兎とトカゲ
「私のことは『蜥蜴』と呼んでくださいね」
「蜥蜴、か。では私の事は『兎』と呼ぶがいい」
木槌のように伸びた前歯を剥きだし、兎がぐぐぐと笑いました。
※※※
なんて居心地の悪い部屋だろう。ダリアは俯いて溜息を零した。手入れされたお気に入りのパンプスが緋色の絨毯に埋れ、所在なさげに内を向いていてる。
広々とした室内、その一方の壁面には美しい鮮画が描かれていた。
画題は創国の神話。始まりの王が神々の祝福を授かるおなじみの場面だ。両脇を飾る付柱の頂きには天使が刻まれ、その背後から落ちる灯りがやけに仰々しい。ランタン代わりの魔導具なのだろう。
大通りに面する壁にはバルコニーへ続く大窓があったが、分厚いカーテンでしっかりと閉ざされ、微かな雨音だけが入り込む。
対面には出入扉と、調度品が並ぶ半埋め込み式の暖炉。
もう一方は壁がなく、そのまま奥のベッドルームへと繋がっている。天蓋が取り付けられた華美なベッドが目に入り、汚物を見たかのように胃がむかついた。
美術品であつらえられた絢爛な応接室。しかしダリアもマイヤスも、この部屋の主に似つかわしくはない。
中央ではマイヤスが濃紺のソファーへ身体を沈め、眠ったかのように目を閉ざしている。ダリアはマイヤスと対面になるのを嫌がり、隅に置かれた猫足の椅子に座っていた。
椅子の真上、座るとちょうど目線と重なる位置に小窓が設置されている。すぐ横の大窓と揃いのカーテンで覆われていたが、ダリアはつい、カーテンの向こうを透かすようにじいっと目を細めた。
「外を見たいのですか?」
いつの間に起きたのだろう。マイヤスがそう声をかけ歩み寄る。ダリアは怯えた顔で僅かに身を引いた。
マイヤスは背後から腕を伸ばし、厚いカーテンを開けた。内側に降ろされたレースのカーテン越しに、雨の朝の弱々しい光が射し込む。
「別に、外を見てていいですよ、どーせ雨ですし向こうからは見つからない。ただ念のため、レースカーテンは開けないでくださいね」
ダリアは返事をせず、しかし食入る様に外を眺めた。
ガラスを殴る雨に妨げられ、視界が悪い。すぐ近く、大橋を挟んで向かいの王宮が青灰色に滲んで見える。
ダリアは目を凝らす。
城前の鉄柵にはレインコートを着込んだ衛兵が並び、神々の彫像が並ぶ大橋を、城へ向かう貴族の馬車が渡っている。
真下へと目線を降ろせば、雨に震える蔦ごしに、傘をさしながらも背筋を正す人々が見えた。
いつも通りの朝を迎えた王城前大通り。橋の入り口にも衛兵が並び、貴族や商人たちの検問をしているようだ。
一人一人確認し、ダリアはヘクターの姿を探した。
「兎さん、ごめんなさい。やはり、ショックでしたか?」
マイヤスも横に並び、通りを眺めながら言う。
「それは、そうですよね。母親にペット登録されてたんですもんね」
「……その事は別に。知ってましたし、私は獣だから。獣と人とはそういう関係なのだと解ってましたから」
「……そうですか」
平然と返すダリアにマイヤスは顔を顰める。しかしダリアは通りを睨んだまま言葉を付け加えた。
「でも私は、大切な人間のペットでいたかった。マイヤスさんのではなく」
ダリアはカーテンを後ろ手で閉め、マイヤスへ向き直った。反撃の意志を秘めた表情。マイヤスの張り付いた笑顔に、ほんの少しの動揺が混ざる。
「この前教会で、お母さんの財産の移動手続きが行われている事を知りました。そしてお母さんの遺産に私自身が含まれている事も。私はずっと、ママと一緒に居たかったのに」
「そしてなんとなく、私は訪れずに、狼さんとずっと暮らせるのではないかと、そう期待していたんですね」
ダリアは肯いた。今となってはそれが脆く幼い夢であったことなど解っている。
しかし。
顔を上げ、ダリアはマイヤスを正面からとらえた。兎の眼を赤く光らせる。
全ての魔導師を操る力。母に禁じられた赤の兎の力。
『魅了』
兎の魔力が唸り、マイヤスの心を奪おうと襲いかかる。兎人の王ダリアは、マイヤスへ命じた。
「……マイヤスさん、私をママのところに返してください。私にできることがあるならなんでも協力します。もちろん、お母さんの財産には手をつけていませんでしたから、全部持って行ってください。ただ、私をママのところに返してください」
マイヤスは首を振り、困ったなと優しく笑う。
「残念ながら、あなたの切り札は私に届かないのです。私には魔力が殆ど無く、魔導師ではないですから。それに、今はまだ返してあげることが出来ません。第一、私はサラサの他の遺産にはそれほど興味がないのです。所詮お金ですし」
ダリアは項垂れ、瞳を青に戻した。マイヤスは腰を屈めダリアの顔を覗き込み、やや戯け混じりの声で言う。
「兎さん、私の事は蜥蜴と呼んでください。それが一番、私にふさわしい名前です」
「……とかげさん?」
「ええ。私は醜い蜥蜴です。竜となる翼を失い、地を這いずりながらも、死ぬに死ねない蜥蜴です」
マイヤスの笑顔は哀しげで、どこか痛々しい。先程ヘクターを縛り上げ、ダリアを浚ったのと同一人物だとはとても思えなかった。
「ほら見てください、狼さん頑張っていますよ。きっと兎さんを助けに来てくれるはずですから」
カーテンを再び開き、マイヤスが通りを示す。窓の下、傘も差さず右往左往と走る人影。張りつめていた糸が解け、ダリアの頬を熱い涙が伝った。
「必死で探しているみたいですね。あ、呼ばないでくださいよ。まだ序盤ですから、見つかったら困ります。……私はこんな外見ですし質素に暮らしていましたから、狼さんもこのホテルに泊まっているとは思わないでしょうねえ」
城の真正面に建てられたこのホテルは、城塞で最も高級で信用が高く、たとえ金を積んだとしても、一市民では立ち入る事さえ難しい。そのホテルの、他国の王族が使う事もある最上階の部屋から、兎と蜥蜴は狼を見降ろしていた。
何故こんな部屋をマイヤスが使えるのだろう。ダリアは首を傾ける。
「案外、私は重要人物なんですよ」
マイヤスはつまらなそうに吐き捨て、笑った。
※※※
やがてヘクターの姿が大通りから消え、マイヤスはソファーへと戻った。小さな欠伸を漏らし、腰骨を鳴らす。ローテーブルに盛られた果物から赤紫の房をもぎ口に含めば、瑞々しい蜜が冷えた身体に染みていった。
兎さんもいかがですか、そう声をかけようとし止める。ダリアは窓に額を押し当て、縋るように街を眺めていた。今果物を勧めたとしても返事はないだろう。
マイヤスは上質なクッションに身を沈ませ、長く息を吐いた。
朝っぱらからの訪問で疲労しきっていたが、今日やるべき事がまだ山積みになっている。せめて彼が到着するまでは休まなくては。
目を閉じる。始まりの夜の海を頭に浮かべれば、雨音が嵐へ、雷鳴が海鳴りへと変わった。
瞼の裏では、真っ黒な海へと姿を変えた記憶がごうごうと唸っている。マイヤスは一繋がりの闇空を見つめ、ゆっくり海へと沈んでいった。
どこでだれが何を行い、どんな思惑が動いたのか。
期限はもう、月の二廻りと迫っている。それまでにこの物語を組立てなくてはならない。隈なく思い出し、考察し、推理しなくては。
あれは私がまだ、青年期に入ったばかりの頃だ。マイヤスは唇の端を動かし、音を出さずに呟いた。
昔々。兎と魔女、蜥蜴と人魚の物語。
荒れ狂う波間を踊るように跳ねる人魚が懐かしく、愛おしい。
※※※
マイヤスは国の魔導師の頂点、『竜』と呼ばれる一族の直系として産まれた。純血を崇め近親婚を繰り返した一族だ。マイヤスの器は生まれつき歪み、魔力を貯めることが出来なかった。魔導師として致命的な欠点だ。まだ幼いマイヤスは蔑まれ、処分され、海に捨てられた。が数日後、傷一つなく城へ戻った。
『蜥蜴』には二つの意味がある。
一つには、本来持つべき偉大な翼……魔力を持たない惨めな『竜』。
もう一つは、もいだ脚を再び生やした、奇怪な怪物。
魔導師たちはマイヤスを不気味に思い、城から追い出した。だが稀有な『竜』の純血を国外へ出すわけにはいかない。本人の希望もあり、定期監視のもと港町ハーリアに移り住まわせる事が決まった。
数年の月日が流れ黒の魔女が魔獣狩りを始めると、マイヤスは遠征の従者となった。やがて遠征が終わり、マイヤスは再びハーリアへ戻り、突如合成魔獣の研究に着手した。
城の歴史を知る一部の老魔導師達からは、そのように思われている。
※※※
ぽかんと青い初夏の大空。海に囲まれた石灰岩の丘を潮風が吹き抜ける。手入れされた常緑の高木が白い花を揺らし、甘い香りを散らした。
見晴らしの良いこの場所に、青い屋根の小さな家が建っている。マイヤスの家だ。兎人の里への遠征を終えた青年時代のマイヤスは、ここで静かに穏やかに暮らしていた。
図書室のように棚を並べ、本で埋め尽くした書斎。マイヤスは隅に置かれた書き物机に向かい、人魚のための物語を綴っている。
どうせならハッピーエンドにしろ。人魚の言葉を思い出し、参ったなあと苦笑した。
マイヤスの死を吸い上げた人魚は、その後もしばしばマイヤスの元に現れ、些細で大掛かりな魔獣らしい悪戯をしては去っていった。
ベッドシーツにビッシリと巻貝を生やしたり、家にゼリー状の海水を流し込み、クラーケンを放流したり。マイヤスが驚き怒るフリをすると、悪びれずに笑い、口づけをくれた。
その仕草は無邪気な恋人のソレのようで。
マイヤスの身体は人魚の力で世界に繋ぎとめられている。それだけではなく魂までもが人魚に捕らわれてしまった。
人魚に『魅了』の力は無い筈なんだがなあ。マイヤスは美しい人魚を思い出し、肘をついて頬を緩めた。
マイヤスの人魚は物語が大好きだ。マイヤスは人魚のために物語を集めて憶え、それだけではなく人魚の好む物語を自ら作り、心に刻もうと考えていた。
物語のモチーフにマイヤスが選んだのは、従姉の魔女、サラサだ。
黒の魔女サラサとその妹ヘクスティアは兎人を滅ぼすための遠征をし、サラサが兎人の王に『魅了』され敗れた。
マイヤスは兎人の王との交渉の末、サラサを死んだように見せかけ、ヘクスティアを王都に送り返し、サラサと兎人の王を隠した。
敵同士の二人が出会い、愛に溺れる逃避行劇。そう曲解できなくもないだろう。が、これはハッピーエンドなのだろうか。
首を捻り本棚を眺める。
港町の利を生かし、世界中からかき集めた絵本や童話。加えて遠征中に聞き集めた、地方の民話の写し書き。棚はそれらでビッシリと埋まっている。
暇を見つけては繰り返し読み、すっかり頭に叩き込んだ。背表紙を見るだけでストーリーは全て思い出せる。
どうにかハッピーエンドに仕上げるタネはないだろうか。
ふと、本に埋もれた窓の向こうに、白い砂利道を登る二つの影が見えた。数か月に一度城から送られる監視だろうか。
マイヤスはシャツの襟を正し、寝起きのままの髪へ櫛を入れた。
玄関が数度、叩かれる。
扉の向こうには深々とフードを被った二人組。違和感。マイヤスは慌てて家に引き入れ、固く玄関を閉じた。
「……なんで、堂々と歩いてきてるんですか!」
『私は飛べないものでな。蜥蜴に言われた通り顔を隠してきたつもりだが』
マイヤスがハーリアのはずれに隠した、兎の王と黒の魔女サラサ。
兎の王は、ほうけるマイヤスの横をすり抜け、ぶうぶうと鼻を鳴らしながらフードを脱ぎ捨てた。
マイヤスの応接室も書斎同様、本で埋め尽くされている。兎の王は、棚の合間に申し訳なさげに置かれた小さなソファーへ腰を降ろし、大仰な身振りで言った。
『蜥蜴よ、愛とはなんだろうな?』
虚を付かれ、マイヤスは思わずつんのめる。まだお茶を口に含んでいなかったことに安堵し、笑顔を貼り付け直した。
兎の王はマイヤスの様子を気にも留めず、銀毛を膨らませながら滔々と語る。種族の壁など愛の女神の前には薄紙と同じ。禁を破ってでも愛は芽生え、そして育まれるものだ、と。
その横ではサラサが少女のように頬を赤らめ、兎の王を甘い眼差しで見詰めていた。
マイヤスは戸惑い、兎に訪ねる。
「えっと。サラサは、兎さんの言う事、解るんですか?」
『いや、解っていないな、コレは。しかし、お互いに強く惹かれあい愛し合っている!』
人魚の力で身体を再生させたためだろうか。マイヤスは発声が根本的に違う魔獣とも、問題なく意思の疎通が出来た。
「……そう、ですか。いやでも、『魅了』されているサラサはともかく……」
兎がサラサを愛するだろうか。マイヤスは胡散臭いと言いたげに目を細めた。
「マイヤス、おまえが獣の愛を疑うのか?」
ケラケラと屋根を射抜くような笑い声。
続いて背後から、マイヤスの首に白く艶やかな細腕が巻きつけられた。滑らかな肌はひんやりと湿り、潮と夜の香りがする。
振り向く必要もない。マイヤスの人魚。赤の人魚だ。薄っすらと水掻き膜が貼られた指先。頬をそっとなぞり上げられ、顔に血がのぼるのが解った。
我が意を得たと兎の王は前歯を剥き出し、畳み掛けるように相談を持ちかける。
『子供が、欲しい』
マイヤスはお茶を噴いたが、口元を人魚に押さえ込まれてしまった。唾液混じりの茶が白魚の指を汚す。
動転し目を白黒させるマイヤスを置き去りに、兎の王は人魚の女王へ、熱弁を続けた。
『魔女と私の子どもが欲しいのだ。種族が違うためだろうか。上手く子供が出来ない。私は王の務めとして一族を反映させなくてはならないし、魔女も子供を望んでいる』
兎は瑞々しく赤い瞳をそっと細め、サラサを見つめてみせた。サラサもそれに応じ、兎の艶やかな髭へ頬を摺り寄せる。
……あのサラサが。王を翻弄し、笑いながら首を狩る魔女、サラサがこんなにもしおらしく可愛らしい。マイヤスは口を開けたまま、ただ茫然とサラサを眺めた。
マイヤスが凍りつき動かない。人魚はぬるりとソファーに並び乗り、好奇心に満ちた瞳を輝かせる。
「なら混ぜてしまおう。二つの存在を」
『できるのか?』
「さあ、全然わからないけどね。しかしとてもロマンチックで楽しそうじゃないか」
『それならば……』
兎は言う。
産まれる子どもはヒトの世界で暮らす事になる。ならば外見はヒトに、だがその魂は兎人でなくてはならない。
兎人をヒトでくるんでくれ。
マイヤスはその日から人魚と共に、合成魔獣の研究を開始した。兎と魔女。二つのタネからヒトの形を持った命を組み立てる。
多くの魔導具、山と積まれた書物。研究には数年、費やした。ようやく完成にこぎつけた一つのタネから、人魚が死を奪い取り魔女の腹へと戻す。
やがて兎の王に魔女の皮を被せた合成魔獣が誕生し、マイヤスの家は喜びに包まれた。
ここで区切れば、人魚のための物語は、ハッピーエンドになったのかもしれない。
※※※
チン、とベル音が響き、マイヤスはソファーから身を起こした。呼び鈴が鳴らされたようだ。
「ようやく来ましたか。お客さんです。兎さんに是非、会わせたい人がいまして」
「……耳は?」
「兎耳はそのまま、むしろ隠さないで出していてください」
マイヤスはそう言い残し、慌てた様子でバタバタと部屋を出て行った。
声が聞こえる。
口々に交わされる怒声。少々揉めているようだ。
ダリアは兎耳を澄ました。
『ああ、あまりに人数が多すぎる』
マイヤスの声。
『しかし、お前が何をしでかすか、全くわかったモノでは……』
『何もしませんよ、私の力じゃ敵うハズないでしょう。もう他の人たちはロビーで待っていてください。竜の一族だけの、大切な話があるんです』
『さがれ。』
ざわざわとした空気を破る、凛、とした意志の強い音。マイヤスの声ではない。男性か女性か判断の付きにくい中性的な響き。
その命令に男たちは発声を止めた。玄関が閉められる。
ゆっくり近づく足音。マイヤスと、もう一人分。
応接室の扉が静かに開かれた。
「兎さん、戻りました」
マイヤスの背後から顔を覗かせる、黒いローブを纏った小柄な男。
獣人が珍しいのだろうか。彼はやや狼狽えた様子で、目深にかぶっていたフードを降ろし、もっとよくダリアを見ようと黒髪をかきあげる。
「子ども……?」
ダリアは呟いた。
目の前にいるのは14、5歳ほどの少年。しかしとても懐かしい、見覚えのある顔つきをしている。
どこで会ったのだろう。ダリアは兎耳を揺らし、少年を観察した。
「……なんだ、この奇妙な魔獣は」
少年が不躾に口を開く。
「白竜の。これは私が造った兎さんですよ」
ダリアを凝視する黒い瞳。
この顔つきは、何処かで見た覚えがある。とても、身近な、誰か。ダリアもザルバを呆然と眺めた。