キメラ)に持たせているだろうが。早く出せ」


 ヤマネコの『惑乱』に悩まされていた狗に渡した、感情抑制の指輪。

 指に嵌めれば感情の起伏が抑えられ、意識をクリアに保ったまま、やるべきことを遂行するようになる。ある意味、従属の指輪と等しい魔導具だ。


 おそるおそる、少女はポケットから『面白くなくなる指輪』を取り出した。ザルバが肯き、マイヤスは指輪を摘み上げる。


「ほーーこれ、白竜(ザルバ)が作ったんですか! 『面白くなくなる』とは、どういう事なんですか」

「ああ。そのままの意味だ。身につければ痛みも悲しみも混乱も喜びも消え失せる。寄越せ、蜥蜴」

「ふうん。そんな魔法をかけたんですね」


 マイヤスはザルバと少女との中間に割入り、少女に背を向けた。指輪を渡せ、とザルバが手を差し出したが、マイヤスはその手を包むように握り締め大袈裟に声を張り上げる。


「さすが白竜(ザルバ)。魔導師の国の魔導師の長。素晴らしい魔導具を造るのですねえ! これは是非、貸していただかなくては!」

「おい。だから何を聞いていたんだ。それは……」


 返せ。ザルバがそう口に出すより早く、手の中へ硬いモノがねじ込まれた。……指輪、か? ザルバは戸惑いマイヤスを振り解いた。


「こんな便利なモノがあるなんて。それに赤い宝石もとても可愛らしい!」

「……ただのありふれた葛石だが」


 指を開き視線を落とす。手のひらにはやはり、『面白くなくなる指輪』が返されている。


「……これは、おい、どういう」

「ささ、早く城に戻らなくては。白竜(ザルバ)は忙しいのでしょう。私の分も一族を背負っているんですから! いつもいろいろと貸していただいて助かります」

「貸してなどいない。蜥蜴、会話をしろ。今度は何を考えている?」


 ザルバはマイヤスに肩を抱えられ、強引に部屋の外へと押し出された。


「ほらほらこちらの用事は終わりましたし。お付きのみなさんも待ちくたびれてますよ。これからも仲良くしていきましょーね。さよならさよなら、白い竜」

「お、おい、叔父上(トカゲ)っ!?」


 マイヤスが玄関扉を開く。会話が聞こえていたのだろう、廊下には護衛代わりの白竜たちがズラリと並び、背筋を正し待ち構えていた。マイヤスが余所向きの愛想笑いを振りまき、ザルバの背をさり気なく強く押す。

 よろけ降りたザルバの背後、扉が閉められ、カタリ、閂の掛けられる音がした。


※※※


「城に戻る」


 部屋を追い出されたザルバが告げると、速やかに護衛列が組まれる。ザルバはローブを払いフードを被り直し、顔を隠して俯いた。狭い視界、鮮やかな絨毯を分け進む自分の靴先が見える。

 他の白竜たちはきっちりした白い軍服を纏っていたが、ザルバは濃い鼠色のローブと室内用の布靴を身に着けている。厳めしい騎士や魔導師に囲まれフードで顔を隠す姿は、囚人に見えるかもしれない。

 事実、護衛たちが護るのはザルバではない。国一番の魔導師に護衛など必要がない。護衛たちは桁外れの魔力と(たが)外れの常識を合わせ持つザルバから、城下を護っている。できるのならばザルバの手足を拘束し、猿轡を噛ませたいと思っているに違いない。

 ザルバも期待に応え脱走するつもりでいたのだが、マイヤスに打ち付けられた疑問符型の楔がその気力を削いでいる。


 隊列は祈るように黙して進む。


 階段に差し掛かった時、突然、雷鳴が沈黙を裂いた。

 踊り場のステンドグラスが震え、七色の影が落ちる。ザルバは足を止め顔を上げた。


 おもむろに右手を掲げ、指輪を翳す。護衛たちが一斉に構えた。


 再び、落雷。


 雷光の中、赤い石に微かな傷跡が浮かぶのをザルバは確認した。やはりこの指輪は一度破損し、修復されたものだ。ザルバの魔力を残してはいるが、術式はすでに崩壊し魔導具としての価値はほとんどない。指に嵌めたとしても効果は薄いだろう。


「……蜥蜴、なにを考えている。それに、あれは……」


 ヒトと兎人の力を併せ持つ獣。兎人は先代の黒竜たちに滅ぼされた魔獣のはず。マイヤスはどのように兎人を捕まえ、誰と合成したのだろう。加え、もう一匹。あれは、どのような獣になるのだろうか。なににしろ、魔導師にとって厄介な存在になることは間違いがない。


 ザルバが腕を降ろし、大きく息を吐く。白竜の副長へ視線を投げると、副長が頷きを返した。


「少し、蜥蜴を野放しにし過ぎたな。戻り次第、監視を増やすぞ」


 雨音に静まり返るホテルに、ザルバの声が高く響いた。


※※※


 マイヤスが居間に戻ると、いまだ呆然と立ち竦むダリアと目が合った。出来事を全く把握できていないのだろう。青い瞳が戸惑いに見開かれ疑問が溢れ出ている。


「ええと、どうしましたか? 兎さん」

「……あの、あれは、誰ですか? 私あの人にすごく見覚えがあって、でもどこで会ったんだろう。思い出せなくて」

「そりゃまあそうでしょうね。一応初対面ですけど。ところで兎さん、鏡、毎日見ますか?」

「鏡……?」


 質問を質問で返されダリアは首を傾げた。兎耳が大きく揺れる。


 見覚えがあって当然だろう。何しろザルバとダリアはよく似ている。

 ダリアのヒト部分は母、サラサそのもの。対しザルバはサラサの妹、ヘクスティアの実子で、その面影を色濃く継いでいる。そのため、ザルバとダリアは兄妹のようだ。

 他の白竜たちにダリアを見せなかったのは、今、血縁がバレるのと面倒だからだ。


 まあいい。マイヤスは笑う。どうせもう、ザルバとダリアが会うことはないだろう。ダリアには有用な情報だけ伝えればいい。


「あれはこの国の頂点。白竜の魔導師長、ザルバです。ヨルドモで最も魔力が高く優秀な魔導師で、研究者でもあります。ほら、兎さんのためにいいものを借りましたよ。考えなくてすむ指輪です。……ああ、そうだ。これじゃ男性用でぶかぶかですから、サイズを調整しておきますね。兎さんが心を殺したくなった時、いつでも使えるように」


 空のポケットを叩き指輪を持っているように振る舞うと、ダリアの顔がみるみる青ざめる。マイヤスはワザと悪役じみた猫撫で声を出し、テーブルを指差した。


「兎さん、疲れたでしょう。そこの果物を食べて置いたらどうです? しばらくしたらここから移動しますから」

「私は、行きません」


 ダリアが声を震わせマイヤスを睨む。『暗示の首輪』が働いているのだろう、喉元に指を添え、苦しげに押さえていた。マイヤスが歩み寄る。ダリアは後ずさったが、あっけなく追い詰められた。

 マイヤスは人差し指の先で、慎重に首輪の石に触れる。

 

『起動』


「行かない、なんて兎さんにはできません。兎さんは必ず、私と行動しなくてはなりません。気にかかっているのは狼さんの事でしょうか。兎と狼が一緒に暮らせるワケがないでしょう。また、家を壊してしまいまよ」


 兎耳に口を寄せ、とどめを刺すように言葉を重ねる。


「それともサラサにしたように、狼さんを壊すつもりですか?」


 マイヤスはダリアの瞳を覗き暗示が届いたのを確認すると、静かに指を離した。

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