兎の捕縛
「マイヤスッ!? これは……何しやがるっ!」
足元に置かれた魔導具『捕縛』陣が、触手にも似た金の鎖をうねらせ、ヘクターをがっちりと縛り上げている。
魔導具の完璧な働きにマイヤスは機嫌よく笑い、室内へ一歩踏み出した。
「狼さん、ずいぶん朝早くにお邪魔してしまいすいません。私、とうとうこの日が来たんだなあと、気が逸り抑えきれなくなってしまって。……おやおや兎さん素晴らしい。準備が出来ているじゃないですか。さ、行きましょう」
「おいっ、ちょっと待てよ!」
真横をすり抜けるマイヤスを止めようと、ヘクターは腕を伸ばそうとした。
やあこれは危ない、とマイヤスが笑う。
すぐさま触手が蠢きヘクターを抑え込んだ。『捕縛』陣の強い締め付けに、肩を揺らす程度しか身体を動かす事ができない。
マイヤスはヘクターの背後、這いつくばるダリアの元へ歩み寄ると、しゃがみ込んだ。そのまま、まるで飼い犬を撫でるように、ダリアの頭へ手を伸ばす。
濁流のように湧き上がる苛立ち。力ずくで頭の向きを変え、マイヤスを睨み叫んだ。
「ダリアに触るな! こんな朝っぱらから何しにきやがった!」
「狼さん、さっき説明したじゃないですか。聴こえませんでしたか? 耳、おかしいんじゃないですかね。私は今日、魔女の遺産を相続しにきたんです。魔女の遺産を一年間もの間お預かりして頂いて、ありがとうございました」
ダリアの顔が大きく歪む。ヘクターは狼のように歯を剥き出し、低く唸った。
「ここにそんなもんはねえ。それに、魔女の遺産なんてものが本当にあるのなら、相続するのはお前じゃなく娘のダリアだろうが」
「いえいえ。兎さんにはそんな権利ありません。解っていたのでしょう? 兎さん」
ダリアが項垂れ、長い兎耳が力なく垂れ下がった。無言の肯定。
マイヤスは満足げにダリアの頭を撫でると、斜め掛け鞄から一枚の紙を取り出し、ヘクターの鼻先に広げた。
「一年前、魔女が亡くなりましたが、その遺産の直接の相続者はおりませんでした。ですので従弟である私が名乗りを上げ、正式な手続きを行い、晴れて本日、法に則り遺産を相続する事が出来ました! はい、これが相続権の証明書ですよ。王の印も押されているでしょう? 親子夫婦以外の相続は死後一年経たないとできませんし、なかなか手続きが面倒で、何度も城を往復させられましたよ。いやあ、大変でしたが頑張った甲斐がありますねえ!」
証書には王の魔法印が押され、相続者欄にマイヤスの名が書き込まている。証書の粗を探してやろうとヘクターが凝視すると、すぐにマイヤスは折り畳み片づけてしまった。
「……相続者不在はおかしい。ダリアという娘がいるんだぞ。ダリアは母親が亡くなった日、成人していたはずだ」
「ぎりぎり成人しちゃってましたねえ。サラサも兎さんに財産を渡すつもりだったと思いますよ。でもずいぶんと長く狂ってましたから。自分が兎さんにした事を、きちんと理解できていなかったんでしょうね」
「狂っ……! なにが起きた!?」
マイヤスはその質問を待っていたぞとでも言うように、酷く得意げな顔で新たな書類を取り出した。
目の前に突き付けられた、とても見憶えのある数枚綴りの冊子。嫌な予感が雷雲のように湧き上り胸中を占めた。
「『特殊ペット登録証』……?」
「ええ。これが、兎さんに相続権のない理由です。読んでください」
マイヤスが指先に唾をつけ、はらりと捲ってみせた。書類に並ぶ細かな文字群。それをマイヤスは一行ずつ指さし、ヘクターの眼球へ焼き付けるように言った。
「……ここの日付、わかりますか。兎さんは三年半前の春、サラサのペットとして正式に登録されています。つまりは、兎さんは法的には相続者ではなく、サラサの財産の一部なんですよ。ああそうだ、この登録証は写しですから。記念に差し上げますね」
マイヤスは冊子に折り跡をつけ、ヘクターの足元、どうにか文字が読めそうな位置へ投げ落とした。ヘクターはそれを読み取ろうと目を細め、顎を伸ばす。
『使役動物名』 ダリア 『使役動物分類』合成魔獣
……キメ、ラ? ヘクターは呟いた。ダリアは兎人の筈だろう? しかしマイヤスは耳に留めず、熱弁を続けた。
「全く狼さん、あなたは最高に都合がよかった。立場上、街から逃げる事ができず、どんなに長く飼育しても、登録の上書きができない。しかも魔力の高い魔導師だ。春になれば発情兎に呪われ、手放す事など出来なくなり、命懸けで兎を守る」
「てめえっ、だからダリアに気安く触ってんじゃねえ! 殺す!」
「ええ、いずれお願いします。でもそれは今ではありません」
ダリアの前へしゃがみ、うな垂れる顎をくいと持ち上げヘクターに見せつけた。声も無く泣き続けていた顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れている。ヘクターと視線が絡んだが、ダリアはついっと反らした。
『ママのペットに登録して欲しい』という言葉の真意がようやく腑に落ちる。と同時に、理由を追求せず拒絶した自分への苛立ちが、自身の心臓を引き裂こうとした。
ヘクターは怒り任せに『捕縛』陣へ魔力を注ぐ。急に増大した魔力に触手は膨れ、高く伸び上がり、玄関の天井をでたらめに殴った。建物が揺れる。おおお、と背後で警吏たちがどよめいた。金の粉をまき散らし、触手が裂け本数を増やす。所詮、操者のいない魔導具だ。全力で魔力を注げば暴走し、壊れるのではないか。
しかし、希望を見つけたヘクターの耳に、不快な嘲笑が届いた。
「狼さん、あなた本当に馬鹿ですね。そんな事をしたら兎さんが通りにくいでしょう」
マイヤスはそう言って、ダリアの腕を掴み立ち上がらせると、ヘクターへ面峙させる。
ダリアの首輪につけられた青月石を摘まみ、マイヤスは落ち着いた低い声で話し始めた。
「兎さん。あなたは、私の味方です。私の言う事に、従わなくては、ならない」
ダリアが泣くのを止め、マイヤスの黒い目を食入るようにみつめた。兎耳が音もなく揺れる。
「わかりますか? 兎さん、狼さんを見てください」
のろのろと首を動かしヘクターを見た。視線は重なっているというのに、目が合わない。それはまるでいつかの屍人たちのようで、皮膚がぞくりと泡立った。
「おいマイヤス、お前、ダリアに何をしている!」
「……兎さん、狼さんは今、『捕縛』の魔方陣に捕らわれていますね。もしも、ほんの少し、兎さんの魔力が狼さんに、狼さんを掴むあの触手へ触れたなら、どうなると思いますか? 兎に触れて暴走した魔力は、狼さんを塵に変えるでしょうね」
ダリアがびくりと跳ねる。と同時にマイヤスが石から指を離し、ダリアの目に色が戻った。
そういうことか。ぎりりと歯噛みをすると口腔に苦味が広がった。
目の前には蒼白になったダリアが立ちすくんでいる。
この『捕縛』陣は、魔法が一切通じない最強の魔獣、ダリアを封じるための罠。ヘクターはつまり、人質だ。
「兎さん。さあ、わかっていますね。おとなしく一緒に行きましょう。今、けして魔力を使ってはいけません。狼さんが壊れてしまいますから」
ダリアは項垂れ、慎重に旅行鞄を握った。隠しきれない嗚咽が漏れる。
マイヤスへの怒りが魔力を誘い、ヘクターを繋ぐ触手が大きくうねった。その瞬間、ダリアが小さな悲鳴をあげ、ヘクターは反射的に魔力を注ぐのを止める。マイヤスが腹を抱え笑った。
「マイヤス!! てめえ、本当に殺す! 今すぐ殺す!」
「ええー、さっきまで本気じゃなかったんですか? それは困りました。次からは本気でお願いしますね」
マイヤスは目尻に浮かぶ笑い涙を擦りつつ、ダリアの背を乱暴に押した。ダリアがよろける。ヘクターに当りかけた身体を必死で傾け、おかしな形にバランスを崩した。
転びかけたダリアを警吏の男が抱きとめ、玄関の外に引き摺り出す。
目の前で堂々と恋人が誘拐されている。
封じられた身体は動かせず、怒りだけが周囲に撒き散らされた。警吏たちは息を飲み、怯え、勢いよく玄関扉を閉める。ダリアが廊下の向こうに連れて行かれ、室内にはヘクターとマイヤスだけが残った。
気温が数度、唐突に下がったように感じられる。『捕縛』の触手だけが規則的に震え、唸り声をあげた。
沈黙をあっさりと破り、マイヤスが言う。
「ああそう、私の事は『マイヤス』ではなく、蜥蜴くんと呼んでください。そちらの方がなじみがあるもので」
「……蜥蜴?」
「ええ。蜥蜴くん、ですよ。狼さん」
玄関の向こうにいるダリアや警吏たちを意識してか、マイヤスが声を落とし言った。
蜥蜴。それと、兎に狼。まるで童話のようだ。ふざけるな。
ヘクターは怒りに歯を剥き出し、鼻息を荒げた。野生の狼のように。
「お前、最初から全部知っていたんだな。俺の事も、ダリアの事も」
「そりゃあ当然。ちゃんとぜーんぶ知ってますよ。兎さんの事は産まれる前からとてもよく知っていますし、狼さんの事は……そうですね、魔女の騎士になった頃から知っていますよ」
「……はあ?」
マイヤスが眉を下げ、おどけてみせた。
予想以上に古くから知られていたことに驚き、ヘクターは呆然と空気を飲み込んだ。
覗き込むように首を傾けマイヤスが笑う。
「そうそう、こないだ気が付いちゃったんですが。狼さんはなんで名前を変えてまでヘクスティアの物真似をしているんですか? 確かに愚かで滑稽な娘でしたが。まさか私を笑わせる為ではないでしょう?」
「……愚かで、滑稽?」
かつての恋人までも頭ごなしにけなされ、視界は怒りに喰われた。マイヤスが中心でぐらぐらとぶれる。
しかし、ヘクターがどんなに強く、我を忘れて怒ったとしても、マイヤスが動じる事はないのだろう。マイヤスは極めて無邪気に、踊るような足つきで歌うように言った。
「兎を守るのが犬。兎を追いかけるのが狼。だからあなたは狼です。トカゲに捕らわれた可愛そうな兎のお姫様を追いかけてくださいね。そうそう、追いかけっこの期限は二か月間。秋の最後の満月の夜までです。その日、私は人魚の入江で待っていますよ。……さて、ええとなんだか狼さん、あなたの顔、少し怖いじゃないですか。このままじゃお外のみなさん、作業がしにくいですからね」
マイヤスは再び、斜め掛け鞄に腕を突っ込むと、銀色の液体が詰められたコップほどの大きさの瓶を取り出し、うっとりと眺めた。
「これこれ。……なかなかに素敵で可愛らしいしょう? ええと狼さん。魔女の遺産は、兎さんだけじゃないんです。今あなたを縛っている、そんな魔導具くらい、何百個でも買えるほど膨大な遺産ですよ。魔獣たちや他国から略奪した高価な宝石や貴重な薬、サラサの知識を詰めた魔導書、やたらと派手な衣装に装飾品。全部あわせたら幾らになるんでしょうかね。研究費の足しにしなくては。では狼さん、少し寝ていてくださいね」
瓶の蓋を開け、逆さに零した。水銀のように滑らかな金属の塊がぼとぼとと床に墜ち、一つの塊へ戻る。塊はまるで命を持つかのように震え、窮屈な瓶から出されたことを喜び、しなやかに伸び上がった。
「私の手作りのペット。可愛らしい金属スライム二号くんです。二号くん、手加減してくださいね。狼さんにはまだまだ生きていてもらわなくちゃ」
「……う、うわあああっ!?」
金属スライムは器用に身体を丸めると毬のように飛び跳ね、ヘクターの顔をめがけ飛び移った。
のっぺりと柔らかく冷たい無機質な金属が、耳を、鼻を口を、顔中の穴に侵食し、じわりじわりと塞いでいく。
視界は閉ざされ、呼吸が止まる。耳鳴りだけがやたらと騒々しい。
手足から力が抜けていく。『捕縛』陣の圧力に耐えかね、床へ崩れ落ちた。
ヘクターが倒れしばらくすると、耳元のスライムが剥がされる。
「では狼さん、さようなら。秋の最後の満月の夜、人魚の入り江、ですよ。日が暮れる前に必ず、来てくださいね」
朦朧と途切れがちな意識の中、その言葉は何度も頭の奥に鳴り響いた。